築地川東支川 采女橋~訓盲院跡~海幸橋~
○采女橋 中央区銀座5・6丁目〜中央区築地5丁目
采女(うねめ)橋は、江戸時代に松平采女正の屋敷があったことから名付けられようです。現在は、首都高の上を横切るみゆき通りの上に架かる橋です。かつては築地川が流れていました。
<二連アーチ橋>





<親柱と橋銘板>




<高欄「築地ホテル館」と「銀座の柳」>
采女橋の高欄は「築地ホテル館」と「銀座の柳」をモチーフとしています。




<街灯>



<采女橋交差点/采女橋公園前交差点/バス停采女橋>



<采女橋碑>
(プレート文)
「采女橋
このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。
采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。
震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。
区では平成2年度に、幻のホテル“築地ホテル館”(明治元年、近代的な様式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と“銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。
橋梁の諸元
形式 2径間鉄筋コンクリートアーチ橋
橋長 42.0m
有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0m×2)
着工 昭和4年9月
竣工 昭和5年10月
施工者 東京市
平成3年3月 東京都中央区」


<築地川采女橋公園> 中央区銀座6-18-1
采女橋の銀座側に「築地川采女橋公園」があります。


<地図>

<みゆき通り>
みゆき通りとは、明治天皇が海軍兵学校、海軍大学校等々への行幸の際、また浜離宮へのお成りの時、この通りを行幸路とされたため、「みゆき(御幸)通り」と呼称されるようになりました。

「江戸名所図会 采女が原」
采女橋碑に言及されている采女が原です。中央に馬場、右上に「萬年橋」、その先に「西本願寺」があります。

<現在の万年橋>
采女橋のすぐ北に万年橋があり、首都高の上を晴海通りが渡ります。

「江戸切絵図」
築地川と築地川東支川部分の抜粋です。築地川にかかる万年橋の袂に「采女ケ原」とあります。万年橋下流の采女橋の先で、築地川から築地川東支川が分かれ、隅田川にそそいでいます。

○東京盲唖学校発祥の地、日本点字制定の地 中央区築地4-15-2 市場橋公園
築地川東支川が埋め立てられ設けられた中央区立「市場橋公園」の一角に、「東京盲唖学校発祥の地・日本点字制定の地」の記念碑が建っています。公園入口には案内看板があります。



(碑文)
「東京盲唖学校発祥の地
日本点字制定の地
1879(明治12)年 ジョサイア・コンドル設計による校舎完成
1880(明治13)年 楽善会訓盲院として開校
1887(明治20)年 官立に移管 東京盲唖学校と改称
1890(明治23)年 日本点字制定
2010(平成22)年 11月1日建之
筑波大学附属視覚特別支援学校
筑波大学附属聴覚特別支援学校
記念碑実行委員会」



「訓盲院」(明治大正建築写真聚覧 建築学会 昭和11(1936)年 国立国会図書館蔵)

「築地海軍省」(井上安治)
左手の建物は、ジョサイア・コンドル設計の訓盲院かと思われます。 総煉瓦造りの建物だったことが伺えます。

○もんぜき通り 中央区築地4-8〜9
かつて市場橋が架かっていた「もんぜき通り」を越え、市場橋交差点から波除通りを進みます。

○築地魚河岸 中央区築地6-26-1(小田原橋棟) 中央区築地6-27-1(海幸橋棟) HP
築地魚河岸は、築地市場移転に伴って設けられた施設で、波除通りの北に小田原橋棟、南に海幸橋棟があり、3階の連絡通路で繋がっています。
(連絡橋)



(連絡橋から、波除通りを市場橋方面に望む 築地川東支川の川筋を墨田川方面に望む)


<海幸橋棟屋上広場から>
海幸橋棟屋上広場からは、旧築地市場がよく見えます。建物が解体され隅田川まで眺望が開けています。

<海幸橋館からの眺望>
海幸橋館の屋上広場の東の階段スペースから、波除神社、築地川東支川の川筋、旧築地市場の眺望です。



○海幸橋
「海幸橋」は昭和2(1927)年に架けられた橋で、中央卸売市場の入口にありました。築地川東支川の埋め立てにともない橋は撤去されましたが、親柱が残されています。
<親柱>
鋼鉄製親柱 海幸橋北東 築地6-20
鋼鉄製親柱 海幸橋南西 築地5-2
石造親柱 海幸橋北西 築地6-27
石造親柱 海幸橋南東 築地5-2 ※土台を残して撤去されています。





<説明板「海幸橋」> 中央区築地6-20
波除神社側に説明板が建てられています。
(説明板)
「海幸橋
海幸橋は、昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口部に創架された鋼下路アーチ橋です。大正12年の関東大震災で日本橋にあった魚河岸が全焼してのち、築地に移転しましたが、これに先立って築地魚市場の入口に新しく架橋された橋でした。
橋梁設計は東京市道路局で、築地川東支川は平成7年に埋め立てられ、橋の本体は同14年に撤去されました。しかし、鋼鉄製親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されることになりました。
鋼鉄製親柱2基は破損した部材をもと通りに修復し、塗装も創架当時の濃緑色に戻してあります。この鋼鉄製の親柱のデザインと4基の配置は、日本では珍しいオランダのアムステルダム派のデザインの特徴をもっており、点対称に2基ずつ配置されているめずらしい構造です。この橋の親の親柱は昭和初期の橋梁デザインを伝える貴重な近代土木遺産として区民有形文化財に登録されています。
中央区環境土木部 中央区教育委員会」


