隅田川テラス(佃大橋〜中央大橋~永代橋)

○佃大橋〜中央大橋 中央区湊3・2・1丁目〜新川2丁目

<佃大橋/距離表示板>

 「←佃大橋  中央大橋 550m→」

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 ※「佃島渡船場跡之碑」が湊と佃の両方にあります。こちらで記載


<佃島・石川島>

 佃島の住吉神社の赤鳥居と、石川島の灯台モニュメントが見えます。

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<モザイク絵>

 「この作品に埋め込まれているモザイクは
  中央区立福祉センター作業室の皆さんが制作しました
  (平成29年12月施工)」

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<案内板> 中央区湊2-16

 「←中央大橋 510M  佃大橋 400M→」
 「①鉄砲洲稲荷神社」「②南高橋」の説明掲示があります。

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<佃大橋方向>

 佃大橋方向の光景です。

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<南高橋北〜南>

 ○鉄砲洲① 鉄砲洲②  ○南高橋 ○江戸湊発祥跡~霊岸島量水標モニュメント~一等水準点交無号


○中央大橋  中央区新川2丁目〜佃1丁目

 中央大橋の主塔は、「兜」を模しているそうです。石川島はかつては鎧島と呼ばれており、この「鎧」の対をなすものして「兜」のデザインになったようです。

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<メッセンジャー像> 中央区新川2-32

 フランスパリ市から寄贈された「メッセンジャー」像が、隅田川上流に向いて建っています。橋上からは、メッセンジャーの後ろ姿しか拝めず、帆船を抱いている姿がよくわかりません。

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<隅田川テラスからメッセンジャー>

 隅田川テラス(隅田川右岸)から、ようやく横顔が見えます。

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<プレート>

 プレートには、メッセンジャーの正面からの像が刻まれています。

(プレート文)
 「両都市と両河川をつなぐ友好を記念して、パリ市は
  東京都へオシップ・ザッキン作「メッセンジャ
  ー」を寄贈する。
             92年10月27日 東京にて
                ジャック シラク」

 「メッセンジャー」(Le messager)
  本作品は、1937年オシップ・ザッキン(Ossip ZADKINE)47才の時の作品である。
  この年に開かれた「パリ万国博覧会」に出品された作品であり、オシップ・ザッキンの作品の中でも大作の一つのに数えられている。
  当時の万国博覧会の案内書によるとこの作品は「希少木材を求めて海外に船を派遣するフランスの守護神を表したもの」とされている。
  「メッセンジャー」は、パリ市の徽章にも描かれている帆船を思わせる船を抱いている。」

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○中央大橋〜永代橋

 「隅田川テラス」「新川公園」
 永代橋まで600mです。「河口より約1.3km」の表示。

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<案内板> 中央区新川2-32

 「←永代橋 500m」
 「①中央大橋」「②メッセンジャー像」の説明があります。②は前掲。

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<距離標柱>

 「隅田川右岸」「河口より2.0km」

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<距離指標>

 「←中央大橋 400m  →永代橋 200m」
 「河口より約2.3km」

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下流中央大橋
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上流永代橋
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<案内板>

 「←中央大橋 550m」
 「ここは河口から2.5km」
 「①永代橋」「②日本橋川」の説明掲示があります。

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<案内板> 中央区新川1-32

 「←永代橋 300M  中央大橋 300M→」
 「スーパー堤防事業」「隅田川の花見」の説明掲示があります。

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<新川の跡碑>

 こちらで記載

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tag : 銅像隅田川

永代橋(国重文)

○永代橋 日本国重要文化財 中央区新川1丁目~江東区佐賀1丁目・永代1丁目

 下流左岸からの永代橋
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 下流方面左岸
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 下流方面右岸
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 上流左岸からの永代橋
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 永代橋からの各橋への距離標
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<土木学会選奨記念碑> 中央区新川1-20

 西詰北側に、土木学会選奨の記念碑があります。

(碑文)
「土木學會選奨土木遺産 JSCE 2000
 帝都を飾るツイン・ゲイト(清洲橋)
「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合い言葉でした。帝都を代表する隅田川の入口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下降曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
-----◆-----
・二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
・永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。」

