柴又帝釈天
〇柴又帝釈天(経栄山題経寺) 葛飾区柴又7-10-3 HP
庚申信仰により多くの参詣者を集めていた江戸近郊の寺です。
「新編武蔵風土記稿 葛飾郡之八」
題経寺境内図が掲載されています。題経寺由来の松が見えます。また本尊の挿絵が掲載されています。板本尊は中世の一時期、行方不明になっていました(本尊が行方不明とはどういうことですかね)。
1779年庚申の日、中興の祖、日敬上人が本堂の天井裏から本尊を発見しました。板本尊は庚申の日に開帳されます。墨を塗って紙などに写し取って配っていたので、板本尊は真っ黒なようです。


「絵本江戸土産 帝釈天」(広重)
挿絵には「帝釈天ハ柴又村にあり 庚申の日ハ都鄙の貴賎群参す 利根川を見越して鴻の臺の眺望最よし」とあります。田圃の中の参道を多くの人々が行きかっています。

<二天門> 葛飾区文化財
明治29(1896)年の建築。日光東照宮の陽明門を模したと言われ、木鼻や組物間に彫刻が施されています。平安時代の作といわれる増長天と広目天の二天像を安置しています。



(説明板)
「葛飾区登録有形文化財
題経寺(柴又帝釈天)
諸堂内及び二天門 建築彫刻一括
所在地 葛飾区柴又七丁目10番3号
登録年月日 平成4年2月5日
帝釈堂、祖師堂、二天門、には多くの木彫による建築浮彫装飾が施されています。特に帝釈堂は設計林門作、棟梁坂田留吉の指揮のもとに作られました。内陣外側の胴羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・石川銀次朗・加府藤正一・山本一芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作されました。大正12年(1923)9月、それぞれの彫刻師のもとに運ばれていた欅の彫刻材は、関東大震災によって、すべて焼失しました。その後欅材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費やし、10枚の胴羽目彫刻は昭和9年に完成しました。
彫刻の下絵は高山栄州が描いています。胴羽目の寸法はそれぞれ縦1.27m、横2.27m、厚さ20cm襖一枚の大きさです。
他堂や二天門の内外に、施された彫刻も、同じように貴重なものです。
葛飾区教育委員会」

<帝釈天境内案内図/柴又帝釈天周辺地域案内>



<大鐘楼堂>
昭和30(1955)年の建築です。

<釈迦堂(開山堂)> 葛飾区文化財
二天門を入った右手、本堂の右手前にあります。江戸末期に建立された寺内最古の建築で、釈迦如来立像と、開山日栄上人と中興の祖日敬上人の木像を安置します。



<祖師堂(本堂)> 葛飾区文化財
釈迦堂の右側、釈迦堂(開山堂)の左手にあります。拝殿と内殿が前後に並んで建ちます。

<帝釈堂> 葛飾区文化財
参道正面に位置し、拝殿と内殿が前後に並んで建っています。内殿に帝釈天の板本尊を安置し、持国天と多聞天(毘沙門天)を安置しています。内殿は大正4(1915)年、拝殿は昭和4(1929)年の建築です。内殿の外部は法華説話を題材とした彫刻で埋め尽くされ、建物はガラスで覆われ、「彫刻ギャラリー」として有料公開されています。




<柴又七福神>
柴又七福神の毘沙門天を祀っています。

<瑞龍のマツ> 東京都文化財(天然記念物)
「新編武蔵風土記稿」の境内図に松が見えます。開基の日栄上人が、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いているのを見つけ、この地に庵を設けました。




(説明板)
「東京都指定天然記念物(植物)
瑞龍のマツ
所在地 葛飾区柴又七丁目一七五一番一
指定 平成二八年三月一一日
「帝釈天」の名で知られる経栄山題経寺。その参道から二天門をくぐって境内に入ると正面に帝釈堂が建っており、その帝釈堂の手前、向かって左に生えているのが瑞龍のマツです。
幹は上方にまっすぐ伸び、大枝は北、南、西の三方に長く伸びています。そのうち、西の枝は石畳に沿うように伸び、南北の枝は帝釈堂を守護するかのように庇の前に伸びています。その生き生きとした姿は、頭を空に向け、尾を西に伸ばして天に昇る「龍」のようです。
縁起によると、題経寺は寛永六年(一六二九)創建で、開基の日栄上人が柴又に寄った際、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いているのを見つけ、この地に庵を設けたことがその始まりとされています。この時に日栄上人が見た木が、瑞龍のマツとされています。
瑞龍のマツは、帝釈堂正面と一体となって景観をなしており、また帝釈天題経寺の創建の由来を伝える銘木、巨木として重要です。
平成二九年三月 建設 東京都教育委員会]

<御神水/水神/浄行菩薩>
江戸時代に、日栄上人が瑞龍の松の根元に湧くこの水を発見したと伝わります。現在は地下水をポンプで汲み上げており、水量は豊富です。水質は、少々鉄分を含んでいるようです。



黒ボクを組んで水神様が祀られています。



横のお堂には、浄行菩薩がおられます。

<大客殿> 東京都歴史的建造物
本堂続きの奥に大客殿があります。有料公開されています。
(説明板)
「東京都選定歴史的建造物
柴又帝釈天題経寺大客殿
所在地 葛飾区柴又七丁目10番3号
設計者 大工棟梁 鈴木源治朗
建築年 昭和4年(1929)
帝釈天題経寺は寛永年間に創建された日蓮宗の寺院で、境内には、文化・文政の頃の釈迦堂をはじめ、明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。
北側の和風庭園(邃渓園)に面した大客殿は、信徒の接待所として設計された建物で昭和4年(1929)に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。
建物は木造、平屋建、総檜造りで、屋根は入母屋、桟瓦葦き。ガラス障子の広縁を巡らし、縁の正面中央に張り出し部分を設けているところが外観上の特徴である。建物内部は四部屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には近江の伊吹山山麓にあった「日本一」と言われる大南天の床柱がある。
東京都生活文化局」

