大関横丁/黒羽藩大関屋敷
○大関横丁由来之碑 荒川区南千住1-1
大関増業の偉業を称えた碑が小学校の脇にあります。
(刻文)
「大関横丁由来之碑
下野国黒羽藩大関増業公は智徳兼備の英傑にして藩政を行ふに教育を以てし自一千余巻の書を著しているが特に黒羽藩日本書紀三十巻同文字錯乱備考三巻より六吏兵随二十三巻を経て止才枢要五百二十九巻に主たるものを体系の根巻とした中でも止才枢要は百七十六巻を伝記資料篇三百五十三巻を本文とする科学的編慕法による構想雄大内容充実世界に誇るべき不朽の名著と云はれる在職十三年にして病の為引退して此処箕輪の別邸乗化亭に住み括嚢齋と号し奇方歌道茶道等に精通し人心救済に盡力したが弘化二年(一八四五)三月十九日六十五歳の生涯を終った大正十三年(一九ニ四)三月十一日特旨を以て正四位を贈られた世人大関公の偉徳を讃えて此処を呼ぶに大関横丁と稱へた
昭和三十九年十月 大関横丁吏蹟保存会」



○大関横町説明板 荒川区南千住1-6
大関横町とありますが、横丁の間違いですかね。明治通りと常磐線の交差の歩道にあります。
(説明板)
「大関横町
大関横町は、下野黒羽藩主の大関信濃守下屋敷(南千住一丁目一〜八番付近)の南と西を取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩主加藤大蔵少輔下屋敷(荒川一丁目三十六〜三十八番付近)があった。
明治通りに拡張される前の道幅は、約ニ間(約四メートル)で、大関横町から三河島道(区立第一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。
荒川区教育委員会」

○常磐線第3三河島ガード
<南千住側> 荒川区南千住1-8
大関増業のストーリーが再現されています。増業が研究した織物(染色法)や甲冑が配置されています。平成25(2013)年の制作です。




○大関屋敷跡 荒川区南千住1-13-20
説明板は、荒川区社会福祉協議会の建物の前にあります。屋敷があったのは、説明板の反対側となるヨークフーズのところです。
大関家の菩提寺である大雄寺のホームページに、「黒羽藩主第31代大関増裕「夫婦して江戸の町々を乗りあるき 異国の真似する馬鹿の大関」と評判となった。陸軍奉行、海軍奉行さらに若年寄まで昇進した。」とあります。
(説明板)
「大関屋敷跡
下野黒羽藩主大関氏は、寛文元年(一六六一)、幕府からこの地に下屋敷を拝領した。その範囲は、現在の南千住一丁目一〜八番・十・十一番の一部の辺りと推定される。面積は抱屋敷を含めて八千百坪(約ニ万六千七百平方メートル)であった。
黒羽藩二十七代の増業は、膨大な図書の編纂と藩政改革で知られる。文政七年(一八ニ四)の隠居後、この下屋敷に閑居した。
また、十五代の増裕は若年寄兼海軍奉行の要職にあり、軍艦奉行勝海舟とともに幕末に活躍している。
荒川区教育委員会」



「江戸切絵図」
江戸切絵図に「大関信濃守」屋敷が見えます。

○大関屋敷跡界隈
<極楽荘> 荒川区南千住1-13-21
瓦屋根の上に動かない鳩が2羽います。玄関の奥に観音様が祀られています。



<稲荷大明神> 荒川区南千住1-13-21
極楽荘の手前スペースに、稲荷大明神、お地蔵さまがまつられています。



大関増業の偉業を称えた碑が小学校の脇にあります。
(刻文)
「大関横丁由来之碑
下野国黒羽藩大関増業公は智徳兼備の英傑にして藩政を行ふに教育を以てし自一千余巻の書を著しているが特に黒羽藩日本書紀三十巻同文字錯乱備考三巻より六吏兵随二十三巻を経て止才枢要五百二十九巻に主たるものを体系の根巻とした中でも止才枢要は百七十六巻を伝記資料篇三百五十三巻を本文とする科学的編慕法による構想雄大内容充実世界に誇るべき不朽の名著と云はれる在職十三年にして病の為引退して此処箕輪の別邸乗化亭に住み括嚢齋と号し奇方歌道茶道等に精通し人心救済に盡力したが弘化二年(一八四五)三月十九日六十五歳の生涯を終った大正十三年(一九ニ四)三月十一日特旨を以て正四位を贈られた世人大関公の偉徳を讃えて此処を呼ぶに大関横丁と稱へた
昭和三十九年十月 大関横丁吏蹟保存会」



○大関横町説明板 荒川区南千住1-6
大関横町とありますが、横丁の間違いですかね。明治通りと常磐線の交差の歩道にあります。
(説明板)
「大関横町
大関横町は、下野黒羽藩主の大関信濃守下屋敷(南千住一丁目一〜八番付近)の南と西を取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩主加藤大蔵少輔下屋敷(荒川一丁目三十六〜三十八番付近)があった。
明治通りに拡張される前の道幅は、約ニ間(約四メートル)で、大関横町から三河島道(区立第一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。
荒川区教育委員会」

