今川橋跡~龍閑川 白銀通り

○今川橋跡 千代田区鍛冶町1-5-7・鍛冶町1-10-1〜中央区日本橋室町4-2-9・日本橋本町4-4-2

 千代田区と中央区の境となっている細い道路は、昭和25(1950)年に埋め立てられるまで、龍閑川が流れ、中山道には今川橋が架かっていました。今川橋の付近で売られていたのが「今川焼」です。

 今川橋跡から東方向
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 今川橋跡から西方向
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「江戸名所図会 今川橋」
 
 江戸名所図会に「今川橋」が記載されています。「此辺瀬戸物屋多し」とあります。

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 瀬戸物屋を拡大しています。

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「江戸切絵図」

 今川橋と地蔵橋の記載があります。

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「熈代勝覧絵巻」

 今川橋部分の抜粋です。

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「江戸名所百人美女 今川はし」(三代歌川豊国・二代歌川国久 安政5年)

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 コマ絵に「今川橋」が描かれています。

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<今川橋由来碑> 千代田区鍛冶町1-5-7 江原ビルディング前歩道

(説明板)
「今川橋由来碑」
 今川橋が神田堀(別名神田八丁堀、龍閑川)に架設されたのは天和年間(一六八一〜八三)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架設されたのでその名が残りました。この橋は、日本橋から中山道に通じる重要な橋でもありました。
 神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
 昭和二十五年(一九五○)龍閑川は埋め立てられ、三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
 左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。」
  平成四年四月吉日
 (「江戸名所図会」今川橋掲示)

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<今川橋跡碑> 千代田区鍛冶町1-5-7 江原ビルディング脇

表面 「今川橋跡
    1976・3 千代田区鍛冶町一丁目町会」
側面 「建設者
    江原商事株式会社」」

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「今川橋の由来」

(説明板)
 元禄四年(一六九一年)この地、東西に堀割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀堀(しろかねぼり)、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と堀割の接点に住んでいたので竜閑川とよばれるようになった。
 この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この堀割は、神田と日本橋の境界として十一の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。
 昭和二十五年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、三百六十年の歴史を閉じた。
  平成元年一月吉日 鍛冶町一丁目町会
  場所提供者 江原富夫氏」

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<今川橋のあとどころ> 中央区日本橋本町4-4-2

 東山ビルの一角に、石碑「今川橋のあとどころ」があります。

 「今川橋のあとどころ
  昭和五十一年五月 東山興業株式会社」

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○竜閑川埋立記念 中央区日本橋本町4-5-11 地蔵橋公園

 昭和通りに面した中央区立地蔵橋公園に「竜閑川埋立記念」碑があります。

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 「千代田区神田
  竜閑川埋立記念
  中央区日本橋」

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(説明プレート)
「龍閑川の由来と埋立
 江戸砂子や新編江戸志には約二百七十余年前の天和年間に防火のために掘ったもので神田橋と常盤橋の間から外濠の水を東方にあった浜町川に注ぐその両岸は石垣でたたみ川巾六間神田堀と呼んだ、元禄四年にも掘った 安政四年四月土手を崩して堀を入口の竜閑橋だけを残して埋めたが明治十六年再び掘って防火用雨水用として川名を竜閑川と名づけた、昔時この川の西端に住んで居た井上竜閑は江戸城つとめの殿中接待役「お城坊主」として有名であった、後その所を竜閑町といった、当時神田堀の別名に八丁堀火除堀、銀堀等といわれ堀の堤を八丁堤といって松を並木に植えた時代もあった 川には舟の往来もあったが近頃下水より汚水流れ込み悪臭を発散しごみを捨てるため蚊蠅等わき衛生上宜しくなく川は全く無用のものとなった、東京都は第二次世界大戦直後川底に大下水管を埋設して戦災燒残土を以て埋立て宅地をつくり復興を促進する計画をした 神田及日本橋より選ばれたる連合委員会は賛意を表し将来を推察して新埋立地を土地現住の人々に払下げられたき件を申請し中間に立ちて其労をとる事を願出た昭和二十五年三月埋立工事竣工しこの大事業も滞なく完成した 
今回もと竜閑川のあつた中央地点地蔵橋際兒童遊園の東北隅を選び東京都の御承認を得て竜閑川埋立記念碑を建立したのであります
この埋立は実に千代田、中央両区の握手であって神田、日本橋区民の親和を増進するもの昔は川今は竜閑新道を中心に精励努力以て土地の発展に尽くされん事を」

