江戸の富突き(富くじ)
○江戸の富突き(富くじ)
江戸の富突き(富くじ)は、幕府公認の「御免富」(寺社の維持・修復費用を得るための富興行)が寺社境内で行われ、谷中感応寺(現:天王寺)・目黒不動(瀧泉寺)・湯島天神が「江戸の三富」として有名な興行場所でした。
三富の他、浅草寺・杉森稲荷・福徳稲荷・護国寺・本所回向院・愛宕山・芝神明・根津権現など多くの寺社が富興業を行いました。
地方の寺社は江戸のどこかの寺社に興業場所を借ります。 浅草寺や椙森神社では多くの寺社が出興業を行いました。京都の仁和寺は、建物修復のため、護国寺で出興業を行っています。
天保13年(1842)3月、「天保の改革」により富興行は禁止されました。
「東都歳事記 谷中天王寺富の図」(国立国会図書館蔵)
群衆が抽選を見守っています。


「初夢宝山吹色」(伊庭可笑 北尾政美 天明元(1781)年)(国立国会図書館蔵)
抽選の光景です。

「江都名所 湯しま天神社」(広重)(国立国会図書館蔵)
富札専門店の札屋が見えます。「千両」と書かれた紙や棚に並ぶ富札が見えます。


「湯島天神の富札」(江戸の今昔 歌川広重他 昭和7年)(国立国会図書館蔵)
湯島天神の富札は、江戸市中に売り出され、抽選日は寺社奉行立会の上、札を突いて番号が決まります。

「当世名物鹿子 神社仏閣の一乃富」(英泉 ボストン美術館蔵)
市中で富札を売った「富札屋」の店先が描かれています。富札が並び、「茅場町」「福徳稲荷」「白旗いなり」「両国」が見えます。
「茅場町」は、茅場町薬師(智泉院)、「福徳稲荷」は日本橋室町の福徳神社、「白旗いなり」は日本橋本石町の白旗稲荷神社、「両国」は、回向院かと思われます。


<椙森神社の「富塚」>
「富塚」は、椙森神社で行われた富興行をしのんで大正8(1919)年に建てられたもの(昭和28(1953)年再建)です。富塚の前に三宝(富くじ入れ)が置かれています。


<富塚祈願祭>
「九月二日(くじの日)十時三分(とみ)
富塚祈願祭」

江戸の富突き(富くじ)は、幕府公認の「御免富」(寺社の維持・修復費用を得るための富興行)が寺社境内で行われ、谷中感応寺(現:天王寺)・目黒不動(瀧泉寺)・湯島天神が「江戸の三富」として有名な興行場所でした。
三富の他、浅草寺・杉森稲荷・福徳稲荷・護国寺・本所回向院・愛宕山・芝神明・根津権現など多くの寺社が富興業を行いました。
地方の寺社は江戸のどこかの寺社に興業場所を借ります。 浅草寺や椙森神社では多くの寺社が出興業を行いました。京都の仁和寺は、建物修復のため、護国寺で出興業を行っています。
天保13年(1842)3月、「天保の改革」により富興行は禁止されました。
「東都歳事記 谷中天王寺富の図」(国立国会図書館蔵)
群衆が抽選を見守っています。


「初夢宝山吹色」(伊庭可笑 北尾政美 天明元(1781)年)(国立国会図書館蔵)
抽選の光景です。

「江都名所 湯しま天神社」(広重)(国立国会図書館蔵)
富札専門店の札屋が見えます。「千両」と書かれた紙や棚に並ぶ富札が見えます。


「湯島天神の富札」(江戸の今昔 歌川広重他 昭和7年)(国立国会図書館蔵)
湯島天神の富札は、江戸市中に売り出され、抽選日は寺社奉行立会の上、札を突いて番号が決まります。

「当世名物鹿子 神社仏閣の一乃富」(英泉 ボストン美術館蔵)
市中で富札を売った「富札屋」の店先が描かれています。富札が並び、「茅場町」「福徳稲荷」「白旗いなり」「両国」が見えます。
「茅場町」は、茅場町薬師(智泉院)、「福徳稲荷」は日本橋室町の福徳神社、「白旗いなり」は日本橋本石町の白旗稲荷神社、「両国」は、回向院かと思われます。