○常磐線第3三河島ガード
<南千住側> 荒川区南千住1-8
大関増業のストーリーが再現されています。増業が研究した織物(染色法)や甲冑が配置されています。平成25(2013)年の制作です。




○大関屋敷跡 荒川区南千住1-13-20
説明板は、荒川区社会福祉協議会の建物の前にあります。屋敷があったのは、説明板の反対側となるヨークフーズのところです。
大関家の菩提寺である大雄寺のホームページに、「黒羽藩主第31代大関増裕「夫婦して江戸の町々を乗りあるき 異国の真似する馬鹿の大関」と評判となった。陸軍奉行、海軍奉行さらに若年寄まで昇進した。」とあります。
(説明板)
「大関屋敷跡
下野黒羽藩主大関氏は、寛文元年(一六六一)、幕府からこの地に下屋敷を拝領した。その範囲は、現在の南千住一丁目一〜八番・十・十一番の一部の辺りと推定される。面積は抱屋敷を含めて八千百坪(約ニ万六千七百平方メートル)であった。
黒羽藩二十七代の増業は、膨大な図書の編纂と藩政改革で知られる。文政七年(一八ニ四)の隠居後、この下屋敷に閑居した。
また、十五代の増裕は若年寄兼海軍奉行の要職にあり、軍艦奉行勝海舟とともに幕末に活躍している。
荒川区教育委員会」



「江戸切絵図」
江戸切絵図に「大関信濃守」屋敷が見えます。

○大関屋敷跡界隈
<極楽荘> 荒川区南千住1-13-21
瓦屋根の上に動かない鳩が2羽います。玄関の奥に観音様が祀られています。



<稲荷大明神> 荒川区南千住1-13-21
極楽荘の手前スペースに、稲荷大明神、お地蔵さまがまつられています。




テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 南千住
真正寺(南千住)
○真正寺 荒川区南千住1-56-9
円通寺の隣に真正寺はあります。
四ツ谷天龍寺を開山した特賜心翁永伝禅師大和尚の隠居寺として、慶長13(1608)年に湯島に開山。浅草への替地を経て、寛文元(1661)年に当地へ移転してきました。
「真正寺門前町」も同時につくられ、明治2(1869)年に「下谷真正寺町」と改め、明治12(1879)年に「下谷通新町」に合併されました。
<江戸切絵図>
下谷道に面して「観音堂」「真正寺」「公春院」と並んでいます。
下谷道の両側に通新町が細長く続いている中、ポツンと「門セン」があります。

<山門>
国道4号線に面して、山門があります。

(説明板)
「真正寺門前
寛文元年(一六六一)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約千六百平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ一つの門前町である。
町奉行支配地で、寛延ニ年(一七四九)三月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治ニ年(一八六九)地名を下谷真正寺町と改めたが、明治十ニ年(一八七九)下谷通新町に合併された。
荒川区教育委員会]

<藤棚と噴水>
参道に噴水があります。水はありません。

<有縁無縁永代供養塔>




<本堂>



円通寺の隣に真正寺はあります。
四ツ谷天龍寺を開山した特賜心翁永伝禅師大和尚の隠居寺として、慶長13(1608)年に湯島に開山。浅草への替地を経て、寛文元(1661)年に当地へ移転してきました。
「真正寺門前町」も同時につくられ、明治2(1869)年に「下谷真正寺町」と改め、明治12(1879)年に「下谷通新町」に合併されました。
<江戸切絵図>
下谷道に面して「観音堂」「真正寺」「公春院」と並んでいます。
下谷道の両側に通新町が細長く続いている中、ポツンと「門セン」があります。

<山門>
国道4号線に面して、山門があります。

(説明板)
「真正寺門前
寛文元年(一六六一)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約千六百平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ一つの門前町である。
町奉行支配地で、寛延ニ年(一七四九)三月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治ニ年(一八六九)地名を下谷真正寺町と改めたが、明治十ニ年(一八七九)下谷通新町に合併された。
荒川区教育委員会]

<藤棚と噴水>
参道に噴水があります。水はありません。

<有縁無縁永代供養塔>




<本堂>



tag : 南千住
円通寺(南千住)
○円通寺 荒川区南千住1-59-11 HP
「几号水準点」「旧上野の黒門」「彰義隊士の墓」「四十八首塚」「七重石塔」「板碑」「石燈籠庚申塔」「鷹見の松跡」等があります。
「百観音円通寺は東都の古刹にして
延暦十年(西暦七九一年)坂上田村麿将軍により開創せらる。
本尊・聖観世音菩薩(聖徳太子 一刀三礼御作)。屋上聖観音像全長12m原形一寸八分当寺蔵高村光雲大正十二年作。
八幡太郎義家 奥羽征伐して賊首四十八を得て還り、ここに埋め首塚四十八基を築いた。
それから この地を「小塚原」と呼ばれる。旧町名「通新町」は円通寺新町に由来する。
寛永三年三代将軍家光 放鷹の日、円通寺の松に止まる「鷹見の松」と名づけらる。
上野戦争(慶応四年五月十五日)彰義隊士の遺体二百六十六を上野で火葬し当寺に収骨した
太政官の許可状に「懇に供養すべし」を口実に、大ぴらに賊軍の法要ができる当時日本唯一の寺であった。その因縁で旧上野黒門を帝室博物館より明治四十年十月当寺に下賜さる。」





