根津権現社~曙の里

○根津権現社~曙の里

 根津権現の境内には料理茶屋が並び、「曙の里」と呼ばれる遊観の地として江戸の庶民に親しまれました。


<江戸名所図会 根津権現社>

 挿絵を3枚合成した挿絵と、社殿の拡大です。
 挿絵には「当社の境内を世に曙の里といへり」と記されています。
 本文末には「ことに門前には貨食店簷をならべて詣人を憩はしめ酣歌の声間断なし」とあります。

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「絵本江戸土産 根津権現社地 紅楓」(広重)

 中央に楼門、奥に唐門と社殿が描かれています。

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「江戸切絵図 小石川 谷中 本郷絵図」(根津権現抜粋)

 「根津権現」と、遊郭のあった「根津門前町」が描かれています。
 根津権現脇に「此辺アケホノゝ里ト云」との説明があります。

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「江戸名勝図会 根津」(広重)

 参道、手水舎、燈籠、透垣の配置を見ると、社殿の唐門右手を描いた絵です。

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「江戸名所百人美女 根津権現」(豊国)

 色々と解釈できる錦絵です。

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「根津神社秋色」(小林清親 明治13年)

 秋の楼門が描かれています。

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「根津神社」(井上安治)

 冬景色の牢門が描かれています。

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※出典はすべて国立国会図書館デジタルコレクション

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根津遊郭の跡地ほか

○根津遊郭の跡地 文京区根津1-21-8

 根津神社表参道前新坂下の杉本染物舗の壁に、銅版プレート「根津遊郭の跡地」が掲げられています。

(プレート文)
「根津遊郭の跡地
根津八重垣町(昔は門前町と言った)から根津神社まで遊郭があった そして昔根津は不寝と書かれていたようだ 小石川本郷と谷中の中間の谷間で 天保十有余年この根津に娼妓がいたことを記している 更に当時の江戸市中の風紀から見て一大改革が持たれ 俗に言う水野越前守の緊粛政治で根津遊郭も禁止した 明治維新となるやこの根津の遊郭復帰は声高く叫ばれ公然と開業された ところが東大 一高が本郷向岡に開設されるに及び 再びこの根津遊郭廃止論は大きく起った そして遂に明治二十年十二月限りで廃止 その殆どは洲崎に移り 又一部は吉原に移った
 明治十五年当局の調査によると吉原(娼妓一○一九人)根津(娼妓六八八)品川(娼妓五八八)と記され、その繁華ぶりが偲ばれる
  昭和六十二年四月
      文京歴史研究会
         荒川 忠親 浪越徳治郎
         小林 光二 田中 行成
         松浦 信夫 石坂 岩雄 
         田代喜一郎 森田 一郎
         高田 栄一 菊見 岩雄
         (株)松浦土建 中尾 泰一
         里見 博康 北山  茂
         小平 千里 杉本 順子」

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<大八幡楼跡>

 道路反対の根津神社側に建っている日本医科大学大学院は、根津遊郭の妓楼「大八幡楼」があった場所です。東大生の坪内逍遥と、大八幡楼の遊女「花紫」が出会い、夫人となったセン。

 洲崎への遊郭移転後の「大八幡楼」跡地は、温泉旅館「紫明館」が明治29年に開業します。

 永井荷風は、「里の今昔」の中で、紫明館について言及しています。
 「当時入谷には「松源」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬温泉」などいう温泉宿があって、芸妓をつれて泊りに行くものも尠くなかった。」

 紫明館は明治36年に廃業し、本郷医院が開業、翌年真泉病院と改称しています。その後日本医科大学の付属病院を経る等して、現在に至っています。

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○旧根津須賀町 文京区根津1-25-16

 遊郭「大八幡楼」跡に建っている日本医科大学大学院の前に、文京区「旧根津須賀町」説明板があります。

(説明板)
「旧 根津須賀町(昭和40年までの町名)
 もと、甲府宰相徳川綱重(三代将軍家光の子で五代将軍綱吉の兄)の屋敷があった。綱重の子の綱豐(六代将軍家宣となる)がここで生まれ、団子坂上にあった根津神社が産土神(生まれた土地の神)であった。綱豊は網吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に移った。
 綱吉は、宝永3年(1706)根津神社を甲府屋敷の跡に移し、華麗な社殿を造営した。また町屋が開かれ、根津社地門前と称した。明治2年、町名を根津須賀町とした。
 根津の名の由来には、ねずみのいわれ、台根の根ににあって舟の泊まるところなどの各説がある。
 須賀は、根津神社の祭神素盞鳴尊が、出雲の須賀に宮居を定め、わが心須賀須賀須といわれたによると。
   文京区」