<椙森神社の「富塚」>
「富塚」は、椙森神社で行われた富興行をしのんで大正8(1919)年に建てられたもの(昭和28(1953)年再建)です。富塚の前に三宝(富くじ入れ)が置かれています。


<富塚祈願祭>
「九月二日(くじの日)十時三分(とみ)
富塚祈願祭」

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御籾蔵(江戸幕府施設)
○御籾蔵(江戸幕府施設)
寛政6(1794)年、大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備え、老中松平越中守定信の建議により籾蔵が建てられることとなりました。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳原に十二棟、小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の籾蔵が建てられ、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されました。
小菅に多く建てられたのは、江戸市街と違い火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便がよかったこと、官有地であったことなどのためといわれています。
以下は、記述済の記事を抜粋してまとめたものです。
○向柳原籾蔵跡 千代田区神田須田町2丁目
老中松平定信の建議により建てられた江戸市中で一番最初の籾蔵です。安政3(1856)年に小菅村に移されています。
「江戸切絵図」
筋違御門と和泉橋の間の柳原堤に沿って籾蔵が見えます。

「江戸名所図会 柳原堤」
「柳森稲荷」の南に、小菅村に移される前の籾蔵が見えます。


「現在の地図」
現在の地図に、「籾蔵」の場所を記載しました。

○神田筋違橋内火除地籾蔵跡 千代田区神田須田町1丁目
老中松平定信の建議により建てられた江戸市中の籾蔵のうちの一つです。
江戸の中央にあるため安政3(1856)年に小菅村に移されました。
「江戸名所図会 筋違八ツ小路」
柳が植わっている神田川下流に筋違橋、その上流に昌平橋が見えます。八ツ広路は、火除地を兼ねた広場となっています。火の見櫓が見えます。昌平橋近くの火除地の建造物が籾蔵でしょうか?

○深川御籾蔵跡(江東区史跡) 江東区常盤1丁目
「旧新大橋跡」(江東区史跡)の標柱はありますが、同じく江東区史跡に登録されている「深川御籾蔵跡」は標柱のたぐいは何もありません。「深川芭蕉通り」の常盤1丁目が「深川御籾蔵跡」です。


「江戸切絵図」
「新大橋」と「御籾蔵」部分の抜粋です。


「江戸名所図会 新大橋 三派」
新大橋が大きく描かれ、下流には「永代橋」が見えます。
挿絵左手に御籾蔵が見えます。御籾蔵の右には番所があり、木柵の奥に見張りの役人が見えます。

○小菅御籾蔵跡 葛飾区小菅1丁目
小菅御殿の跡地に、江戸市中最大の籾蔵がありました。
小林一茶は小菅御籾蔵の句を詠んでいます。「遠水鶏 小菅の御門 しまりけり」(閉まろうとする小菅御籾蔵の御門を叩いているような水鶏の声が遠くから聞こえてくる。静かな夏の小菅の夕刻です。)
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵」
現地の各種説明板には、小菅御籾蔵がたいてい言及されていますが、詳細に記されていので引用します。建築に要した費用は、三万八千両といいますから、一両4万円で試算すると15億円となります。
(説明板)
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四〜一六四三)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川のほとりには鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗公の命により遊猟の御膳所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な跡地の一部に、天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾蔵が建てられました。その目的は、大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い、火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便がよかったこと、もちろん官有地であることも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は、三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました。」(誤植は修正しました)



【御籾蔵】
○ 向柳原籾蔵跡
○ 神田筋違橋内火除地籾蔵跡
○ 深川御籾蔵跡
○ 小菅御籾蔵跡
寛政6(1794)年、大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備え、老中松平越中守定信の建議により籾蔵が建てられることとなりました。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳原に十二棟、小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の籾蔵が建てられ、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されました。
小菅に多く建てられたのは、江戸市街と違い火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便がよかったこと、官有地であったことなどのためといわれています。
以下は、記述済の記事を抜粋してまとめたものです。
○向柳原籾蔵跡 千代田区神田須田町2丁目
老中松平定信の建議により建てられた江戸市中で一番最初の籾蔵です。安政3(1856)年に小菅村に移されています。
「江戸切絵図」
筋違御門と和泉橋の間の柳原堤に沿って籾蔵が見えます。