<百観音 円通寺>
(説明板)
「百観音 円通寺
延暦十年(七九一)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、この辺りを小塚原とよぶようになったという。
江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政ニ年(一八五五)の大地震で倒壊した。
境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(一二九六)銘をはじめとする板碑四基(区指定文化財)などがある。
荒川区教育委員会」

<聖観世音像>
高さ12メートルの聖観世音像の原形は、大正12(1923)年高村光雲作一寸八分(円通寺蔵)です。上野の西郷さんや、皇居前広場の楠公は高村光雲の代表作です。


<仁王像>
本堂入口の仁王像です。


○百観音碑/几号水準点
境内入ってすぐの左手に百観音碑があります。その台石に几号水準点が刻まれています。
(表)「秩父 坂東 西國 百くわんおん 通新町圓通寺」

(裏)「明和元年甲申七月中浣」

(台石)几号水準点


<円通寺堂宇再建碑>
「百観音碑」の右手に「円通寺堂宇再建碑」があります。

【黒門】
<黒門> 荒川区文化財



(標柱)
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
旧上野の黒門
この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊氏の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九○七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。」

「昭和六十一年三月三十一日修理完工」

<吉展地蔵尊>
昭和38(1963)年に起きた「吉展ちゃん事件」の被害者の供養のため、被害者の遺体が見つかった円通寺に「吉展地蔵尊」が祀られています。
また被害者の菩提寺である小塚原回向院にも吉展地蔵尊が祀られています(こちら)。
【彰義隊関係追弔碑群】 荒川区文化財
彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群が、令和3(2021)年に荒川区文化財に指定され、それに伴い標柱が設置されました。



(説明板)
「彰義隊士の墓
慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる彰義隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。
荒川区教育委員会」

(標柱)
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
彰義隊関係追弔碑群
旧幕臣たちによって建立された墓碑を含む彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群。慶応四年(一八六八)五月十五日の上野戦争直後に、当時の円通寺住職武田仏磨が、官軍に敗れて戦場に放置された彰義隊士の遺体を現地で火葬し、遺骨を円通寺に持ち帰って供養した。その際、彰義隊戦死者墓が建立され、彰義隊供養の拠点となった。以降、この墓塔の周囲に戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑が建立、あるいは他所から移設され、彰義隊ゆかりの寺としての景観が形成されていった。」


<彰義隊戦死者の墓> 東京都旧跡
円通寺二十三世「大禪佛磨大和尚」は、彰義隊士の遺骸266体を上野山内にて荼毘に附し当寺に埋葬しました。
墓石は明治37(1904)年5月に、榎本武揚によって建てられ、「戦死墓」も榎本武揚の書です。


<死節之墓>
三河屋幸三郎が向島の別荘で、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の供養をしていましたが、当寺に移築されたものです。


<二十三世仏磨大和尚之墓>
円通寺の二十三世住職仏磨和尚は、寛永寺御用商人三河屋幸三郎、侠客新門辰五郎らとともに、遺骸を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬しました。

<三河家之墓/三幸翁之碑>
「三河家之墓」と「三幸翁之碑」があります。三河屋幸三郎は寛永寺御用商人で、彰義隊士の遺骨を埋葬する際、金銭、人的に助力し、その後も法事の施主となるなど、旧幕臣の戦死者の供養に尽力しました。「三幸翁之碑」は明治23(1890)年の建立です。



<新門辰五郎碑>
新門辰五郎は浅草の町火消しの頭です。浅草神社末社の被官稲荷神社を勧請しています。(こちらで記載)
円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎、侠客新門辰五郎らが遺骸を集めて上野山内にて荼毘に付し円通寺に埋葬しました。明治41(1908)年5月の建立です。


<小芝長之助墓>
旧幕臣、将軍家御庭番。晩年は円通寺の住み込み墓守です。

<正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑>
大鳥圭介は明治44(1911)年6月15日に亡くなり、碑は同方会と碧血会によって、明治44(1911)年7月に建てられました。


「大鳥圭介肖像」(近代日本人の肖像 国立国会図書館)
天保4年2月25日〜明治44年6月15日(1833年4月14日〜1911年6月15日)

