夜鷹/夜鷹そば/船饅頭

○夜鷹

<本所吉田町>

 本所吉田町(昭和4(1929)年に墨田区石原四丁目に編入)は法恩寺橋の西の両側にありました。本所吉田町の裏長屋は、夜鷹の巣窟として有名でした。

「江戸切絵図」

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<本所吉田町の裏長屋>

「東京開化狂画名所 本所吉田町 夜たかのどんたく」(月岡芳年 都立図書館蔵)
 どんたくとは休日を意味します。土曜日は半日が休みなので「半ドン」です。夜鷹たちの本所吉田町の裏長屋での休日の光景が描かれています。鼻がもげて、鼻穴だけの女性もいます。
 川柳「はな散る里は吉田町鮫ケ橋」

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<隅田川を渡って>

「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)
 船上の二人は夜鷹で、横に控える男の肌色の顔色と異なり、真っ白な濃い化粧で表現されています。 男は妓夫(ぎゅう)(客引き、用心棒)で、牛、牛夫とも書き、牛太郎とも呼ばれました。
 夜鷹は石原橋奥の本所吉田町の裏長屋に住み、隅田川を越えて商売をしていました。

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 隅田川の向岸に見えるのが「石原橋」(現存せず)です。現在の横網2丁目12番地の入堀に架かっていました。
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「江戸名所百人美女 大川橋里俗吾妻はし」(豊国・国久)
 夜鷹は、黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ吹きさらしにする姿が定形でした。夜鷹の横にいるのは妓夫(客引き、用心棒)です。妓夫は左手に「吉田」と書かれた傘をもっています。 夜鷹と妓夫は、本所吉田町から来て、隅田川を吾妻橋で渡り柳原に商売に行くのでしょう。

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「月百姿 田毎ある中にもつらき辻君の かほさらしなや運の月かけ 一とせ」(月岡芳年)
 柳原で人気だった夜鷹が「ひととせ」です。黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ、ゴザを抱える夜鷹の定型の姿です。月に向かって顔をさらさないようにと訴え、さらせば運の尽きと掛けています。
 川柳に「てうちんで 夜鷹をみるは むごい人」があります。

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<柳原土手>
 昼間は古着屋が軒を連ね賑わった柳原土手ですが、夜は夜鷹が営業する場所として有名でした。
 「古着屋と 二十四文と 入れかわり」(川柳)

「江戸名所図会 柳原堤」
 昼間の柳原堤です。古着屋が軒を連ねて、古着が吊るされています。

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「東京開化狂画名所 柳原 生臭坊主の臆病」(月岡芳年 都立図書館蔵)
 柳原土手での光景が描かれています。

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「江戸の花:温故知新 柳原夜鷹の図」(博文舘 1890年)
 柳原の夜鷹が描かれています。

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「東京名所三十六戯撰 柳原元和泉はし」(昇齋一景 1872年)
 神田川の和泉橋辺りの柳原での光景です。女性が舟に乗ろうとして、たぶんこぼれていた汚物に滑って、お隣の汚穢舟に転げ落ちています。転んでいる女性はゴザを持っているので、夜鷹でしょう。左端の男性は臭くて鼻をつまんでいます。右端の女性は着物の袖で顔の下をおおい、男性は扇子で顔の下をおおっています。下肥は、長屋より武家屋敷のほうが高く買い取られ、神田川は汚穢舟が目立った東京の名所でしたか?