<築地川東支川筋>
上流方向

下流方向

○ 安芸橋
隅田川河口に架かっていたのが安芸橋です。
「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年 国立国会図書館蔵)
「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年)から、安芸橋部分の抜粋の抜粋です。「波除稲荷社」の下流に「アキバシ」とあります。

「東京三十六景 築地ホテル館」(昇斎一景 東京都立図書館蔵)
築地ホテル館の隣に安芸橋が描かれています。

「東京名所四十八景 築地ホテル館」(昇斎一景 東京都立図書館蔵)
築地ホテル館の隣に安芸橋が描かれています。

采女(うねめ)橋は、江戸時代に松平采女正の屋敷があったことから名付けられようです。現在は、首都高の上を横切るみゆき通りの上に架かる橋です。かつては築地川が流れていました。
<二連アーチ橋>





<親柱と橋銘板>




<高欄「築地ホテル館」と「銀座の柳」>
采女橋の高欄は「築地ホテル館」と「銀座の柳」をモチーフとしています。




<街灯>



<采女橋交差点/采女橋公園前交差点/バス停采女橋>



<采女橋碑>
(プレート文)
「采女橋
このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。
采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。
震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。
区では平成2年度に、幻のホテル“築地ホテル館”(明治元年、近代的な様式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と“銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。
橋梁の諸元
形式 2径間鉄筋コンクリートアーチ橋
橋長 42.0m
有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0m×2)
着工 昭和4年9月
竣工 昭和5年10月
施工者 東京市
平成3年3月 東京都中央区」


<築地川采女橋公園> 中央区銀座6-18-1
采女橋の銀座側に「築地川采女橋公園」があります。


<地図>

<みゆき通り>
みゆき通りとは、明治天皇が海軍兵学校、海軍大学校等々への行幸の際、また浜離宮へのお成りの時、この通りを行幸路とされたため、「みゆき(御幸)通り」と呼称されるようになりました。

「江戸名所図会 采女が原」
采女橋碑に言及されている采女が原です。中央に馬場、右上に「萬年橋」、その先に「西本願寺」があります。

<現在の万年橋>
采女橋のすぐ北に万年橋があり、首都高の上を晴海通りが渡ります。

「江戸切絵図」
築地川と築地川東支川部分の抜粋です。築地川にかかる万年橋の袂に「采女ケ原」とあります。万年橋下流の采女橋の先で、築地川から築地川東支川が分かれ、隅田川にそそいでいます。

○東京盲唖学校発祥の地、日本点字制定の地 中央区築地4-15-2 市場橋公園
築地川東支川が埋め立てられ設けられた中央区立「市場橋公園」の一角に、「東京盲唖学校発祥の地・日本点字制定の地」の記念碑が建っています。公園入口には案内看板があります。



(碑文)
「東京盲唖学校発祥の地
日本点字制定の地
1879(明治12)年 ジョサイア・コンドル設計による校舎完成
1880(明治13)年 楽善会訓盲院として開校
1887(明治20)年 官立に移管 東京盲唖学校と改称
1890(明治23)年 日本点字制定
2010(平成22)年 11月1日建之
筑波大学附属視覚特別支援学校
筑波大学附属聴覚特別支援学校
記念碑実行委員会」



「訓盲院」(明治大正建築写真聚覧 建築学会 昭和11(1936)年 国立国会図書館蔵)

「築地海軍省」(井上安治)
左手の建物は、ジョサイア・コンドル設計の訓盲院かと思われます。 総煉瓦造りの建物だったことが伺えます。

○もんぜき通り 中央区築地4-8〜9
かつて市場橋が架かっていた「もんぜき通り」を越え、市場橋交差点から波除通りを進みます。

○築地魚河岸 中央区築地6-26-1(小田原橋棟) 中央区築地6-27-1(海幸橋棟) HP
築地魚河岸は、築地市場移転に伴って設けられた施設で、波除通りの北に小田原橋棟、南に海幸橋棟があり、3階の連絡通路で繋がっています。
(連絡橋)



(連絡橋から、波除通りを市場橋方面に望む 築地川東支川の川筋を墨田川方面に望む)


<海幸橋棟屋上広場から>
海幸橋棟屋上広場からは、旧築地市場がよく見えます。建物が解体され隅田川まで眺望が開けています。

<海幸橋館からの眺望>
海幸橋館の屋上広場の東の階段スペースから、波除神社、築地川東支川の川筋、旧築地市場の眺望です。



○海幸橋
「海幸橋」は昭和2(1927)年に架けられた橋で、中央卸売市場の入口にありました。築地川東支川の埋め立てにともない橋は撤去されましたが、親柱が残されています。
<親柱>
鋼鉄製親柱 海幸橋北東 築地6-20
鋼鉄製親柱 海幸橋南西 築地5-2
石造親柱 海幸橋北西 築地6-27
石造親柱 海幸橋南東 築地5-2 ※土台を残して撤去されています。