<正二位勲一等子爵榎本公追弔碑>
榎本武揚は、彰義隊士や旧幕臣の法要に積極的に参加しました。明治41(1908)年10月26日に亡くなり、碑は、江戸会、同方会、旧交会、碧血会の有志によって、明治42(1909)年に建てられました。
※榎本武揚については、こちらで記載。


【四十八首塚】
八幡太郎義家は奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め四十八塚(首塚)を築きます。「賊首 源義家」と刻まれた石が見えます。
「鷹見の松跡」、「石造七重塔」、(荒川区文化財)、「板碑四基」(荒川区文化財)、「庚申塔」(荒川区文化財)があります。


(案内板)
「三代将軍 鷹見の松」
「義家が供養のため築いた 四十八首塚 小塚原地名の原因」
「基部四面に右の伝誦を刻む 七重塔 荒川区最古の文献」

<鷹見の松跡>
寛永3(1626)年、将軍徳川家光が放鷹の日、円通寺の松に止まり、それから「鷹見の松」と呼ばれました。松はなく、切株があります。

<七重石塔> 荒川区文化財
首塚の上に建っているのが、この寺の由緒「重興圓通寺記幵塔銘」を刻む七重石塔です。享保7(1722)年銘です。

<板碑四基> 荒川区文化財
板碑四基が七重石塔の台座脇にあります。

(標柱)
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
板碑四基(永仁四年十月日銘他)
円通寺の板碑四基の内、三基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁四年(一二九六)十月日銘は、日慶寺の正応二年(一二八九)銘に次いで二番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦四年(一三ニ九)正月二十九日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。」
平成四年二月七日指定 荒川区教育委員会」


<石燈籠庚申塔> 荒川区文化財
首塚の手前の両脇に燈籠が建っています。金網の柵の中に置かれて近寄れません。
左の燈籠は六十六部供養の燈籠で、正徳3(1713)年4月の造立。地蔵菩薩が陽刻されており、「奉納大乗妙典六十六部」「四國西國秩父坂東」と刻まれています。
右の燈籠の台座には三猿が陽刻されており、宝永3(1706)年11月銘の庚申塔です(近寄れないので荒川区文化財サイトで確認)。
火袋に左の燈籠は日、右の燈籠は月が形どられています。



<六地蔵/馬頭観音>
六地蔵の左手の石造物は、台座に馬頭の文字が見えます。



<圓通精舎>
寺号額には「圓通精舎」「武揚書」とあります。



大砲が一門置かれています。

【境外】
<聖観音菩薩像>
円通寺の裏、南西角のブロック塀に聖観音菩薩像がポツンとあります。
「几号水準点」「旧上野の黒門」「彰義隊士の墓」「四十八首塚」「七重石塔」「板碑」「石燈籠庚申塔」「鷹見の松跡」等があります。
「百観音円通寺は東都の古刹にして
延暦十年(西暦七九一年)坂上田村麿将軍により開創せらる。
本尊・聖観世音菩薩(聖徳太子 一刀三礼御作)。屋上聖観音像全長12m原形一寸八分当寺蔵高村光雲大正十二年作。
八幡太郎義家 奥羽征伐して賊首四十八を得て還り、ここに埋め首塚四十八基を築いた。
それから この地を「小塚原」と呼ばれる。旧町名「通新町」は円通寺新町に由来する。
寛永三年三代将軍家光 放鷹の日、円通寺の松に止まる「鷹見の松」と名づけらる。
上野戦争(慶応四年五月十五日)彰義隊士の遺体二百六十六を上野で火葬し当寺に収骨した
太政官の許可状に「懇に供養すべし」を口実に、大ぴらに賊軍の法要ができる当時日本唯一の寺であった。その因縁で旧上野黒門を帝室博物館より明治四十年十月当寺に下賜さる。」





<百観音 円通寺>
(説明板)
「百観音 円通寺
延暦十年(七九一)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、この辺りを小塚原とよぶようになったという。
江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政ニ年(一八五五)の大地震で倒壊した。
境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(一二九六)銘をはじめとする板碑四基(区指定文化財)などがある。
荒川区教育委員会」

<聖観世音像>
高さ12メートルの聖観世音像の原形は、大正12(1923)年高村光雲作一寸八分(円通寺蔵)です。上野の西郷さんや、皇居前広場の楠公は高村光雲の代表作です。


<仁王像>
本堂入口の仁王像です。


○百観音碑/几号水準点
境内入ってすぐの左手に百観音碑があります。その台石に几号水準点が刻まれています。
(表)「秩父 坂東 西國 百くわんおん 通新町圓通寺」

(裏)「明和元年甲申七月中浣」

(台石)几号水準点


<円通寺堂宇再建碑>
「百観音碑」の右手に「円通寺堂宇再建碑」があります。

【黒門】
<黒門> 荒川区文化財



(標柱)
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
旧上野の黒門
この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊氏の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九○七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。」