「江戸名所図会 柳原堤」
「柳森稲荷」の南に、小菅村に移される前の籾蔵が見えます。


「現在の地図」
現在の地図に、「籾蔵」の場所を記載しました。

○神田筋違橋内火除地籾蔵跡 千代田区神田須田町1丁目
老中松平定信の建議により建てられた江戸市中の籾蔵のうちの一つです。
江戸の中央にあるため安政3(1856)年に小菅村に移されました。
「江戸名所図会 筋違八ツ小路」
柳が植わっている神田川下流に筋違橋、その上流に昌平橋が見えます。八ツ広路は、火除地を兼ねた広場となっています。火の見櫓が見えます。昌平橋近くの火除地の建造物が籾蔵でしょうか?

○深川御籾蔵跡(江東区史跡) 江東区常盤1丁目
「旧新大橋跡」(江東区史跡)の標柱はありますが、同じく江東区史跡に登録されている「深川御籾蔵跡」は標柱のたぐいは何もありません。「深川芭蕉通り」の常盤1丁目が「深川御籾蔵跡」です。


「江戸切絵図」
「新大橋」と「御籾蔵」部分の抜粋です。


「江戸名所図会 新大橋 三派」
新大橋が大きく描かれ、下流には「永代橋」が見えます。
挿絵左手に御籾蔵が見えます。御籾蔵の右には番所があり、木柵の奥に見張りの役人が見えます。

○小菅御籾蔵跡 葛飾区小菅1丁目
小菅御殿の跡地に、江戸市中最大の籾蔵がありました。
小林一茶は小菅御籾蔵の句を詠んでいます。「遠水鶏 小菅の御門 しまりけり」(閉まろうとする小菅御籾蔵の御門を叩いているような水鶏の声が遠くから聞こえてくる。静かな夏の小菅の夕刻です。)
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵」
現地の各種説明板には、小菅御籾蔵がたいてい言及されていますが、詳細に記されていので引用します。建築に要した費用は、三万八千両といいますから、一両4万円で試算すると15億円となります。
(説明板)
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四〜一六四三)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川のほとりには鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗公の命により遊猟の御膳所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な跡地の一部に、天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾蔵が建てられました。その目的は、大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い、火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便がよかったこと、もちろん官有地であることも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は、三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました。」(誤植は修正しました)



【御籾蔵】
○ 向柳原籾蔵跡
○ 神田筋違橋内火除地籾蔵跡
○ 深川御籾蔵跡
○ 小菅御籾蔵跡
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江戸の暮らし 歳事記インデックス
○歳事記
これまでの記事の歳事記インデックスです。
・人日の節句(七草の節句)(1月7日)
・花見
墨堤 飛鳥山 上野 浅草 吉原 御殿山
・上巳の節句(桃の節句)(3月3日)
上巳の節句と十軒店
・汐干狩り(3月3日)
洲崎の汐干
品川の汐干
・初鰹(4月)
初鰹
・端午の節句(5月5日)
端午の節句と十軒店
・川開き(5月28日)
両国花火
・嘉祥の儀(6月16日)
嘉祥の儀
・佃祭(6月30日)
佃島/石川島
・七夕(しちせき)(7月7日)
七夕(しちせき) 井戸浚(いどさらえ)
・二十六夜待(7月26日)
高輪 諏訪台
・月見(8月15日)
小名木川五本松 本行寺(月見寺) 三つ又 洲崎 愛宕山
真間山弘法寺
・重陽の節句(菊の節句)(9月9日)
染井の観菊
・生姜祭(9月11〜21日)
芝大神宮
・蛍狩り
谷中の蛍沢 落合の蛍 滝野川の蛍 根岸の蛍
・聴虫
道灌山
・紅葉
海晏寺 正燈寺 滝野川 市川真間① 市川真間②
・七五三(11月15日)
東本願寺
・酉の市(11月の酉の日)
酉の市① 酉の市② 酉の市③
これまでの記事の歳事記インデックスです。
・人日の節句(七草の節句)(1月7日)
・花見
墨堤 飛鳥山 上野 浅草 吉原 御殿山
・上巳の節句(桃の節句)(3月3日)
上巳の節句と十軒店
・汐干狩り(3月3日)
洲崎の汐干
品川の汐干
・初鰹(4月)
初鰹
・端午の節句(5月5日)
端午の節句と十軒店
・川開き(5月28日)
両国花火
・嘉祥の儀(6月16日)
嘉祥の儀
・佃祭(6月30日)
佃島/石川島
・七夕(しちせき)(7月7日)
七夕(しちせき) 井戸浚(いどさらえ)
・二十六夜待(7月26日)
高輪 諏訪台
・月見(8月15日)
小名木川五本松 本行寺(月見寺) 三つ又 洲崎 愛宕山
真間山弘法寺
・重陽の節句(菊の節句)(9月9日)
染井の観菊
・生姜祭(9月11〜21日)
芝大神宮
・蛍狩り
谷中の蛍沢 落合の蛍 滝野川の蛍 根岸の蛍
・聴虫
道灌山
・紅葉
海晏寺 正燈寺 滝野川 市川真間① 市川真間②
・七五三(11月15日)
東本願寺
・酉の市(11月の酉の日)
酉の市① 酉の市② 酉の市③
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江戸の暮らし 農村
○江戸の暮らし 農村
「江戸風俗十二ケ月の内 五月 田植之図」(楊洲周延 明治23年)
水入れ、代かき、田植えの光景です。

