隅田川テラス(蔵前橋~厩橋)/厩橋
隅田川テラス(蔵前橋~厩橋)/厩橋
○隅田川テラス(蔵前橋~厩橋 右岸) 台東区蔵前2丁目
蔵前橋から上流の厩橋に歩きます。
平成26(2014)年8月2日にオープンしています。
<修景工事>
蔵前橋下流側に修景工事のプレートがあります。
「2013年3月
隅田川(蔵前橋上下流)右岸修景工事
絵延長 184.8m→
東京都
加勢造園株式会社施行」


<隅田川テラス案内図>
蔵前橋上流階段下に「隅田川テラス案内図」があります。
「首尾の松」と「蔵前国技館跡」の説明があります。


「首尾の松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎)
葛飾北斎の浮世絵の陶板画レリーフが展示されています。首尾の松の下で釣りを楽しむ男女を葛飾北斎が描いています。
御厩河岸上流の浅草川は禁漁(殺生厳禁)とされていますが、御蔵前は釣りが可能でした。御蔵前は石材を積んだ船が沈んで石材が岩礁となり魚が多く、釣りの名所でした。
(説明板)
「浮世絵師葛飾北斎
「首尾の松の鉤舟 椎木の夕蝉」
首尾の松とは、御米蔵の4番堀と5番堀の中間にあった枝ぶりの良かった松の木のことです。江戸時代は、吉原で舟で行くことが粋とされ、吉原帰りの客が昨晩の首尾(物事のなりゆき、結果)を思い出す所、吉原に向かう客が今宵の首尾を思い描く所でした。また、吉原往還の目印のほか、釣りの穴場としても有名でした。
このほか、浮世絵には大川の対岸に瓦屋根を葺いた平戸新田藩の上屋敷(現同愛記念病院)の椎の巨木が描かれています。また、左の絵の松の枝辺りには、入堀に架かる石原橋や辻番屋、三河国拳母藩内藤家の下屋敷も描かれています。
なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。
左の絵の句は、美しい松と釣りをする美しい女性を掛けた句となっています。
右の絵の句は、椎の巨木に蝉が往く夏を惜しむように鳴いている様子を詠っています。
美し佐松者千と世越延あ可里 延阿可り見類舟能たをやめ
(美しさ松は千歳を延上がり 延上がり見る舟の女)
時ま多記見あくる椎乃青空に とこ路定め須蝉の志くるゝ
(時跨ぎ見上げる椎の青空に 所定めず蝉のしぐるる)
東京都第六建設事務所」


「絵本隅田川両岸一覧 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917))

「隅田川長流図巻」(狩野休栄 大英博物館所蔵)
浅草御蔵は鳥越川~厩橋の間にかつてあり、この場所も浅草御蔵があった場所です。
護岸に「隅田川長流図巻」と「浅草御蔵絵図」が展示されています。東京都のセンスに拍手喝采します。
首尾の松は蔵前橋の下流にあり、描かれています。


「浅草御蔵絵図」(東京都江戸東京博物館所蔵)
掲示されている「浅草御蔵絵図」は見えにくかったのですが、浅草御蔵の雰囲気は十分伝わってきました。

「榧寺の高灯篭 御馬屋川岸乗合」(北斎)
葛飾北斎の浮世絵が、もう1枚展示されています。御厩川岸の渡しを描写しています。
画面左上にはみ出した高い竹竿のてっぺんに燈籠が掲げられています。これは榧寺の盆名物の高燈籠で、仏の目印として高く掲げたほうが良いとされていました。
御厩川岸の渡しはいつも満員で転覆事故が多く、別名「三途の渡し」と呼ばれていました。
(説明板)
「浮世絵師葛飾北斎
「榧寺の高灯篭 御馬屋川岸乗合」
現在の厩橋は江戸時代には無く、渡し舟により人々が行き来していました。
この浮世絵では、御厩川岸の渡しと呼ばれた風景を描写しています。対岸は本所荒井町・番場町あたりで、手前は浅草黒松町か諏訪町となります。渡し舟は後から乗った人から先に降りなければならず、1艘はこれから本所側を離
れようとし、手前の舟は間もなく浅草側に到着しそうな情景となっています。
この渡しの目印は榧寺の盆名物の高燈籠で、仏となった者は燈籠を目印に帰ってくることから高く掲げた方が良いとされていました。御厩川岸の渡しはいつも満員で転覆することもあったため、別名「三途の渡し」と呼ばれていたようです。
なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。
右の絵の句は。目印となった高灯篭を詠み、左の絵の句は、渡し舟の様子を詠っています。
志けりあふ色も萌黄能かや寺に 火燭と見ゆる燈籠乃影
(繁りあう色も萌黄の榧寺に 火燭と見ゆる燈籠の影)
ろ能おとに雁こきませてわ多し舩 あとの可先へあかるのり合
(櫓の音に雁こき混ぜて渡し船 後のが先へ上がる乗合)
東京都第六建設事務所」


「絵本隅田川両岸一覧 榧寺の高燈籠 御馬屋川岸乗合」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917)年)

「御蔵前八幡宮ニ於面 奉納力持」(歌川国安)
蔵前八幡宮(現:蔵前神社)で行われた力持の技芸を披露する神事がを描いた陶板画レリーフです。この錦絵は蔵前神社にも掲示されています。
「剣菱」の商標は、他の絵師の錦絵にも色々と描かれています。
「男山」は、徳川将軍家の「御膳酒」に指定された銘酒でしたが、明治初頭に蔵元が廃業しています。
(説明板)
「浮世絵師 歌川國安錦絵
「御藏前八幡宮二於而 奉納力持」
この錦絵は、文政7年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮(現・蔵前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(1994年から1832年)です。
素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃に絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。左の絵の「大関金蔵」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金蔵と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら3枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも言われています。
また、この奉納力持が開催された御蔵前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保4年(1833年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた3大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明2年2月場所では、63連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れ、江戸中が大騒ぎとなりました。
(資料提供:男山株式会社、蔵前神社)」






○厩橋 台東区蔵前2丁目・駒形2丁目~墨田区本所1丁目
馬づくしの橋です。
(西詰上流側)








(西詰下流側)




○厩橋際公衆トイレ 台東区蔵前2-15-9
斬新なデザインのトイレです。テレビでも紹介されていました。
「平成4年度 まちかど賞
景観形成に寄与されたことをたたえます
台東区」


○厩橋地蔵尊 墨田区本所1-35-1
厩橋東詰の北側に厩橋地蔵尊があります。古い地蔵が2体と、新しい地蔵1体の、3体の地蔵が祀られています。


○厩橋由来碑
東京都の由来碑は、西詰に多いのですが、厩橋由来碑は東詰の北側にあります。プレートは、「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」(広重)です。
(碑文)
「厩橋
厩(うまや)の名は、浅草の御米蔵に付属する御厩が、この地にあったことに由来する。
ここには、”御厩(おんまい)の渡し”があり、地名としても、御厩河岸などと呼ばれていた。
明治五年(一八七二年)に、渡し船の転覆があって、地元の住民によって有料の木橋をかけることが計画され、明治七年(一八七四年)には実現した。その後、この橋は、明治二十年(一八八七年)に東京府に寄付された。
しかし、老朽化がひどかったため、明治二十六年(一八九三年)、鉄製トラス橋にかけかえられたが、関東大震災(一九二三年)には橋床が焼失した。
その後、復興事業の一環として、三連のアーチ形の橋が、昭和四(一九二九年)年に完成、優美な姿を川面に映している。
昭和五十八年三月 東京都」



<明治初期の木製の御厩橋>
「御厩橋雷雨」(小林清親)