「昭和六十一年三月三十一日修理完工」

<吉展地蔵尊>
昭和38(1963)年に起きた「吉展ちゃん事件」の被害者の供養のため、被害者の遺体が見つかった円通寺に「吉展地蔵尊」が祀られています。
また被害者の菩提寺である小塚原回向院にも吉展地蔵尊が祀られています(こちら)。
【彰義隊関係追弔碑群】 荒川区文化財
彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群が、令和3(2021)年に荒川区文化財に指定され、それに伴い標柱が設置されました。



(説明板)
「彰義隊士の墓
慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる彰義隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。
荒川区教育委員会」

(標柱)
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
彰義隊関係追弔碑群
旧幕臣たちによって建立された墓碑を含む彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群。慶応四年(一八六八)五月十五日の上野戦争直後に、当時の円通寺住職武田仏磨が、官軍に敗れて戦場に放置された彰義隊士の遺体を現地で火葬し、遺骨を円通寺に持ち帰って供養した。その際、彰義隊戦死者墓が建立され、彰義隊供養の拠点となった。以降、この墓塔の周囲に戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑が建立、あるいは他所から移設され、彰義隊ゆかりの寺としての景観が形成されていった。」


<彰義隊戦死者の墓> 東京都旧跡
円通寺二十三世「大禪佛磨大和尚」は、彰義隊士の遺骸266体を上野山内にて荼毘に附し当寺に埋葬しました。
墓石は明治37(1904)年5月に、榎本武揚によって建てられ、「戦死墓」も榎本武揚の書です。


<死節之墓>
三河屋幸三郎が向島の別荘で、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の供養をしていましたが、当寺に移築されたものです。


<二十三世仏磨大和尚之墓>
円通寺の二十三世住職仏磨和尚は、寛永寺御用商人三河屋幸三郎、侠客新門辰五郎らとともに、遺骸を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬しました。

<三河家之墓/三幸翁之碑>
「三河家之墓」と「三幸翁之碑」があります。三河屋幸三郎は寛永寺御用商人で、彰義隊士の遺骨を埋葬する際、金銭、人的に助力し、その後も法事の施主となるなど、旧幕臣の戦死者の供養に尽力しました。「三幸翁之碑」は明治23(1890)年の建立です。



<新門辰五郎碑>
新門辰五郎は浅草の町火消しの頭です。浅草神社末社の被官稲荷神社を勧請しています。(こちらで記載)
円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎、侠客新門辰五郎らが遺骸を集めて上野山内にて荼毘に付し円通寺に埋葬しました。明治41(1908)年5月の建立です。


<小芝長之助墓>
旧幕臣、将軍家御庭番。晩年は円通寺の住み込み墓守です。

<正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑>
大鳥圭介は明治44(1911)年6月15日に亡くなり、碑は同方会と碧血会によって、明治44(1911)年7月に建てられました。


「大鳥圭介肖像」(近代日本人の肖像 国立国会図書館)
天保4年2月25日〜明治44年6月15日(1833年4月14日〜1911年6月15日)

<正二位勲一等子爵榎本公追弔碑>
榎本武揚は、彰義隊士や旧幕臣の法要に積極的に参加しました。明治41(1908)年10月26日に亡くなり、碑は、江戸会、同方会、旧交会、碧血会の有志によって、明治42(1909)年に建てられました。
※榎本武揚については、こちらで記載。


【四十八首塚】
八幡太郎義家は奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め四十八塚(首塚)を築きます。「賊首 源義家」と刻まれた石が見えます。
「鷹見の松跡」、「石造七重塔」、(荒川区文化財)、「板碑四基」(荒川区文化財)、「庚申塔」(荒川区文化財)があります。


(案内板)
「三代将軍 鷹見の松」
「義家が供養のため築いた 四十八首塚 小塚原地名の原因」
「基部四面に右の伝誦を刻む 七重塔 荒川区最古の文献」

<鷹見の松跡>
寛永3(1626)年、将軍徳川家光が放鷹の日、円通寺の松に止まり、それから「鷹見の松」と呼ばれました。松はなく、切株があります。

<七重石塔> 荒川区文化財
首塚の上に建っているのが、この寺の由緒「重興圓通寺記幵塔銘」を刻む七重石塔です。享保7(1722)年銘です。

<板碑四基> 荒川区文化財
板碑四基が七重石塔の台座脇にあります。

(標柱)
「荒川区指定有形文化財・歴史史料
板碑四基(永仁四年十月日銘他)
円通寺の板碑四基の内、三基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁四年(一二九六)十月日銘は、日慶寺の正応二年(一二八九)銘に次いで二番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦四年(一三ニ九)正月二十九日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。」
平成四年二月七日指定 荒川区教育委員会」


<石燈籠庚申塔> 荒川区文化財
首塚の手前の両脇に燈籠が建っています。金網の柵の中に置かれて近寄れません。
左の燈籠は六十六部供養の燈籠で、正徳3(1713)年4月の造立。地蔵菩薩が陽刻されており、「奉納大乗妙典六十六部」「四國西國秩父坂東」と刻まれています。
右の燈籠の台座には三猿が陽刻されており、宝永3(1706)年11月銘の庚申塔です(近寄れないので荒川区文化財サイトで確認)。
火袋に左の燈籠は日、右の燈籠は月が形どられています。