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○新坂(権現坂・S坂) 文京区根津1丁目

 文京区の説明板が根津神社前にあります。
 根津神社の表門に下る坂が、新坂(権現坂・S坂)です。明治になって新設の坂道なので新坂、根津権現の前へ下りるので権現坂、森鴎外がS坂と命名。

(説明板)
「新坂(権現坂・S坂)
 本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
 森鴎外の小説「青年」(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。・・・」とある。
 旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説「青年」を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近く観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。
 根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。
  文京区教育委員会  平成14年3月」

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 坂上始点
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 S字に連なる坂道
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 坂下から
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○根津裏門坂 文京区根津1丁目と千駄木2丁目の間

 根津神社の裏門前を、根津谷から本郷通りに上る交通量の多い坂道です。
 根津神社西口の鳥居前に、文京区が設置した説明板「根津裏門坂」があります。
 坂上の日本医科大学付属病院の西を北に曲がると、夏目漱石の住んだ家「猫の家」跡があります。

(説明板)
「根津裏門坂
 根津神社の裏門前を、根津谷から本郷通りに上る坂道である。
 根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永3年(1706)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。
 坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。『吾輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。
  (家は現在「明治村」に移築)
   文京区教育委員会  平成20年3月」

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乙女稲荷神社

○乙女稲荷神社 文京区根津1-28-9 根津神社境内

 乙女稲荷神社は、西参道から向かうと、駒込稲荷神社の先にあります。根津神社の社殿西門前にも、鳥居と階段参道があります。表参道から向かうと、つつじ苑の先にあります。
 根津遊郭の遊女達が詣でていたようです。

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<社殿>

 神狐の先の千本鳥居をくぐると、すぐに社殿です。

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 社殿の奥に岩窟(風穴)があります。乙女の由来は、ここからきているようです。

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(説明板)
「乙女稲荷神社 祭神 倉稲魂命
 宝永三年(一七〇六)根津神社がこの地に遷座した後、「つつじが岡」の中腹に穿たれた洞に祀られた社で、古記録には「穴稲荷」とある。霊験あらたかと崇敬者多く、参道には鳥居の献納が絶えない。
現在の社殿は昭和三十一年に奉建されたものである。」

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 きつねが蕪の廻りに群れている木彫り彫刻の額がはめ込まれています。
 浅草の待乳山聖天は大根を奉納しますが(こちらで記載)、乙女稲荷神社は蕪を奉納するのでしょうか?

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<百度石>

 乙女稲荷講の奉納です。

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<六代将軍家宣胞衣塚と胞衣塚碑> 文京区指定文化財

 千本鳥居の終端にあるのが「徳川家宣胞衣塚」と「胞衣塚碑」。階段参道からだと、登ってすぐ左手にあります。
 胞衣塚には、六代将軍家宣公の胎盤が納められています。塚と碑は、両方とも文京区指定文化財です。

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<胞衣塚碑> 文京区指定文化財

 「徳川将軍文昭公胞衣塚碑」
 明治14年の建立で、徳川家宣胞衣塚の由緒を伝えています。

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(説明板)
「徳川家宣胞衣塚  文京区指定有形民族文化財
          昭和49年11月1日 指定
 六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。
 この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662)4月25日ここで生まれた。
 胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。
 一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
 この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
 塚正面には、明治14年に建てられた「胞衣塚碑」があり、徳川家宣胞衣塚の由緒を伝えている。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。
 家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
    文京区教育委員会  令和2年2月」

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<千本鳥居>

 北から南に通り抜けると邪気が払われると各HPで言及されていますが根拠な何でしょう?南から北に通り抜けると邪気を吸収してしまうのかもしれません(そんなことはないと思います)。