「厩橋」(井上安治)

○隅田川テラス(蔵前橋~厩橋 右岸) 台東区蔵前2丁目
蔵前橋から上流の厩橋に歩きます。
平成26(2014)年8月2日にオープンしています。
<修景工事>
蔵前橋下流側に修景工事のプレートがあります。
「2013年3月
隅田川(蔵前橋上下流)右岸修景工事
絵延長 184.8m→
東京都
加勢造園株式会社施行」


<隅田川テラス案内図>
蔵前橋上流階段下に「隅田川テラス案内図」があります。
「首尾の松」と「蔵前国技館跡」の説明があります。


「首尾の松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎)
葛飾北斎の浮世絵の陶板画レリーフが展示されています。首尾の松の下で釣りを楽しむ男女を葛飾北斎が描いています。
御厩河岸上流の浅草川は禁漁(殺生厳禁)とされていますが、御蔵前は釣りが可能でした。御蔵前は石材を積んだ船が沈んで石材が岩礁となり魚が多く、釣りの名所でした。
(説明板)
「浮世絵師葛飾北斎
「首尾の松の鉤舟 椎木の夕蝉」
首尾の松とは、御米蔵の4番堀と5番堀の中間にあった枝ぶりの良かった松の木のことです。江戸時代は、吉原で舟で行くことが粋とされ、吉原帰りの客が昨晩の首尾(物事のなりゆき、結果)を思い出す所、吉原に向かう客が今宵の首尾を思い描く所でした。また、吉原往還の目印のほか、釣りの穴場としても有名でした。
このほか、浮世絵には大川の対岸に瓦屋根を葺いた平戸新田藩の上屋敷(現同愛記念病院)の椎の巨木が描かれています。また、左の絵の松の枝辺りには、入堀に架かる石原橋や辻番屋、三河国拳母藩内藤家の下屋敷も描かれています。
なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。
左の絵の句は、美しい松と釣りをする美しい女性を掛けた句となっています。
右の絵の句は、椎の巨木に蝉が往く夏を惜しむように鳴いている様子を詠っています。
美し佐松者千と世越延あ可里 延阿可り見類舟能たをやめ
(美しさ松は千歳を延上がり 延上がり見る舟の女)
時ま多記見あくる椎乃青空に とこ路定め須蝉の志くるゝ
(時跨ぎ見上げる椎の青空に 所定めず蝉のしぐるる)
東京都第六建設事務所」


「絵本隅田川両岸一覧 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917))

「隅田川長流図巻」(狩野休栄 大英博物館所蔵)
浅草御蔵は鳥越川~厩橋の間にかつてあり、この場所も浅草御蔵があった場所です。
護岸に「隅田川長流図巻」と「浅草御蔵絵図」が展示されています。東京都のセンスに拍手喝采します。
首尾の松は蔵前橋の下流にあり、描かれています。


「浅草御蔵絵図」(東京都江戸東京博物館所蔵)
掲示されている「浅草御蔵絵図」は見えにくかったのですが、浅草御蔵の雰囲気は十分伝わってきました。

「榧寺の高灯篭 御馬屋川岸乗合」(北斎)
葛飾北斎の浮世絵が、もう1枚展示されています。御厩川岸の渡しを描写しています。
画面左上にはみ出した高い竹竿のてっぺんに燈籠が掲げられています。これは榧寺の盆名物の高燈籠で、仏の目印として高く掲げたほうが良いとされていました。
御厩川岸の渡しはいつも満員で転覆事故が多く、別名「三途の渡し」と呼ばれていました。
(説明板)
「浮世絵師葛飾北斎
「榧寺の高灯篭 御馬屋川岸乗合」
現在の厩橋は江戸時代には無く、渡し舟により人々が行き来していました。
この浮世絵では、御厩川岸の渡しと呼ばれた風景を描写しています。対岸は本所荒井町・番場町あたりで、手前は浅草黒松町か諏訪町となります。渡し舟は後から乗った人から先に降りなければならず、1艘はこれから本所側を離
れようとし、手前の舟は間もなく浅草側に到着しそうな情景となっています。
この渡しの目印は榧寺の盆名物の高燈籠で、仏となった者は燈籠を目印に帰ってくることから高く掲げた方が良いとされていました。御厩川岸の渡しはいつも満員で転覆することもあったため、別名「三途の渡し」と呼ばれていたようです。
なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。
右の絵の句は。目印となった高灯篭を詠み、左の絵の句は、渡し舟の様子を詠っています。
志けりあふ色も萌黄能かや寺に 火燭と見ゆる燈籠乃影
(繁りあう色も萌黄の榧寺に 火燭と見ゆる燈籠の影)
ろ能おとに雁こきませてわ多し舩 あとの可先へあかるのり合
(櫓の音に雁こき混ぜて渡し船 後のが先へ上がる乗合)
東京都第六建設事務所」


「絵本隅田川両岸一覧 榧寺の高燈籠 御馬屋川岸乗合」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917)年)

「御蔵前八幡宮ニ於面 奉納力持」(歌川国安)
蔵前八幡宮(現:蔵前神社)で行われた力持の技芸を披露する神事がを描いた陶板画レリーフです。この錦絵は蔵前神社にも掲示されています。
「剣菱」の商標は、他の絵師の錦絵にも色々と描かれています。
「男山」は、徳川将軍家の「御膳酒」に指定された銘酒でしたが、明治初頭に蔵元が廃業しています。
(説明板)
「浮世絵師 歌川國安錦絵
「御藏前八幡宮二於而 奉納力持」
この錦絵は、文政7年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮(現・蔵前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(1994年から1832年)です。
素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃に絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。左の絵の「大関金蔵」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金蔵と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら3枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも言われています。
また、この奉納力持が開催された御蔵前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保4年(1833年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた3大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明2年2月場所では、63連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れ、江戸中が大騒ぎとなりました。
(資料提供:男山株式会社、蔵前神社)」






○厩橋 台東区蔵前2丁目・駒形2丁目~墨田区本所1丁目
馬づくしの橋です。
(西詰上流側)








(西詰下流側)




○厩橋際公衆トイレ 台東区蔵前2-15-9
斬新なデザインのトイレです。テレビでも紹介されていました。
「平成4年度 まちかど賞
景観形成に寄与されたことをたたえます
台東区」


○厩橋地蔵尊 墨田区本所1-35-1
厩橋東詰の北側に厩橋地蔵尊があります。古い地蔵が2体と、新しい地蔵1体の、3体の地蔵が祀られています。


○厩橋由来碑
東京都の由来碑は、西詰に多いのですが、厩橋由来碑は東詰の北側にあります。プレートは、「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」(広重)です。
(碑文)
「厩橋
厩(うまや)の名は、浅草の御米蔵に付属する御厩が、この地にあったことに由来する。
ここには、”御厩(おんまい)の渡し”があり、地名としても、御厩河岸などと呼ばれていた。
明治五年(一八七二年)に、渡し船の転覆があって、地元の住民によって有料の木橋をかけることが計画され、明治七年(一八七四年)には実現した。その後、この橋は、明治二十年(一八八七年)に東京府に寄付された。
しかし、老朽化がひどかったため、明治二十六年(一八九三年)、鉄製トラス橋にかけかえられたが、関東大震災(一九二三年)には橋床が焼失した。
その後、復興事業の一環として、三連のアーチ形の橋が、昭和四(一九二九年)年に完成、優美な姿を川面に映している。
昭和五十八年三月 東京都」



<明治初期の木製の御厩橋>
「御厩橋雷雨」(小林清親)