「農家耕作之図」(玉蘭斎貞秀(歌川貞秀))
稲作の一年が描かれています。

「成形圖説」
成形圖説は農業の百科事典。農村と田植えの光景です。


左手の農夫2人が鉄砲を持っています。右手に鹿が見えます。2頭の猪が畑を荒らしています。農村では害獣対策に鉄砲を使っていたようです。
「江戸風俗十二ケ月の内 五月 田植之図」(楊洲周延 明治23年)
水入れ、代かき、田植えの光景です。

「農家耕作之図」(玉蘭斎貞秀(歌川貞秀))
稲作の一年が描かれています。

「成形圖説」
成形圖説は農業の百科事典。農村と田植えの光景です。


左手の農夫2人が鉄砲を持っています。右手に鹿が見えます。2頭の猪が畑を荒らしています。農村では害獣対策に鉄砲を使っていたようです。

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tag : 楊洲周延
将軍の暮らしと大奥
○将軍の暮らしと大奥
楊洲周延周延は、江戸時代には描けなかった幕府の行事や大奥を描いており、「千代田之御表」や「千代田の大奥」の作品があります。(リンクは国立国会図書館デジタルコレクション)
【千代田之御表】
「千代田之御表 将軍宣下」(楊洲周延 明治30年)

「千代田之御表 浜御成」(楊洲周延 明治30年)
将軍が浜御殿へ出かけて、釣りをしているところです。釣り好きと伝承されているのは吉宗だけなので、こちらの将軍は八代将軍吉宗らしいです。

「千代田之御表 打毬上覧」(楊洲周延 明治30年)
打毬試合の将軍上覧が描かれています。中央の衝立に丸い穴が開いた毬門が見えます。
宮内庁主馬班が江戸時代の様式の打毬を保存しています。「打毬(だきゅう)について」(宮内庁)

「打毬合戦双六」(一登斎芳綱)
打毬は双六にもなっています。


「千代田之御表 鶴御成」(楊洲周延 明治30年)
将軍が放った鷹と鷹匠が鶴を捕えている光景が描かれています。
(三河島の鶴御成について、こちらで記載)

【千代田之大奥】
「千代田大奥 御花見」(楊洲周延周延 明治27年)
江戸城の吹上庭園での御花見です。

「千代田の大奥 花菖蒲」(楊洲周延 明治29年)
大奥での花菖蒲の観賞が描かれています。現在も、二の丸庭園で一般観覧可能です。


「千代田之大奥 ほたる」(楊洲周延 明治29年)
音無川のホタルは、良い光を放つということで、大奥ではこれを取り寄せていました。

「千代田之大奥 入浴」(楊洲周延 明治28年)
御台所の入浴は朝で、大奥の湯殿に湯船はなく、かけ湯だけです。 湯上りの御台所が浴衣姿で手ぬぐいかけの脇で涼んでいます。 汗は浴衣に吸わせ、何度か着替えを行ったそうです。