<六地蔵/馬頭観音>
六地蔵の左手の石造物は、台座に馬頭の文字が見えます。



<圓通精舎>
寺号額には「圓通精舎」「武揚書」とあります。



大砲が一門置かれています。

【境外】
<聖観音菩薩像>
円通寺の裏、南西角のブロック塀に聖観音菩薩像がポツンとあります。

公春院(目当ての松/鷹止り松/証拠の松)
○公春院 荒川区南千住1-32-9 HP
徳川歴代将軍が三河島での鶴御成の際、鷹が鶴を捕らえて落下したのが、大抵、公春院の松の辺で、この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました(寺HP)。
円通寺には将軍家光の放った鷹がとまった「鷹見の松」がありました。
元文元(1736)年、九代将軍家重が三河島で鶴御成を行った際には、日慶寺(南千住)が御膳所にあてられました。
三河島の鶴の「飼付場」は水田と湿地で、近くに木々があるのは、寺院の連なる下谷道です。鷹に追われた鶴は、下谷道沿の木々に向かって逃げたのでしょう。
<江戸切絵図>
下谷道に面して「観音堂」「真正寺」「公春院」と並んでいます。下谷道の両側に通新町が細長く続いています。

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
三河島村での「鶴御成」の位地関係です。

<参道>
国道4号線に面して、参道があります。




左の門扉には葵紋があります。

<公春院の松>
公春院の松は、昭和9(1934)年に枯死したため伐採されています。3つの由縁がありました。
・将軍秀忠がこの地に鷹狩りした時、一羽の鷹が梢にとまったので「鷹止り松」といわれていました(荒川区史)。
・徳川歴代将軍が三河島方面狩猟の際(鶴御成)、鷹が鶴を捕らえて落下したのが大抵この辺で、この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました(寺HP)。
・当寺が新しい寺院ではないことをこの松が証明したため「証拠の松」といわれていました(荒川区説明板)。
(説明板)
「公春院の松
公春院の巨松は、明治の末ごろで周囲が約四メートル、高さ十四メートル、樹齢は優に五百年を越すものであったといわれる。
『遊歴雑記』(文政十ニ年(一八ニ九))にも、東武三十六名松の1つ「証拠の松」として記されている。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当寺の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。以来「証拠の松」とよばれるようになったという。
寺内に、天明七年(一七八七)銘太鼓、紙本着色仏涅槃図、寛文十年(一六七○)銘手水鉢などがある。
荒川区教育委員会
欄外:松は現存しません。昭和九年六月に枯死したため伐採されました。
明治四十二年撮影の写真のみあります。」


<車善七の墓>
荒川区史(昭和11年)によると、車善七の墓があったと記載されています。過去形で記載されているので、当時から現存していないのでしょう。

<題目塔>
文化13(1816)年銘の題目塔です。


<三界萬霊塔>

<手水鉢> 荒川区文化財
寛文10(1670)年銘の荒川区内最古の手水鉢です。

<観音堂記/子育地蔵>
「観音堂記」と「子育地蔵」です。

<本堂>
公春院の正式名称は「満海山 公春院 千日寺」で、扁額「満海山」が掲げられています。

徳川歴代将軍が三河島での鶴御成の際、鷹が鶴を捕らえて落下したのが、大抵、公春院の松の辺で、この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました(寺HP)。
円通寺には将軍家光の放った鷹がとまった「鷹見の松」がありました。
元文元(1736)年、九代将軍家重が三河島で鶴御成を行った際には、日慶寺(南千住)が御膳所にあてられました。
三河島の鶴の「飼付場」は水田と湿地で、近くに木々があるのは、寺院の連なる下谷道です。鷹に追われた鶴は、下谷道沿の木々に向かって逃げたのでしょう。
<江戸切絵図>
下谷道に面して「観音堂」「真正寺」「公春院」と並んでいます。下谷道の両側に通新町が細長く続いています。

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
三河島村での「鶴御成」の位地関係です。

<参道>
国道4号線に面して、参道があります。




左の門扉には葵紋があります。

<公春院の松>
公春院の松は、昭和9(1934)年に枯死したため伐採されています。3つの由縁がありました。
・将軍秀忠がこの地に鷹狩りした時、一羽の鷹が梢にとまったので「鷹止り松」といわれていました(荒川区史)。
・徳川歴代将軍が三河島方面狩猟の際(鶴御成)、鷹が鶴を捕らえて落下したのが大抵この辺で、この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました(寺HP)。
・当寺が新しい寺院ではないことをこの松が証明したため「証拠の松」といわれていました(荒川区説明板)。
(説明板)
「公春院の松
公春院の巨松は、明治の末ごろで周囲が約四メートル、高さ十四メートル、樹齢は優に五百年を越すものであったといわれる。
『遊歴雑記』(文政十ニ年(一八ニ九))にも、東武三十六名松の1つ「証拠の松」として記されている。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当寺の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。以来「証拠の松」とよばれるようになったという。
寺内に、天明七年(一七八七)銘太鼓、紙本着色仏涅槃図、寛文十年(一六七○)銘手水鉢などがある。
荒川区教育委員会
欄外:松は現存しません。昭和九年六月に枯死したため伐採されました。
明治四十二年撮影の写真のみあります。」