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○龍閑橋の親柱と桁 千代田区内神田3-1-2 鎌倉児童遊園

 龍閑橋は、大正15(1926)年に造られた日本で最初の鉄筋コンクリート製のトラス橋で、龍閑川に架けられていました。千代田区と中央区にまたがっている鎌倉児童遊園に、親柱と桁が保存されています。

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<龍閑橋の歴史と由来>

(説明板)
「龍閑橋の歴史と由来
 もともと、神田の堀に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで「龍閑川」と名付けられました。今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」と言う人の家があったことに由来します。(「●明治時代の龍閑橋」「龍閑橋の位地図」を掲載)「明治東京名所図会」より」

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<龍閑橋について碑>

(碑文)
「龍閑橋について
 この橋は 大正15年(1926年)に造られた日本最初の鉄筋コンクリートトラスの大変めずらしい橋です。
 これを記念するため その一部をここに保存します。
  橋  長 10.5
  幅  員 27.0
  構造型式 鉄筋コンクリートトラス桁」

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○本銀通り 中央区日本橋本石町4-2・3〜日本橋本町四丁目5・6

 日本橋通りを東西に、旧龍閑川に並行して、「本銀(ほんしろがね)通り」があります。

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<本銀通り案内板> 中央区日本橋室町四丁目3番

(案内板)

「本銀通り
  起点 日本橋本石町四丁目2・3番先
  終点 日本橋本町四丁目5・6番先
 日本橋本石町・日本橋室町・日本橋本町の各四丁目北半分に当たる場所は、江戸時代初期から昭和7年(1932)まで「本銀町(ほんしろがねちょう)」と称する町でした。町の北は竜閑川(神田堀・神田八丁堀・銀堀とも称された神田との境をなした堀割)に、西は江戸城の外堀に面する当町は、江戸時代を通して商業の中心地となっていました。
 東西に広がる町屋であった本銀町(一丁目~四丁目)は、町名の由来となった「銀細工職人」が集住するとともに、数多くの商家が立ち並んでいました。なお、本銀町の名は、神田に起立した「新銀町」と区別するために「本」の字を冠したといわれています。
 当町在住の商人や諸職名匠には、刀脇差細工・縫箔屋・指物屋・塗師・蒔絵師・彫物師・小細工印判師・鍔師・象嵌師・塗鞘師・目貫師・柄巻師・御楽器道具師・御仏師などがおり、武家の消費需要を賄う町人地として大いに発展しました。
 また、『江戸名所図会』には、明暦3年(1657)の大火後に町の北側(電閑川沿い)に築かれた防火用の「本銀町封て」(高さ2丈4尺<約7.27メートル〉・長さ8丁<約872メートル>の石垣土手)と松並木の痕跡を紹介している他に、本銀町・本石町の各一・二丁目辺りが「福田村旧跡」(大久保主水<藤五郎>の屋敷があった旧福田村)であることを記しています。
 関東大震災発生(大正12年)後の復興事業によって、歴史ある「本銀」の町名は姿を消しましたが、幸いにも旧町を東西に貫く通りは今日まで残されました。江戸時代以来、人びとの往来に利用
されてきたこの通りは、平成27年に名付けられた「本銀通り」(幅員11m・延長520m)の道路愛称ともに往時の歴史をしのばせています。
 平成28年4月  中央区環境土木部」

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福徳神社(芽吹稲荷)

