奈良の大仏(市原市)
○大仏通り 千葉県市原市
茂原街道(千葉県道14号)から、ENEOSのある交差点から大仏通りへ左折します。ここから大仏通りの終点まで、アップダウンの道で、信号は一つもありません。喜多トンネルを通過。横の標識のほか縦のローマ字表記なしの「大仏通り」標識もあります。



古都辺 (こつべ)から奈良へ入ります。古都辺の由来は、平将門が上野郷に居館し、その地を奈良と称しました。平将門は下総国相馬(現在の茨城県猿島地区)に移りましたが、当地は古い都の付近にあるという意味でつけられたといいます。
「←1.3km 市指定名勝奈良の大仏」
奈良の大仏へ寄るため「←1.3km 市指定名勝奈良の大仏」の標識を左折します。しかし、この表示は、通りの名前を示す標識ですよね、不思議な標識です。



大仏通りの終点です。リソルの森右折の看板が建っています。


○奈良の大仏へ
<道標その1>
大仏通りから奈良の大仏へ向かう途中に道標がありました。上が折れて消失しているのでよくわかりません。



<電信柱支柱>
電信柱の支柱は「奈良支」で、ここが奈良であることを示しています。

<「奈良の大仏」と道標その2>
道が2つに分かれるところに「奈良の大仏」表示と、道標があります。
「市原市指定文化財
奈良の大仏
奈良町会」


昭和十二年一月と刻まれている道標です。




<参道>
道標から右の道を進むと、また2つに分かれます。今度は木が生い茂る参道らしき左の道を進みます。


<奈良児童遊園>
誰も遊んでいない奈良児童遊園です。ハイキングの人は見かけません。もちろん鹿もいません。




<奉納>
奉納碑には、昭和五十九年度町会長と本泉寺第五十七世の紀名がありますが、何を奉納されたのでしょうかね。

<馬頭観世音供養塔四基>
奉納碑の左奥に、馬頭観世音供養塔が三基並び、離れて一基あります。一番右の一基の台座には「競馬連」とあります。裏には、明治44(1911)年1月18日建立、馬匹改良大競馬紀念とあります。軍馬の資質を改善するため明治39(1906)年に馬政局が設置され馬匹改良事業に着手、馬匹の需要拡大を狙った競馬の振興も積極的に行いました。当時、奈良は軍馬と競馬の馬産地だったのでしょう。




○奈良の大仏 市原市奈良369-2
伝承によると、初代の大仏は、承平元(931)年に平将門が奈良の大仏を模して此の地に建立した仏像で、創建時は銅製だったとのことです。現在の大仏は文化元(1804)年再興の石造釈迦如来立像で、市川市指定文化財です。ちなみに東大寺の大仏は国宝です。2011年の東日本大震災では、像が台座から落ち損壊しましたが、住民が市原市と費用を折半して修復しました。
市原市文化財(名勝)に指定されており、所有者・管理者は、本泉寺他32名となっています。
(説明板)
目の前の大仏や平将門の説明より、参道の植物の説明のほうが圧倒的に多い不思議な説明板です。
「市指定文化財 奈良の大仏
昭和四九年六月十日指定
当地は将門伝説と風光の美しさで知られ、等身大の石造釈迦如来立像が鎮座し、以前より奈良の大仏の名で親しまれている。参道には樹齢約一○○年のヤマザクラの並木があり、目通り幹囲は、最大で三メートル以上にも及ぶ。また、近くには、多数のソメイヨシノが植栽されておりこの立像を囲んで、スダジイ・スギ・イチョウ・クロマツ・モミの大木がうっそうと茂り、その周辺の林床植物としては、コシオガマ・ツルニガクサ・ウコギ・ノコンギク・フタリシズカなど数百種類を数える。
昭和五八年三月 市原市教育委員会」






手水鉢

<台座>
台座正面一番上
「承平元辛卯
春建立
再三之造立
八百七拾四年自
文化元甲子歳
釈迦如来
十月十六日
玄題三千部
上総國市原郡
奈良村」

台座その下「法界萬霊」、台座最下段に安政2年(1855)に台座新造の刻印があります。


台座2段目の左側面
「文化元年 再興世話人」の名前が刻まれています。


<釈迦如来立像>



このあと、近くの「Sport & Do Resort リソルの森」の漆黒の黒湯「紅葉乃湯」へ向かいました(こちらで記載)
茂原街道(千葉県道14号)から、ENEOSのある交差点から大仏通りへ左折します。ここから大仏通りの終点まで、アップダウンの道で、信号は一つもありません。喜多トンネルを通過。横の標識のほか縦のローマ字表記なしの「大仏通り」標識もあります。