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「江戸名所道化尽 七 新シ橋の大風」(歌川広景)
 神田川の新シ橋(現在の美倉橋)辺りの柳原での光景です。柳原堤と強風にあおられている柳が見えます。神田川の上流には、火の見櫓が見えます。
 新シ橋の上では、吹き荒れる風に人々が翻弄されています。一人は空高く傘を飛ばされ、一人は笠を飛ばされています。女性はマリリン・モンロー状態で、紙(浅草紙ですかね)を飛ばされています。飛ばされている紙は、柳原という場所を考えると御簾紙で女性は夜鷹に思えます。手がふさがっている男性は布を顔面に飛ばされ前が見えません。

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○夜鷹そば

 夜そば売りは「夜鷹そば」と呼ばれました。夜鷹がよく食べたから、そばの値段が夜鷹の代金と同じだったから、夜鷹と同じく夜になると現れて商売したからなど諸説あります。
 夜鷹蕎麦よりも上等な風鈴蕎麦が登場しますが、夜鷹そばも真似て風鈴をつけ出し、両者の区別はなくなり風鈴そばという名称も消えていきました。風鈴だけはそのまま使われ、夜そば売りのトレードマークとなりました。

「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)
 「夜そば売り」です。提灯を脇に置いて、客がそばをすすっています。

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「今世斗計十二時 寅ノ刻」(国貞)

 寅ノ刻とあるので、深夜3時から5時です。夜鷹が描かれており、こま絵には夜そば売りが描かれています。屋台に風鈴が2つぶら下げられています。

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「鐘淵劇場故」(国貞 都立図書館蔵)
 役者絵で描かれた夜そば売りです。 掛行燈には「二八 そは うんどん」の文字が入っています。

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○船饅頭

 船で商売する私娼を「船饅頭」と呼びました。 表向きは「饅頭」を売っていたからだといわれています。船饅頭は川岸で客に声をかけ、客を船に乗せて水上へ船を出し、一定の時間で戻ります。行徳河岸〜永久橋、鉄砲洲の川岸に多かったようです。

「東京開化狂画名所 鉄砲洲船饅頭舟玉の開扉 」(月岡芳年 都立図書館蔵)
 碇泊している船から船饅頭が小舟に飛び降りてきています。 船に乗り込んで仕事を終えてきたのか、船に乗り込んで客引きをしてきたのか、どちらですかね。

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「盲文画話 舟まんぢう」

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「世諺口紺屋雛形」(曲亭馬琴)

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「間合俗物譬問答」

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「絵本阿房袋」

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tag : 月岡芳年歌川広重江戸名所百人美女

市川関所跡

○市川関所跡 市川市市川3丁目

 市川市の江戸川堤防上に、市川関所跡の標柱とモニュメントがあります。

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<標柱「市川関所跡」>

 (表)「市川関所跡」
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 (裏)「昭和五十八年三月 市川市」
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(説明板)
「市川関所跡
 江戸時代以前の江戸川は太日川と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上馬屋がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文、「東路の都登」のなかで、市川に渡があったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けれれていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
 「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸
川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では二〜三艘の船を用意し、川場に番小屋を建て、二○人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方」とも呼ばれた。
 慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治二年(一八六九)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治三十八年(一九○五)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。
  平成十六年七月  市川市」

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 江戸川下流に「市川橋」(旧名は江戸川橋)が見えます。
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 対岸に江戸川区が設置した説明板「小岩市川の渡し跡 小岩市川関所跡」が見えます。
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 「市川関所跡」の右手には、大きな「ヤマザキパン中央研究所」があります。
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tag : 江戸名所図会江戸幕府施設関所

小岩・市川関所と御番所町

○小岩・市川関所跡と御番所町跡

「江戸名所図会 市川渡口 根本橋 利根川」

 江戸川右岸に「御関所」、左岸に「市川宿」と記されています。
 真間川に架かる根本橋から左へ街道を上がっていくと国府台です。
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 「御関所」部分の拡大です。
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「絵本江戸土産 市川の渡し」(二代広重)

 挿絵には「下総への海道にして景色甚だよし 左の方には名にしおふ鴻の台を見はらし利根遠帆雲外に航る 四時の瞻望尽きることなし」とあります。

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○御番所町の慈恩寺道石造道標(江戸川区文化財) 江戸川区北小岩3-23-7