<遂渓園> 東京都文化財(名勝)
有料公開されています。
(説明板)
「東京都指定名勝
題経寺遂渓園
所在地 葛飾区柴又七丁目一七五一番一
指定 平成二八年三月一一日
遂渓園は、題経寺寺域の東、約二○○○平方メートルの広さをもつ寺院庭園です。その歴史は、大正十五年(一九二六)発行の『東京府下帝釈天境内全図』に庭園が描かれていることから、その前後に作庭されたと思われます。その後、庭園は昭和初期に第一六代観明院日済上人より依頼を受けた庭師、永井楽山(一八八○~一九七一)が大幅に手を加え、昭和四○年(一九六五)、ほぼ現在の姿に完成しました。
元々は、昭和四年(一九二九)に落成した大客殿から眺める座観式庭園でしたが、昭和三十五年(一九六○)に大回廊が建てられ、現在は大客殿の広縁を通って回遊することができます。
東西に長い庭園敷地は、その北側半分を池泉とし、北西に築山、北東に中島を配しています。築山頂部から流れる滝は二段落ちで、池側に張り出した汀線や中島により、流路は大きく蛇行しているように見え、東端の流末に至ります。永井楽山は、この滝がもつ幽邃な風情から、本庭園を「邃渓園」と名付けました。
庭園南側は開放的な芝庭で、大客殿より嵩上げすることで、芝がより近くに見えるような錯覚が起ります。この錯覚は、奥の池泉を大きく感じさせる効果もあり、大客殿広縁からの景色に奥行きが生まれるのです。
瀬戸御影石や京都加茂川の赤石、京都桂川の自然石を使った蹲(つくばい)など、庭園には名石がふんだんに使われています。また、園池南東には、茶室「不答庵」が設けられています。
永井楽山作庭の邃渓園は、様々な技巧を配し、東京低地の一画に幽邃な渓谷を再現した芸術的価値の高い寺院庭園です。
平成二九年三月 建設 東京都教育委員会」

【諸碑】
<帝釈天出現由来碑> 葛飾区文化財
この碑は、安永8(1779)年に、題経寺本堂改修のとき発見した日蓮聖人自刻の帝釈天板本尊を、後世に伝えるため、その由来と功徳を記して建てられました。


(説明板)
「葛飾区指定有形民俗文化財
帝釈天出現由来碑
所在地 葛飾区柴又七丁目10番3号
指定年月日 昭和574年2月13日
この碑は、安永8年(1779)題経寺本堂改修のとき発見した日蓮聖人自刻の帝釈天坂本尊を後世に伝えるため、弘化2年(1845)俳人 鈴木松什および檀徒 石渡忠右衛門等が協力し、その由来を記し、併せて帝釈天の功徳を述べている。
碑の総高1.48m、撰文は宮沢雉神遊、書は萩原翬、刻者は窪世昌である。題経寺縁起の整ったものは、明治29年(1896)に作成されたが、碑は、それ以前における由緒資料として貴重である。
葛飾区教育委員会」

<帝釈天御本尊出現三百年記念>
納主は、足立市場青果柴又講です。

<人生劇場 青春立志の碑>
尾崎士郎の「人生劇場」の碑があります。



「尾崎士郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」

<水原秋桜子の句碑>
青春立志の碑の横に「水原秋桜子の句碑」が建っています。
「木々ぬらし石う可ちつひに春の海 秋桜子」
同じ句碑が長命寺(練馬区高野台)にあります。こちらで記載。


<草木供養之碑>
「東京造園業組合」創立60周年記念事業として草木供養之碑を平成16(2004)年6月建立。
「草木供養之碑
東京都知事
石原慎太郎」


<蓮花と3人の子ども像(噴水)>
覆屋根の中にあります。


<二仏>
左は、十一面観音像(明応2(1493)年)。廃仏毀釈で、富士山からこの地に据えられています。
右は、大日如来像(江戸時代初期)。

フーテンの寅像と見送るさくら像~帝釈天参道
○フーテンの寅像と見送るさくら像 葛飾区柴又4-8-14
柴又駅(大正元年開設)の柴又駅前広場に寅さんと見送るさくら像があります。「フーテンの寅像」は平成11(1999)年、「見送るさくら像」は、平成29(2017)年3月の設置です。


「フーテンの寅像」





「寅さんは損ばかりしながら生きている
江戸っ子とはそういうものだと
別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家族思いで
金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
そんな無欲で気持ちのいい男なのに
なぜかみんなに馬鹿にされる
もう二度と故郷になんか帰るものかと
哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことを
いったい何十辺くり返したことだろう
でも 故郷は恋しい
変わることのない愛情で自分を守ってくれる
妹のさくらが可哀想でならない
―ごめんよさくら いつかはきっと偉い
兄貴になるからな―
車寅次郎はそう心に念じつつ
故郷柴又の町をふり返るのである
一九九九年八月 山田洋次」

「男はつらいよ・シリーズ」は平成八年八月主演の渥美清さんが急逝されたことで終わりを告げました
私たちはこの映画を偲んで 寅さんの像を建立することを思い立ち百円募金を計画したところ 全国のファンの方が こころよく参加してくださいました
その大勢の方たち一人ずつに名前を書いていただき その芳名録をこの像の台座の中に収めてあります
毎月十日を「寅さんの日」と定め 故郷柴又を愛してやまなかった
私たちの寅さんを いつまでも大切にお守りさせていただきます
柴又 神明会」

「昭和四十四八月第一作「男はつらいよ」が公開されてから平成八年正月の「男はつらいよ・寅次郎 紅の花」までの四十八作は世界映画史上に突出したシリーズ映画です
この輝かしい積みかさねは 山田洋次監督とスタッフ及び渥美清さんほかの出演者によることは勿論ですが なんといってもこの映画を全国のファンが心から愛してくれたからでした
そして特に ここ葛飾柴又の皆さんには温い人情と熱い思いで映画「男はつらいよ」と寅さんを支えていただきました
このたび由縁の地に 全国のファンの皆様のお志により 像が建立されましたことは わが社にとって大変嬉しいことです
心より御礼を申し上げます
平成十一年八月 松竹株式会社」