古都辺 (こつべ)から奈良へ入ります。古都辺の由来は、平将門が上野郷に居館し、その地を奈良と称しました。平将門は下総国相馬(現在の茨城県猿島地区)に移りましたが、当地は古い都の付近にあるという意味でつけられたといいます。
「←1.3km 市指定名勝奈良の大仏」
奈良の大仏へ寄るため「←1.3km 市指定名勝奈良の大仏」の標識を左折します。しかし、この表示は、通りの名前を示す標識ですよね、不思議な標識です。



大仏通りの終点です。リソルの森右折の看板が建っています。


○奈良の大仏へ
<道標その1>
大仏通りから奈良の大仏へ向かう途中に道標がありました。上が折れて消失しているのでよくわかりません。



<電信柱支柱>
電信柱の支柱は「奈良支」で、ここが奈良であることを示しています。

<「奈良の大仏」と道標その2>
道が2つに分かれるところに「奈良の大仏」表示と、道標があります。
「市原市指定文化財
奈良の大仏
奈良町会」


昭和十二年一月と刻まれている道標です。




<参道>
道標から右の道を進むと、また2つに分かれます。今度は木が生い茂る参道らしき左の道を進みます。


<奈良児童遊園>
誰も遊んでいない奈良児童遊園です。ハイキングの人は見かけません。もちろん鹿もいません。




<奉納>
奉納碑には、昭和五十九年度町会長と本泉寺第五十七世の紀名がありますが、何を奉納されたのでしょうかね。

<馬頭観世音供養塔四基>
奉納碑の左奥に、馬頭観世音供養塔が三基並び、離れて一基あります。一番右の一基の台座には「競馬連」とあります。裏には、明治44(1911)年1月18日建立、馬匹改良大競馬紀念とあります。軍馬の資質を改善するため明治39(1906)年に馬政局が設置され馬匹改良事業に着手、馬匹の需要拡大を狙った競馬の振興も積極的に行いました。当時、奈良は軍馬と競馬の馬産地だったのでしょう。




○奈良の大仏 市原市奈良369-2
伝承によると、初代の大仏は、承平元(931)年に平将門が奈良の大仏を模して此の地に建立した仏像で、創建時は銅製だったとのことです。現在の大仏は文化元(1804)年再興の石造釈迦如来立像で、市川市指定文化財です。ちなみに東大寺の大仏は国宝です。2011年の東日本大震災では、像が台座から落ち損壊しましたが、住民が市原市と費用を折半して修復しました。
市原市文化財(名勝)に指定されており、所有者・管理者は、本泉寺他32名となっています。
(説明板)
目の前の大仏や平将門の説明より、参道の植物の説明のほうが圧倒的に多い不思議な説明板です。
「市指定文化財 奈良の大仏
昭和四九年六月十日指定
当地は将門伝説と風光の美しさで知られ、等身大の石造釈迦如来立像が鎮座し、以前より奈良の大仏の名で親しまれている。参道には樹齢約一○○年のヤマザクラの並木があり、目通り幹囲は、最大で三メートル以上にも及ぶ。また、近くには、多数のソメイヨシノが植栽されておりこの立像を囲んで、スダジイ・スギ・イチョウ・クロマツ・モミの大木がうっそうと茂り、その周辺の林床植物としては、コシオガマ・ツルニガクサ・ウコギ・ノコンギク・フタリシズカなど数百種類を数える。
昭和五八年三月 市原市教育委員会」