「厩橋」(井上安治)

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
蔵前橋/隅田川テラス(蔵前橋~柳橋)
蔵前橋/隅田川テラス(蔵前橋下流~柳橋)
○蔵前橋 台東区蔵前1丁目・2丁目~墨田区横網2丁目




橋名板がしゃれています。


蔵前橋の欄干は、屋根舟と横綱の土俵入りのモチーフです。
橋の中央部分のバルコニーには、大相撲をテーマとした透かし彫りがあります。




蔵前橋から上流左岸方面

蔵前橋から下流左岸方面

○隅田川テラス 蔵前橋~柳橋 蔵前一丁目~柳橋一丁目
蔵前橋から、下流の柳橋まで、隅田川テラスを歩きます。
江戸時代の浅草御蔵の雰囲気を伝えるモニュメントとなっています。蔵前橋から総武線鉄橋まで、470メートルの「なまこ塀」が続きます。
広重の隅田川の千住大橋から永代橋まで、多数の浮世絵が展示されています。また、江戸の御手伝普請で組頭を勤めた大名家の家紋が掲示されています。
途中、旧鳥越川暗渠の隅田川合流部の朱色の橋があります。
<隅田川テラス周辺案内図>
蔵前橋下流側、テラスへ下りる階段の上に「隅田川テラス周辺案内図」があります。
「隅田川テラス」「蔵前界隈」の説明があります。





<隅田川テラス案内図>
階段を下りたところに「隅田川テラス案内図」があります。
「蔵前橋」「浅草御蔵跡」の説明があります。


<隅田川テラス>
テラス上に広重の浮世絵、なまこ塀に家紋が続いています。後ろにまとめて掲載します。
それ以外の光景です。蔵前橋とスカイツリーを背に進みます。

<旧鳥越川暗渠防潮扉と橋>
朱色の橋は、暗渠の鳥越川が隅田川に合流している場所です。
隅田川合流地点へ暗渠が直進する筋に変えられています。本来の河口部はもう少し下流です。現在の合流点は、浅草御蔵の八番堀と七番堀の間に当たります。




<向岸>
向岸には、隅田川テラスギャラリーが見えます。
幕府の御竹蔵の入堀に架かっていた御蔵橋の場所には、両国ポンプ所の水門が御蔵をかたどっています。


<明和八年地図 須原屋茂兵衛>
広重の浮世絵の他、須原屋茂兵衛の明和八年地図が展示されています。


<修景工事>
修景工事のプレートがあります。
「1994年2月
隅田川(蔵前橋下流)右岸修景工事
延長 469.9m→
東京都
勝村・鶴ヶ谷建設協同企業体 施行」




<隅田川テラス案内図>
総武線鉄橋の先のテラスは行き止まり。鉄橋手前の階段先に案内があります。



<隅田川テラス行き止まり部分> 総武線鉄橋~神田川河口
総武線鉄橋下にある路上モニュメント。

<距離表示と指標>
線路をくぐると、両国橋まで250mの表示です。両国橋へは行き止まりで行けません。


<テラスの光景>






<神田川河口部>
神田川河口部で行き止まりです。



行き止まりから振り返ったところ

<対岸>
対岸は、隅田川テラスギャラリーへ下りる両国橋の脇の階段が見えます。

○「名所江戸百景 広重」
上流から順に見ていきます。
「千住の大はし」
現地には色々とモニュメントがあります。


「隅田川水神の森真崎」
墨堤の桜から、手前に水神の森、隅田川対岸に真崎稲荷、遠方に筑波山が描かれています。ここからは筑波山は右手なので見えないはずですが描かれています。


「墨田河橋場の渡かわら竈」
瓦を焼く達磨竈から煙がたなびいています。在原業平も渡った「橋場の渡し」に渡し舟が見えます。近景にユリカモメが見ます。遠景には筑波山です。


「吾妻橋金龍山遠望」
桜吹雪が舞っています。右方向に流れていますが、帆の向きとは反対です。簾を挙げている屋根舟です。隅田川下流の吾妻橋、富士山、浅草寺が見えます。


「浅草川首尾の松御厩河岸」(タイトルの雁が余分で不要です。)
竹垣からはみ出した首尾の松の下に浮かぶ屋根舟は簾を下しています。舟先には、二足の履物が置かれています。 簾には芸者らしき影がうっすらと見えます。


「浅草川大川端宮戸川」
後摺りの題名が「両国船中浅草遠景」です。左は神田川の河口に位置した柳橋の料亭「八万楼」。右の船上も梵天を立て、先達の修験者が法螺貝を吹いています。大山講中一行が柳橋の船着き場を目指すところです。


「両国花火」
両国橋と花火が描かれています。


「両国橋大川ばた」
近景に広小路の賑わいが見えます。向岸の両国橋上流には百本杭と御蔵橋が見えます。


「大はしあたけの夕立」
新大橋の向岸に幕府の御船蔵が見えます。 「あたけ」とは「安宅」で、徳川将軍の「安宅丸」が係留されていたことからついた地名です。


「両ごく回向院元柳橋」
回向院の相撲櫓越しに富士山が見えます。向岸の薬研堀に、柳橋と名前の由来となった柳が見えます。


「みつまたわかれの淵」
箱崎川が合流する所に中洲があり、三つ又、三俣と呼ばれました。この辺りは、淡水と海水の潮目の境目で「わかれの淵」とも呼ばれました。箱崎川は埋め立てられ、現在は箱崎ジャンクションです。


「鎧の渡し小網町」
鎧の渡しは、源義家あるいは平将門に由来しています。各種問屋の蔵がずらりと並んでいます。


「永代橋佃しま」
永代橋から佃島を見ています。星空にオリオン座が見えます。


<家紋の掲示>
江戸の御手伝普請で組頭を勤めた大名家の家紋が掲示されています。
(説明プレート)
「家紋の掲示
慶長八(一六○三)年、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は、名実共に天下を掌握し、江戸を全国政権の中心にふさわしい都市とする「天下普請」に着手した。家康は、江戸を発展させるためには、港湾都市的形態が最良であると考え、城前方の東京湾波打ち際の方にまちづくりを開始した。そこで、神田台(今の千代田区駿河台から大手町に存する一帯)を切り崩し、その土で現在の中央区一帯を埋め立てて市街地の造成を行った。その時家康は、全国の大名に対して、「御手伝普請」を命じ、幾つかの組に編成してこの大規模な工事を進めた。こうして今の日本橋浜松町辺りから新橋付近に至る下町が生まれ、また堀川(日本橋川)が造られて着々と港湾都市としての江戸の町づくりが進展した。今回、当時活躍した人達の中で組頭を勤めた主な大名の家紋を護岸壁面に掲示した。」



(上流から下流へ)
伊達正宗 本多忠勝 三つ葉葵 上杉景勝 前田利長 生駒一政、浅野幸長 黒田長政 細川忠興 蛇の目紋(加藤清正)
※生駒一政は「生駒一正」の誤りです。三つ葉葵紋と蛇の目紋には名前が記されていません。









○蔵前橋 台東区蔵前1丁目・2丁目~墨田区横網2丁目




橋名板がしゃれています。


蔵前橋の欄干は、屋根舟と横綱の土俵入りのモチーフです。
橋の中央部分のバルコニーには、大相撲をテーマとした透かし彫りがあります。




蔵前橋から上流左岸方面

蔵前橋から下流左岸方面

○隅田川テラス 蔵前橋~柳橋 蔵前一丁目~柳橋一丁目
蔵前橋から、下流の柳橋まで、隅田川テラスを歩きます。
江戸時代の浅草御蔵の雰囲気を伝えるモニュメントとなっています。蔵前橋から総武線鉄橋まで、470メートルの「なまこ塀」が続きます。
広重の隅田川の千住大橋から永代橋まで、多数の浮世絵が展示されています。また、江戸の御手伝普請で組頭を勤めた大名家の家紋が掲示されています。
途中、旧鳥越川暗渠の隅田川合流部の朱色の橋があります。
<隅田川テラス周辺案内図>
蔵前橋下流側、テラスへ下りる階段の上に「隅田川テラス周辺案内図」があります。
「隅田川テラス」「蔵前界隈」の説明があります。