○福徳神社(芽吹稲荷) 中央区日本橋室町2-4-14 HP

 太田道灌との縁が深く、道灌の神霊が合祀されています。 二代将軍秀忠が参詣し、椚(くぬぎ)の鳥居が芽吹いたことから、福徳稲荷の別名を「芽吹稲荷」と名付けています。 江戸時代、富くじ興行を許された寺社の一つです。
 三井不動産の再開発により、かつてのビル屋上から平地に遷座、2014年10月竣工。設計・施行は寺社建築に定評のある清水建設株式会社です。

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 「宮戸川の辺り宇賀の池上に立る一里塚より
  此福徳村稲成森塚迄一里」

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<福徳神社由緒>

(石碑文)
「福徳神社由緒
 当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、九世紀後半、この地は福徳村と呼ばれ、穀物・食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家、太田道灌ら、武将の崇敬を受け、ことに最初の江戸城を築いた道灌との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康は天正十八年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長十九年に参拝し「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を三百三十坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事績が伝わっている。
その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成二十六年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往事の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再興されるに至った。」

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<加須市奉献の算額>

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<福徳の森>

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○薬師神社 中央区日本橋室町2-5-8

 こちらもビル屋上からの遷座です。由緒に記載の五條天神社については、こちらで記載

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<藥祖神社(ご由緒)>

(説明板)
「藥祖神社(ご由緒)
 御祭神
 大己貴命(おおむなじのみこと)
 少名彦命(すくなひこのみこと)
 御利益
 無病健康・病気平癒
 わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命と少彦名命の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」「日本書紀」「風土記」等に述べられています。
 大己貴命は須佐之男神の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)
 少彦名命は神産巣日神(かんむすびのかみ)の御子で、蛾の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。
 日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表してきました。明治四十一年(1908年)からは、東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人東京薬事協会)が東京上野の五條天神社から薬祖神の御霊を迎え大祭を執行し、昭和四年には事務所建物の屋上に薬祖神社〈初代社殿)が造営され、昭和五十八年には昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿が造営されました。
 さらに平成二十八年(2016年)九月に現在地に第三代目の薬祖神社が遷座し今日に至っています。」

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○江戸町年寄喜多村彦右衛門屋敷跡 中央区日本橋室町2-4-1 浮世小路千疋屋ビル

 浮世小路千疋屋ビル裏手に、説明板「江戸町年寄喜多村彦右衛門屋敷跡」「浮世小路と料亭百川」があります。

(説明板)
「本町通りと町年寄喜多村家
 本町通りは、徳川家康 が江戸の町造りに着手した時から江戸の中心となっていました。天正18年(1590年)関東に転封となった家康は、浅草に抜ける本町通り沿いに金座や町年寄の屋敷地を下賜しました。現在の大伝馬本町通り(当敷地北側の通り)です。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)更に「天下普請」を開始し、新橋から神田まで南北に貫く目抜き通りを造りました。これが現在の中央通りで、このとき日本橋が架けられました。翌慶長9年(1604年)日本橋に五街道 の起点が設定され、北に向かう中山道と日光街道はこの交差点で分岐し、日光街道は本町通りをとって東に向かいました。天正から慶長の城下建設で、奉行衆の下で市街地造成と町割りなどに携わった樽屋・奈良屋・喜多村の三年寄が江戸の町政を担うようになりました。喜多村家の役宅は当ビルの敷地にあり、初代彦右衛門の出身は加賀(金沢)だと伝えられています。