手水鉢

<台座>
台座正面一番上
「承平元辛卯
春建立
再三之造立
八百七拾四年自
文化元甲子歳
釈迦如来
十月十六日
玄題三千部
上総國市原郡
奈良村」

台座その下「法界萬霊」、台座最下段に安政2年(1855)に台座新造の刻印があります。


台座2段目の左側面
「文化元年 再興世話人」の名前が刻まれています。


<釈迦如来立像>



このあと、近くの「Sport & Do Resort リソルの森」の漆黒の黒湯「紅葉乃湯」へ向かいました(こちらで記載)
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
鎧神社(北新宿)
○鎧神社 新宿区北新宿3-16-18 HP
藤原秀郷が平将門の鎧を埋めたとの伝承が残る神社です。明治維新により、明神の神号の使用が禁止され、鎧明神社から鎧神社へと改称となります。明治7(1873)年、御祭神の平将門公は末社に遷され、戦後になり御祭神に復活しています。
<江戸名所図会 鎧明神社 圓照寺>
江戸名所図会に描かれています。社前に「兜松」が描かれています。
(本文)
「鎧明神祠 圓照寺の艮の方にあり 圓照寺の持なり 相伝ふ藤原秀郷 将門を誅戮し凱陣の後 将門の鎧を此地に埋蔵し上に禿倉を建て鎧明神と称すといふ 社前に兜松と称ふる古松あり これもその兜を埋たる印と云」


※円照寺については、別途記載済です。
<社号票/鳥居>


<鎧神社縁起>
「鎧神社縁起
祭神
日本武尊 大己貴命 少彦名命 平将門公
縁起、氏子地
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶三年(九四○)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(九四七)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子地は北新宿全域と西新宿一部
平成二年十一月吉日 宮司 新井喜也記」

<手水舎>

<神楽殿>

<兜松の碑>
平将門の兜を埋めた跡と伝わる「兜松の碑」が拝殿右手にあります。「昭和五十三年九月」建碑。「江戸名所図会」にも描かれた兜松と呼ばれた大木を偲んでいます。
兜松は、明治時代の台風で倒れ、代わりに椎の木が植えられました。当時の時代背景から平将門を想起させる松は植えられなかったのかもしれません。現在は石碑の横に松が植えられています。




<拝殿/本殿>







<天神社>
「狛犬型庚申塔」と解説された狛犬があります。享保6(1721)年の紀銘です。
(説明板)
「(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形民俗文化財
狛犬型庚申塔
所在地 新宿区北新宿三丁目十六番十八号
指定年月日 昭和六十年十月四日
素朴な一対の狛犬を用いた庚申塔で、台座正面に「庚申奉造立供養」。側面には武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名と享保六辛丑天十一月(一七二一)の紀年銘が記されている。
向かって右側が阿形像(雄)、左側が吽形像(雌)で、当時の姿をほぼそのまま残している。
狛犬型の庚申塔は珍しく民俗学的にも貴重なものである。
平成四年八月 東京都新宿区教育委員会」





(考察)
庚申供養のための狛犬が狛犬型庚申塔であるならば、庚申供養のための手水鉢や、出羽三山供養のための狛犬も、「手水鉢型庚申塔」や「狛犬型出羽三山供養塔」と呼んで差し支えないのでしょうか。
「手水鉢型庚申塔」(赤山日枝神社、旧安田庭園)


「狛犬型出羽三山供養塔」(大鷲神社)



「手水鉢型湯殿山供養塔」(渕の宮氷川神社)



<石碑>




<裏参道>
狛犬は、天保7(1836)年と台座に銘があります。





<合祀殿>
裏参道にある合祀殿。稲荷神社・三峯神社・子の権現を祀っています。
右の祠にお稲荷さんが置かれているので、右が稲荷神社のようです。



藤原秀郷が平将門の鎧を埋めたとの伝承が残る神社です。明治維新により、明神の神号の使用が禁止され、鎧明神社から鎧神社へと改称となります。明治7(1873)年、御祭神の平将門公は末社に遷され、戦後になり御祭神に復活しています。
<江戸名所図会 鎧明神社 圓照寺>
江戸名所図会に描かれています。社前に「兜松」が描かれています。
(本文)
「鎧明神祠 圓照寺の艮の方にあり 圓照寺の持なり 相伝ふ藤原秀郷 将門を誅戮し凱陣の後 将門の鎧を此地に埋蔵し上に禿倉を建て鎧明神と称すといふ 社前に兜松と称ふる古松あり これもその兜を埋たる印と云」


※円照寺については、別途記載済です。
<社号票/鳥居>


<鎧神社縁起>
「鎧神社縁起
祭神
日本武尊 大己貴命 少彦名命 平将門公
縁起、氏子地
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶三年(九四○)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(九四七)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子地は北新宿全域と西新宿一部
平成二年十一月吉日 宮司 新井喜也記」

<手水舎>

<神楽殿>

<兜松の碑>
平将門の兜を埋めた跡と伝わる「兜松の碑」が拝殿右手にあります。「昭和五十三年九月」建碑。「江戸名所図会」にも描かれた兜松と呼ばれた大木を偲んでいます。
兜松は、明治時代の台風で倒れ、代わりに椎の木が植えられました。当時の時代背景から平将門を想起させる松は植えられなかったのかもしれません。現在は石碑の横に松が植えられています。