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駒込稲荷神社

○駒込稲荷神社 根津神社境内

 根津神社西参道から入ってすぐ右手にあるのが駒込稲荷神社です。六代将軍の父徳川綱重公の山手屋敷の守り神として(邸内社)、寛文元(1661)年に祀られた古い社です。

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(説明板)
「駒込稲荷神社 祭神 伊弉諾命 伊弉冉命 倉稲魂命 級長津彦命 級長戸辺命
根津神社が千駄木村より遷座する前、この地は六代将軍の父徳川綱重公の山手屋敷であった。
その屋敷の守り神として、寛文元年(一六六一)に祀られた古い社である。
綱重公は他の江戸別邸、桜田屋敷・三田屋敷・浜屋敷(今の浜離宮)にも同じ稲荷を祀っており、浜離宮内の祠は当所同様今も残っている。」

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<百度石>

 「駒込青果市場組合」が奉納した百度石があります。

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<雅頌句碑など>

 植え込みに二基の石碑があります。詳細不明。

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<庚申塔>

(説明板)
「庚申塔(六基 根津神社境内)
 ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以後、道路拡幅などのため、根津神社に納められたものである。
 正面から左回りに刻まれた像・銘文を見ると、
  ①青面金剛・猿・鶏・寛文八戊申(一六六八)駒込村・施主十五名
  ②観音像・庚申供養・施主十二名
  ③日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(一六九二)施主二十六名
  ④日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(一六八○)願主一名
  ⑤梵字・庚申供養・寛永九年壬申(一六三二)・都島[庚]馬米村・施主七名
  ⑥日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町施主十名・宝永六己丑(一七○九) (□は欠けた文字)
 この中で、⑤の庚申塔は、寛永九年(一六三二)の建立で、区内の現存のものでは最も古い。都内で最も古いのは、足立区花畑にある元和九年のもので、これより九年前の建立である。青面金剛は、病魔・悪鬼を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。
 庚申信仰は、中国の道教から生まれ、六十日ごとにめぐる庚申(かのえさる・十干十二支の組み合わせ)の夜は、人がねむると、三尸の虫がその人の体から抜けて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて、命を縮めると説かれた。これが仏教と融合して我国に渡来し、古来の天つ神を祀るおこもりの習慣と結びついた。
 江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集り、般若心経を唱え、和やかな話合いで一夜を過した。また、祭神も猿田彦神、塞の大神=道祖神であるとの説もある。
    ー郷土をはぐくむ文化財ー
       文京区教育委員会  昭和五十六年九月」

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※説明文で言及の庚申塔はこちらで記載済です。
 「正覚院 都区内最古の庚申塔」(足立区花畑)


<力石>

 庚申塚の周りに力石があります。左の力石には「五拾貫目余」、右の力石には「三十五メ目」と刻まれています。文京区教育委員会の文化財には力石の指定はないので、文化財としての価値は認めていないのでしょう。

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<塞の大神碑>

(説明板)
「塞の大神碑  根津神社
        根津一ノ二八ノ九
 この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分(向丘一ノ一)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。
 この追分は、日本橋から一里(約四粁)で、江戸時代一里塚のあった所である。今も角店は江戸時代から続く老舗の高崎屋である。この高崎屋寄りに一里塚があり、榎が植えられていたが、明和三年(一七六六)に焼け、その跡に庚申塔がおかれたが、これも文政七年(一八二四)の火災で欠損した。
 その跡地に、この塞の大神碑が、明治六年(一八七三)に建てられた。同四十三年、道路の拡幅のため、碑は根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。
 塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、みちのかみとも道祖神ともいわれる。
   ー郷土をはぐくむ文化財ー   
    文京区教育委員会  昭和五十六年三月」

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<江戸名所図会>

 「江戸名所図会 根津権現社」に、「いなり」が2社描かれていて、うら門に近い「いなり」が、駒込稲荷神社かと思われます。

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次は乙女稲荷神社

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根津神社(国重文)

