こんにゃく閻魔 源覚寺

○こんにゃく閻魔 源覚寺 文京区小石川2-23-14 HP

 源覚寺は、寛永元(1624)年に伝通院三世定誉が徳川秀忠から隠居地として拝領して創建されました。
 夏目漱石「こころ」では、「私」は「蒟蒻閻魔を抜けて」下宿に帰ります。「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上って宅へ帰りました。」
 参道入口右手に「こんにゃくゑんま 源覚寺」

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<御百度石>

 参道左手に百度石。「嘉永五年夏(一八五ニ)建立」

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<札所>

 授与品にはお守りの他、えんまパンツとかもあります。

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<学徒出陣の碑>

 参道右手、鐘楼堂の手前に「学徒出陣の碑」。

 (碑文)
 「雲ガハシル 学徒ガ征ク 空ニ 同期ノ華 参千六百人」

(説明板)
「ああ紅の血は燃ゆる 学徒出陣
 海軍第十四期専修飛行予備学生の碑
 この石碑は当山ニ十四世:三好徳誉祐昭と有志の方々により、昭和六十三年に建立されました。〜」

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<手水鉢>

 「この水は飲めません。」と掲示があるので、井水でしょうか。

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<汎太平洋の鐘>

(説明板)
「汎太平洋の鐘
 THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL
1690年 元禄  三年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納された。
1937年 昭和 十二年 サイパン島南洋寺に転出 南太平洋にひびきわたる。
1944年 昭和 十九年 サイパン島軍民玉砕して 以後消息不明となる。
1965年 昭和 四十年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
                        発見者ミツエ・ヘスター
1974年 昭和四十九年 カリフォルニア州オークランド市居住D.V.クレヤー
            氏によって、サンフランシスコさくら祭りに展示され、
            その後当山に寄贈される。」

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<南洋群島物故者慰霊像>

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(碑文)
「南洋群島物故者慰霊像建立の趣旨
 かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために、南洋群島とゆかりの深い此の源覚寺境内に遥拝所として、この慰霊像を建立したものである。
  昭和五十年七月十八日  財団法人 南洋群島協会」

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<弁財天像>

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<毘沙門天堂>

 「小石川七福神」の毘沙門天が祀られています。

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<塩地蔵尊>

 「塩地蔵尊
  当山開創寛永元年(一八ニ四年)以前よりこの地にあって人々の信仰を集めたと伝えられる。
  お地蔵様のお身体に塩を盛ってお参りすることから塩地蔵と称し、その由来には、古来より塩は清めとして用いられることより、参詣者の身体健康を祈願するものと説かれる」

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<閻魔堂>

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「閻魔大法王 観世音菩薩」「明治五年七月」

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(説明板)
「木造 閻魔王坐像 一躯 区指定有形文化財(彫刻)
 源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして“こんにゃく”を供えつづけたという言い伝えがある。このことから、眼病治癒の『こんにゃく閻魔』として庶民の信仰を集めた。
 像は、高さ100.4cm。ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。優れたできばえを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文によると、寛文12年(1672)に仏師竹内浄正が修理している。
 この像は、彫刻美術品として優れているとともに、本区所在の仏像のなかで、古い製作年代に属するものとして貴重な文化財である。
 閻魔王は、冥界にあって死者の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も良く知られている。わが国の閻魔信仰は、平安時代後期にはじまり、鎌倉時代に盛んになった。
    常光山 源覚寺 小石川2-23-14
 文京区教育委員会  平成5年3月」

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<閻魔王坐像/奪衣婆>

 奉納されたこんにゃくが山となっています。

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 閻魔王坐像の左手に奪衣婆がいます。

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<絵馬>

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小日向 本法寺(几号/漱石句碑)

○小日向(こびなた)本法寺 文京区小日向1-4-15 HP
 
 夏目家累代の菩提寺で、夏目家の墓があるお寺です。漱石の「坊ちゃん」に出てくる下女の「清」のお墓がある小日向の「養源寺」は、本法寺がモデルであるといわれています。なお、養源寺には漱石の同級生だった米山保三郎の墓があり、米山の祖母「清」が葬られています。
 漱石は五女雛子の墓を雑司ヶ谷墓地に求め、漱石と妻鏡子もそこに葬られています(こちらで記載)。
 小日向は住居表示は「こひなた」ですが、地元では「こびなた」と呼びます。寺のHPアドレスも[kobinata]です。
 本法寺には几号水準点があります。


「江戸名所図会 金剛寺 氷川明神社 本法寺」

 「金剛寺」(中野区上高田に移転)、「氷川明神社」(小日向神社)、「日輪寺」、「本法寺」が描かれています。

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 左半分の下に日輪寺と本法寺が描かれており、本法寺は本堂が見えるだけです。

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「江戸切絵図」

 江戸切絵図では「本方寺」とあります。
 神田上水沿いには、将軍直衛の弓・鉄砲隊である「御持筒組」「御先手組」「御持組」や「御鎗組」、将軍の親衛隊である「御書院番組」が集中しています。他には「御勘定組」や「御賄方組」(江戸城内へ食料品を供給)「御台所組」が見えます。