<拝殿/本殿>







<天神社>
「狛犬型庚申塔」と解説された狛犬があります。享保6(1721)年の紀銘です。
(説明板)
「(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形民俗文化財
狛犬型庚申塔
所在地 新宿区北新宿三丁目十六番十八号
指定年月日 昭和六十年十月四日
素朴な一対の狛犬を用いた庚申塔で、台座正面に「庚申奉造立供養」。側面には武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名と享保六辛丑天十一月(一七二一)の紀年銘が記されている。
向かって右側が阿形像(雄)、左側が吽形像(雌)で、当時の姿をほぼそのまま残している。
狛犬型の庚申塔は珍しく民俗学的にも貴重なものである。
平成四年八月 東京都新宿区教育委員会」





(考察)
庚申供養のための狛犬が狛犬型庚申塔であるならば、庚申供養のための手水鉢や、出羽三山供養のための狛犬も、「手水鉢型庚申塔」や「狛犬型出羽三山供養塔」と呼んで差し支えないのでしょうか。
「手水鉢型庚申塔」(赤山日枝神社、旧安田庭園)


「狛犬型出羽三山供養塔」(大鷲神社)



「手水鉢型湯殿山供養塔」(渕の宮氷川神社)



<石碑>




<裏参道>
狛犬は、天保7(1836)年と台座に銘があります。





<合祀殿>
裏参道にある合祀殿。稲荷神社・三峯神社・子の権現を祀っています。
右の祠にお稲荷さんが置かれているので、右が稲荷神社のようです。




テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
神田明神(神田神社)
〇神田明神(神田神社) 千代田区外神田2-16-2
天平2(730)年創建とされる古社で、江戸城の大拡張に伴い移転、元和2(1616)年現在地へ移りました。国登録有形文化財が多々あります。
将軍秀忠より江戸の総鎮守とされ、日本橋川より北東を神田明神、南西を山王権現がそれぞれ氏子としました。
明治政府による明神の神号の使用禁止措置により、神田明神から神田神社に改称していますが、正式名称の神田神社ではなく、通称の神田明神で通っています。
神田明神は、平将門を祀ってきましたが、明治7(1874)年に将門神社に遷座し、御祭神からはずされます。昭和59(1984)年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっています。
神田祭は江戸三大祭の一で、その豪華な行列は、江戸名所図会や浮世絵に描かれています。平将門が御祭神からはずされたことから、神田っ子は神田祭の開催を止めた時期もありました。
現在は、アニメファンの巡礼地にもなっているようです。
東京十社のひとつです。



<江戸名所図会 神田明神社/神田明神祭礼>


<絵本江戸土産 神田 明神の社>(広重)

「神田明神は江戸大祭の随一にして祭事は九月十五日なり 惶くも大樹公の上覧あり 這は田安御門より繰込みたるを常盤橋御門より引出すのさまを図せり」

<名所江戸百景 神田明神曙之景>(広重)

<東都三十六景 神田明神>(広重)
雪の構図です。

<江戸の花名勝会 か 八番組 尾上菊五郎/神田明神の祭/神田>(豊国,貞秀,芳虎 国立国会図書館蔵)
江戸の花名勝会から「か 八番組」の抜粋です。神田明神社と、その祭神に祀られている平将門の首が飛んで石をかりかりかんだ図柄です。左上に「将門の亡念打来て首が飛んで石をかりかり神田」とあります。

<東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強>(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)
神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、写真師の勉強のために、カメラを前にポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。

<神田(八雲)神社暁>(小林清親)
広重の名所江戸百景と同じ構図の夜明けの神田神社を描いています。右端の暗い影が、昇る太陽を暗示しています。版画からは「八雲」の文字が削除されているので、修正したようです。