「見送るさくら像」



「ーある別れ
さくらは失恋して旅に出る寅を駅まで見送ることにする
「いいんだよ、忙しいんだろお前」と言いながらもその思いやりがみにしみるほど寅は傷ついていた
駅前でさくらは立ち止まる
「それじゃお兄ちゃん身体に気をつけてね」
「あゝ」と無造作にうなずいて駅舎に向かう寅の足がふと止まりふり返る
「おい」
「なあに」
「満男に一生懸命勉強しろと言っとけよ」
「うん、わかった」
乱暴な口調で言いすててスタスタと改札口にむかう寅
さくらは踵を返し、秋の終わりを思わせる冷たい風が吹く中を家路につく
二○一七年三月 山田洋次」

○帝釈天参道 柴又7丁目1番〜3番〜6番・7番
柴又駅を出て帝釈天橋を渡ると題経寺山門まで続く、緩やかに湾曲した約200mの参道です。店頭対面販売形式の店舗が並んでいます。
「葛飾区柴又帝釈天門前参道商店街神明会」HP
<国選定重要文化的景観>
帝釈天参道、題経寺(柴又帝釈天)、柴又駅の一帯が、平成30(2018)年2月、国の重要文化的景観に選定されています。


<帝釈橋> 葛飾区柴又7-1
石橋の「帝釈橋」を渡って、帝釈天参道へ。

<三猿像> 葛飾区柴又7-1-16
帝釈天橋の右手の用水路に、に三猿像が佇んでいます。



<寅さん人形> 葛飾区柴又7-1-5
「柴又観光案内所」の前に建つ「寅さん人形」です。

<帝釈天安置石塔> 葛飾区柴又7-3-7
参道入口左手に、「帝釈天安置石塔」があります。裏面に嘉永2(1849)年の銘が刻まれています。台座や玉垣には、造立に関わった歌舞伎役者や江戸市中の人々の名が刻まれています。
「帝釋天安置
南無妙法蓮華経」



<常夜灯> 葛飾区柴又7-3-8
参道入口右手に、「常夜燈」と、その後ろに「参道改修記念碑」があります。常夜燈は、渥美清の奉納です。
「常夜燈 寄贈 渥美清」



<映画の碑> 葛飾区柴又7-3-8
常夜灯の隣にあります。山田洋次監督の揮毫です。
「私 生まれも育ちも
葛飾柴又です
帝釈天で産湯をつかい
姓は車 名は寅次郎
人呼んで
フーテンの寅と発します
山田洋次」

<参道石塔>
帝釈天安置石塔の先の参道両脇に石塔があります。左の石塔には猿像がいます。江戸時代の造立かと思いきや、明治28年の銘が刻まれています。






<店頭の車寅次郎像/庚申だるま>
車寅次郎像がショーケースに入っています。

庚申だるまを売っていました。

<葛飾鳶共同組合設立記念碑> 葛飾区柴又7-6-14
現在も、梯子乗りの技を披露されているようです。


○柴又帝釈天遺跡 葛飾区柴又7-7-10
参道の終わり、右手のトイレ前に、「柴又帝釈天遺跡」碑があります。
柴又帝釈天遺跡からは、奈良時代の建物跡と井戸などが見つかっています。
(説明板)
「柴又帝釈天遺跡
この一帯は柴又帝釈天を中心に分布する古墳時代後期から奈良・平安時代の遺跡地です。柴又は、奈良の正倉院に伝わる日本古代史上著名な「養老5年(721)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記載されている嶋俣里の故地として知られています。
最近の調査では、古代の住居跡・井戸跡や多量の土師器・須恵器などが出土しており、郷土「かつしか」の歴史を知る上でも、貴重な遺跡です。
平成元年3月 葛飾区教育委員会」


柴又駅(大正元年開設)の柴又駅前広場に寅さんと見送るさくら像があります。「フーテンの寅像」は平成11(1999)年、「見送るさくら像」は、平成29(2017)年3月の設置です。


「フーテンの寅像」





「寅さんは損ばかりしながら生きている
江戸っ子とはそういうものだと
別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家族思いで
金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
そんな無欲で気持ちのいい男なのに
なぜかみんなに馬鹿にされる
もう二度と故郷になんか帰るものかと
哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことを
いったい何十辺くり返したことだろう
でも 故郷は恋しい
変わることのない愛情で自分を守ってくれる
妹のさくらが可哀想でならない
―ごめんよさくら いつかはきっと偉い
兄貴になるからな―
車寅次郎はそう心に念じつつ
故郷柴又の町をふり返るのである
一九九九年八月 山田洋次」

「男はつらいよ・シリーズ」は平成八年八月主演の渥美清さんが急逝されたことで終わりを告げました
私たちはこの映画を偲んで 寅さんの像を建立することを思い立ち百円募金を計画したところ 全国のファンの方が こころよく参加してくださいました
その大勢の方たち一人ずつに名前を書いていただき その芳名録をこの像の台座の中に収めてあります
毎月十日を「寅さんの日」と定め 故郷柴又を愛してやまなかった
私たちの寅さんを いつまでも大切にお守りさせていただきます
柴又 神明会」

「昭和四十四八月第一作「男はつらいよ」が公開されてから平成八年正月の「男はつらいよ・寅次郎 紅の花」までの四十八作は世界映画史上に突出したシリーズ映画です
この輝かしい積みかさねは 山田洋次監督とスタッフ及び渥美清さんほかの出演者によることは勿論ですが なんといってもこの映画を全国のファンが心から愛してくれたからでした
そして特に ここ葛飾柴又の皆さんには温い人情と熱い思いで映画「男はつらいよ」と寅さんを支えていただきました
このたび由縁の地に 全国のファンの皆様のお志により 像が建立されましたことは わが社にとって大変嬉しいことです
心より御礼を申し上げます
平成十一年八月 松竹株式会社」