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<寺号標>

 カーブミラーのような寺号標です。ちなみに支柱にカーブミラーが付いています。境内に几号水準点が刻まれている台座が見えます。

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<早稲田大学で教鞭をとった文豪シリーズ>

 門前に夏目漱石について刻まれているレリーフが掲げられています。

(レリーフ文)
「高源山随自意院本法寺は、東本願寺の末寺で、 眞宗大谷派に属し、夏目漱石(金之助)の菩提寺である。
 夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。明治十四年一月に母、二○年三月に長兄、六月に次兄が本法寺に葬られた。それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。亡き母を詠んだ句もある。兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。作家となってからは「坊ちゃん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。
 境内には、早稲田大学第十四代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑 がある。
  早稲田大学創立125周年記念
  「早稲田大学で教鞭をとった文豪シリーズ」」

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<几号水準点>

 天水桶(鉄水鉢)が置かれていた台座の左側面に几号水準点が刻まれています。戦時供出により台座のみ残っています。

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<漱石句碑>

 境内のブロック塀の前に「漱石句碑」があります。
 「梅の花 不肖なれども 梅の花 夏目漱石」

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(碑文)
「夏目漱石は、明治二二年二月五日に「兄の死」と題し一高で英語の演説をし、墓参の心境と境内の情景を語った。二九年正月松の内には本法寺で「展先妣墓」として「梅の花不肖なれども梅の花」と詠んだ。名作「坊ちゃん」の清の墓のモデルも他ならぬ小日向の菩提寺のこの墓である。
  平成一四年三月吉日
   早稲田大学総長 奥島孝康 識」

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<若松翁之碑>

 どなたでしょうかね。

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<本堂/庫裡>

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<夏目家墓>

 墓所に夏目家墓があります。「夏目墓」「夏目氏」とあります。漱石の父母、長兄・次兄・三兄など近親の方々が眠っています。住職の奥さまから、わかりにくいですよとのことでしたが、墓所の上から見ていくとさほど労せずありました。

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夏目漱石の墓

○夏目漱石の墓  豊島区南池袋4-25-1(雑司ヶ谷霊園1種14号1側)

 夏目漱石が眠る雑司ケ谷霊園は広く、芥川龍之介が墓参に来てたどりつけなったほどです。
 現在は便利ですね、Googleストリートビューで見ると、霊園内のいちょう通りから、イス型の墓石の裏が見え、夏目金之助の本名が見えます。迷わずピンポイントでたどり着くことができました。


<墓石>

 夏目漱石の墓は、安楽椅子の形をした墓石です。
 墓石は縦に長く、背もたれが傾斜し、左右には肘掛けがあります。
 背もたれの表に夏目漱石と鏡子夫人の戒名、裏に3名の墓誌が刻まれています。

 「文獻院古道漱石居士
  圓明院清操淨鏡大姉」

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<墓石裏>

 墓石裏には3名(漱石と妻、5女)の名前が刻まれています。

、「大正五年十二月九日没 俗名 夏目金之助
  昭和三十八年四月十八日没 俗名夏目キヨ
               夏目金之助五女
  明治四十四年十一月二十九日没俗名夏目ひな子」

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夏目漱石終焉の地

○夏目漱石終焉の地 新宿区早稲田南町7

<漱石山房通り>

 (説明文)
 「明治の文豪夏目漱石が晩年を過ごした家、通称漱石山房がこの地にあった。」

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<夏目漱石終焉の地>

(説明板)
「新宿区指定史跡
 夏名漱石終焉の地
   所 在 地 新宿区早稲田南町七番地
   指定年月日 昭和六十一年十月三日
 この地は、作家・夏目漱石が明治四十年(一九○七)九月二十九日から亡くなる大正五年(一九一六)十二月九日まで暮らした、通称「漱石山房」の跡地である。
 漱石山房は木造平屋建ての和洋折衷の建物で、漱石は洋間二間を書斎・客間として使用した。漱石は『坑夫』を皮切りに、『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』などの代表作をこの地で発表し、『明暗』の連載半ばに胃潰瘍により世を去った。享年四十九歳。
 漱石没後の大正七年(一九一八)には、漱石の夫人境子がこの土地を購入し、母屋の増改築を行うとともに、漱石が使用していた書斎・客間・回廊を曳家し、保存した。
 その後、漱石山房は昭和二十年(一九四五)五月二十五日の空襲で焼失し、跡地は昭和二十五年(一九五○)に東京都の所有となった。跡地は長らく都営アパート(昭和五十二年に区へ譲渡され、区営アパートとなる)の敷地として使用されていたが、昭和五十一年(一九七六)にはその一部に漱石公園が、平成二十九年(二○一七)九月二十四日には、区営アパートの移転に伴い、全国で初めてとなる本格的な漱石の記念館「新宿区立漱石山房記念館」が開館した。
  平成三十年三月  新宿区教育委員会」