<説明板「海幸橋」> 中央区築地6-20
波除神社側に説明板が建てられています。
(説明板)
「海幸橋
海幸橋は、昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口部に創架された鋼下路アーチ橋です。大正12年の関東大震災で日本橋にあった魚河岸が全焼してのち、築地に移転しましたが、これに先立って築地魚市場の入口に新しく架橋された橋でした。
橋梁設計は東京市道路局で、築地川東支川は平成7年に埋め立てられ、橋の本体は同14年に撤去されました。しかし、鋼鉄製親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されることになりました。
鋼鉄製親柱2基は破損した部材をもと通りに修復し、塗装も創架当時の濃緑色に戻してあります。この鋼鉄製の親柱のデザインと4基の配置は、日本では珍しいオランダのアムステルダム派のデザインの特徴をもっており、点対称に2基ずつ配置されているめずらしい構造です。この橋の親の親柱は昭和初期の橋梁デザインを伝える貴重な近代土木遺産として区民有形文化財に登録されています。
中央区環境土木部 中央区教育委員会」


<築地川東支川筋>
上流方向

下流方向

○ 安芸橋
隅田川河口に架かっていたのが安芸橋です。
「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年 国立国会図書館蔵)
「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年)から、安芸橋部分の抜粋の抜粋です。「波除稲荷社」の下流に「アキバシ」とあります。

「東京三十六景 築地ホテル館」(昇斎一景 東京都立図書館蔵)
築地ホテル館の隣に安芸橋が描かれています。

「東京名所四十八景 築地ホテル館」(昇斎一景 東京都立図書館蔵)
築地ホテル館の隣に安芸橋が描かれています。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
隅田川テラス(明石地区)
隅田川テラス(明石地区)
○勝鬨橋〜佃大橋 中央区築地6・7丁目〜中央区明石町
<勝鬨橋袂>
勝鬨橋北にあるチレイ本社から隅田川テラスへ下ります。
「河口より約0.5km」
「佃大橋850m 中央大橋1400m」




<案内板>
階段を下りたところの案内板です。
「佃大橋 800M→」「ここは河口から0.6km」の表示です。
「①勝鬨橋」「②築地本願寺」の説明があります。


<被覆修景工事>
「1995年3月
隅田川(勝鬨橋上流)右岸被覆修景工事
延長 345m →
東京都
坪井工業株式会社施行」

<モニュメント>
煉瓦調の堤防には、西洋風の窓や扉で修景されています。噴水は、水受けは塞がれ稼働していません。




<水門と橋>
明石堀と明石橋はなくなりましたが、東京都下水道局明石町ポンプ所の水門と隅田川テラスに架かる橋があります。



<モニュメント/距離表示板>
5本柱とアーチのオブジェ。
「←勝鬨橋 300m 佃大橋 550m→」


<運上所跡(水たき治作)>
運上所跡(水たき治作)を隅田川テラスから見たところです。


<案内板>
「築地の歴史」「①蘭学事初の地」「②築地外国人居留地跡」の説明があります。
「←勝鬨橋 350M 佃大橋 500M→」
「ここは河口から0.9km」




<明石町(聖路加ガーデン前)船着場>
東京水上ライン「明石町(聖路加ガーデン前)船着場」です。
東京クルーズの「ホタルナ」が来たので撮影。





<被覆修景工事>
「1986年3月
隅田川(明石地区)被覆及び(佃大橋上下流)右岸被覆修景工事
延長 340m →
東京都
日特建設株式会社施行」

<指標>
「河口より1.0km 隅田川右岸」


<明石町河岸公園から隅田川テラス>
明石町河岸公園の下から佃大橋の手前まで、隅田川テラスの歩道は煉瓦調となります。



<案内板>
聖路加タワー裏の階段下の脇にある案内板です。
「←勝鬨橋 620M」「ここは河口から1.1km」
「スーパー堤防事業」「①アメリカ公使館跡」の説明掲示があります。

隅田川テラスを聖路加タワーへの階段を上ると、左手の植栽に「アメリカ公使館跡石標」があります(別途記載済)。
聖路加タワーの正面、聖路加レジデンス前に、中央区の説明板「アメリカ公使館跡」があります(別途記載済)。
<聖路加タワー前階段>
聖路加ガーデン〜明石町河岸公園〜隅田川テラスと階段で繋がっています。お昼時は、階段に座って食事をする方々が多々です。



<明石町河岸公園の案内地図>
階段中段の明石町河岸公園の案内板です。
「←佃大橋 250M 勝鬨橋 670M→」
「①聖ルカガーデン」「②浅野内匠頭邸跡」の説明掲示があります。