「見送るさくら像」



「ーある別れ
さくらは失恋して旅に出る寅を駅まで見送ることにする
「いいんだよ、忙しいんだろお前」と言いながらもその思いやりがみにしみるほど寅は傷ついていた
駅前でさくらは立ち止まる
「それじゃお兄ちゃん身体に気をつけてね」
「あゝ」と無造作にうなずいて駅舎に向かう寅の足がふと止まりふり返る
「おい」
「なあに」
「満男に一生懸命勉強しろと言っとけよ」
「うん、わかった」
乱暴な口調で言いすててスタスタと改札口にむかう寅
さくらは踵を返し、秋の終わりを思わせる冷たい風が吹く中を家路につく
二○一七年三月 山田洋次」

○帝釈天参道 柴又7丁目1番〜3番〜6番・7番
柴又駅を出て帝釈天橋を渡ると題経寺山門まで続く、緩やかに湾曲した約200mの参道です。店頭対面販売形式の店舗が並んでいます。
「葛飾区柴又帝釈天門前参道商店街神明会」HP
<国選定重要文化的景観>
帝釈天参道、題経寺(柴又帝釈天)、柴又駅の一帯が、平成30(2018)年2月、国の重要文化的景観に選定されています。


<帝釈橋> 葛飾区柴又7-1
石橋の「帝釈橋」を渡って、帝釈天参道へ。

<三猿像> 葛飾区柴又7-1-16
帝釈天橋の右手の用水路に、に三猿像が佇んでいます。



<寅さん人形> 葛飾区柴又7-1-5
「柴又観光案内所」の前に建つ「寅さん人形」です。

<帝釈天安置石塔> 葛飾区柴又7-3-7
参道入口左手に、「帝釈天安置石塔」があります。裏面に嘉永2(1849)年の銘が刻まれています。台座や玉垣には、造立に関わった歌舞伎役者や江戸市中の人々の名が刻まれています。
「帝釋天安置
南無妙法蓮華経」



<常夜灯> 葛飾区柴又7-3-8
参道入口右手に、「常夜燈」と、その後ろに「参道改修記念碑」があります。常夜燈は、渥美清の奉納です。
「常夜燈 寄贈 渥美清」



<映画の碑> 葛飾区柴又7-3-8
常夜灯の隣にあります。山田洋次監督の揮毫です。
「私 生まれも育ちも
葛飾柴又です
帝釈天で産湯をつかい
姓は車 名は寅次郎
人呼んで
フーテンの寅と発します
山田洋次」

<参道石塔>
帝釈天安置石塔の先の参道両脇に石塔があります。左の石塔には猿像がいます。江戸時代の造立かと思いきや、明治28年の銘が刻まれています。






<店頭の車寅次郎像/庚申だるま>
車寅次郎像がショーケースに入っています。

庚申だるまを売っていました。

<葛飾鳶共同組合設立記念碑> 葛飾区柴又7-6-14
現在も、梯子乗りの技を披露されているようです。


○柴又帝釈天遺跡 葛飾区柴又7-7-10
参道の終わり、右手のトイレ前に、「柴又帝釈天遺跡」碑があります。
柴又帝釈天遺跡からは、奈良時代の建物跡と井戸などが見つかっています。
(説明板)
「柴又帝釈天遺跡
この一帯は柴又帝釈天を中心に分布する古墳時代後期から奈良・平安時代の遺跡地です。柴又は、奈良の正倉院に伝わる日本古代史上著名な「養老5年(721)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記載されている嶋俣里の故地として知られています。
最近の調査では、古代の住居跡・井戸跡や多量の土師器・須恵器などが出土しており、郷土「かつしか」の歴史を知る上でも、貴重な遺跡です。
平成元年3月 葛飾区教育委員会」


半田稲荷と願人坊主
○半田稲荷神社 葛飾区東金町4-28-22
和銅4(711)年の創建とも永久年間(1113-17)の創建ともいわれる古社です。
享徳4(1455)年、古河公方(足利成氏)が当社に戦勝祈願、願文は当社の社宝として現存されているといいます。足利成氏の祈願所のほか、尾張徳川家の立願所としても加護を受け、現在の社殿も同家の寄進により建てられました。江戸名所の1つとして、歌舞伎・花柳界・魚河岸を中心とする講中が多く存在しました。
また、赤ずくめの扮装で、半田稲荷を歌う願人坊主は評判となり、子供の疱瘡や麻疹、安産祈願の参詣で人気を博しました。 これを取り入れた歌舞伎や狂言が上演され、歌舞伎役者からも信仰を集めました。
<願人坊主>
「近世流行商人狂哥絵図」(曲亭馬琴)
「榛田稲荷代垢離願人」が描かれています。
読みやすく現代用に置き換え。
「葛西金町
半田の稲荷
疱瘡も軽い
麻疹も軽い
大きな御利生
素敵な御利生
家内安全
息災延命」


「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)
路上を移動中の「榛田稲荷願人坊主」「わいわい天王」が見えます。


「十二月之内 坂東三津五郎所作事」(国貞 文化10(1813)年 ボストン美術館)
「初午や梅に威をます大鳥の 山東京伝」

「江戸名所図会 半田稲荷社」
山門から一直線に「本社」まで参道が伸び、途中一之鳥居が見えます。「本社」の右には「別当」、左には「狐穴」があります。現在の境内の様子とさほど変わりません。