<隅田川テラス案内図>
階段を下りたところに「隅田川テラス案内図」があります。
「蔵前橋」「浅草御蔵跡」の説明があります。


<隅田川テラス>
テラス上に広重の浮世絵、なまこ塀に家紋が続いています。後ろにまとめて掲載します。
それ以外の光景です。蔵前橋とスカイツリーを背に進みます。

<旧鳥越川暗渠防潮扉と橋>
朱色の橋は、暗渠の鳥越川が隅田川に合流している場所です。
隅田川合流地点へ暗渠が直進する筋に変えられています。本来の河口部はもう少し下流です。現在の合流点は、浅草御蔵の八番堀と七番堀の間に当たります。




<向岸>
向岸には、隅田川テラスギャラリーが見えます。
幕府の御竹蔵の入堀に架かっていた御蔵橋の場所には、両国ポンプ所の水門が御蔵をかたどっています。


<明和八年地図 須原屋茂兵衛>
広重の浮世絵の他、須原屋茂兵衛の明和八年地図が展示されています。


<修景工事>
修景工事のプレートがあります。
「1994年2月
隅田川(蔵前橋下流)右岸修景工事
延長 469.9m→
東京都
勝村・鶴ヶ谷建設協同企業体 施行」




<隅田川テラス案内図>
総武線鉄橋の先のテラスは行き止まり。鉄橋手前の階段先に案内があります。



<隅田川テラス行き止まり部分> 総武線鉄橋~神田川河口
総武線鉄橋下にある路上モニュメント。

<距離表示と指標>
線路をくぐると、両国橋まで250mの表示です。両国橋へは行き止まりで行けません。


<テラスの光景>






<神田川河口部>
神田川河口部で行き止まりです。



行き止まりから振り返ったところ

<対岸>
対岸は、隅田川テラスギャラリーへ下りる両国橋の脇の階段が見えます。

○「名所江戸百景 広重」
上流から順に見ていきます。
「千住の大はし」
現地には色々とモニュメントがあります。


「隅田川水神の森真崎」
墨堤の桜から、手前に水神の森、隅田川対岸に真崎稲荷、遠方に筑波山が描かれています。ここからは筑波山は右手なので見えないはずですが描かれています。


「墨田河橋場の渡かわら竈」
瓦を焼く達磨竈から煙がたなびいています。在原業平も渡った「橋場の渡し」に渡し舟が見えます。近景にユリカモメが見ます。遠景には筑波山です。


「吾妻橋金龍山遠望」
桜吹雪が舞っています。右方向に流れていますが、帆の向きとは反対です。簾を挙げている屋根舟です。隅田川下流の吾妻橋、富士山、浅草寺が見えます。


「浅草川首尾の松御厩河岸」(タイトルの雁が余分で不要です。)
竹垣からはみ出した首尾の松の下に浮かぶ屋根舟は簾を下しています。舟先には、二足の履物が置かれています。 簾には芸者らしき影がうっすらと見えます。


「浅草川大川端宮戸川」
後摺りの題名が「両国船中浅草遠景」です。左は神田川の河口に位置した柳橋の料亭「八万楼」。右の船上も梵天を立て、先達の修験者が法螺貝を吹いています。大山講中一行が柳橋の船着き場を目指すところです。


「両国花火」
両国橋と花火が描かれています。


「両国橋大川ばた」
近景に広小路の賑わいが見えます。向岸の両国橋上流には百本杭と御蔵橋が見えます。


「大はしあたけの夕立」
新大橋の向岸に幕府の御船蔵が見えます。 「あたけ」とは「安宅」で、徳川将軍の「安宅丸」が係留されていたことからついた地名です。


「両ごく回向院元柳橋」
回向院の相撲櫓越しに富士山が見えます。向岸の薬研堀に、柳橋と名前の由来となった柳が見えます。


「みつまたわかれの淵」
箱崎川が合流する所に中洲があり、三つ又、三俣と呼ばれました。この辺りは、淡水と海水の潮目の境目で「わかれの淵」とも呼ばれました。箱崎川は埋め立てられ、現在は箱崎ジャンクションです。


「鎧の渡し小網町」
鎧の渡しは、源義家あるいは平将門に由来しています。各種問屋の蔵がずらりと並んでいます。


「永代橋佃しま」
永代橋から佃島を見ています。星空にオリオン座が見えます。


<家紋の掲示>
江戸の御手伝普請で組頭を勤めた大名家の家紋が掲示されています。
(説明プレート)
「家紋の掲示
慶長八(一六○三)年、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は、名実共に天下を掌握し、江戸を全国政権の中心にふさわしい都市とする「天下普請」に着手した。家康は、江戸を発展させるためには、港湾都市的形態が最良であると考え、城前方の東京湾波打ち際の方にまちづくりを開始した。そこで、神田台(今の千代田区駿河台から大手町に存する一帯)を切り崩し、その土で現在の中央区一帯を埋め立てて市街地の造成を行った。その時家康は、全国の大名に対して、「御手伝普請」を命じ、幾つかの組に編成してこの大規模な工事を進めた。こうして今の日本橋浜松町辺りから新橋付近に至る下町が生まれ、また堀川(日本橋川)が造られて着々と港湾都市としての江戸の町づくりが進展した。今回、当時活躍した人達の中で組頭を勤めた主な大名の家紋を護岸壁面に掲示した。」



(上流から下流へ)
伊達正宗 本多忠勝 三つ葉葵 上杉景勝 前田利長 生駒一政、浅野幸長 黒田長政 細川忠興 蛇の目紋(加藤清正)
※生駒一政は「生駒一正」の誤りです。三つ葉葵紋と蛇の目紋には名前が記されていません。










テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
蔵前橋 富士見の渡し 御厩河岸の渡し
○蔵前橋碑 台東区蔵前1-3-37
「首尾松碑」の隣に、東京都の蔵前橋の説明石碑があります。

(蔵前橋碑文)
「蔵前橋
蔵前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。
この御米蔵は、元和年間に大川端を埋立てて建てられたが、盛時には、数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。ここに関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。
近代になって、政府関係などの倉庫となり、その中には浅草文庫という書庫などもあった。
蔵前の地は、札差たち江戸商人発展の地であり、いきや通のあふれた土地柄となってきた。近代においても、大震災や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品の問屋街として繁栄をつづけてきている。
大震災復興事業の一環として、新しい構造の橋が、昭和二年(一九二七年)に完成して、今日に至っている。
昭和五十八年三月 東京都」

<葛飾北斎錦絵>
葛飾北斎の錦絵「富嶽三十六景 御厩河岸より両国橋夕陽見」のパネルがはめ込まれています。
銅板で見にくいので国立国会図書館蔵書からの引用です。

○富士見の渡し(蔵前の渡し)
富士見の渡しは、蔵前橋の下流、蔵前工業高校と同愛記念病院あたりを結んでいました。船の上から富士山がよく見えたことから、この名がついたと言われます。蔵前側は、かつて江戸幕府の浅草御蔵があった場所で、御蔵の渡しとも称されました。
震災後、新たな蔵前橋が架けられ、渡し舟は廃止となっています。江戸時代にはなかった渡しで(と思う)、明治となり浅草御蔵が廃され、新たに浅草御蔵跡に渡し場が設けられたのではないでしょうか。
「大川富士見渡」(小林清親 明治13年 国立国会図書館蔵)
浅草御蔵跡に設けられた富士見の渡しから下流を見た光景に思えます。下流右手は鳥越川の河口部でしょうか。遠景に両国橋が見えます。