<距離指標>
聖路加タワー裏の階段下とスロープの間に距離指標があります。
「←勝鬨橋 650m 佃大橋 200m→」
「河口より約1.2km」




<隅田川テラスのベンチと煉瓦壁>






<佃大橋> 中央区明石町・湊3丁目〜中央区月島1丁目・佃1丁目


○勝鬨橋〜佃大橋 中央区築地6・7丁目〜中央区明石町
<勝鬨橋袂>
勝鬨橋北にあるチレイ本社から隅田川テラスへ下ります。
「河口より約0.5km」
「佃大橋850m 中央大橋1400m」




<案内板>
階段を下りたところの案内板です。
「佃大橋 800M→」「ここは河口から0.6km」の表示です。
「①勝鬨橋」「②築地本願寺」の説明があります。


<被覆修景工事>
「1995年3月
隅田川(勝鬨橋上流)右岸被覆修景工事
延長 345m →
東京都
坪井工業株式会社施行」

<モニュメント>
煉瓦調の堤防には、西洋風の窓や扉で修景されています。噴水は、水受けは塞がれ稼働していません。




<水門と橋>
明石堀と明石橋はなくなりましたが、東京都下水道局明石町ポンプ所の水門と隅田川テラスに架かる橋があります。



<モニュメント/距離表示板>
5本柱とアーチのオブジェ。
「←勝鬨橋 300m 佃大橋 550m→」


<運上所跡(水たき治作)>
運上所跡(水たき治作)を隅田川テラスから見たところです。


<案内板>
「築地の歴史」「①蘭学事初の地」「②築地外国人居留地跡」の説明があります。
「←勝鬨橋 350M 佃大橋 500M→」
「ここは河口から0.9km」




<明石町(聖路加ガーデン前)船着場>
東京水上ライン「明石町(聖路加ガーデン前)船着場」です。
東京クルーズの「ホタルナ」が来たので撮影。





<被覆修景工事>
「1986年3月
隅田川(明石地区)被覆及び(佃大橋上下流)右岸被覆修景工事
延長 340m →
東京都
日特建設株式会社施行」

<指標>
「河口より1.0km 隅田川右岸」


<明石町河岸公園から隅田川テラス>
明石町河岸公園の下から佃大橋の手前まで、隅田川テラスの歩道は煉瓦調となります。



<案内板>
聖路加タワー裏の階段下の脇にある案内板です。
「←勝鬨橋 620M」「ここは河口から1.1km」
「スーパー堤防事業」「①アメリカ公使館跡」の説明掲示があります。

隅田川テラスを聖路加タワーへの階段を上ると、左手の植栽に「アメリカ公使館跡石標」があります(別途記載済)。
聖路加タワーの正面、聖路加レジデンス前に、中央区の説明板「アメリカ公使館跡」があります(別途記載済)。
<聖路加タワー前階段>
聖路加ガーデン〜明石町河岸公園〜隅田川テラスと階段で繋がっています。お昼時は、階段に座って食事をする方々が多々です。




<明石町河岸公園の案内地図>
階段中段の明石町河岸公園の案内板です。
「←佃大橋 250M 勝鬨橋 670M→」
「①聖ルカガーデン」「②浅野内匠頭邸跡」の説明掲示があります。



<距離指標>
聖路加タワー裏の階段下とスロープの間に距離指標があります。
「←勝鬨橋 650m 佃大橋 200m→」
「河口より約1.2km」




<隅田川テラスのベンチと煉瓦壁>






<佃大橋> 中央区明石町・湊3丁目〜中央区月島1丁目・佃1丁目



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新島原遊郭/躍金楼(新富町)
○新島原遊郭 現:中央区新富1・2丁目〜銀座1丁目
築地居留地が設けらるのに伴い、外国人の利用を当て込んで設けられたのが「新島原遊郭」です。 1871(明治4)年7月に廃止され、新吉原に移転しました。
「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年)から、左手に描かれている「新島原遊郭」部分の抜粋です。遊郭の西から東を見た光景です。四方を塀で囲み、中央の大通りは「仲ノ町」と名付けられています。


<仲之町通りと大門>
仲之町通りと大門の部分の抜粋です。大門は西と東の両方に描かれています。

「東京新嶋原勝景」(歌川国輝 明治2(1869)年)
新嶋原遊郭を細かく描写した10枚続の錦絵です(10枚を連結しました)。 左手奥に富士山が描かれているので、遊郭を東から西に見た光景です。


<仲之町通りと大門>
仲之町通りの抜粋です。仲之町通りには桜が満開です。新吉原と同じく、植桜でしょうね。大門は東と西の両方に描かれています。



「新島原晩華楼遊女揃」(歌川国貞 明治2年)
「晩華楼」を描いています。堀の上に建っているようです。

「東京新嶋原勝景」で確認すると、「晩花楼」が遊郭の南東端の堀際にあります。

<仲之町通り>
通りの名前や痕跡など残っていません。新島原遊郭が廃止されて2年後に創業の躍金楼が往時の花柳界をしのばせます。
画像は入船二丁目交差点〜新富町郵便局交差点。




○躍金楼 中央区新富1-10-4 HP
明治4(1871)年7月に新島原遊郭が廃止され、その跡に花柳界が発展しました。
躍金楼(てっきんろう)は 明治6(1873)年の創業で、名付け親は、山岡鉄舟です。建物は、国の登録有形文化財となっています。