 房総方面から慈恩寺へお詣りする人びとは小岩市川の渡しを渡ってからこの道標を見て北へ曲がって行きました。安永4(1775)年に建立の道標です。

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(正面) 「右せんじゅ岩附志おんじ道」
     「左り江戸本所ミち」
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(左側面)「右いち川みち」
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(右側面)「左りいちかわミち」
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(説明板)
「御番所町の慈恩寺道石造道標
  昭和五十八年(一九八三)三月登録
  区登録有形文化財・歴史資料
 江戸時代、庶民の間には霊場崇拝の風習が盛んになりました。坂東三十三観音もそのひとつで、埼玉県岩槻市の古刹慈恩寺は、十二番札所として関東各地から参詣人を集めていました。
 このあたりは、むかし御番所町といわれたところで、この先にある江戸川河川敷には、小岩市川の関所がありました。
 この道標は佐倉街道と元佐倉道の合流点にあって、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えたと思われます。
 銘文は安永四年(一七七五)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の三方向を示しています。
  銘文
正面 右 せんじゅ岩附志おんじ道
    左り 江戸本所ミち
右面 左り いち川ミち
    小岩御番所町世話人忠兵衛
左面 右 いち川ミち
    安永四乙未年八月吉日
    北八丁堀 石工 かつさや加右衛門
  平成一五年二月  江戸川区教育委員会」

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○御番所町跡(江戸川区史跡) 江戸川区北小岩3-24-9

 佐倉道と元佐倉道の合流するところに、説明板「御番所町跡」が設置されています。かつて角屋旅館が営業していた前です。

(説明板)
「御番所町跡
  江戸川区登録史跡
  北野神社〜蔵前橋通り(道路部分)
 ここは旧伊予田村に属し、佐倉道と元佐倉道の合流するところで、南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の頃にも、関所は「江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云、対岸は下總國葛飾郡市川村なれば、小岩市川の御番所と云」と書かれています。
 御番所町は『徳川実紀』延宝二年(一六七四)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるもの考えられます。
 かつては旅籠屋を兼ねた小料理屋をはじめ、鮨屋、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などが並んでいたと伝えられます。街道の江戸川に突きあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に「御番所町の慈恩寺道石造道標」が望めました。今も原位置にあり、道路の様子も旧状をとどめています。そのほかにも、江戸川畔にあった常燈明(宝林寺内)や、関所役人中根家の墓(本蔵寺墓地)など、ゆかりのある旧跡がよく残っています。   江戸川区」

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○小岩市川の渡し跡 小岩市川関所跡 江戸川区北小岩3丁目先

 江戸川堤防上に、説明板「小岩市川の渡し跡 小岩市川関所跡」が設置されています。


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(説明板)
「小岩市川の渡し跡 小岩市川関所跡
 江戸時代のはじめ、両国から竪川の北岸を東にすすみ、逆井の渡しで中川(旧中川)をわたり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へむかう道がひらかれました。「元佐倉道」とよばれ、明治八年(一八七五)に千葉街道と改称されています。江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間延絵図』には、「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。
 江戸から佐倉へむかう道筋には、千住から新宿(葛飾区)に至って水戸街道から分かれ、小岩に至る佐倉道があり、江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。
 江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関所がおかれていました。『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の項に「対岸は下総国葛飾郡市川村なれば、小岩市川の御番という」とあります。これは、幕府の設けた関所のひとつで、常時四人の番士が配属されていました。上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治二年に廃止されました。   江戸川区」

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 江戸川左手に「京成本線 江戸川橋梁」が見えます。
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 対岸に「市川関所跡モニュメント」が見えます。
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 江戸川右手に「市川橋」(旧称江戸川橋)が見えます。
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○宝林寺 江戸川区北小岩3-23-11

 愛宕山地蔵院宝林寺と号します。
 千住総講中により天保10(1839)年に建てられた常燈明があります。もとは小岩市川の渡し場に建てられていましたが、昭和9(1934)年に河川改修のためここに移されました。