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<日本国重要文化財> 江東区永代1-1

 国重要文化財の石碑が東詰の南側にあります。

(碑文)
「日本国重要文化財
 清洲橋  東京都知事 石原慎太郎
[諸元]
  橋 長 一八十四・七m
  幅 員  二十五・六m
  上部工 鋼製三径間カンチレバー式タイドアーチ橋
[所有者]
  東京都
[指定年月日]
  平成十九年六月十八日 指定(建第二五○一号)
[指定の意義]
 永代橋は、関東大震災復興事業によって建造され大正十五年(一九二六年)十二月に竣功した。永代橋の特筆すべき点として、上部構造は橋端部に水平力の及ばないライズ比七分の一の下路式タイドアーチで、リブに鋼板を充腹して剛性を高めたソリッドリブアーチ端部を高張力マンガン鋼のデュコール鋼を使ったアイバーで連結したアーチと、箱型鈑桁の突桁及び吊桁からなる構造である。放物線状の大規模アーチを中心として、桁高を巧みに変化させた荘重な造形により、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚二基と、締切工法による橋台二基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師竹中喜忠らである。」

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○船員教育発祥之地碑 中央区新川1-1

 永代橋西詰の南側に「船員教育発祥之地碑」があります。

(碑文)
「船員教育発祥之地
 内務郷大久保利通は、明治政府の自立的な海運改革を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎弥太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を係留して校舎とし、全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。
 爾来百年、ここに端を発した船員教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
  昭和五十年十一月  東京都中央区教育委員会」

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豊海橋 日本銀行創業の地 高尾稲荷社

○豊海橋 中央区文化財 中央区新川1-19~日本橋箱崎町1-19/1-1

 日本橋川が隅田川に流入する河口部に架かっているのが豊海橋です。創架は古く、元禄11(1698)年です。

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 永代橋が間近に見えます。
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 豊海橋から日本橋川上流
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<豊海橋プレート> 豊海橋南詰(中央区新川1-19)

(プレート文)
「豊海橋
 日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄十一年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至っています。
 現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に復興局が架設したもので、形式名はフィーレンデール橋といいます。この名は考案者のフィーレンデールの名をとったものです。
 梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたもので我が国では本橋以外に数例しかなく、希少価値の高い橋です。
「豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は明月の光を得て白昼に見るよりも梢画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。」
(永井荷風「断腸亭日乗」より)。
 橋梁の諸元
 形式   フィーレンデール橋
 橋長   46.13m
 有効幅員 8.00m
 着工   大正15年5月
 竣工   昭和2年9月
 施工者  復興局
  平成3年3月  東京都中央区」

「日本橋川に架かる橋(豊海橋から一石橋) 一石橋 西河岸橋 日本橋 江戸橋 鎧橋 茅場橋 湊橋 豊海橋
 日本橋川
 日本橋川は、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後に切り開かれ、江戸城の大手口と隅田川をほぼ一直線に結ぶ運河として主要な役割を果たした川筋で、江戸の繁栄と共に生きてきた河川です。」

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○日本銀行創業の地 中央区日本橋箱崎町19-1

 豊海橋北詰から日本橋川の上流へいくと右手に「日本銀行創業の地」碑があります。

(碑文)
 「日本銀行創業の地
  明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
  明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
  創業百周年を記念してこの碑を建てる
  昭和五十七年十月  日本銀行総裁 前川春雄」
 「創業時の本館」

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「東京名所 永代橋際日本銀行の雪」(井上安次)