「開化三十六会席 新富町躍金楼」(豊原国周 明治11(1878)年 東京都立図書館蔵)
開化三十六会席に躍金楼も選ばれています。

<ランチ>
コロナ対応で、ランチは週2日のみの営業に縮小されています。営業する日は曜日は固定しておらず、HPに案内もないので、ハードル高いです。天丼膳(1100円)を食べました、美味しいね。



<新富商栄会>

築地居留地が設けらるのに伴い、外国人の利用を当て込んで設けられたのが「新島原遊郭」です。 1871(明治4)年7月に廃止され、新吉原に移転しました。
「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年)から、左手に描かれている「新島原遊郭」部分の抜粋です。遊郭の西から東を見た光景です。四方を塀で囲み、中央の大通りは「仲ノ町」と名付けられています。


<仲之町通りと大門>
仲之町通りと大門の部分の抜粋です。大門は西と東の両方に描かれています。

「東京新嶋原勝景」(歌川国輝 明治2(1869)年)
新嶋原遊郭を細かく描写した10枚続の錦絵です(10枚を連結しました)。 左手奥に富士山が描かれているので、遊郭を東から西に見た光景です。


<仲之町通りと大門>
仲之町通りの抜粋です。仲之町通りには桜が満開です。新吉原と同じく、植桜でしょうね。大門は東と西の両方に描かれています。



「新島原晩華楼遊女揃」(歌川国貞 明治2年)
「晩華楼」を描いています。堀の上に建っているようです。

「東京新嶋原勝景」で確認すると、「晩花楼」が遊郭の南東端の堀際にあります。

<仲之町通り>
通りの名前や痕跡など残っていません。新島原遊郭が廃止されて2年後に創業の躍金楼が往時の花柳界をしのばせます。
画像は入船二丁目交差点〜新富町郵便局交差点。




○躍金楼 中央区新富1-10-4 HP
明治4(1871)年7月に新島原遊郭が廃止され、その跡に花柳界が発展しました。
躍金楼(てっきんろう)は 明治6(1873)年の創業で、名付け親は、山岡鉄舟です。建物は、国の登録有形文化財となっています。









「開化三十六会席 新富町躍金楼」(豊原国周 明治11(1878)年 東京都立図書館蔵)
開化三十六会席に躍金楼も選ばれています。

<ランチ>
コロナ対応で、ランチは週2日のみの営業に縮小されています。営業する日は曜日は固定しておらず、HPに案内もないので、ハードル高いです。天丼膳(1100円)を食べました、美味しいね。



<新富商栄会>

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築地居留地 発祥の地コレクション
○築地居留地跡 発祥の地
【明石町緑道】
○ 青山学院記念の地
○ 女子聖学院発祥の地
○ 明治学院発祥の地
○ 指紋研究発祥の地(ヘンリー・フォールズ住居跡)
【居留地中央通り】
○ 雙葉学園発祥の地
○ 東京中学院発祥の地
○ 暁星学園発祥の地
【聖ルカ通り】
○ 女子学院発祥の地
○ 立教学院発祥の地
○ 日本文化事始の地
・慶應義塾発祥の地
・蘭学の泉はここに
○ 都市型保健所発祥の地
【その他】
○ 工学院大学学園発祥之地
○ 東京税関発祥の地 別ページ
○ 電信創業之地 別ページ
○ 靴業発祥の地(入船) 別ページ
【明石町緑道】
○青山学院記念の地 中央区明石町6-24
歩道に「青山学院記念の地」碑があります。
(碑文)
「青山学院 記念の地
海岸女学校
一八七七年 開校」
「青山学院は、米国メソジスト監督教会の宣教師により創立された三つの学校を源流としています。
「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流の一つ「女子小学校」(一八七四年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となりました。
二〇〇八年三月
学校法人 青山学院」


○女子聖学院発祥の地 中央区明石町6-23
(碑文)
「女子聖学院発祥の地」
「この地は女子聖学院発祥の地もと築地居留地14番であった。そこに建つ14番館が、宣教師ジョン・マッケシブ先生の居宅だった。1905年、米国のクリスチャン・チャーチ(ディサイプルス・オブ・タライスト)の宣教師バーサ・F・クローソン女史が借り受け婦人伝道師の養成を始めた。開校式は同年11月1日教師3人に生徒10人であった、という。今日では幼稚園から大学院までを擁する総合学園となっている。
学校法人 聖学院」



○明治学院発祥の地 中央区明石町7-20
(碑文)
「明治学院発祥の地
明治学院は1877年(明治10年)
ここ旧築地17番地に開設された
東京一致神学校を基とする
これを記念しこの碑を建てる」
「一九八七年十月三十一日建立
学校法人 明治学院
第九代学院長 平出宣道」