「東京名所 本所富士見の渡し」(井上探景(井上安治) 国立国会図書館蔵書)
同じ場面を弟子の井上探景(井上安治)も描いています。

「東京風景 両国代地富士見の渡し」(小国政 明治26年 国立国会図書館蔵書)
こちらも明治の富士見の渡しが描かれています。柳橋の奥に富士山が見えます。
向岸の右手に見える煙突は何でしょう?浅草火力発電所の稼働は明治28年だから違うんでしょうけど。

○御厩河岸の渡し(三途の渡し)
陸路での米の運搬には馬が必要なため、浅草御蔵の北側に厩が設置されていました。
厩橋の下流、浅草御蔵の北端に「御厩河岸の渡し」と呼ばれる渡し場がありました。渡しはいつも満員で転覆事故が多く、別名「三途の渡し」と呼ばれていました。
「江戸名所図会 御厩河岸渡」
舟の角度から、向岸は渡し場のだいぶ下流を描いていると思います。その向岸に、「椎木やしき」「駒留石」「駒留はし」とあります。
「椎木屋敷」の南隣は本庄松平伯耆守の下屋敷(現・旧安田庭園)で、この両屋敷の間の道のど真ん中に「駒留石」があります。ちなみに、本庄家初代の宗資は、桂昌院の弟です。
川柳に「伯耆先掃除の度に邪魔な石」と詠まれるほどに有名でした。駒留石は、現在は旧安田庭園内に移設されています。


「江戸切絵図」
「浅草御米蔵」の隣に、「御厩河岸之渡」の記載が見えます。
渡し先には石原町の阿部氏の屋敷が描かれています。

「絵本江戸土産 御厩河岸 駒形堂 金龍山遠望」(広重)
「御厩河岸」から隅田川上流の駒形堂、浅草寺方向が描かれています。
挿絵には、「両国橋より北の方凡そ八町の上にあり この渡し場の川中に至れば遥かに見ゆる筑波の嶺 隅田川の屈曲せる岸に真白きき駒形堂 梢を貫く五重の塔はこれ金龍山浅草寺 実に比なき光景なり」とあります。

「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)
向岸に見えるのは「石原橋」(現存せず)です。横網2丁目12番地にあった入堀に架かっていました。
船上の二人は夜鷹(私娼)で、濃い化粧で表現されています。夜鷹は、黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ吹きさらしにする姿が定形でした。
横に控える男は妓夫(ぎゅう)(客引き、用心棒)で、牛、牛夫とも書き、牛太郎とも呼ばれました。
夜鷹は石原橋奥の本所吉田町の裏長屋に住み、隅田川を越えて商売をしていました。

「絵本隅田川両岸一覧 榧寺の高燈籠 御馬屋川岸乗合」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917)年)
御厩川岸の渡しを描写しています。
嘘言皮成「志けりあふ色萌黄能榧寺に 火燭と見ゆる燈籠の影」
蜀錦園蔓人「ろ能の音に雁こきませてわ多し船 あとの可先へあかるのり合」とあります。
画面左上にはみ出した高い竹竿のてっぺんに燈籠が掲げられています。これは榧寺の盆名物の高燈籠で、仏の目印として高く掲げたほうが良いとされていました。
現在も榧寺には、高さは足りないものの、そっくりの高燈籠があります。


葛飾北斎の隅田川両岸の錦絵は全部繋がって描かれていて、首尾の松の錦絵と繋げて見ると、向岸の位置関係がよくわかります。

「富嶽三十六景 御厩河岸より両国橋夕陽見」(葛飾北斎 高見沢木版社 昭和11(1936)年)
手前の本所側から見た絵です。 両国橋が間近で、対岸に柳橋が描かれているので、御厩河岸の渡しより下流の横網の渡しでしょうか。
左に両国橋、両国橋の先の遠景に富士山、柳橋右岸左岸の料理屋から明かりが漏れいでています。右横は浅草御蔵で明かりは一切ありません。
舟上の男の風呂敷に、版元永寿堂の商標「三ツ巴紋」が入っています。北斎の浮世絵には宣伝が時折見られます。



「江戸名所道化尽 四十一 浅草御厩川岸」(歌川広景)
足場を組んで、土蔵の壁に漆喰を塗っている職人たち。上にいる職人が漆喰の盛り板を落とし下にいる職人の頭に命中し、ひっくり返って箱の中に転んでいます。タイトルが浅草御厩川岸なので、浅草御蔵の補修でもしているのでしょうか。

「足代(あししろ)の不二」(富嶽百景 北斎)
富士山を背景に、同じ場面の絵があります。ネタ本でしょう。北斎の絵は隅田川の左岸ですが、広景の絵は隅田川の右岸です。

「首尾松碑」の隣に、東京都の蔵前橋の説明石碑があります。

(蔵前橋碑文)
「蔵前橋
蔵前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。
この御米蔵は、元和年間に大川端を埋立てて建てられたが、盛時には、数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。ここに関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。
近代になって、政府関係などの倉庫となり、その中には浅草文庫という書庫などもあった。
蔵前の地は、札差たち江戸商人発展の地であり、いきや通のあふれた土地柄となってきた。近代においても、大震災や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品の問屋街として繁栄をつづけてきている。
大震災復興事業の一環として、新しい構造の橋が、昭和二年(一九二七年)に完成して、今日に至っている。
昭和五十八年三月 東京都」

<葛飾北斎錦絵>
葛飾北斎の錦絵「富嶽三十六景 御厩河岸より両国橋夕陽見」のパネルがはめ込まれています。
銅板で見にくいので国立国会図書館蔵書からの引用です。

○富士見の渡し(蔵前の渡し)
富士見の渡しは、蔵前橋の下流、蔵前工業高校と同愛記念病院あたりを結んでいました。船の上から富士山がよく見えたことから、この名がついたと言われます。蔵前側は、かつて江戸幕府の浅草御蔵があった場所で、御蔵の渡しとも称されました。
震災後、新たな蔵前橋が架けられ、渡し舟は廃止となっています。江戸時代にはなかった渡しで(と思う)、明治となり浅草御蔵が廃され、新たに浅草御蔵跡に渡し場が設けられたのではないでしょうか。
「大川富士見渡」(小林清親 明治13年 国立国会図書館蔵)
浅草御蔵跡に設けられた富士見の渡しから下流を見た光景に思えます。下流右手は鳥越川の河口部でしょうか。遠景に両国橋が見えます。

「東京名所 本所富士見の渡し」(井上探景(井上安治) 国立国会図書館蔵書)
同じ場面を弟子の井上探景(井上安治)も描いています。

「東京風景 両国代地富士見の渡し」(小国政 明治26年 国立国会図書館蔵書)
こちらも明治の富士見の渡しが描かれています。柳橋の奥に富士山が見えます。
向岸の右手に見える煙突は何でしょう?浅草火力発電所の稼働は明治28年だから違うんでしょうけど。