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(説明板)
「寶林寺
 真言宗豊山派に属し、愛宕山地蔵院と号します。もとは千葉県市川市国分の金光明寺の末寺です。起立は大秀法印(慶長十二年・一六○七没)で、本尊は不動明王です。本堂前には常燈明が、墓地には旧伊?田村(現在の北小岩三丁目ほか)の開拓者・篠原伊豫の墓と伝わる宝篋印塔があります。
■常燈明
  昭和六年(一九八一)一月登録
  区登録有形文化財・建造物
 もとは小岩市川の渡し場に建てられていました。昭和九年に河川改修のためここに移されました。この渡しは江戸時代には成田詣での人たちで賑わいました。この常燈明は千住総講中の人たちによって天保十年(一八三九)に建てられました。灯籠の高さ二m、台石は五段に組まれていて、高さは一・八二mあります。
■宝林寺所在の地蔵菩薩像庚申塔(寛文十年銘)
  昭和五九年(一九八四)二月登録
  区登録有形民俗文化財・民俗資料
 参道入り口に他の石仏群と共に祀られています。舟型で地蔵菩薩立像は洋肉彫、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。像高は一四四cm、寛文十年(一六七○)に建てられました。
  平成十八年一月  江戸川区教育委員会」

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<常燈明>

 成田講の千住総講中による天保10(1839)年の建立です。
 「弘法大師御遠忌記念再興」とあり、成田講との関係がわかりません。

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【石仏群】
 参道左手、墓地手前にある「石仏群」です。

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<庚申塔>

 一番左は、文化元(1804)年銘の文字庚申塔です。

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<地蔵菩薩像庚申塔> 江戸川区文化財

 左から2番目の寛文10(1670)年銘の地蔵菩薩像庚申塔です。

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<庚申塔>

 貞享3(1686)年銘の庚申塔です。

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<六地蔵>

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<馬頭観音>

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<タブノキ> 江戸川区保護樹

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将軍御鹿狩(おししがり)/御立場跡

【将軍御鹿狩(おししがり)】

 江戸幕府は軍馬需要をまかなうため、下総に小金牧・佐倉牧、安房に嶺岡牧、駿河に愛鷹牧を設けました。
 小金牧は慶長年間(1595〜1615)に設置され、明治維新で廃止されるまで存続しました。小金牧には、総延長150キロメートルに及ぶ野馬除土手が築かれ、幕末には約一千頭の馬がいたといわれています。小金牧は、江戸時代後期では高田台牧・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧の五牧からなりました。
 このうち中野牧は、現在の柏市・松戸市・鎌ヶ谷市・白井市・船橋市域に及びます。
 中野牧は、享保10(1725)年及び翌年の8代将軍徳川吉宗による御鹿狩り以降、11代家斉が寛政7(1795)年、12代家慶(一橋慶喜が御随従)が嘉永2(1849)年に御鹿狩りを行いました。将軍御鹿狩は、鷹狩りと違って見物が許されたので、当日は弁当持参の見物人が何万人も押しかけました。明治維新後も、徳川慶喜と徳川昭武は、共に小金で狩猟を度々行っています。


○錦絵に見る将軍御鹿狩

「千代田之御表 松戸宿船橋」(楊洲周延 明治30年)

 12代家慶(一橋慶喜が御随従)による嘉永2(1849)年の御鹿狩では、旗本たちは前日に江戸を出発し、金ケ作で一泊。将軍は当日の午前1時に江戸城を出ました。総勢2万3千人。 見物は3万人。見物者は12代将軍家慶や一橋慶喜公を見ると歓声を上げました。
 江戸川には、舟21艘で船橋を作りました。御座船「麒麟丸」が船橋の脇に見えます。

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「千代田之御表 小金原牧狩ノ図」(楊洲周延 明治30年)

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「千代田之御表 小金原牧狩立場之図」(楊洲周延 明治30年)

 御立場が描かれています。吉宗の時には鉄砲を持った警護がいましたが、この時はいません。
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「千代田之御表 小金原牧狩引揚ノ図」(楊洲周延 明治30年)

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「温故東能花 将軍家於小金原御猪狩之図」(楊洲周延 明治22年)

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「小金原田蒐之図」(山内道正)