※ 地面に草が描かれていると思ったら、よく見たらこんなところに「小林清親」のサインです。

<神田神社>(井上安治)
井上安治の作品です。

<神田神社社号塔/銅鳥居> 千代田区外神田2-17-2
中山道に面して、建っています。


<随身門>
随身門は昭和50(1975)年に再建。隨神像は北村西望氏の監修です。






<えびす様尊像>
大海原を渡る「えびす様」が造形されています。



<御防講の碑>
「御防講」は神田明神の警護団体で、江戸火消の先駆け的な存在であったとも言われています。


<だいこく様尊像>
随身門を入って左手にある大黒様です。
昭和51(1976)年完成。高さ6.6メートル、重さ30トンで、石造りとしては日本一の大きさです。


<神楽殿>
神楽殿のシャッターには神田祭が描かれています。

<御守自動頒布機>
御守の自動販売機ではなく、自動頒布機です。
広い境内なので、2箇所に設置されていました。

<獅子山> 千代田区指定文化財
獅子の子落としを造形しています。子獅子は新調しています。



<明治天皇御臨幸記念碑>
獅子山の裏にあります。明治7(1874)年9月19日、明治天皇が神田明神に親拝。昭和15(1940)年の建立。
明治天皇の御臨幸に際し、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、平将門は御祭神からはずされています(昭和59(1984)年に復権)。

<鉄製天水桶> 千代田区指定文化財


<御社殿> 国登録有形文化財
昭和9(1934)年造営。
鉄骨鉄筋コンクリート造ということを感じさせない工夫が随所に施されています。 以前、テレビでその工夫が紹介されており、感心しました。 東京大空襲にも耐え抜いています。


<ハート・ライト・ゴーラウンドと社殿>
奉納の美術作品です。

【境内社など】

<祖霊社>
氏子・崇敬者の先祖をお祀りするお社。

<合祀殿>
「籠祖神社・八幡神社・富士神社・天神社・大鳥神社・天祖神社・諏訪神社」を合祀しています。


「籠祖講関係石造物群」 千代田区指定文化財


<彰忠碑 希典書>
祖霊社の裏、合祀殿の横に、「彰忠碑」があります。「希典書」。
萬世橋の親柱の玉垣で囲われています。




他に2碑あり。


<末広稲荷神社>



<三宿稲荷神社・金刀比羅神社>
水盤は千代田区指定文化財です。




<鳳輦神輿 奉安庫>
神田明神大神輿を奉安しています。

<浦安稲荷神社>



<江戸神社>



<力石> 千代田区指定文化財
この力石は、銘文から文政5(1822)年12月に神田の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとされています。



<角田竹冷の句碑>
「白うおや はばかりながら 江戸の水」


<大伝馬町八雲神社>
鉄製天水桶は千代田区指定文化財です。



<小舟町八雲神社>



<小舟町八雲神社鉄製天水桶> 千代田区指定文化財


<日本橋魚河岸水神社>
日本橋
神 田 桶工水溜講



【裏参道】

<小唄塚/小唄作詞塚>
裏参道入って左手。
(説明板)
「小唄塚・小唄作詞塚」



<水野年方顕彰碑> 千代田区指定文化財
裏参道入って右手。
(説明板)
「浮世絵師 水野年方顕彰碑」




【明神男坂】
男坂は東側にあり、明神石坂、東坂とも呼ばれるようです。
浮世絵にも描かれています。


<東都名所 神田明神>(広重)

<大公孫樹/さざれ石>
天神男坂門を入った直ぐ右に、大公孫樹とさざれ石があります。
大公孫樹の親木は枯木につき上部を伐採、震災時のひこばえが育っています。


<銭型平次の碑>
昭和45(1970)年12月、有志の作家と出版社が発起人となり、明神下を見下ろすこの地に建立されました。
寛永通宝の銭形の中央に平次の碑があります。平治の碑の右に、子分八五郎の小さな碑が建てられています。







<國學發祥之地>

<阿部筲人の句碑>
「山茶花の 散るや己の 影の中」
昭和47(1972)年11月12日、好日俳句会により建立。

<神田神社西門入口>
神田神社西門入口から入ってすぐ左手に「将門首塚の由来」説明板。
大手町の将門塚の改修が終わり、新しい小ぶりの説明板が設置されたので、保存会事務所が現地から回収してここに置いているのでしょう。改修後の将門塚は別途記載。
(説明板)
「東京都文化財
将門首塚の由来
今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。
将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。
その後もしばしば将門の怨霊がが崇をなすため、徳治二年時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神その霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
天慶の乱の頃は平安期の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春謳歌していたが遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と
同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。
史蹟 将門塚保存会
保存会事務所 千代田区外神田二ノ十六ノ二 神田神社内
電話○三(三二五四)○七五三番