「新編武蔵風土記稿 葛飾郡之八」
「新編武蔵風土記稿」では、和銅4(711)年の創建とされています。狐に乗った十一面観音像の挿絵が掲載されています。


「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
村尾嘉陵は文化14(1817)年に半田稲荷社へ参詣「半田いなり詣の記」しています。浜町→小梅→四ツ木→曳船→新宿→夕顔観音→半田稲荷社。江戸市中からは。水戸街道だけでなく、四ツ木道(曳船)の利用も多かったようです。

<社号標/一之鳥居>
社号標「半田稲荷神社」 と一之鳥居です。


<道標>
道標「是与り」「正一位半田稲荷大明神」 とあります。元文5(1740)年、神田三河町一丁目講中による奉納です。

<道標>
道標が二基あります。両基とも文政8(1825)年銘(再建)で、浅草講中の奉納です。
(正面)「右」「半田稲荷道」


(正面)「ひ多り」「半田稲荷道」


<東京睦講中記念碑>
明治34(1901)年の建立です。江戸下町の地域の名前が広域に見られます。

<手水舎>
文献によると享保19(1734)年銘の水盤(新吉原江戸町桜屋岡田氏奉納)があったようですが、水盤は新しくなっています。


<玉垣/二之鳥居>



<神狐>


<東参道>
社号標「半田稲荷神社」 です。

【境内】
<半田稲荷神社神泉遺構> 葛飾区文化財
二之鳥居をくぐってすぐ右手に「神泉遺構」があります。願人坊主が、水垢離を行った井戸跡です。井戸としての機能は失われていますが、原位置で丁寧に保存されています。
周囲を囲う石柵には、市川団十郎をはじめ、左団次・菊五郎・羽左衛門などの歌舞伎役者や花柳界・魚河岸講中の名前がずらりと並んでいます。




(説明板)
「葛飾区指定有形文化財
半田稲荷神社神泉遺構
所在地 葛飾区東金町四丁目28番22号
指定年月日 平成7(1995)年2月22日
半田稲荷神社の創立は、『新編武蔵風土記稿」では和銅4年(711)、社伝では12世紀初期とされる古社です。江戸時代中期の享保年間には、麻疹や疱瘡よけ、安産に霊験ありとして信仰を集めていました。
江戸では、麻疹や疱瘡を防ぐ色とされた赤色の衣装を着た願人坊主が、謡い踊りながらお札や、災いが去るおまじないの「くくり猿」を売り歩きました。 文化10年(1813)には、坂東三津五郎が中村座の歌舞伎で半田稲荷の願人坊主に扮して大人気となり、浮世絵にも描かれました。
この神泉遺構は、願人坊主が神仏に祈願する際、水を浴びて体のけがれを去る水垢離を行ったところです。 井戸枠には今も注連縄が掛けられ、旧来の形状がよく保存されています。
石棚の柱や袖石には、市川団十郎や尾上菊五郎ら歌舞伎役者の名前も見え、当神社の繁栄を今に伝えています。
葛飾区教育委員会」

石柵「新富座 守田勘彌 尾上菊五郎 市川團団十郎」




袖石「新富町五丁目 大新」など


<大黒湯石燈籠>
神泉遺構の裏に、「大黒湯」と刻まれた大きな石燈籠があります。

<神楽殿・神輿庫>
慶応2(1866)年の神楽殿です。

<社務所>

<神狐>
拝殿前の神狐です。


<拝殿/本殿>
本殿は、弘化2(1845)年に尾張徳川家の立願により造営されました。拝殿は、天保15(1866)年の再建です。



向拝天井には鳳凰が描かれています。扁額は中村正直筆です。


<四基の石碑>
神楽殿の横に四基の石碑があります。






<境内社>
石鳥居と朱色の奉納鳥居が続きます。

<狐塚>
江戸名所図会に描かれている狐穴が、当時の場所とは異なりますがあります。



神狐が躍動的です。


黒ボクの上に石祠があります。


<半田稲荷神社狐一対> 葛飾区文化財
白狐殿の前にある一対の神狐像が葛飾区文化財です。台座には寛延元(1748)年、天明8(1788)再興とあります。


左の神狐像は頭部がセメントで修復。首に継ぎ目があります。




右の神狐像は左耳が補修されています。足が折れた跡があります。




(説明板)
「区登録有形文化財
半田稲荷神社狐一対
所在地 葛飾区東金町四丁目28番22号
登録年月日 平成3年3月25日
左右台座正面には「寛延元年(1748)戌辰年十一月吉日 海野・坂本・筒井氏」とありますが、側面には「天明八季(1788)戌申八月吉日 飯塚桃葉再興」とあります。台座のみの再興か、狐も含めて再興かは不明です。
向かって右の狐は左耳が一部補修され、左の狐はセメントで頭部が造られていますが、区内にある狐の石像としては現在のところ最古のものです。」
参考資料
飯塚桃葉は江戸時代の蒔絵師で徳島藩に召し抱えられ、印籠・文箱・盆・鞍など優れた作品を残しています。 中でも『宇治川蛍蒔絵料紙硯箱』(宮内庁所蔵)は格調高い作品です。飯塚桃葉〔寛政2年(1790)没〕
葛飾区教育委員会」

<稲荷十五神合社(白狐社)>
扁額「白狐殿」とあります。稲荷十五神合社は江戸名所図会に描かれています。





<雷電社>
本殿脇に雷電社が鎮座しています。
脇に、「大土神社」(左)、「水神宮」(右)の石祠が並んでいます。

<稲荷大明神>
「稲荷大明神」の石祠もあります。

<石碑と石祠>
石碑が三基と石祠二基が並んでいます。
一番左の石碑は「御拝殿白狐社敷石寄附」(明治43(1910)年7月)とあります。隣は、松戸町の人々の名前が刻まれていて、寄附碑のようです。三基目はわかりません。