 小林清親の一番弟子、井上安治が日本銀行を描いています。

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○高尾稲荷社 中央区日本橋箱崎町10-7

【高尾稲荷起縁の地】 中央区日本橋箱崎町1-1

 豊海橋(北詰西側)に「高尾稲荷起縁の地」案内板があります。
 高尾稲荷社は元々はここあり、現在地は移転先です。

(説明板)
「高尾稲荷起縁の地
 江戸時代 この地は 徳川家の船手組持場であったが 宝永年間(1708年)の元旦に 下役の神谷喜平次という人が見回り中 川岸に首級が漂着しているのを見つけ 手厚く埋葬した
 当時、万治(1659年)の頃より 吉原の遊女高尾太夫が 仙台侯伊達綱宗に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたのになびかぬとして 隅田川三又の舟中で吊し斬りにされ 河水を紅にそめたといい伝えられ 世人は自然高尾の神霊として崇め唱えるようになった。
 その頃、盛んだった稲荷信仰とも結びついて高尾稲荷社の起縁となった 明治の頃 この地には稲荷社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があった。その後、現三井倉庫の建設に伴い 社殿は御神体ともども現在地に移された。
  昭和57年11月吉日  箱崎北新堀町会・高尾稲荷社管理委員会
  →100m先右入る」

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【高尾稲荷神社】 中央区日本橋箱崎町10-7

 豊海橋の案内板から100m進むと、高尾稲荷社があります。高尾太夫の実体の神霊(頭蓋骨)を祭神として社の中に安置しているとのことですが、旧記の温泉本でも、真偽について、色々と推測されているところ。

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○(仮社)高尾稲荷神社 中央区日本橋箱崎町11-6

 現在建て替え中で、移転先の仮社です。2022年春に新しい稲荷社が完成予定です、

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<高尾稲荷社の由来>

「高尾稲荷社の由来
 万治二年十二月(西暦一六五九年)江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて、艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。
 生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九才であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され、大金をつんで身請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に捨てられた。
 その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え、居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。
 高尾の不憫な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。
 現在、この社には、稲荷社としては全国でも非常にめずらしく、実体の神霊(実物の頭骸骨を祭神として社の中に安置してあります。
 江戸時代より引きつづき、昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く縁日には露店なども出て栄えていた。

懸願と御神徳
 頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就。
 懸願にあたり、この社より櫛一枚借り受けうけをうけ、朝夕、高尾稲荷大明神と祈り、懸願成就ののち他に櫛一枚そえて奉納する習わしが昔から伝わっております。

 高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
 「君は今、駒形あたり時鳥(ほととぎす)」
 辞世の句
 「寒風よもろくも朽つる紅葉かな」

  昭和五十一年三月  箱崎北新堀町々会」

 高尾稲荷社は老朽化のため、現在、建替工事期間中の仮社です。二○二二年春に新しい稲荷社が完成」

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「古今名婦伝 万治高尾」(歌川豊国)

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「高尾丸船子之七人集」(三代豊国)役者絵

 役者絵ですが、「三浦屋高尾」(四代目尾上梅幸)が中央の一枚に描かれています。

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 簪はいろは紅葉で、着物の絵柄もいろは紅葉があしらえられています。

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「東都名所 永代橋全図」(広重)

 移転前の高尾稲荷社が、「東都名所 永代橋全図」(広重)に描かれています。

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 幟が立ち、参詣者が訪れている「高尾稲荷」が見えます。

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tag : 高尾太夫歌川広重井上安治日本橋川永井荷風

霊岸島(霊巌島)② 江戸湊発祥跡

〇江戸湊発祥跡 中央区新川2-31-1

 亀島川河口に「江戸港発祥跡」碑があります。

 (碑文)
 「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。
  昭和十一年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった。」

 東京湾汽船会社(渋沢栄一発案により誕生。現:東海汽船)の桟橋が、
 将藍河岸の御船手組屋敷の跡地にありました。

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<テラス案内板>

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①向井将監ゆかりの地
 1590年、豊臣秀吉公が小田原北条氏を征伐したとき、向井忠勝は徳川家康公の武将として東海道の水軍をひきい、北条方の水軍鵜殿兵部を破りました。さらに慶長・元和両度の大坂陣には、同様に水軍をもって淀川河口の防備にあたり、大いに軍功を賞されました。忠勝はこれらの功により、代々将監と称して幕府水軍の総帥的地位につきました。」
(株式会社名著出版刊『東京ふるさと文庫~江東区の歴史』より)