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 獲物の鹿や猪が見えます。ウサギも逃げています。吉宗の御鹿狩では、明治時代に絶滅した日本狼も獲物として捕えています。
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 獲物ではありませんが野馬も駆けています。
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 御立場も描かれています。鉄砲を持った警護も見えます。
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 御用幟を掲げて、獲物を運ぶ勢子(人足)が描かれています。「御用 武州 ○○村 百十人」と見えるので、この村は110人動員されています。
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「御用幟(人足幟)」

 御鹿狩に際しては、関東各地の農村の人々が勢子(人足)として動員されました。人数は村ごとに決められており各々目印となる旗を掲げました。
 この御用幟は、嘉永2(1849)年12代将軍徳川家慶が行った小金牧の御鹿狩で鳴根村の勢子が用いたもので、縦106cm・横65cm、紺地に白抜き文字で次のように記されています。
  「御鹿狩  渕江領
   勢子人足四十一人
   御用   鳴根村」
 勢子の全動員数は約5万人で、嶋根村からは勢子人足41名が参加しています。  

 「御鹿狩勢子村旗渕江領嶋根村」足立区文化財(出典:足立区立郷土博物館所蔵資料)

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「小金野鹿狩之記」(嘉永2年 国立公文書館蔵)

 小金原で行われた鹿狩に向かう12代将軍家慶の御成りが描かれています。
 「千住大橋之図」 12代将軍徳川家慶の御成船が千住に到着。
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 「新宿御仮橋」 中川には仮橋を架け渡ります。
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 「松戸宿ヨリ御舩橋ヲ顧図」 江戸川には舩橋を架け渡ります。
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 「御立場」 狩場には御立場を築きました。
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○御立場跡(五香公園) 松戸市五香西1-17-6

 この一帯は小金牧(中野牧)と呼ばれた野馬の放牧場で、徳川吉宗が2回、徳川家斉と徳川家慶が1回ずつ「御鹿狩」(おししがり)を行いました。
 この付近に、将軍が御鹿狩を眺めるために、大きな塚を作り「御立場(おたつば)」が建設されました。

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 (碑表)
  「史跡 御立場跡
   昭和四十三年十月建之」
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 (碑陰)
  「由来」を記す。 
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(説明板)
「御立場(おたつば)
下総台地には古代より馬の放牧場があり、江戸幕府は小金原(いまの松戸市、柏市、流山市、鎌ヶ谷市などにわたる範囲)に、直轄の牧場を開設して、馬を育成しました。広大な小金原のうち、現在の松飛台付近で、徳川将軍家は八代吉宗が二度、十一代家斉と十二代家慶が各一度の計四回、多くの家臣と農民を動員して「御鹿狩」を行いました。この付近には、将軍が御鹿狩を眺めるため、土を台形に高く盛った「御立場」が建設されました。御立場は戦時中の昭和十年代まで残っていました。
  平成二十九年一月  松戸市教育委員会」

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小金中野牧跡(捕込)国史跡

○小金中野牧跡(捕込)国史跡 鎌ケ谷市東中沢2-1

 「野馬捕」では、野馬を捕込(とっこめ)に追い込み捕獲します。小金五牧の捕込のうち唯一、現存するもので、千葉県史跡を経て、国史跡に指定されています。
 コンビニとデイサービスとの間にある駐車場奥に、石碑、標柱、説明板が建っています。
 ・石碑「千葉県指定史跡 小金中野牧の込跡」
 ・説明板「国指定史跡 下総小金中野牧跡(捕込)」
 ・標柱「小金中野牧の込跡」