浮世小路と料亭百川(ももかわ)
福徳神社南側の通りは、江戸時代「浮世小路」と呼ばれていました。延宝期(1673〜81年)の『江戸方角安見図』には「うきよしやうじ」と記載されています。 小路と呼ぶのは、この地に屋敷があった町年寄喜多村家の出身地、加賀の方言によって発音されていたことを示しています。浮世小路の東端北側には、落語噺の舞台としても知られる料亭百川があったとされています。百川は江戸屈指の料理茶屋として繁盛し、幕末にペリー 艦隊が来航した時には、乗組員全員にすべて自前で本膳を提供したほどの力がある料亭でした。小路にあった福徳神社は小さいながら、遠い平安時代前期からこの地に鎮座していたといわれる由緒ある神社です。徳川家康をはじめ歴代将軍から厚く崇敬されましたが遷座や敷地の縮小を繰り返して、今日にいたりました。縁起の良い名前もあって、江戸時代には氏子である瀬戸物町や伊勢町等の商人達から多くの信仰を集め、富くじ興行でも大いに賑わいました。ここ室町をはじめ日本橋地区で働く人々や、この地を訪れる人々が、福徳神社を中心に集い交わる場となることを願い、新たに広場と中央通りからの通路を設けそれぞれ「福徳神社広場」、「新浮世小路」と名付けました。」

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<小祠>

 説明板の横に、小祠があります。

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熈代勝覧絵巻(三越駅コンコース)

○熈代勝覧絵巻 中央区日本橋室町1-4 三越駅コンコース

 熈代勝覧絵巻が三越駅コンコースに平成21(2009)年11月30日に設置されています。江戸時代の町人文化に関する解説を記載したパネルも併せてあります。88軒の問屋街と行き交う1,671名が描かれています(三井広報委員会の情報)。

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<江戸切絵図>

 熈代勝覧絵巻は、日本橋から今川橋までの日本橋通りの西側が描かれています。

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<「熈代勝覧」絵巻の設置について>

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<部分抜粋>

「高札場と日本橋」

 高札場と日本橋部分です。遠景に富士山が見えます。
 日本橋川には、「押送り船」(六挺櫓の高速艇)が見えます。

 高札場の説明
 「高札場 日本橋南詰の西側にある高札場。天下の定めを高札で触れる。
  親子兄弟夫婦仲良くすべしなどの基本法令のうち三つが、この絵に描かれているが、読めるでしょうか。
  天眼鏡で見なければわからない、微細の技、江戸の遊び心です。」

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「日本橋先〜駿河町」

 駿河町の三越まで。三越の手前に書物問屋「須原屋市兵衛」が見えます。解体新書(前野良沢・杉田玄白・中川淳庵)を版行した書物屋です。

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「十軒店」

 雛人形売りの路頭の茅掛け小屋の始端にお茶漬け屋の「あさひ(朝日)。続いて薬種問屋(藤木)、帳面問屋(槌屋)、二八蕎麦饂飩屋(三河屋)。そして雛人形問屋(万屋)、雛人形問屋(藤屋)と続きます。台車の男が見えます。

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「今川橋まで」

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日本橋で開いていた世界の窓〜江戸の出島

○長崎屋跡 日本橋室町4-4-10

 平賀源内や杉田玄白も通った、日本橋で開いていた世界の窓「江戸の出島」と言われた、長崎屋跡です。
 JR新日本橋4番出口に長崎屋跡説明板があります。
 オランダ商館長と随員一行は、江戸参府を行い、5都市6軒の阿蘭陀宿(江戸長崎屋・京海老屋・大坂長崎屋・下関伊藤家または佐甲家・小倉大坂屋)に止宿しました。
 江戸では本石町の薬種屋・長崎屋源右衛門方が定宿となり、物見高い江戸市民はこぞって見学に訪れました。蘭学者・医師などは交流を求めて数多く訪問したといわれており、青木昆陽・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周・平賀源内などが訪れ、江戸の出島と言われました。
 長崎屋宿所の正門は宿所の南にあり、裏の北側には石町の時の鐘があったことから、「石町の鐘は紅毛(オランダ)まで聞こえ」と川柳に詠まれました。
 江戸っ子の見学の様子は、葛飾北斎『画本東都遊』の中で描かれています。 「長崎屋自分のうちへ分けて入り」と川柳に詠まれた混雑振りです。