○宮本公園 千代田区外神田2-16-9
<神田の家> 千代田区文化財




<三谷長三郎胸像> 千代田区文化財
北村西望氏の作品があります。昭和9年制作。三谷氏は学校教育に多大な寄付をした人。





天平2(730)年創建とされる古社で、江戸城の大拡張に伴い移転、元和2(1616)年現在地へ移りました。国登録有形文化財が多々あります。
将軍秀忠より江戸の総鎮守とされ、日本橋川より北東を神田明神、南西を山王権現がそれぞれ氏子としました。
明治政府による明神の神号の使用禁止措置により、神田明神から神田神社に改称していますが、正式名称の神田神社ではなく、通称の神田明神で通っています。
神田明神は、平将門を祀ってきましたが、明治7(1874)年に将門神社に遷座し、御祭神からはずされます。昭和59(1984)年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっています。
神田祭は江戸三大祭の一で、その豪華な行列は、江戸名所図会や浮世絵に描かれています。平将門が御祭神からはずされたことから、神田っ子は神田祭の開催を止めた時期もありました。
現在は、アニメファンの巡礼地にもなっているようです。
東京十社のひとつです。



<江戸名所図会 神田明神社/神田明神祭礼>


<絵本江戸土産 神田 明神の社>(広重)

「神田明神は江戸大祭の随一にして祭事は九月十五日なり 惶くも大樹公の上覧あり 這は田安御門より繰込みたるを常盤橋御門より引出すのさまを図せり」

<名所江戸百景 神田明神曙之景>(広重)

<東都三十六景 神田明神>(広重)
雪の構図です。

<江戸の花名勝会 か 八番組 尾上菊五郎/神田明神の祭/神田>(豊国,貞秀,芳虎 国立国会図書館蔵)
江戸の花名勝会から「か 八番組」の抜粋です。神田明神社と、その祭神に祀られている平将門の首が飛んで石をかりかりかんだ図柄です。左上に「将門の亡念打来て首が飛んで石をかりかり神田」とあります。

<東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強>(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)
神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、写真師の勉強のために、カメラを前にポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。

<神田(八雲)神社暁>(小林清親)
広重の名所江戸百景と同じ構図の夜明けの神田神社を描いています。右端の暗い影が、昇る太陽を暗示しています。版画からは「八雲」の文字が削除されているので、修正したようです。

※ 地面に草が描かれていると思ったら、よく見たらこんなところに「小林清親」のサインです。

<神田神社>(井上安治)
井上安治の作品です。

<神田神社社号塔/銅鳥居> 千代田区外神田2-17-2
中山道に面して、建っています。


<随身門>
随身門は昭和50(1975)年に再建。隨神像は北村西望氏の監修です。






<えびす様尊像>
大海原を渡る「えびす様」が造形されています。



<御防講の碑>
「御防講」は神田明神の警護団体で、江戸火消の先駆け的な存在であったとも言われています。


<だいこく様尊像>
随身門を入って左手にある大黒様です。
昭和51(1976)年完成。高さ6.6メートル、重さ30トンで、石造りとしては日本一の大きさです。


<神楽殿>
神楽殿のシャッターには神田祭が描かれています。

<御守自動頒布機>
御守の自動販売機ではなく、自動頒布機です。
広い境内なので、2箇所に設置されていました。

<獅子山> 千代田区指定文化財
獅子の子落としを造形しています。子獅子は新調しています。



<明治天皇御臨幸記念碑>
獅子山の裏にあります。明治7(1874)年9月19日、明治天皇が神田明神に親拝。昭和15(1940)年の建立。
明治天皇の御臨幸に際し、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、平将門は御祭神からはずされています(昭和59(1984)年に復権)。

<鉄製天水桶> 千代田区指定文化財


<御社殿> 国登録有形文化財
昭和9(1934)年造営。
鉄骨鉄筋コンクリート造ということを感じさせない工夫が随所に施されています。 以前、テレビでその工夫が紹介されており、感心しました。 東京大空襲にも耐え抜いています。


<ハート・ライト・ゴーラウンドと社殿>
奉納の美術作品です。

【境内社など】

<祖霊社>
氏子・崇敬者の先祖をお祀りするお社。

<合祀殿>
「籠祖神社・八幡神社・富士神社・天神社・大鳥神社・天祖神社・諏訪神社」を合祀しています。


「籠祖講関係石造物群」 千代田区指定文化財


<彰忠碑 希典書>
祖霊社の裏、合祀殿の横に、「彰忠碑」があります。「希典書」。
萬世橋の親柱の玉垣で囲われています。




他に2碑あり。


<末広稲荷神社>



<三宿稲荷神社・金刀比羅神社>
水盤は千代田区指定文化財です。




<鳳輦神輿 奉安庫>
神田明神大神輿を奉安しています。

<浦安稲荷神社>



<江戸神社>



<力石> 千代田区指定文化財
この力石は、銘文から文政5(1822)年12月に神田の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとされています。