和銅4(711)年の創建とも永久年間(1113-17)の創建ともいわれる古社です。
享徳4(1455)年、古河公方(足利成氏)が当社に戦勝祈願、願文は当社の社宝として現存されているといいます。足利成氏の祈願所のほか、尾張徳川家の立願所としても加護を受け、現在の社殿も同家の寄進により建てられました。江戸名所の1つとして、歌舞伎・花柳界・魚河岸を中心とする講中が多く存在しました。
また、赤ずくめの扮装で、半田稲荷を歌う願人坊主は評判となり、子供の疱瘡や麻疹、安産祈願の参詣で人気を博しました。 これを取り入れた歌舞伎や狂言が上演され、歌舞伎役者からも信仰を集めました。
<願人坊主>
「近世流行商人狂哥絵図」(曲亭馬琴)
「榛田稲荷代垢離願人」が描かれています。
読みやすく現代用に置き換え。
「葛西金町
半田の稲荷
疱瘡も軽い
麻疹も軽い
大きな御利生
素敵な御利生
家内安全
息災延命」


「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)
路上を移動中の「榛田稲荷願人坊主」「わいわい天王」が見えます。


「十二月之内 坂東三津五郎所作事」(国貞 文化10(1813)年 ボストン美術館)
「初午や梅に威をます大鳥の 山東京伝」

「江戸名所図会 半田稲荷社」
山門から一直線に「本社」まで参道が伸び、途中一之鳥居が見えます。「本社」の右には「別当」、左には「狐穴」があります。現在の境内の様子とさほど変わりません。


「新編武蔵風土記稿 葛飾郡之八」
「新編武蔵風土記稿」では、和銅4(711)年の創建とされています。狐に乗った十一面観音像の挿絵が掲載されています。


「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
村尾嘉陵は文化14(1817)年に半田稲荷社へ参詣「半田いなり詣の記」しています。浜町→小梅→四ツ木→曳船→新宿→夕顔観音→半田稲荷社。江戸市中からは。水戸街道だけでなく、四ツ木道(曳船)の利用も多かったようです。

<社号標/一之鳥居>
社号標「半田稲荷神社」 と一之鳥居です。


<道標>
道標「是与り」「正一位半田稲荷大明神」 とあります。元文5(1740)年、神田三河町一丁目講中による奉納です。

<道標>
道標が二基あります。両基とも文政8(1825)年銘(再建)で、浅草講中の奉納です。
(正面)「右」「半田稲荷道」


(正面)「ひ多り」「半田稲荷道」


<東京睦講中記念碑>
明治34(1901)年の建立です。江戸下町の地域の名前が広域に見られます。

<手水舎>
文献によると享保19(1734)年銘の水盤(新吉原江戸町桜屋岡田氏奉納)があったようですが、水盤は新しくなっています。


<玉垣/二之鳥居>



<神狐>


<東参道>
社号標「半田稲荷神社」 です。

【境内】
<半田稲荷神社神泉遺構> 葛飾区文化財
二之鳥居をくぐってすぐ右手に「神泉遺構」があります。願人坊主が、水垢離を行った井戸跡です。井戸としての機能は失われていますが、原位置で丁寧に保存されています。
周囲を囲う石柵には、市川団十郎をはじめ、左団次・菊五郎・羽左衛門などの歌舞伎役者や花柳界・魚河岸講中の名前がずらりと並んでいます。




(説明板)
「葛飾区指定有形文化財
半田稲荷神社神泉遺構
所在地 葛飾区東金町四丁目28番22号
指定年月日 平成7(1995)年2月22日
半田稲荷神社の創立は、『新編武蔵風土記稿」では和銅4年(711)、社伝では12世紀初期とされる古社です。江戸時代中期の享保年間には、麻疹や疱瘡よけ、安産に霊験ありとして信仰を集めていました。
江戸では、麻疹や疱瘡を防ぐ色とされた赤色の衣装を着た願人坊主が、謡い踊りながらお札や、災いが去るおまじないの「くくり猿」を売り歩きました。 文化10年(1813)には、坂東三津五郎が中村座の歌舞伎で半田稲荷の願人坊主に扮して大人気となり、浮世絵にも描かれました。
この神泉遺構は、願人坊主が神仏に祈願する際、水を浴びて体のけがれを去る水垢離を行ったところです。 井戸枠には今も注連縄が掛けられ、旧来の形状がよく保存されています。
石棚の柱や袖石には、市川団十郎や尾上菊五郎ら歌舞伎役者の名前も見え、当神社の繁栄を今に伝えています。
葛飾区教育委員会」

石柵「新富座 守田勘彌 尾上菊五郎 市川團団十郎」




袖石「新富町五丁目 大新」など


<大黒湯石燈籠>
神泉遺構の裏に、「大黒湯」と刻まれた大きな石燈籠があります。

<神楽殿・神輿庫>
慶応2(1866)年の神楽殿です。

<社務所>

<神狐>
拝殿前の神狐です。


<拝殿/本殿>
本殿は、弘化2(1845)年に尾張徳川家の立願により造営されました。拝殿は、天保15(1866)年の再建です。



向拝天井には鳳凰が描かれています。扁額は中村正直筆です。


<四基の石碑>
神楽殿の横に四基の石碑があります。






<境内社>
石鳥居と朱色の奉納鳥居が続きます。

<狐塚>
江戸名所図会に描かれている狐穴が、当時の場所とは異なりますがあります。



神狐が躍動的です。


黒ボクの上に石祠があります。


<半田稲荷神社狐一対> 葛飾区文化財
白狐殿の前にある一対の神狐像が葛飾区文化財です。台座には寛延元(1748)年、天明8(1788)再興とあります。


左の神狐像は頭部がセメントで修復。首に継ぎ目があります。




右の神狐像は左耳が補修されています。足が折れた跡があります。




(説明板)
「区登録有形文化財
半田稲荷神社狐一対
所在地 葛飾区東金町四丁目28番22号
登録年月日 平成3年3月25日
左右台座正面には「寛延元年(1748)戌辰年十一月吉日 海野・坂本・筒井氏」とありますが、側面には「天明八季(1788)戌申八月吉日 飯塚桃葉再興」とあります。台座のみの再興か、狐も含めて再興かは不明です。
向かって右の狐は左耳が一部補修され、左の狐はセメントで頭部が造られていますが、区内にある狐の石像としては現在のところ最古のものです。」
参考資料
飯塚桃葉は江戸時代の蒔絵師で徳島藩に召し抱えられ、印籠・文箱・盆・鞍など優れた作品を残しています。 中でも『宇治川蛍蒔絵料紙硯箱』(宮内庁所蔵)は格調高い作品です。飯塚桃葉〔寛政2年(1790)没〕
葛飾区教育委員会」