<車善七の墓>
荒川区史(昭和11年)によると、車善七の墓があったと記載されています。過去形で記載されているので、当時から現存していないのでしょう。

<題目塔>
文化13(1816)年銘の題目塔です。


<三界萬霊塔>

<手水鉢> 荒川区文化財
寛文10(1670)年銘の荒川区内最古の手水鉢です。

<観音堂記/子育地蔵>
「観音堂記」と「子育地蔵」です。

<本堂>
公春院の正式名称は「満海山 公春院 千日寺」で、扁額「満海山」が掲げられています。


下谷道(奥州裏街道)
○下谷道 荒川区南千住6-48-12 説明板
江戸時代は、吉野通り(コツ通り)が奥州街道で、現在の国道4号線(南千住〜上野)は「下谷道」と呼ばれました。
国道4号線から分かれ素盞雄神社の西に突き当る一方通行の旧下谷道が残っています。







素盞雄神社周辺は、江戸時代は小塚原町の菅谷耕地と呼ばれ、電信柱に「菅谷」の名が残っています。



(説明板)
「下谷道
下谷広小路・坂本・三の輪・下谷通新町を通り、素盞雄神社の所で右におれ奥州道中(現コツ通り)に合流する道は、江戸時代、日光道などとも呼ばれ、東叡山門主で日光山門主も兼ねていた輪王寺宮が日光に行く際の道とされていた。周辺には大名屋敷や寺院・町家が軒を連ね賑わったという。
現在の国道4号線(日光街道)がほぼこの道筋に当たるが、道路の拡張や改修によってその姿は変ってしまった。素盞雄神社に至るこの道は、かろうじて旧道の面影を止どめている。
荒川区教育委員会」


<江戸名所図会>
「江戸名所図会 飛鳥社 小塚原天王宮」から「下谷道」部分の抜粋です。「日光道中」とおなじほど「下谷道」を人々が行き交っています。
「飛鳥社 小塚原天王宮」の門前にある「茶や」の裏手には、「みたらし」(御手洗池)と池の中に「へん天」(弁天)が見えます。「御手洗池」前の下谷道では、天日干しをしている光景が見えます。

下谷道から左に折れる道には「昔の奥州海道」と記されています。

<江戸切絵図>
江戸切絵図から「下谷道」部分の抜粋です。下谷道は、上野山下・坂本・御箪笥町・金杉・三ノ輪・通新町・牛頭天王社を経て小塚原で奥州街道に接続する往還です。

「江戸名所図会 東叡山坂本口」
下谷道は「坂本通り」と記され、「東叡山坂本口」の「新門」(江戸切絵図に坂下門)に突き当っています。 新門(坂下門)からクランクに曲がって「下寺通り」と並行する道は「車坂下通り」と記されています。

「江戸名所図会 山下」
新門(坂下門)から山内に入る道は「下寺通り」と記されています。山下には、大道芸や見世物小屋などの盛り場が見えます。

<江戸切絵図>
上記の江戸切絵図から該当部分の抜粋です。

「江戸名所百人美女 上野山下」
「上野山下」は遊興の地として大きな賑わいを見せていました。こま絵には、二階建の料理茶屋と2つの水茶屋が描かれています。美人は、上野山下の料理茶屋に出入りする芸者と思われます。

<下谷御成道>
筋違御門(現万世橋)から下谷広小路までは、将軍が寛永寺への参拝に利用した道で、「下谷御成道」と呼ばれました。(筋違御門について、こちらで記載)

「東都花暦名所案内」
江戸時代の「東都花暦名所案内」に記されている下谷道と奥州街道部分の抜粋です。下谷道は江戸御城の筋違御門から、奥州街道は浅草御門から延びているのがわかります。
江戸時代の観光マップだけあって、町名と名所・行事が記されており、わかりやすいです。

○下谷通新町 荒川区南千住1-15-6 説明板
「立喰生そば 長寿庵」の横に、説明板「下谷通新町」があります。
(説明板)
「下谷通新町
下谷道(現国道4号線)の両側に発達した町。南は下谷三ノ輪町に続き、北は千住小塚原町に接続していた。町の広さは東西四五間(約八一メートル)、南北六町余(約六五四メートル)、『御府内備孝』によれば、寛文元年(一六六一)の割付に「小塚原新町」、元禄九年(一六九六)の割付に「下谷通新町」と見えるとされ、北隣の小塚原町から分かれて新町として成立したと推定される。町名が下谷通新町に変わった時期は元禄八年(一六九五)頃とされている。町奉行と代官の両方の支配であった。明治一一年(一八七八)には下谷区に属し、翌一二年に下谷真正寺町を吸収した。同二二年に南千住の一部となった。
荒川区教育委員会」