<角田竹冷の句碑>
「白うおや はばかりながら 江戸の水」


<大伝馬町八雲神社>
鉄製天水桶は千代田区指定文化財です。



<小舟町八雲神社>



<小舟町八雲神社鉄製天水桶> 千代田区指定文化財


<日本橋魚河岸水神社>
日本橋
神 田 桶工水溜講



【裏参道】

<小唄塚/小唄作詞塚>
裏参道入って左手。
(説明板)
「小唄塚・小唄作詞塚」



<水野年方顕彰碑> 千代田区指定文化財
裏参道入って右手。
(説明板)
「浮世絵師 水野年方顕彰碑」




【明神男坂】
男坂は東側にあり、明神石坂、東坂とも呼ばれるようです。
浮世絵にも描かれています。


<東都名所 神田明神>(広重)

<大公孫樹/さざれ石>
天神男坂門を入った直ぐ右に、大公孫樹とさざれ石があります。
大公孫樹の親木は枯木につき上部を伐採、震災時のひこばえが育っています。



<銭型平次の碑>
昭和45(1970)年12月、有志の作家と出版社が発起人となり、明神下を見下ろすこの地に建立されました。
寛永通宝の銭形の中央に平次の碑があります。平治の碑の右に、子分八五郎の小さな碑が建てられています。







<國學發祥之地>

<阿部筲人の句碑>
「山茶花の 散るや己の 影の中」
昭和47(1972)年11月12日、好日俳句会により建立。

<神田神社西門入口>
神田神社西門入口から入ってすぐ左手に「将門首塚の由来」説明板。
大手町の将門塚の改修が終わり、新しい小ぶりの説明板が設置されたので、保存会事務所が現地から回収してここに置いているのでしょう。改修後の将門塚は別途記載。
(説明板)
「東京都文化財
将門首塚の由来
今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。
将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。
その後もしばしば将門の怨霊がが崇をなすため、徳治二年時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神その霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
天慶の乱の頃は平安期の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春謳歌していたが遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と
同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。
史蹟 将門塚保存会
保存会事務所 千代田区外神田二ノ十六ノ二 神田神社内
電話○三(三二五四)○七五三番


○宮本公園 千代田区外神田2-16-9
<神田の家> 千代田区文化財




<三谷長三郎胸像> 千代田区文化財
北村西望氏の作品があります。昭和9年制作。三谷氏は学校教育に多大な寄付をした人。






テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
将門塚 明治政府と平将門の排斥
○将門塚 千代田区大手町1-2-1
将門塚は、平将門の首を祀る塚です。東京都指定旧跡となっています。
将門塚の改修工事が完了し、2021年4月26日、落慶法要と改修竣工の式典が行われています。
<標識「将門首塚」>
近くの交差点に、標識「将門首塚」が掲示されています。

<故蹟保存碑/都旧跡将門塚>
入口右脇に「故蹟保存碑」「都旧跡将門塚」の2基の石碑があります。
「故蹟保存碑」は、明治39(1906)年5月に大蔵省が建立し、現在の碑は昭和15(1940)年に再建されたもので、当時の大蔵大臣・河田烈の書です。




<ウッドフェンス>
ウッドフェンスには将門公の九曜紋が入れられています。
他にも九曜紋が見られます。


(説明板)
石碑2基の裏に、コンパクトな説明パネル板が3枚あります。

<東京都指定旧蹟 将門塚>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
所在地 千代田区大手町一の二
指 定 昭和四六年三月二十六日
平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱)を起こし九四○年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。
徳治二年(一三○七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を立てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は、神田明神において祀られ神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建のため崩されました。
幾多の変遷の後、令和三年(二○二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。
令和三年五月 東京都教育委員会」

<保存会/神田明神>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
史蹟 将門塚保存会
江戸総鎮守 神田明神」