○御厩河岸の渡し(三途の渡し)
陸路での米の運搬には馬が必要なため、浅草御蔵の北側に厩が設置されていました。
厩橋の下流、浅草御蔵の北端に「御厩河岸の渡し」と呼ばれる渡し場がありました。渡しはいつも満員で転覆事故が多く、別名「三途の渡し」と呼ばれていました。
「江戸名所図会 御厩河岸渡」
舟の角度から、向岸は渡し場のだいぶ下流を描いていると思います。その向岸に、「椎木やしき」「駒留石」「駒留はし」とあります。
「椎木屋敷」の南隣は本庄松平伯耆守の下屋敷(現・旧安田庭園)で、この両屋敷の間の道のど真ん中に「駒留石」があります。ちなみに、本庄家初代の宗資は、桂昌院の弟です。
川柳に「伯耆先掃除の度に邪魔な石」と詠まれるほどに有名でした。駒留石は、現在は旧安田庭園内に移設されています。


「江戸切絵図」
「浅草御米蔵」の隣に、「御厩河岸之渡」の記載が見えます。
渡し先には石原町の阿部氏の屋敷が描かれています。

「絵本江戸土産 御厩河岸 駒形堂 金龍山遠望」(広重)
「御厩河岸」から隅田川上流の駒形堂、浅草寺方向が描かれています。
挿絵には、「両国橋より北の方凡そ八町の上にあり この渡し場の川中に至れば遥かに見ゆる筑波の嶺 隅田川の屈曲せる岸に真白きき駒形堂 梢を貫く五重の塔はこれ金龍山浅草寺 実に比なき光景なり」とあります。

「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)
向岸に見えるのは「石原橋」(現存せず)です。横網2丁目12番地にあった入堀に架かっていました。
船上の二人は夜鷹(私娼)で、濃い化粧で表現されています。夜鷹は、黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ吹きさらしにする姿が定形でした。
横に控える男は妓夫(ぎゅう)(客引き、用心棒)で、牛、牛夫とも書き、牛太郎とも呼ばれました。
夜鷹は石原橋奥の本所吉田町の裏長屋に住み、隅田川を越えて商売をしていました。

「絵本隅田川両岸一覧 榧寺の高燈籠 御馬屋川岸乗合」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917)年)
御厩川岸の渡しを描写しています。
嘘言皮成「志けりあふ色萌黄能榧寺に 火燭と見ゆる燈籠の影」
蜀錦園蔓人「ろ能の音に雁こきませてわ多し船 あとの可先へあかるのり合」とあります。
画面左上にはみ出した高い竹竿のてっぺんに燈籠が掲げられています。これは榧寺の盆名物の高燈籠で、仏の目印として高く掲げたほうが良いとされていました。
現在も榧寺には、高さは足りないものの、そっくりの高燈籠があります。


葛飾北斎の隅田川両岸の錦絵は全部繋がって描かれていて、首尾の松の錦絵と繋げて見ると、向岸の位置関係がよくわかります。

「富嶽三十六景 御厩河岸より両国橋夕陽見」(葛飾北斎 高見沢木版社 昭和11(1936)年)
手前の本所側から見た絵です。 両国橋が間近で、対岸に柳橋が描かれているので、御厩河岸の渡しより下流の横網の渡しでしょうか。
左に両国橋、両国橋の先の遠景に富士山、柳橋右岸左岸の料理屋から明かりが漏れいでています。右横は浅草御蔵で明かりは一切ありません。
舟上の男の風呂敷に、版元永寿堂の商標「三ツ巴紋」が入っています。北斎の浮世絵には宣伝が時折見られます。



「江戸名所道化尽 四十一 浅草御厩川岸」(歌川広景)
足場を組んで、土蔵の壁に漆喰を塗っている職人たち。上にいる職人が漆喰の盛り板を落とし下にいる職人の頭に命中し、ひっくり返って箱の中に転んでいます。タイトルが浅草御厩川岸なので、浅草御蔵の補修でもしているのでしょうか。

「足代(あししろ)の不二」(富嶽百景 北斎)
富士山を背景に、同じ場面の絵があります。ネタ本でしょう。北斎の絵は隅田川の左岸ですが、広景の絵は隅田川の右岸です。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
浅草御蔵跡 首尾の松
○浅草御蔵跡 台東区蔵前2-1
浅草御蔵は、江戸幕府が全国の直轄地(天領)から年貢米や買い上げ米などを収納・保管した米蔵です。
「浅草御蔵跡」碑が、昭和31(1956)年、浅草南部商工観光協会により建立されています。



(説明板)
「浅草御蔵跡 台東区蔵前二丁目一番
浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
元和六年(一六二○)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(一七一六~三六)頃までに浅草御蔵に吸収された。
江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和九年のことである。
碑は、昭和三十一年六月一日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。
平成十一年三月 台東区教育委員会」

「江戸切絵図 東都浅草絵図」
日光街道が鳥越川を渡る鳥越橋には「里俗天王橋ト云」とあります。浅草御蔵の八番堀の横を、鳥越川が隅田川に合流しています。四番掘と五番掘の間に、松の絵と「首尾ノ松」との記載があります。一番掘の右手に「御厩カシ渡シ場」との記載があります。

「隅田川長流絵巻」(狩野休栄書 大英博物館所蔵)
隅田川テラスに展示されている狩野休栄の「隅田川長流絵巻」です。
首尾の松もしっかり描かれています。貴重な浮世絵を大英博物館からレプリカで展示した東京都に拍手喝采します。


「浅草御蔵絵図」(東京都江戸東京博物館所蔵)
同じく、隅田川テラスに展示されている「浅草御蔵絵図」です。

「東都隅田川両岸一覧」(鶴岡蘆水/画 天明1(1781)年)
「東都隅田川両岸一覧」西巻の浅草御蔵部分の抜粋です。複数枚を合成しています。御蔵自体は霞で隠していますが、当時の状況がわかる錦絵です。掘の水門は閉まっていますが、開いている水門も見えます。

左手に、この場所が釣りの名所だったことを示す釣り船が見えます。鳥越川の河口部も見えます。

中央に、竹柵を突き破って隅田川に垂れ下がる「首尾の松」が見えます。

右手に、「御馬やがし渡舟」が見えます。

○首尾の松碑 台東区蔵前1-3-37
浅草御蔵には、米を荷揚げするために一番堀から八番堀まで櫛状の堀がありました。その堀の四番堀と五番堀の間の埠頭の先端にあった松が「首尾の松」でした。
柳橋から出た吉原通いの猪牙舟の遊客が、船上で首尾の松に今宵の首尾一貫を祈願し、帰路には首尾貫徹の御礼参りをする場として有名でした。


<首尾松碑>
明治45年に用立てされていた神田橋城壁の石材を用いたようです。
(碑正面)
「首尾松」
(碑側面)
「明治四十五年四月用・・」「神田橋城壁石材造」




(説明板)
「首尾の松 台東区蔵前一丁目三番
この碑から約百m川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
その由来については次のような諸説がある。
一、寛永年間(一六二四~四三)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
初代「首尾の松」は、安永年間(一七七二~八○)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(一八五四~五九)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建立した。現在の松は七代目といわれている。
平成十一年三月 台東区教育委員会」

「絵本江戸土産 首尾の松 大川端 椎の木屋敷」
挿絵には、「隅田川の末流 吾妻橋と両国橋の中間 西の岸にあり 一株の小松屈曲なし 枝は水面に垂れて 遠望すれば龍の蟠るにも似たり」とあります。
屋根船の上に、竹垣からはみだした首尾の松の枝が垂れ下ります。
椎の木屋敷とは、平戸新田藩松浦家の上屋敷のことで、現在の同愛記念病院の場所に当ります。鳥越の平戸藩松浦本家は、正月に松が入手できず椎の木を門松に見立てました。分家の本所松浦家もこれにあやかり椎の木を植え、首尾の松とともに隅田川の名所でした。
下流の遠景には両国橋が描かれています。