○指紋研究発祥の地(ヘンリー・フォールズ住居跡) 中央区明石町8-1
(碑文)
「指紋研究発祥の地 ヘンリー・フォールズ住居の跡
ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843〜1930)が明治7年から同19年(1886)に至る滞日中に居住した所である フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日しキリスト教布教のかたわら築地病院を開いて診療に従事しまた日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した
彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味をもちたまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見しこれにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行なった
明治13年(1880)10月英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し また指紋の遺伝関係にも言及している 明治44年(1911)4月1日わが国の警察において はじめて指紋法が採用されてから満50年の今日 ここゆかりの地に記念碑を建立し その功績をたたえるものである」


【居留地中央通り】

○雙葉学園発祥の地 中央区明石町1-6
ふたば葵の葉をかたどったデザインの2本の石碑が「雙葉学園発祥の地」碑です。
(碑文)
「徳に於ては純真に
義務に於ては 堅実に
明治四十二年
雙葉学園発祥の地」

○東京中学院発祥の地 中央区明石町1-15
(碑文)
「関東学院の源流
東京中学院発祥の地
一八九五年九月十日、ここ築地居留地四二、四三番地で
米国バプテスト伝道協会が東京中学院を設立した
関東学院教育の源流はここに発する」



○暁星学園発祥の地 中央区明石町5-26
カトリック築地教会の前の歩道に「暁星学園発祥の地」碑が建っています。碑の上には聖書が開かれています。
(碑文)
「明治二十一年(一八八八)創立 暁星学園発祥の地」


【聖ルカ通り】

〇女子学院発祥の地 中央区明石町10

〇立教学院発祥の地 中央区明石町10

〇日本文化事始の地 中央区明石町11
「日本文化事始の地
「慶應義塾発祥の地」
「蘭学の泉はここに」
1982 2月3日」


「慶應義塾発祥の地」
1858年、福沢諭吉は、鉄砲洲中津藩中屋敷に蘭学塾を開き蘭学を教えました。
(碑表)
「安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く
創立百年を記念して昭和三十三年慶応義塾これを建つ」
(碑横)
「慶応義塾の起源は一八五八年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。
その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。
この地はまた一七七一年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、
日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。
一九五八年四月二十三日除幕」





「蘭学の泉はここに」
前野良沢・杉田玄白・中川淳庵の3人が、奥平家中屋敷で、
オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳を行いました。


○都市型保健所発祥の地 中央区明石町12-1
中央区保健所の入口左手の壁に、「都市型保健所発祥の地」があります。
<都市型保健所発祥の地>
(プレート文)
「都市型保健所発祥の地
沿革
昭和10年 1月 東京市特別衛生地区保健館として誕生
昭和12年12月 ロックフェラー財団の基金による庁舎援助
昭和19年10月 東京都立中央保健所となる
昭和23年10月 東京都中央保健所となる
昭和50年 4月 東京都中央区中央保健所となる
昭和57年11月 現庁舎竣功」

【その他】
○工学院大学学園発祥之地 中央区築地7-2
あかつき公園の入口にあります。工学院大学は明治21年にこの地に創設された「工手学校」に始まります。


【明石町緑道】
○ 青山学院記念の地
○ 女子聖学院発祥の地
○ 明治学院発祥の地
○ 指紋研究発祥の地(ヘンリー・フォールズ住居跡)
【居留地中央通り】
○ 雙葉学園発祥の地
○ 東京中学院発祥の地
○ 暁星学園発祥の地
【聖ルカ通り】
○ 女子学院発祥の地
○ 立教学院発祥の地
○ 日本文化事始の地
・慶應義塾発祥の地
・蘭学の泉はここに
○ 都市型保健所発祥の地
【その他】
○ 工学院大学学園発祥之地
○ 東京税関発祥の地 別ページ
○ 電信創業之地 別ページ
○ 靴業発祥の地(入船) 別ページ
【明石町緑道】
○青山学院記念の地 中央区明石町6-24
歩道に「青山学院記念の地」碑があります。
(碑文)
「青山学院 記念の地
海岸女学校
一八七七年 開校」
「青山学院は、米国メソジスト監督教会の宣教師により創立された三つの学校を源流としています。
「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流の一つ「女子小学校」(一八七四年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となりました。
二〇〇八年三月
学校法人 青山学院」


○女子聖学院発祥の地 中央区明石町6-23
(碑文)
「女子聖学院発祥の地」
「この地は女子聖学院発祥の地もと築地居留地14番であった。そこに建つ14番館が、宣教師ジョン・マッケシブ先生の居宅だった。1905年、米国のクリスチャン・チャーチ(ディサイプルス・オブ・タライスト)の宣教師バーサ・F・クローソン女史が借り受け婦人伝道師の養成を始めた。開校式は同年11月1日教師3人に生徒10人であった、という。今日では幼稚園から大学院までを擁する総合学園となっている。
学校法人 聖学院」



○明治学院発祥の地 中央区明石町7-20
(碑文)
「明治学院発祥の地
明治学院は1877年(明治10年)
ここ旧築地17番地に開設された
東京一致神学校を基とする
これを記念しこの碑を建てる」
「一九八七年十月三十一日建立
学校法人 明治学院
第九代学院長 平出宣道」