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(説明板)
「中央区民文化財 長崎屋跡
  所在地 中央区日本橋室町四丁目二番地付近
 江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸参府時における定宿でした。諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダは、幕府に謝意を表するために江戸へ参府し、将軍に謁見して献上品を贈りました。
 江戸参府は江戸前期から毎年行われており、商館長の他、通訳、医師などが長崎からにぎやかに行列して江戸に来ました。しかし、経費の問題もあり、江戸中期からは四年に一回となっています。
 随行したオランダ人の中には、ケンベルやツンベルク、シーボルトなどの医師がいたため、蘭学に興味を持つ青木昆陽・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周・平賀源内をはじめとした日本人の蘭学者、医師などが訪問し、江戸における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収する場として有名になりました。
 この地は、鎖国下の日本における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。
(長崎屋「画本東都遊」葛飾北斎画を掲示)
  平成二十一年五月  中央区教育委員会」

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「画本東都遊 日本橋長崎屋阿蘭陀人図」(葛飾北斎)

 中央区の説明板に掲載されている錦絵(国立国会図書館蔵)です。子どもは肩車をしてもらって見学です。

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「狂歌江都名所図会 十軒店」(初代・二代広重)

 二代広重が幕末の頃の「長崎や紅毛人旅宿」を描いています。二階建てだったことがわかります。画中の狂歌もカピタン(英語だとキャプテン)や紅毛人を詠みこんでいます。旅宿の門は、十軒店から小路に入ってすぐで、現在説明板が建っている場所ですね。長崎屋の薬種屋は現在の日本橋室町4丁目2番地ということでしょうかね。

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<江戸切絵図>

 江戸切絵図に「時ノ鐘」の記載があります。時の鐘の南側に長崎屋があったこととなります。

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○石町時の鐘 鐘撞堂跡 中央区日本橋室町4-5-1

<時の鐘通り>

 中央通りから東へ「時の鐘通り」が続いています。左手に時の鐘、右手に長崎屋がありました。

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<石町時の鐘 鐘撞堂跡>
 
 「時の鐘通り」に入ってすぐ左に、説明板「石町時の鐘 鐘撞堂跡」があります。

(説明板)
「石町時の鐘 鐘撞堂跡
   所在地 日本橋室町四丁目五番
          本町四丁目二番 地域
 時の鐘は、江戸時代に本石町三丁目へ設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康 とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永八年(一七一一)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町五?二)に移されて残っています。
 鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町三丁目(現日本橋室町四丁目・日本橋本町四丁目)辺りにあり、本通りから本石町三丁目をはいって鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が、平成十四年三月に「時の鐘通り」と命名されました。
 近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。
(現在の時の鐘(十思公園内)と改訂江戸之下町復元図を掲示)
  平成十五年三月  中央区教育委員会」

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○夜半亭(与謝蕪村居住地跡) 中央区日本橋室町4-5-1

 時の鐘の説明板に続いて、説明板「夜半亭‐与謝蕪村居住地跡‐」があります。

(説明板)
「夜半亭‐与謝蕪村居住地跡‐
  所在地 中央区日本橋室町四丁目五番
         日本橋本町四丁目二番付近
 夜半亭は、元文二年(一七三七)に俳諧師早野巴人(一六七六〜一七四二)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵である。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。
 この夜半亭には、多くの門弟が出入りしていましたが、なかでも「宰町」と号していた若き与謝蕪村(一七一六〜一七八三)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。
 蕪村は、安永三年(一七七四)巴人三十三回忌追善集「むかしを今」の序文で、「師やむかし、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老の寝ざめのうき中にも、予とともにはいかいをかたりて」と夜半亭での巴人との様子を記しています。
 寛保二年(一七四二)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めます。
 やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和七年(一七七○)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承しました。
 鎌倉誂物 宰町自画
  尼寺や 十夜に
  届く 鬢葛
 (「卯月庭訓」夜半亭時代の蕪村自画賛を掲示)
  平成十九年十月   中央区教育委員会」

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須原屋茂兵衛(日本橋)

○須原屋茂兵衛(すはらやもへい)