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②江戸湊の碑
 江戸時代、江戸に集まる物資は主として舟運によるものでした。関西方面をはじめ各地方から江戸に物資が集中し、日本橋、京橋地区の河岸地に陸揚げされました。幕末に横浜が国際貿易港として開港したのに対して、東京の開港は遅れ、ようやく1941年に開港の運びとなりました。

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〇霊岸島量水標モニュメント  中央区新川2-31-1

 水準原点の検証をするための観測所としては、
 現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
 隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所は移設されており、こちらは歴史的経緯を伝えるためのシンボルとなります。

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〇一等水準点交無号  中央区新川2-32-4

 明治24年3月に几号水準点であった霊岸島旧点に替わる堅固な水準点として「霊岸島新点・交無号」が設置されました。(霊岸島几号水準点は大正時代に亡失しています)。 「日本水準原点」(永田町)の標高は、交無号からの測量で決定されました。
 ※日本水準原点については、こちらで記述済です。

(説明板)
「一等水準点「交無号」 標高 三・二四m
 水準点とは、精密に測られた高さの基準点です。全国の主要道路に約2キロメートルおきに設置されており、各種測量の基準や地殻変動の検出に利用されています。
 日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)は、明治六年から十二年の間に霊岸島で行われた潮位観測によって決定されました。この結果は、潮位観測に用いられた量水標近傍の「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)」に取り付けられましたが、明治二十四年に新しい基点として、この「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年、国会議事堂前の地に建設された日本水準原点の標高は、この水準点からの測量で決定されています。
 水準点番号「交無号」の由来は、水準路線が交差する点であることを示す「交」と、「0」を意味する「無号」を合わせたものです。
 この水準点は、まさに日本の高さの出発点として歴史あるものです。
 現在の水準点は、平成十八年にこの地に移転されました。標石は昭和五年の移転時に作られたもので、小豆島産の花崗岩が用いられています。
  平成二十一年二月  国土地理院関東地方測量部」

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霊岸島(霊巌島)① こんにゃく島

〇霊岸島(霊巌島)とは

 「霊岸島(霊巌島)」は、江戸幕府が埋め立てた中州(人工島)です。
 亀島川沿岸部は埋立が不十分で足場が悪く、「蒟蒻島」と俗称され、岡場所「蒟蒻島」が形成されました。
 地名由来の「霊巌寺」は、「明暦の大火」(1657年)により1658年に江東区白河に移転しています。


○越前堀児童公園  中央区新川1-12-1

 霊巌島の碑や越前堀の石垣石などがあります。

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<霊巌島之碑>

(説明板)
「霊巌島の由来
 当地区は、今から三百七、八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。
 寛永元年(一六二四)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の一歩を踏みだし、同十一年(一六三五)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
 邸の北、西、南3面に船入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
 明暦三年(一六五七)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町町が、替地として集団的に移ってきた。
 明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊岸島町、銀町。東港町、新船松町、越前堀、南新堀の十三町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和六年(一九三一)七月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一、二丁目・霊岸島一・二2丁目、越前堀一・二・三丁目と改称され、更に昭和四六年住居表示制度の実施により新川一、二丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
  昭和五十二年三月  霊巌島保存会」

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<越前堀跡>

(説明板)
「越前堀跡   所在地 中央区新川一、二丁目地域
 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は十二?十五間(二○?三○m程)もあり、運河としても用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正十二年(一九二三)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、 「新川」となって現在に至っています。
 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園にみられるのみとなりました。
  平成十七年三月  中央区教育委員会」

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<石の由来>

(説明板)
「石の由来
 この公園で使用した石は、昭和六十年東京都が日本橋川右岸改修工事をした際雉子橋付近から発生した石垣の一部です。
 徳川幕府は 慶長十年(一六○五) 第二期江戸城建設にあたり、江戸城およびお濠の石垣採取輸送を中国、四国、九州の三十一大名に命じました。石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され江戸まで運ばれましたが、石の切り出し、海岸までの輸送、陸揚げ等一連の作業は困難をきわめ、たいへんなお金と労力と犠牲がはらわれています。
 また石には、各大名、組頭、石工等のものと思われる紋や目印等が刻まれているものもあります。
    中央区土木部公園課」