○指紋研究発祥の地(ヘンリー・フォールズ住居跡) 中央区明石町8-1
(碑文)
「指紋研究発祥の地 ヘンリー・フォールズ住居の跡
ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843〜1930)が明治7年から同19年(1886)に至る滞日中に居住した所である フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日しキリスト教布教のかたわら築地病院を開いて診療に従事しまた日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した
彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味をもちたまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見しこれにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行なった
明治13年(1880)10月英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し また指紋の遺伝関係にも言及している 明治44年(1911)4月1日わが国の警察において はじめて指紋法が採用されてから満50年の今日 ここゆかりの地に記念碑を建立し その功績をたたえるものである」


【居留地中央通り】

○雙葉学園発祥の地 中央区明石町1-6
ふたば葵の葉をかたどったデザインの2本の石碑が「雙葉学園発祥の地」碑です。
(碑文)
「徳に於ては純真に
義務に於ては 堅実に
明治四十二年
雙葉学園発祥の地」

○東京中学院発祥の地 中央区明石町1-15
(碑文)
「関東学院の源流
東京中学院発祥の地
一八九五年九月十日、ここ築地居留地四二、四三番地で
米国バプテスト伝道協会が東京中学院を設立した
関東学院教育の源流はここに発する」



○暁星学園発祥の地 中央区明石町5-26
カトリック築地教会の前の歩道に「暁星学園発祥の地」碑が建っています。碑の上には聖書が開かれています。
(碑文)
「明治二十一年(一八八八)創立 暁星学園発祥の地」


【聖ルカ通り】

〇女子学院発祥の地 中央区明石町10

〇立教学院発祥の地 中央区明石町10

〇日本文化事始の地 中央区明石町11
「日本文化事始の地
「慶應義塾発祥の地」
「蘭学の泉はここに」
1982 2月3日」


「慶應義塾発祥の地」
1858年、福沢諭吉は、鉄砲洲中津藩中屋敷に蘭学塾を開き蘭学を教えました。
(碑表)
「安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く
創立百年を記念して昭和三十三年慶応義塾これを建つ」
(碑横)
「慶応義塾の起源は一八五八年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。
その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。
この地はまた一七七一年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、
日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。
一九五八年四月二十三日除幕」





「蘭学の泉はここに」
前野良沢・杉田玄白・中川淳庵の3人が、奥平家中屋敷で、
オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳を行いました。


○都市型保健所発祥の地 中央区明石町12-1
中央区保健所の入口左手の壁に、「都市型保健所発祥の地」があります。
<都市型保健所発祥の地>
(プレート文)
「都市型保健所発祥の地
沿革
昭和10年 1月 東京市特別衛生地区保健館として誕生
昭和12年12月 ロックフェラー財団の基金による庁舎援助
昭和19年10月 東京都立中央保健所となる
昭和23年10月 東京都中央保健所となる
昭和50年 4月 東京都中央区中央保健所となる
昭和57年11月 現庁舎竣功」

【その他】
○工学院大学学園発祥之地 中央区築地7-2
あかつき公園の入口にあります。工学院大学は明治21年にこの地に創設された「工手学校」に始まります。



テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
築地居留地跡のガス灯
築地居留地跡のガス灯
ガス街灯柱が、外国人居留地中央通り沿いに2基、明石町区民館に1基、残されています。柱頭のランプ部分は新たに復元されたものですが、2基に「築地ホテル館」の塔が据えられています。他に、明石小学校正面横に3基、トイスラー記念館前に2基のガス街灯があります。
○ガス街灯柱(明石小学校角地) 中央区明石町1-15 明石小学校角地
明石小学校角地にある緑色のガス街灯柱です。


(説明板)
「ガス街灯の柱
このガス街灯の柱は、コリント風の様式で上部にある左右二十センチメートルの腕金や下部に施された帯状の操り形など、特徴的な装飾が見られる鋳鉄製の柱です。照明ランプ部分は、電気灯として使用されていたランプを修復した上で、後年に取り付けたものです。
柱部分は、形状や材質などから判断して、明治末年頃のガス街灯のものであると推定されます。明治情緒を偲ばせるガス街灯の柱からは、文明開化の象徴として輝いていた頃の様子が想像されます。」

○ガス街灯(明石小学校正門横) 中央区明石町1-15 明石小学校正門横
青色のガス街灯です。風力発電の電力を利用。3基が連なっています。






○ガス街灯柱(リハポート明石前) 中央区明石町1-6 リハポート明石
こちらはリハポート明石の前にあるクリーム色の街灯柱です。
(説明板)
「ガス街灯柱
これは、ガス灯を点灯するための街灯柱です。
高さは三.四メートルで柱は鋳鉄製
コリント風の様式をとり
柱頭・柱身・基部の部分からなっています。
柱頭のランプ部分は新たに復元しました。
この街灯柱は、以前この場所に在った
「中央区立第二中学校」に設置されていました。
また、基部の台座も
「学校」の階段の石(白御影石)が
使われています。
平成十六年三月」




○ガス街灯柱(明石町区民館) 中央区明石町14-2 明石町区民館
明石町区民館に、ガス街灯柱が1基あります。
明石町区民館の入口の照明は、ガス灯のランプを模しています。