「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」(広重)
竹垣からはみ出した首尾の松の下に浮かぶ屋根舟は簾を下しています。舟先には、二足の履物が置かれています。簾には芸者らしき影がうっすらと見えます。
障子をはめ込んだ小部屋付きの屋形船は江戸初期に現れ、天和2(1682)年に幕府の大型船規制により、代わりに登場したのが2人スペースほどの屋根舟です。屋根舟には障子がなく、簾が吊ってあるだけのものです。逢引、密会などにも賑わいました。


「江戸名所百人美女 首尾の松」(豊国・国久)
こま絵に首尾の松が描かれています。
広重「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」では、舟先に二足の履物が置かれ、屋根舟は簾を下し、簾には芸者らしき影が見えます。
こちらの屋根舟は、芸者が簾をあげて釣りを楽しんでいます。左手に釣竿がもう一本垂れています。この辺りは石材を積んだ船が沈んで石材が岩礁となり魚が多く釣りの名所でした。
屋根舟は逢引、密会などに賑わいました。広重の名所江戸百景を強く意識した作品と思われます。


「絵本隅田川両岸一覧 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917)年)
首尾の松の下で釣りを楽しむ男女を葛飾北斎が描いています。御厩河岸上流の浅草川は禁漁(殺生厳禁)でしたが、御厩河岸下流の御蔵前は釣りが可能でした。御蔵前は石材を積んだ船が沈んで石材が岩礁となり魚が多く、御蔵前は釣りの名所でした。

右奥の向岸を拡大すると、椎木屋敷の椎木と、右手に道の真ん中に駒留石が描かれています。
浅草御蔵は、江戸幕府が全国の直轄地(天領)から年貢米や買い上げ米などを収納・保管した米蔵です。
「浅草御蔵跡」碑が、昭和31(1956)年、浅草南部商工観光協会により建立されています。



(説明板)
「浅草御蔵跡 台東区蔵前二丁目一番
浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
元和六年(一六二○)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(一七一六~三六)頃までに浅草御蔵に吸収された。
江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和九年のことである。
碑は、昭和三十一年六月一日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。
平成十一年三月 台東区教育委員会」

「江戸切絵図 東都浅草絵図」
日光街道が鳥越川を渡る鳥越橋には「里俗天王橋ト云」とあります。浅草御蔵の八番堀の横を、鳥越川が隅田川に合流しています。四番掘と五番掘の間に、松の絵と「首尾ノ松」との記載があります。一番掘の右手に「御厩カシ渡シ場」との記載があります。

「隅田川長流絵巻」(狩野休栄書 大英博物館所蔵)
隅田川テラスに展示されている狩野休栄の「隅田川長流絵巻」です。
首尾の松もしっかり描かれています。貴重な浮世絵を大英博物館からレプリカで展示した東京都に拍手喝采します。


「浅草御蔵絵図」(東京都江戸東京博物館所蔵)
同じく、隅田川テラスに展示されている「浅草御蔵絵図」です。

「東都隅田川両岸一覧」(鶴岡蘆水/画 天明1(1781)年)
「東都隅田川両岸一覧」西巻の浅草御蔵部分の抜粋です。複数枚を合成しています。御蔵自体は霞で隠していますが、当時の状況がわかる錦絵です。掘の水門は閉まっていますが、開いている水門も見えます。

左手に、この場所が釣りの名所だったことを示す釣り船が見えます。鳥越川の河口部も見えます。

中央に、竹柵を突き破って隅田川に垂れ下がる「首尾の松」が見えます。

右手に、「御馬やがし渡舟」が見えます。

○首尾の松碑 台東区蔵前1-3-37
浅草御蔵には、米を荷揚げするために一番堀から八番堀まで櫛状の堀がありました。その堀の四番堀と五番堀の間の埠頭の先端にあった松が「首尾の松」でした。
柳橋から出た吉原通いの猪牙舟の遊客が、船上で首尾の松に今宵の首尾一貫を祈願し、帰路には首尾貫徹の御礼参りをする場として有名でした。


<首尾松碑>
明治45年に用立てされていた神田橋城壁の石材を用いたようです。
(碑正面)
「首尾松」
(碑側面)
「明治四十五年四月用・・」「神田橋城壁石材造」




(説明板)
「首尾の松 台東区蔵前一丁目三番
この碑から約百m川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
その由来については次のような諸説がある。
一、寛永年間(一六二四~四三)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
初代「首尾の松」は、安永年間(一七七二~八○)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(一八五四~五九)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建立した。現在の松は七代目といわれている。
平成十一年三月 台東区教育委員会」

「絵本江戸土産 首尾の松 大川端 椎の木屋敷」
挿絵には、「隅田川の末流 吾妻橋と両国橋の中間 西の岸にあり 一株の小松屈曲なし 枝は水面に垂れて 遠望すれば龍の蟠るにも似たり」とあります。
屋根船の上に、竹垣からはみだした首尾の松の枝が垂れ下ります。
椎の木屋敷とは、平戸新田藩松浦家の上屋敷のことで、現在の同愛記念病院の場所に当ります。鳥越の平戸藩松浦本家は、正月に松が入手できず椎の木を門松に見立てました。分家の本所松浦家もこれにあやかり椎の木を植え、首尾の松とともに隅田川の名所でした。
下流の遠景には両国橋が描かれています。

「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」(広重)
竹垣からはみ出した首尾の松の下に浮かぶ屋根舟は簾を下しています。舟先には、二足の履物が置かれています。簾には芸者らしき影がうっすらと見えます。
障子をはめ込んだ小部屋付きの屋形船は江戸初期に現れ、天和2(1682)年に幕府の大型船規制により、代わりに登場したのが2人スペースほどの屋根舟です。屋根舟には障子がなく、簾が吊ってあるだけのものです。逢引、密会などにも賑わいました。


「江戸名所百人美女 首尾の松」(豊国・国久)
こま絵に首尾の松が描かれています。
広重「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」では、舟先に二足の履物が置かれ、屋根舟は簾を下し、簾には芸者らしき影が見えます。
こちらの屋根舟は、芸者が簾をあげて釣りを楽しんでいます。左手に釣竿がもう一本垂れています。この辺りは石材を積んだ船が沈んで石材が岩礁となり魚が多く釣りの名所でした。
屋根舟は逢引、密会などに賑わいました。広重の名所江戸百景を強く意識した作品と思われます。


「絵本隅田川両岸一覧 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917)年)
首尾の松の下で釣りを楽しむ男女を葛飾北斎が描いています。御厩河岸上流の浅草川は禁漁(殺生厳禁)でしたが、御厩河岸下流の御蔵前は釣りが可能でした。御蔵前は石材を積んだ船が沈んで石材が岩礁となり魚が多く、御蔵前は釣りの名所でした。

右奥の向岸を拡大すると、椎木屋敷の椎木と、右手に道の真ん中に駒留石が描かれています。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
蔵前神社
○蔵前神社 台東区蔵前3-14-11 HP
徳川第5代将軍綱吉が元禄6(1693)年8月に石清水八幡宮を勧請して石清水八幡宮が創建されました。蔵前八幡とも呼ばれました。
神仏分離で別当大護院が廃され、明治11(1878)年に石清水神社に、明治19(1886)年に再び石清水八幡宮に改称。昭和26(1951)年3月に現在の「藏前神社」に改称されています。
「江戸名所図会 正覚寺 一に榧寺ともいえり 八幡宮」
挿絵の右に「正覚寺」、左に「八幡宮」が描かれています。
両寺社とも日光街道(現在の江戸通り)に面していますが、現在は日光街道とは接していません。
手前右の隅田川に「御馬や渡し」とあります。浅草御蔵は雲に隠れ、説明だけ記載されています。