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<出土した越前堀の石垣石>

 明確な矢穴が認識できる石があります。

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○越前堀の間知石  中央区新川2-17-12

 新川二丁目交差点の植え込みに「越前堀の間知石」があります。

(説明板)
「越前堀の間知石
 江戸時代、この辺りには越前福井藩・松平家の中屋敷がありました。
 屋敷は隅田川に面しており、三面にお堀がめぐらされていました。このお堀は「越前堀」とよばれ旧町名のもとにもなりました。
 この植え込みに配置されている大きな間知石は、お堀の石垣の根石として用いられたものと推測されます。
 左の図は築地八町堀日本橋南絵図全(万延元年東京都立中央図書館所蔵)より抜粋したものに現在の道路を重ね合せたものです。
  東京都第一建設事務所」

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〇徳船稲荷神社  中央区新川2-20

 南高橋の霊岸島側にあります。

(説明板)
「徳船稲荷神社縁起
 徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方堀割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものと伝えられる。
 明暦三年、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、大正十一年に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。関東大震災では再度救出され、昭和六年隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和二十九年同処に再現のあと平成三年中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。
 例祭は、十一月十五日である。
   新川二丁目越一町会崇敬会」

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〇新川之跡  中央区新川1-29-8 新川公園

 新川公園に「新川の跡の碑」があります。

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<新川之跡>

 「新川之跡
 「萬治三年(一六六○) 河村瑞軒傳開鑿此地
  昭和二十三年(一九四八) 以戦災焦土埋之」

(説明板)
「新川の跡   所在地 中央区新川一丁目地域
 新川は、現在の新川一1丁目三番から四番の間で亀島川から分岐し この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。
規模は延長約五百九メートル、川幅は約十一メートルから約十六メートルと、狭いところと広いところがあり、西から、一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。
 この新川は、豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(一六六○)に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸に建ち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。
 昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。
  平成六年三月    中央区教育委員会」

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「江戸名所図会 新川 酒問屋」

 江戸名所図会「新川酒問屋」の酒樽をみると、「剣菱」が多く描かれています。店内に「剣菱」。舟に山積みされた「剣菱」。

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<錦絵の広告>

「御蔵前八幡宮ニ於面 奉納力持」(歌川国安)

 錦絵に描かれた「男山」「剣菱」「瀧水」の広告です。最後の2枚は上下ひっくり返して拡大しています。

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 男山と剣菱は伊丹酒で、瀧水(日本橋新和泉町四方酒店)は江戸の酒です。
 伊丹酒の「剣菱」は、「水」にこだわり剣菱のラベルに「瀧水」の二文字を加えてたので(現在も)、「瀧水」は添え書きの可能性もありますが、男山と同等の扱いなので、江戸の酒「瀧水」でしょう。
 「男山」は、徳川将軍家の「御膳酒」に指定された銘酒でしたが、明治初頭に蔵元が廃業しています。「江戸買物独案内 下巻」(中川五郎左衛門編 山城屋佐兵衛他 文政7年)に「瀧水」の記載があります。

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〇河村瑞賢屋敷跡  中央区新川1-8-2

 河村瑞賢の屋敷が、霊岸島にありました。
 (参考:河村瑞賢の墓所について記載

(説明板)
「河村瑞賢屋敷跡   所在地 新川一丁目八番地域
 江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(一六一八~一六九九)の屋敷がありました。
 瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(一六五七)の江戸大火の際には、木曽の木材を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。
 瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。
晩年にはその功績により旗本に列せられました。
 斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(一六八四~一六八八)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかって新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。
 『御府内沿革図書』延宝年間(一六七三~一六八一)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。
  平成十五年三月    中央区教育委員会」

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

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