<団扇車>
扇風機!が描かれています。「団扇車(うちわぐるま)」と呼ばれました。ハートマークの団扇が6枚ついた手回し扇風機を女中が回して、湯あがりの御台所に風を送っています。女中の着物は朝顔の絵柄で涼しそうですが、六角形の歯車についた棒で回しにくそう。

「千代田之大奥 節分」(楊洲周延 明治29年)
大奥では、節分に「御留守居役」が豆をまきました。御留守居役は、大奥の各部屋で「福は内」と唱え三度豆をまきます。御台所の年齢にひとつ加えた数の豆を白紙に包み、御台所の御前にささげました。女中が持っている三方の上に白紙に包まれた豆が見え、これから御台所のところへ持っていくようです。

豆まき役の御留守居役は、豆で「万万歳」の三文字を畳の上に書いてお祝いします。最後に御留守居役は、女中たちに布団でグルグル巻にされ、祝い唄を歌われながら三度胴上げされます。

楊洲周延周延は、江戸時代には描けなかった幕府の行事や大奥を描いており、「千代田之御表」や「千代田の大奥」の作品があります。(リンクは国立国会図書館デジタルコレクション)
【千代田之御表】
「千代田之御表 将軍宣下」(楊洲周延 明治30年)

「千代田之御表 浜御成」(楊洲周延 明治30年)
将軍が浜御殿へ出かけて、釣りをしているところです。釣り好きと伝承されているのは吉宗だけなので、こちらの将軍は八代将軍吉宗らしいです。

「千代田之御表 打毬上覧」(楊洲周延 明治30年)
打毬試合の将軍上覧が描かれています。中央の衝立に丸い穴が開いた毬門が見えます。
宮内庁主馬班が江戸時代の様式の打毬を保存しています。「打毬(だきゅう)について」(宮内庁)

「打毬合戦双六」(一登斎芳綱)
打毬は双六にもなっています。


「千代田之御表 鶴御成」(楊洲周延 明治30年)
将軍が放った鷹と鷹匠が鶴を捕えている光景が描かれています。
(三河島の鶴御成について、こちらで記載)

【千代田之大奥】
「千代田大奥 御花見」(楊洲周延周延 明治27年)
江戸城の吹上庭園での御花見です。

「千代田の大奥 花菖蒲」(楊洲周延 明治29年)
大奥での花菖蒲の観賞が描かれています。現在も、二の丸庭園で一般観覧可能です。


「千代田之大奥 ほたる」(楊洲周延 明治29年)
音無川のホタルは、良い光を放つということで、大奥ではこれを取り寄せていました。

「千代田之大奥 入浴」(楊洲周延 明治28年)
御台所の入浴は朝で、大奥の湯殿に湯船はなく、かけ湯だけです。 湯上りの御台所が浴衣姿で手ぬぐいかけの脇で涼んでいます。 汗は浴衣に吸わせ、何度か着替えを行ったそうです。

<団扇車>
扇風機!が描かれています。「団扇車(うちわぐるま)」と呼ばれました。ハートマークの団扇が6枚ついた手回し扇風機を女中が回して、湯あがりの御台所に風を送っています。女中の着物は朝顔の絵柄で涼しそうですが、六角形の歯車についた棒で回しにくそう。

「千代田之大奥 節分」(楊洲周延 明治29年)
大奥では、節分に「御留守居役」が豆をまきました。御留守居役は、大奥の各部屋で「福は内」と唱え三度豆をまきます。御台所の年齢にひとつ加えた数の豆を白紙に包み、御台所の御前にささげました。女中が持っている三方の上に白紙に包まれた豆が見え、これから御台所のところへ持っていくようです。

豆まき役の御留守居役は、豆で「万万歳」の三文字を畳の上に書いてお祝いします。最後に御留守居役は、女中たちに布団でグルグル巻にされ、祝い唄を歌われながら三度胴上げされます。

- カウンター