「江戸切絵図」
「八幡宮」、「大護院」(別当)、「成田不動」と見えます。「成田不動」とは、成田山新勝寺の配札所「成田山旅宿」が「八幡宮」の境内にありました。
隅田川には浅草御蔵の一番堀から順番に堀が続いています。浅草御蔵「御厩カシ渡シ場」の記載があります。

「江戸名所百人美女 成田山旅宿」(豊国・国久)
八幡宮の境内にあった「成田山旅宿」が描かれています。蔵前神社の由緒書によると「天保十二年(1841)十二月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。」とあります。
成田不動は、明治11年(1878)に江東区富岡に遷座し、同14(1881)年堂宇が建立されました。これが現在の深川不動堂です。


○現在の蔵前神社


<社号標>
社号標は日本相撲協会による奉納です。

<相撲協会などの石玉垣>
往時の境内は広大で、勧進大相撲の開催で賑わいました。天保4(1833)年に、回向院が定場所となるまで、勧進大相撲三大拠点(回向院・深川八幡宮)の一つでした。「日本相撲協会」や横綱奉納の玉垣があります。


<元犬の像>
石清水八幡宮は、古典落語「元犬」や「阿武松」の舞台となっており、「元犬」像が落語愛好家によって奉納建立されています。
(木製説明板)
「古典落語 ゆかりの神社
元犬
蔵前の八幡さまの境内で満願叶って人間になった真白い犬が奉公先で巻き起こす珍騒動は・・・
阿武松
江戸時代勧進大相撲発祥の地
蔵前の八幡さまで名横綱に出世した相撲取りの人情噺」





<力持碑>
石清水八幡宮は、力持の技芸を披露する神事が奉納されました。錦絵にも描かれ、奉納力持碑が建立されています。隅田川テラスにも同じ錦絵が展示されています。




(説明板)
「浮世絵師 歌川國安錦絵
文政七年之春
御藏前八幡宮二於而 奉納力持
この錦絵は、文政七年(一八二四)の春に、御蔵前八幡宮(現・蔵前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(一七九四年~一八三年)です。
素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃には絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。上の絵の「大関金蔵」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金蔵と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら三枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも言われています。
また、この奉納力持が開催された御蔵前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保四年(一八三三年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた三大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明二年二月場所では六十三連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れて江戸中が大騒ぎとなりました。
この錦絵は隅田川遊歩道・テラス(厩橋~蔵前橋の間)にも掲示されています。」

<酒樽>
酒樽をひっくり返して拡大。
「男山」「剣菱ロゴ」「瀧水」と酒樽が並んでいます。男山と剣菱は伊丹酒で、瀧水(日本橋新和泉町四方酒店)は江戸の酒です。
剣菱のロゴは、江戸名所図会の挿絵や、錦絵に頻繁に登場しています。



<手水舎/拝殿>
明治維新時の上地により、寺域は狭まり、参道左すぐに手水舎、拝殿。




<狛犬台座>
狛犬台座に、國見順生氏の歌が刻まれています。
左狛犬「美しき世界のごとし幼児がちいさき手をば水にあらへる」
右狛犬「春の香をたもてる空気流れつつ小暗き芝のうへにあまねし」


<福徳稲荷神社>
西鳥居の奥に「福徳稲荷神社」が鎮座しています。

徳川第5代将軍綱吉が元禄6(1693)年8月に石清水八幡宮を勧請して石清水八幡宮が創建されました。蔵前八幡とも呼ばれました。
神仏分離で別当大護院が廃され、明治11(1878)年に石清水神社に、明治19(1886)年に再び石清水八幡宮に改称。昭和26(1951)年3月に現在の「藏前神社」に改称されています。
「江戸名所図会 正覚寺 一に榧寺ともいえり 八幡宮」
挿絵の右に「正覚寺」、左に「八幡宮」が描かれています。
両寺社とも日光街道(現在の江戸通り)に面していますが、現在は日光街道とは接していません。
手前右の隅田川に「御馬や渡し」とあります。浅草御蔵は雲に隠れ、説明だけ記載されています。


「江戸切絵図」
「八幡宮」、「大護院」(別当)、「成田不動」と見えます。「成田不動」とは、成田山新勝寺の配札所「成田山旅宿」が「八幡宮」の境内にありました。
隅田川には浅草御蔵の一番堀から順番に堀が続いています。浅草御蔵「御厩カシ渡シ場」の記載があります。

「江戸名所百人美女 成田山旅宿」(豊国・国久)
八幡宮の境内にあった「成田山旅宿」が描かれています。蔵前神社の由緒書によると「天保十二年(1841)十二月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。」とあります。
成田不動は、明治11年(1878)に江東区富岡に遷座し、同14(1881)年堂宇が建立されました。これが現在の深川不動堂です。


○現在の蔵前神社


<社号標>
社号標は日本相撲協会による奉納です。

<相撲協会などの石玉垣>
往時の境内は広大で、勧進大相撲の開催で賑わいました。天保4(1833)年に、回向院が定場所となるまで、勧進大相撲三大拠点(回向院・深川八幡宮)の一つでした。「日本相撲協会」や横綱奉納の玉垣があります。


<元犬の像>
石清水八幡宮は、古典落語「元犬」や「阿武松」の舞台となっており、「元犬」像が落語愛好家によって奉納建立されています。
(木製説明板)
「古典落語 ゆかりの神社
元犬
蔵前の八幡さまの境内で満願叶って人間になった真白い犬が奉公先で巻き起こす珍騒動は・・・
阿武松
江戸時代勧進大相撲発祥の地
蔵前の八幡さまで名横綱に出世した相撲取りの人情噺」





<力持碑>
石清水八幡宮は、力持の技芸を披露する神事が奉納されました。錦絵にも描かれ、奉納力持碑が建立されています。隅田川テラスにも同じ錦絵が展示されています。




(説明板)
「浮世絵師 歌川國安錦絵
文政七年之春
御藏前八幡宮二於而 奉納力持
この錦絵は、文政七年(一八二四)の春に、御蔵前八幡宮(現・蔵前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(一七九四年~一八三年)です。
素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃には絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。上の絵の「大関金蔵」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金蔵と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら三枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも言われています。
また、この奉納力持が開催された御蔵前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保四年(一八三三年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた三大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明二年二月場所では六十三連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れて江戸中が大騒ぎとなりました。
この錦絵は隅田川遊歩道・テラス(厩橋~蔵前橋の間)にも掲示されています。」

<酒樽>
酒樽をひっくり返して拡大。
「男山」「剣菱ロゴ」「瀧水」と酒樽が並んでいます。男山と剣菱は伊丹酒で、瀧水(日本橋新和泉町四方酒店)は江戸の酒です。
剣菱のロゴは、江戸名所図会の挿絵や、錦絵に頻繁に登場しています。



<手水舎/拝殿>
明治維新時の上地により、寺域は狭まり、参道左すぐに手水舎、拝殿。




<狛犬台座>
狛犬台座に、國見順生氏の歌が刻まれています。
左狛犬「美しき世界のごとし幼児がちいさき手をば水にあらへる」
右狛犬「春の香をたもてる空気流れつつ小暗き芝のうへにあまねし」


<福徳稲荷神社>
西鳥居の奥に「福徳稲荷神社」が鎮座しています。


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