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(説明板)
「国指定史跡 下総小金中野牧跡(捕込)
  指定年月日 平成19年2月6日
  所在地 鎌ヶ谷市東中沢2丁目377-9番地 他
 下総小金中野牧は、江戸幕府がその軍事力を誇示し、全国支配を継続する一環として軍馬を安定的に確保するために設けた直轄の牧の一つです。小金牧は、慶長年間(1596〜1615)に設置され、明治時代初めまで存続しました。高田台牧、上野牧、中野牧、下野牧、印西牧の五牧からなり、中野牧は現在の柏市、松戸市、鎌ヶ谷市、白井市、船橋市域に及んでいました。8代将軍吉宗をはじめ歴代将軍の鹿狩りの場になったことや、将軍家等の乗用馬を飼育する施設が設けられるなど、小金五牧の中で最も重要視されていました。
 馬の飼育は放し飼いにし、半野生であったため、野馬と呼ばれていました。幕末、小金牧には約1,000頭の野馬がいたといわれています。毎年、3歳馬を捕縛する野馬捕りが行われ、良馬は江戸へ送られました。野馬捕りの様子は名所図絵等に描かれ、江戸からも見物客が訪れる年中行事で、悠然と群れる野馬の姿は、渡辺崋山「四州真景 釜原」等に描かれました。
 捕込は、野馬捕りを行う施設で、小金五牧の捕込のうち唯一、現存するものです。白子捕込と呼ばれ、元文年間(1736〜1741)に込を増設したことが記録に見えます。馬を追いこみ捕らえる「捕込」(Ⅰ)、江戸へ送る馬や農耕馬等として払い下げる馬をとどめて置く「溜込」(Ⅱ)、若い馬等を野に返す「払込(分込)」(Ⅲ)の3区画からなっています。
 また、ⅠとⅡを区画する土手の「口」(木戸)を挟んだ北側(A)及び南側(B)は広くなっており、役人が補馬を検分した場所で、地元では古くから「御照覧場」と呼ばれています。
 各込を区画する土手は、基底部幅8〜9.5m、高さ2.5〜4mで、寛政期の見取り図に記された数値と現状がほぼ一致することから、本来約7,000㎡の規模であったと推測されます。
 下総小金中野牧跡は、江戸時代の軍事力を支えた軍馬生産の様相を知る上で重要であることから、牧としては全国で初めて国史跡に指定されました。
  平成19年3月
    文化庁
    千葉県教育委員会
    鎌ヶ谷市教育委員会」

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 石碑「千葉県指定史跡 小金中野牧の込跡」は、国史跡に指定される前に千葉県が史跡に指定した時の建碑です。

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<補込の平面図>

 説明板の設置場所が「払込(分込)」の出口で、若い野馬等を野に帰した区画です。両側にロープが張ってあります。右手に土手の切れ目があり、その先が「捕込」(野馬を追い込み、網掛して捕える区画)です。
 木に「補込の平面図」がくくりつけられています。その先に進むと、行く手にロープが張ってあり通り抜けられないので、引き返して西側から回り込みました。

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<捕込南側>

 捕込の南側に来ました。柵に2種類の説明板と「見学上の注意」が掲示されています。

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(説明板)
「国史跡下総小金中野牧跡(捕込)
  令和4年3月 国史跡下総小金中野牧跡周知普及実行委員会」

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 国史跡のキャラクター「とっこめくん&のまっきー」が設定されています。
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(説明板)
「国史跡下総小金中野牧跡(捕込)
  令和4年3月 国史跡下総小金中野牧跡周知普及実行委員会」

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 「溜込」側から「捕込」側の土手の切れ目を見たことろ。

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「成田名所図会」(国文学研究資料館蔵)

 「下野牧野馬執の図」から、其一と其二を合成しています。「牧士」が馬に乗って、野馬を「穿處(うど)」へ追い込んでいます。土手の上には多くの見物客が見えます。

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 「其三 込へ追こむの図」です。見物客を当て込んだ茶店が見えます。「頭役牧士」が野馬を先導しています。土手の上には多くの見物客が見えます。

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 「其四」捕込で野馬を選別しています。網掛で野馬を捕えたり、野馬の尻に焼き印を入れています。御照覧場では、役人が検分しています。他の土手上は多くの見物客で埋め尽くされています。

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 「其五」の抜粋です。捕えた野馬を牽き連れていきます。当時の日本の野馬は、短足なのがわかります。

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