 江戸最大の本屋が「須原屋茂兵衛(すはらやもへい)」で、通一丁目の西側に店がありました。『武鑑』『江戸切絵図』『江戸名所図会』『東都歳事記』等を出版しました。 暖簾分け店も多く合梓での展開もありました。暖簾分け店の一つである須原屋市兵衛は解体新書(前野良沢・杉田玄白・中川淳庵)を版行しています。
 須原屋茂兵衛は、明治37(1904)年に廃業し200年以上の歴史に幕を閉じました。


「通一丁目西側」(狂歌東都花日千両 広重 嘉永6(1853)年)

 左手の店が須原屋茂兵衛で、「須原屋」(文字は左半分欠けています)、「薬種」「本屋」の看板が見えます。須原屋は、薬種商にも手を広げていました。左が薬種屋で右は本屋です。

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「江戸買物独案内」(文政7(1824)年)

 江戸のガイドブックの本の項目のトップに「須原屋茂兵衛」は掲載されています。

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「東都歳事記」

 天保9(1838)年の須原屋茂兵衛と浅草茅町の須原屋伊八との合梓です。編・齋藤月岑、画・長谷川雪旦です。

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 巻末に「江戸名所圖會」等の広告があります。

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「歳暮交加図」(東都歳事記)

 店の左手に「書肆」と書かれた箱看板が見えます。また店の右脇に「江戸名所圖會 二十冊出来」の看板が見えます。
 「東都歳事記」は、須原屋茂兵衛(通一丁目)と須原屋伊八(浅草茅町)の合梓ですが、描かれている店は、賑わいのある広い通りに面しているので、須原屋茂兵衛を描いているのでしょう。

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○田山花袋と日本橋

 田山花袋は、明治32(1899)年から、明治を代表する出版社となった博文館に勤めていました。明治14(1881)年に9歳で南伝馬町にあった本屋の有隣堂で春から秋にかけて丁稚奉公をしており、その頃を回想して「日本橋附近」(大東京繁昌記に収録)と「東京の三十年」(博文館)で、須原屋と山城屋に言及しています。その頃はすでに衰退していた様子がうかがえます。

「日本橋附近」(青空文庫より一部抜粋)
「日本橋から少しこっちに来た右側に――今の黒江屋か塩瀬あたりのところに、須原屋と山城屋との二軒の大きな本屋が二、三軒間を置いて並んでいて、例の江戸時代の本の絵に出ているあの大きな四角な招牌がいかにも権威ある老舗らしくそこに出されてあったものだった。それにしても何という淋しい陰気な本屋だったろう。ただ角帯をしめた番頭が二、三人そこここに、退屈そうに座っているだけで、ついぞ客など入って本を買っているのを見たことはなかった。それから比べると、あの三越の前身の越後屋の角店は大したものだった。」

「東京の三十年」(博文館 大正6年 国立国会図書館蔵)
「私の奉公したのは、今も京橋の大通にあるIという本屋であった。其頃はまだ須原屋茂兵衛、山城屋佐兵衛などという古い大きな本屋があって、四角な行燈のやうな招牌が出ていたり、書目を書いた厚い板が並んでかけられてあったりした。私が主人から命ぜられた書附乃至紙面を一々見せてきいて歩いた本屋で、今日猶残っているのは――昔に比べて更に繁栄の趣を呈してゐるのは、丸善一軒ばかりである。」


(参考)
 公的出版物を多く手がけた須原屋茂兵衛に対し、蔦屋重三郎は郭物を多く手がけた対比で「吉原は重三 茂兵衛は丸の内」と川柳に詠まれました。
 蔦屋重三郎「耕書堂」について、こちらで記載

(参考)
 現在の「須原屋」は、須原屋茂兵衛の直接の系譜ではありませんが、明治9(1876)年に須原屋伊八(浅草茅町)の貸店舗として浦和宿にて創業しています。

(参考)
 「江戸名所図会」の作者については、こちらで記載

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