○根津神社(根津権現) 文京区根津1-28-9 03-3822-0753

 今から千九百余年の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間(1469-1486)には太田道灌が社殿を奉建しています。
 五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際、宝永3(1706)年に天下普請によって現在の社殿を造営、千駄木の旧社地より遷座しました。六代将軍徳川家宣の生誕地で、「徳川家宣胞衣塚」と「家宣の産湯井戸」(非公開)が残っています。
 明治政府の権現の名称使用禁止により、根津権現社から根津神社に改称していますが、根津権現で親しまれています。


<表参道>

 「内務大臣正三位勲一等男爵平田東助謹書」
   元准
   勅祭 根津神社
   明治四十四年四月建之」

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 「根津神社略記」

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<境内案内>

 境内案内が所々にあるのでわかりやすい。

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<北口>

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<西口>

 根津裏門坂に面しているのが西参道。西参道と表参道を通り抜ける方や犬の散歩の方々が多々です。

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<神池/神橋>

 表参道を進むと、右手に神池があります。神橋を渡ると、楼門前に出ます。

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<楼門> 国指定重要文化財

 楼門の鬼瓦が躍動しています。
 楼門正面右側の随身は水戸光圀公がモデルと伝えられています。

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<手水舎の水盤>

(説明板)
「この水盤は三百年程前真鶴産本小松石の一枚岩から切出して造られたものです。
 澄んだ水が青く見えるほど深く掘られた水壺は石質ともに今では珍しく貴重な手水鉢です。」

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<舞殿>

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<根津神社>

 唐門前右手に、文化財保護板、文京区説明板、東京十社めぐり板、國寶板があります。

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(説明板)
「根津神社  国指定建造物
       文京区根津1‐28‐9
 日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられている。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに六代将軍となる徳川家宣の誕生の地であった。五代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神として宝永3年(1706)に千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営した。
 社殿は拝殿・本殿と両社を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも、一つの屋根でまとめ、権現造りの完成された姿をみせている。拝殿前に唐門を配し、その左右から透垣で社殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財である。
 祭神は須佐之男命、大山咋命、誉田別命、大国主命、菅原道真公である。
 境内には「家宣の胞衣塚」(区指定民俗文化財)、「塞の大神碑」などがある。
    文京区教育委員会 平成10年3月」

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<唐門/根津権現宝前石燈籠>

 唐門は国指定重要文化財。
 石燈籠は、寛永3(1626)年11月の造立です。徳川将軍の奉献石燈籠とそっくりな造りです。

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<透垣と西門> 国指定重要文化財

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<青銅燈籠> 国指定重要文化財

 社殿前に一対の青銅燈籠が置かれています。宝永7(1710)年に、藤堂和泉守高敏(伊勢国津藩第5代藩主)が奉納したもの。

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<狛犬>

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<拝殿> 国指定重要文化財

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<文豪の石>

 境内案内図では、「文豪の石」とあります。夏目漱石、森鴎外らが腰掛けたのではないかと推測されているようです。

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<我武維揚(森鴎外ほか)>

 境内案内図では、「森鴎外碑銘水」とあります。
 陸軍軍医監森林太郎(森鴎外)と陸軍少将中村愛三が日露戦争戦利砲弾を明治39年9月に奉納しています。
 砲弾の台座表面には「我武維揚」(軍人勅諭の一部)と刻まれています。現在は砲弾はなく台座のみで、水飲み場に改造されています。

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 表「我武維揚」

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 裏「戦利砲弾奉納
   陸軍々医監 森林太郎 陸軍少将中村愛三」
   明治三十九年九月十日建之」

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<鴎外荘が移築>

 「水月ホテル鷗外荘」が2021年10月に閉館・廃業、敷地内の「鴎外荘」が根津神社に移築されることが決まり、2021年10月3日から11月30日にかけて解体工事が行われています。
 復元場所は根津神社境内の東側で、時期は未定です。


○つつじ苑

<つつじ苑の記>

 つつじ苑の入口手前に「つつじ苑の記」碑があります。
 徳川綱重の下屋敷は当時からつつじの名庭で、根津権現の遷座に際し、さらにつつじが増殖され、「つつじが岡」と呼ばれる名勝でした。
 昭和40年代よりつつじが献木され現在の盛観に至り、本碑を建立したと記されています。昭和54(1979)年4月吉日の建碑です。

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 太田道灌夏目漱石森鴎外東京十社国重要文化財藤堂家腰掛け石・松富くじ

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