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○漱石公園(新宿区指定史跡) 新宿区早稲田南町7 HP

 明治40(1907)年から大正5(1916)年に、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」がありました。
  4~9月 午前8時~午後7時
 10~3月 午前8時~午後6時

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<夏目漱石の胸像>

 夏目漱石の胸像があります。富永直樹作、平成3(1991)年の建立です。
 漱石公園の門外にあるので、時間を問わず参観できます。

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 ・左碑面
  漱石の自筆の俳句が刻まれています。
  「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」

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 ・右碑面
  「漱石 則天去私」と刻まれています。

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(碑銘)
「漱石は慶応三年(一八六七)二月九日、この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町一)に生まれた。
明治四十年九月にこの地に住み、「三四郎」「それから」「門」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」などを発表、
大正五年(一九一六)十二月九日、数え年五十歳で死去した。
 この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠に称えるものである。
 なお、表の漱石の自筆の俳句は
 「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」
と読む。
  平成三年三月  新宿区」

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<漱石の散歩道>

(説明板)
「漱石の散歩道
明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子達とこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか?」

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<漱石山房の記憶>

(説明板)
「漱石山房の記憶
 夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。そして大正5年12月9日、『明暗』執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます。漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、漱石を囲む文化サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。」

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<旧夏目邸建物基礎>

(説明板)
「旧夏目邸建物基礎
 平成二十七年(二○一五)四月、漱石山房記念館建設に伴う埋蔵文化財試掘調査の際に見つかったもので、房州石(凝灰岩)の建物基礎と水廻りと考えられるタタキ状の遺構が確認された。漱石山房は、漱石没後の大正九年(一九二○)に鏡子夫人により建て替えられ、その際に漱石の書斎・客間と回廊は敷地の南東隅に曳家し、母屋とは渡り廊下でつながれた。確認された遺構は、規模や戦災の際に堆積した焼土との関係から、建て替えられた夏目邸母屋の遺構であると考えられる。」

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<猫の墓(猫塚)>

 夏目家のペット(犬、猫、小鳥)の合同供養塔があります。

(説明板)
「猫の墓
 夏目家で飼った動物のうち、『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」は、明治四十一年(一九○八)九月十三日に亡くなると、裏庭のサクラの木の下にみかん箱に入れて埋葬され、「この下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた二寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。犬のヘクトーの墓も近くに建てられ、「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。
 猫の墓と呼ばれるこの石塔は、福猫の十三回忌に当たる大正九年(一九二○)夏目家で飼われた生き物たちを供養する為、漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が造らせた九重塔で、台石には津田清楓の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし、昭和二十年(一九四五)五月二十五日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残欠を利用して昭和二十八年(一九五三)十二月九日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。」

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<道草庵>

 夏目漱石や漱石山房に関するミニ資料館です。利用は無料です。

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・パネル「夏目漱石の生涯」

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・「漱石山房の推定位置図」

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・パネル「猫塚」「漱石山房」

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・パネル「漱石山房に集まった人々」

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・パネル「牛込に住んだ文学者たち」

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○新宿区立漱石山房記念館 新宿区早稲田南町7  03-3205-0209 HP

 館外には、夏目漱石が愛した芭蕉が植えられています。
 観覧料は300円ですが、導入展示の観覧と、図書室の利用は無料です。
 図書室は閲覧のみですが、漱石関係書籍が集められています。
 カフェやミュージアムショップもあります。
 撮影禁止の掲示があったので、写真は館外だけです。
 職員の多さに少々驚きました。

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「猫の家」(夏目漱石旧居跡)&森鴎外居所跡

○夏目漱石旧居跡 文京区向丘2-20-7

 道路に面して、石碑1基と説明板があります。そして銅像の猫が2匹います。夏目漱石旧居跡であるとともに、森鴎外旧居跡でもあります。

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(説明板)
「夏目漱石旧居跡(区指定史跡)
   日本医科大学同窓会館 文京区向ヶ丘2-20-7
 夏目漱石 本名・金之助。慶応3年~大正5年(1867-1916)。小説家。この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斎藤阿具氏)
 当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家”と呼ばれ親しまれた。
 この地で『倫敦島』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。漱石文学発祥の地である。
 漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外はここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
 二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。
  文京区教育委員会  平成7年3月」

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(碑文)
「夏目漱石旧居跡
夏目漱石は明治卅六年一月英國から帰り 三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構えた。
前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが 卅八年一月「吾輩は猫である」「倫敦島」等を發表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の続稿と竝行、卅九年初から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした 歳末廿七日西片町に移り、翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。千駄木町は漱石文学發祥の地である。
森鴎外も前に(自明治十三年十月至同廿五年一月)その家に住んでゐた。家は近年保存のため移築され、現在犬山市明治村にある。
  昭和四十六年三月三日」

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 右側面「題字 川端康成書
     碑文 鎌倉漱石会」

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 左側面「日本医科大学及同大学同窓会
     鎌倉漱石乃会他有志二百余名」

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<昭和3年撮影「猫の家」>

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