<稲荷十五神合社(白狐社)>
扁額「白狐殿」とあります。稲荷十五神合社は江戸名所図会に描かれています。





<雷電社>
本殿脇に雷電社が鎮座しています。
脇に、「大土神社」(左)、「水神宮」(右)の石祠が並んでいます。

<稲荷大明神>
「稲荷大明神」の石祠もあります。

<石碑と石祠>
石碑が三基と石祠二基が並んでいます。
一番左の石碑は「御拝殿白狐社敷石寄附」(明治43(1910)年7月)とあります。隣は、松戸町の人々の名前が刻まれていて、寄附碑のようです。三基目はわかりません。




水戸街道新宿の渡し/石橋供養道標
○水戸街道新宿の渡し(中川橋)
新宿(にいじゅく)の渡しは、水戸街道にあった亀有と新宿を結ぶ中川の渡し船でした。1884(明治17)年、中川橋が完成したことで新宿の渡しは役割を終えました。
「江戸名所図会 新宿渡口」
挿絵には、中川でとれるコイはとても美味しいと書かれています。「松戸街道にして川よりこなたは亀有といへり 此所を流るるは中川にして鯉魚を産す 尤美味なり」

「絵本江戸土産 新宿の渡し場」(広重)
挿絵には、「前図小梅の引舟を過てこの所へ出る 川幅凡そ一町ばかり 尤夏秋洪水なれば 河原に渺々として海に似たり これ 水戸街道の出口 渡をわたりて名高き料理や等いと賑はし」とあります。

「江戸名所百景 にい宿の渡し」(広重)
広重の浮世絵は、亀有と新宿のどちら側から描いたのか2説あります。遠景の山は、亀有説では筑波山説と、日光連山説があります。

<中川橋> 葛飾区亀有〜新宿
(新宿側)




<中川橋橋詰のタブの木> 葛飾区新宿2-9-1
「中川の歴史」と「タブの木の経緯」の説明があります。
(説明板)
「中川橋橋詰のタブの木
〜中川の歴史〜
中川は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川であり、利根川水系の支流です。起点は埼玉県羽生市街地にあり、起点を示す石橋が設置されています。
江戸時代初期までは利根川や荒川の本流でしたが、利根川の東遷事業などで本流が変わり、隅田川と利根川の間を流れる川で「中川」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の中川には橋がひとつもなく、当時の中川橋周辺には、旧水戸街道の亀有村と対岸の新宿町を結ぶ「新宿の渡し場」がありました。近くには「柴又の帝釈天」があることなどから、参拝客や街道を往来する人で大変賑わっていたようです。
〜タブの木の経緯〜
中川橋東詰にあったタブの木は、昔から街道を往来する人々の”道しるべ”であったと伝えられており、地元住民から長く親しまれてきました。
しかし、平成4年から始まった中川橋架替え事業に伴い行った樹木調査の結果、移植が不可能な状況であったため、やむなく伐採されることとなりました。
現在植えられているタブの木は、伐採に先立って穂を採取し、育てた苗木です。また、”旧中川橋の名残”として、苗木の他、以前のタブの木の一部で製作したモニュメント、及び旧中川橋両岸の親柱を設置しております。」



○水戸街道石橋供養道標 葛飾区新宿2-19-13
新宿宿の水戸道と佐倉道の分岐点に石橋供養道標があります。

(説明板)
「区指定有形民俗文化財
水戸街道石橋供養道標
所在地 葛飾区新宿二丁目19番13号先
指定年月日 昭和52年(1977)2月13日
この道標は、水戸道と佐倉道の分岐点に、地域の万人講・不動講・女中講が共同で架橋した27の石橋供養のために建てたものです。建設は安永2年(1773) 10月から同6年11月にかけて行われました。石工は新宿町の中村佐右衛門で、造立時には道標の頭頂部に仏像が載せられていました。
水戸佐倉道は千住宿から分かれて葛西領に入り、宿場町新宿から佐倉道を分岐しました。この形で街道が整備されたのは天和元年(1681)以降で、元佐倉道が本来の街道筋でした。両街道が江戸川を渡る地点には、水戸道に金町松戸関所、佐倉道に小岩市川関所が置かれました。佐倉道は、成田山新勝寺や千葉寺(千葉市)への参詣が盛んになると、成田道や千葉寺道とも呼ばれるようになりました。
葛飾区教育委員会」

<石橋供養道標>
(正面)
「左 水戸街道 右 奈りだち者寺道」

(左面)
「安永六丁酉年八月吉日 石橋供養塔」

(右面)
「成田山 さくらミち 万人 不動 女中」

(裏面)
「安永二年巳ノ十月廿三日より酉ノ十一月十三日まで
石橋廿七ケ所建立仕候爲供養尊像辻石立置申候」
新宿(にいじゅく)の渡しは、水戸街道にあった亀有と新宿を結ぶ中川の渡し船でした。1884(明治17)年、中川橋が完成したことで新宿の渡しは役割を終えました。
「江戸名所図会 新宿渡口」
挿絵には、中川でとれるコイはとても美味しいと書かれています。「松戸街道にして川よりこなたは亀有といへり 此所を流るるは中川にして鯉魚を産す 尤美味なり」