<江戸切絵図>
江戸切絵図から「下谷通新町」部分の抜粋です。通新町は下谷道の両側の細長い町です。真正寺の前だけ通新町に囲まれて「門前町」がポツンとあります。
江戸時代は、吉野通り(コツ通り)が奥州街道で、現在の国道4号線(南千住〜上野)は「下谷道」と呼ばれました。
国道4号線から分かれ素盞雄神社の西に突き当る一方通行の旧下谷道が残っています。







素盞雄神社周辺は、江戸時代は小塚原町の菅谷耕地と呼ばれ、電信柱に「菅谷」の名が残っています。



(説明板)
「下谷道
下谷広小路・坂本・三の輪・下谷通新町を通り、素盞雄神社の所で右におれ奥州道中(現コツ通り)に合流する道は、江戸時代、日光道などとも呼ばれ、東叡山門主で日光山門主も兼ねていた輪王寺宮が日光に行く際の道とされていた。周辺には大名屋敷や寺院・町家が軒を連ね賑わったという。
現在の国道4号線(日光街道)がほぼこの道筋に当たるが、道路の拡張や改修によってその姿は変ってしまった。素盞雄神社に至るこの道は、かろうじて旧道の面影を止どめている。
荒川区教育委員会」


<江戸名所図会>
「江戸名所図会 飛鳥社 小塚原天王宮」から「下谷道」部分の抜粋です。「日光道中」とおなじほど「下谷道」を人々が行き交っています。
「飛鳥社 小塚原天王宮」の門前にある「茶や」の裏手には、「みたらし」(御手洗池)と池の中に「へん天」(弁天)が見えます。「御手洗池」前の下谷道では、天日干しをしている光景が見えます。

下谷道から左に折れる道には「昔の奥州海道」と記されています。

<江戸切絵図>
江戸切絵図から「下谷道」部分の抜粋です。下谷道は、上野山下・坂本・御箪笥町・金杉・三ノ輪・通新町・牛頭天王社を経て小塚原で奥州街道に接続する往還です。

「江戸名所図会 東叡山坂本口」
下谷道は「坂本通り」と記され、「東叡山坂本口」の「新門」(江戸切絵図に坂下門)に突き当っています。 新門(坂下門)からクランクに曲がって「下寺通り」と並行する道は「車坂下通り」と記されています。

「江戸名所図会 山下」
新門(坂下門)から山内に入る道は「下寺通り」と記されています。山下には、大道芸や見世物小屋などの盛り場が見えます。

<江戸切絵図>
上記の江戸切絵図から該当部分の抜粋です。

「江戸名所百人美女 上野山下」
「上野山下」は遊興の地として大きな賑わいを見せていました。こま絵には、二階建の料理茶屋と2つの水茶屋が描かれています。美人は、上野山下の料理茶屋に出入りする芸者と思われます。

<下谷御成道>
筋違御門(現万世橋)から下谷広小路までは、将軍が寛永寺への参拝に利用した道で、「下谷御成道」と呼ばれました。(筋違御門について、こちらで記載)

「東都花暦名所案内」
江戸時代の「東都花暦名所案内」に記されている下谷道と奥州街道部分の抜粋です。下谷道は江戸御城の筋違御門から、奥州街道は浅草御門から延びているのがわかります。
江戸時代の観光マップだけあって、町名と名所・行事が記されており、わかりやすいです。

○下谷通新町 荒川区南千住1-15-6 説明板
「立喰生そば 長寿庵」の横に、説明板「下谷通新町」があります。
(説明板)
「下谷通新町
下谷道(現国道4号線)の両側に発達した町。南は下谷三ノ輪町に続き、北は千住小塚原町に接続していた。町の広さは東西四五間(約八一メートル)、南北六町余(約六五四メートル)、『御府内備孝』によれば、寛文元年(一六六一)の割付に「小塚原新町」、元禄九年(一六九六)の割付に「下谷通新町」と見えるとされ、北隣の小塚原町から分かれて新町として成立したと推定される。町名が下谷通新町に変わった時期は元禄八年(一六九五)頃とされている。町奉行と代官の両方の支配であった。明治一一年(一八七八)には下谷区に属し、翌一二年に下谷真正寺町を吸収した。同二二年に南千住の一部となった。
荒川区教育委員会」


<江戸切絵図>
江戸切絵図から「下谷通新町」部分の抜粋です。通新町は下谷道の両側の細長い町です。真正寺の前だけ通新町に囲まれて「門前町」がポツンとあります。

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