○トイスラー記念館 中央区明石町10
<トイスラー記念館前ガス灯>


<聖路加国際病院トイスラー記念館>
現在の聖路加ガーデンに昭和8(1933)年に宣教師館として建てられ、平成10(1998)年に現在地に移築復元されました。



(説明板)
「聖路加国際病院トイスラー記念館
所在地 中央区明石町一○番
昭和八年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町十九番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。
設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。
平成元年に解体工事が行われ、平成十年二月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創設当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。
外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。
平成十八年三月 中央区教育委員会」


<玄関に掲示のプレート>
「トイスラ―記念館
Teulsler Memorial House
1933年(昭和8年)病院が新築完成した頃、トイスラー院長が宣教師会館として、また迎賓館として隅田川河畔にある第3街区(現在の聖路加ガーデン)の芝生に建てられたもの。
此度の聖路加再開発計画に基づき、この場所に移築復元された。
※この下には災害時用の縦横10m×深3mの水槽がある。
1998年5月23日」


<創設者トイスラー医師>
「創設者 R.B.トイスラ―医師 1876-1934」
「DR.RUDOLF BOLLING TEUSLER, FOUNDER
本院は創立以来、キリスト教精神の下に、病む人を中心とした
医療と看護を実践してきました。
その精神は百年を経た今日も受け継がれ、永遠に生き続けます。
キリストの愛の心が 人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて、
その人は生まれ変わったようになる。この偉大な愛の力を、だれでもがすぐ
わかるように あらわせるよう、計画されてきた生きた有機体がこの病院である。

ガス街灯柱が、外国人居留地中央通り沿いに2基、明石町区民館に1基、残されています。柱頭のランプ部分は新たに復元されたものですが、2基に「築地ホテル館」の塔が据えられています。他に、明石小学校正面横に3基、トイスラー記念館前に2基のガス街灯があります。
○ガス街灯柱(明石小学校角地) 中央区明石町1-15 明石小学校角地
明石小学校角地にある緑色のガス街灯柱です。


(説明板)
「ガス街灯の柱
このガス街灯の柱は、コリント風の様式で上部にある左右二十センチメートルの腕金や下部に施された帯状の操り形など、特徴的な装飾が見られる鋳鉄製の柱です。照明ランプ部分は、電気灯として使用されていたランプを修復した上で、後年に取り付けたものです。
柱部分は、形状や材質などから判断して、明治末年頃のガス街灯のものであると推定されます。明治情緒を偲ばせるガス街灯の柱からは、文明開化の象徴として輝いていた頃の様子が想像されます。」

○ガス街灯(明石小学校正門横) 中央区明石町1-15 明石小学校正門横
青色のガス街灯です。風力発電の電力を利用。3基が連なっています。






○ガス街灯柱(リハポート明石前) 中央区明石町1-6 リハポート明石
こちらはリハポート明石の前にあるクリーム色の街灯柱です。
(説明板)
「ガス街灯柱
これは、ガス灯を点灯するための街灯柱です。
高さは三.四メートルで柱は鋳鉄製
コリント風の様式をとり
柱頭・柱身・基部の部分からなっています。
柱頭のランプ部分は新たに復元しました。
この街灯柱は、以前この場所に在った
「中央区立第二中学校」に設置されていました。
また、基部の台座も
「学校」の階段の石(白御影石)が
使われています。
平成十六年三月」




○ガス街灯柱(明石町区民館) 中央区明石町14-2 明石町区民館
明石町区民館に、ガス街灯柱が1基あります。
明石町区民館の入口の照明は、ガス灯のランプを模しています。






○トイスラー記念館 中央区明石町10
<トイスラー記念館前ガス灯>


<聖路加国際病院トイスラー記念館>
現在の聖路加ガーデンに昭和8(1933)年に宣教師館として建てられ、平成10(1998)年に現在地に移築復元されました。



(説明板)
「聖路加国際病院トイスラー記念館
所在地 中央区明石町一○番
昭和八年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町十九番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。
設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。
平成元年に解体工事が行われ、平成十年二月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創設当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。
外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。
平成十八年三月 中央区教育委員会」


<玄関に掲示のプレート>
「トイスラ―記念館
Teulsler Memorial House
1933年(昭和8年)病院が新築完成した頃、トイスラー院長が宣教師会館として、また迎賓館として隅田川河畔にある第3街区(現在の聖路加ガーデン)の芝生に建てられたもの。
此度の聖路加再開発計画に基づき、この場所に移築復元された。
※この下には災害時用の縦横10m×深3mの水槽がある。
1998年5月23日」


<創設者トイスラー医師>
「創設者 R.B.トイスラ―医師 1876-1934」
「DR.RUDOLF BOLLING TEUSLER, FOUNDER
本院は創立以来、キリスト教精神の下に、病む人を中心とした
医療と看護を実践してきました。
その精神は百年を経た今日も受け継がれ、永遠に生き続けます。
キリストの愛の心が 人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて、
その人は生まれ変わったようになる。この偉大な愛の力を、だれでもがすぐ
わかるように あらわせるよう、計画されてきた生きた有機体がこの病院である。


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
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