「絵本江戸土産 新宿の渡し場」(広重)
挿絵には、「前図小梅の引舟を過てこの所へ出る 川幅凡そ一町ばかり 尤夏秋洪水なれば 河原に渺々として海に似たり これ 水戸街道の出口 渡をわたりて名高き料理や等いと賑はし」とあります。

「江戸名所百景 にい宿の渡し」(広重)
広重の浮世絵は、亀有と新宿のどちら側から描いたのか2説あります。遠景の山は、亀有説では筑波山説と、日光連山説があります。

<中川橋> 葛飾区亀有〜新宿
(新宿側)




<中川橋橋詰のタブの木> 葛飾区新宿2-9-1
「中川の歴史」と「タブの木の経緯」の説明があります。
(説明板)
「中川橋橋詰のタブの木
〜中川の歴史〜
中川は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川であり、利根川水系の支流です。起点は埼玉県羽生市街地にあり、起点を示す石橋が設置されています。
江戸時代初期までは利根川や荒川の本流でしたが、利根川の東遷事業などで本流が変わり、隅田川と利根川の間を流れる川で「中川」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の中川には橋がひとつもなく、当時の中川橋周辺には、旧水戸街道の亀有村と対岸の新宿町を結ぶ「新宿の渡し場」がありました。近くには「柴又の帝釈天」があることなどから、参拝客や街道を往来する人で大変賑わっていたようです。
〜タブの木の経緯〜
中川橋東詰にあったタブの木は、昔から街道を往来する人々の”道しるべ”であったと伝えられており、地元住民から長く親しまれてきました。
しかし、平成4年から始まった中川橋架替え事業に伴い行った樹木調査の結果、移植が不可能な状況であったため、やむなく伐採されることとなりました。
現在植えられているタブの木は、伐採に先立って穂を採取し、育てた苗木です。また、”旧中川橋の名残”として、苗木の他、以前のタブの木の一部で製作したモニュメント、及び旧中川橋両岸の親柱を設置しております。」



○水戸街道石橋供養道標 葛飾区新宿2-19-13
新宿宿の水戸道と佐倉道の分岐点に石橋供養道標があります。

(説明板)
「区指定有形民俗文化財
水戸街道石橋供養道標
所在地 葛飾区新宿二丁目19番13号先
指定年月日 昭和52年(1977)2月13日
この道標は、水戸道と佐倉道の分岐点に、地域の万人講・不動講・女中講が共同で架橋した27の石橋供養のために建てたものです。建設は安永2年(1773) 10月から同6年11月にかけて行われました。石工は新宿町の中村佐右衛門で、造立時には道標の頭頂部に仏像が載せられていました。
水戸佐倉道は千住宿から分かれて葛西領に入り、宿場町新宿から佐倉道を分岐しました。この形で街道が整備されたのは天和元年(1681)以降で、元佐倉道が本来の街道筋でした。両街道が江戸川を渡る地点には、水戸道に金町松戸関所、佐倉道に小岩市川関所が置かれました。佐倉道は、成田山新勝寺や千葉寺(千葉市)への参詣が盛んになると、成田道や千葉寺道とも呼ばれるようになりました。
葛飾区教育委員会」

<石橋供養道標>
(正面)
「左 水戸街道 右 奈りだち者寺道」

(左面)
「安永六丁酉年八月吉日 石橋供養塔」

(右面)
「成田山 さくらミち 万人 不動 女中」

(裏面)
「安永二年巳ノ十月廿三日より酉ノ十一月十三日まで
石橋廿七ケ所建立仕候爲供養尊像辻石立置申候」

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
日ノ出神社
○日ノ出神社 足立区日ノ出町37-9


<日ノ出神社の由来>
(説明板)
「日ノ出神社の由来
当社は稲荷大明神なる五穀をつかさどる倉稲魂命(素戔雄尊の御子)をお祀りしてあります。
昔からこの辺一帯を弥五郎新田と称されていたが、明治四十四年、荒川放水路の開設工事が起工されるに当り、その計画線内に在って、河底に水没する筈の稲荷神社を、時の弥五郎新田副戸長、大塚孫左氏が、村民の総意によって五反野の稲荷神社(現在足立区足立三丁目)に合祀し、後にこの分れの神社として現在の場所(日ノ出町)へ祀られたものであります。
戦前迄は五反野稲荷の支社として祭事が行なわれて来たが、戦後は時の流れから神事など一時すたれていたものを、昭和二十八年に至り、総代新井竜祐氏等が相はかり、氏子一同の寄付金によって社殿の改修を行い、神輿も新調され、祭礼が行なわれました。
これらを機に、五反野の親宮から分離独立致し、爾来元宮としての日ノ出神社と称する事になった次第であります。
平成十五年三月 日ノ出町自治会」

※五反野の稲荷神社とは、西之宮稲荷神社。こちらで記載しています。


<日ノ出神社の由来>
(説明板)
「日ノ出神社の由来
当社は稲荷大明神なる五穀をつかさどる倉稲魂命(素戔雄尊の御子)をお祀りしてあります。
昔からこの辺一帯を弥五郎新田と称されていたが、明治四十四年、荒川放水路の開設工事が起工されるに当り、その計画線内に在って、河底に水没する筈の稲荷神社を、時の弥五郎新田副戸長、大塚孫左氏が、村民の総意によって五反野の稲荷神社(現在足立区足立三丁目)に合祀し、後にこの分れの神社として現在の場所(日ノ出町)へ祀られたものであります。
戦前迄は五反野稲荷の支社として祭事が行なわれて来たが、戦後は時の流れから神事など一時すたれていたものを、昭和二十八年に至り、総代新井竜祐氏等が相はかり、氏子一同の寄付金によって社殿の改修を行い、神輿も新調され、祭礼が行なわれました。
これらを機に、五反野の親宮から分離独立致し、爾来元宮としての日ノ出神社と称する事になった次第であります。
平成十五年三月 日ノ出町自治会」

※五反野の稲荷神社とは、西之宮稲荷神社。こちらで記載しています。
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