<参詣者の皆さまへのお願い>
供物は持ち帰りください、寄進はお控えくださいとのことです。
改修前に寄進されていた「カエル」は神田明神で保管しているようです。

<板石塔婆/石燈籠>
将門塚中央に「板石塔婆」、その後ろに「石燈籠」があります。
昭和45(1970)年に将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという事件が起きました。
新しい板石塔婆が、真教上人が将門を供養した徳治2(1307)年の旧状を模し同年9月に再建されています。
板石塔婆の文面は、真教上人が「蓮阿弥陀仏」の諡号を追贈した際に作られた板碑の拓本から取ったものです。



表面「平将門 蓮阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
徳治二年」

側面「東京青山 石勝ガーデン刻」
江戸開府のために、徳川家康の命により全国から集められた職人衆に「石勝」がありました。
宝永3(1706)年に創業された「石勝」は、度重なる江戸城の石普請に加わりました。
石勝は、明治から大正にかけて全国至るところで多くの石造建造物を建造しました。
(現j:石勝エクステリアHPを参照しました。)

裏面 経緯が記されています。


<石燈籠/千鳥岩>
埋め立てられた御手洗池にあった石燈籠と千鳥岩が残されています。
石燈籠は板石塔婆の後ろに、千鳥岩は、石段を上がった正面にあります。


「江戸の今昔」(歌川広重 昭和7年)
昭和初期に出版の「江戸の今昔」に掲載の将門塚です。

○明治政府と平将門の排斥
平将門は天皇に逆らった朝敵であり、明治政府の命により平将門を祭る神社は祭神から外されました。
神田明神では、明治天皇が行啓する際、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、明治7(1874)年に平将門を御祭神からはずしています(昭和59(1984)年に復権)。
築土神社では、明治7(1874)年に、皇室とゆかりのある新たな祭神を歓請しています。
平将門を祀る鎧稲荷を合併した兜神社では、明治7(1874)年に新しい御祭神をお祀りしています。
平将門の鎧が埋められたと伝えられる鎧神社では、明治7年(1873)、御祭神の平将門公は末社に遷されています。(戦後になり御祭神に復活しています。)
将門塚は、排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたともされます。大蔵官僚だった織田完之が復権運動に精力を傾け、「将門塚」に古蹟保存碑を建立しています。
「東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)
月岡芳年のパロディーです。神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、写真師の勉強のために、カメラを前に元祭神としてポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。

【平将門像】
「平将門故蹟考」(織田完之 碑文協会 明治40年6月 国会図書館蔵より)

「芳年武者旡類 相模次郎平将門」(明治16年 国会図書館蔵より)

「平将門島広山討死の場」(豊原国周 明治23年 国会図書館蔵より)

「近江八景之内 堅田落雁 平将門」(豊国 嘉永5年 国立国会図書館蔵より)

「新形三十六怪撰 藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図」(芳年 国立国会図書館蔵より)
藤原秀郷(俵藤太)の百足退治が描かれています。

【平将門ゆかりの地】
○ 神田明神(外神田)
○ 築土神社(九段北)
○ 鎧神社 (北新宿)
○ 将門塚 (大手町)
○ 鎧の渡し(日本橋兜町)
○ 兜神社 (日本橋兜町)
将門塚は、平将門の首を祀る塚です。東京都指定旧跡となっています。
将門塚の改修工事が完了し、2021年4月26日、落慶法要と改修竣工の式典が行われています。
<標識「将門首塚」>
近くの交差点に、標識「将門首塚」が掲示されています。

<故蹟保存碑/都旧跡将門塚>
入口右脇に「故蹟保存碑」「都旧跡将門塚」の2基の石碑があります。
「故蹟保存碑」は、明治39(1906)年5月に大蔵省が建立し、現在の碑は昭和15(1940)年に再建されたもので、当時の大蔵大臣・河田烈の書です。




<ウッドフェンス>
ウッドフェンスには将門公の九曜紋が入れられています。
他にも九曜紋が見られます。


(説明板)
石碑2基の裏に、コンパクトな説明パネル板が3枚あります。

<東京都指定旧蹟 将門塚>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
所在地 千代田区大手町一の二
指 定 昭和四六年三月二十六日
平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱)を起こし九四○年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。
徳治二年(一三○七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を立てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は、神田明神において祀られ神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建のため崩されました。
幾多の変遷の後、令和三年(二○二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。
令和三年五月 東京都教育委員会」

<保存会/神田明神>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
史蹟 将門塚保存会
江戸総鎮守 神田明神」

<参詣者の皆さまへのお願い>
供物は持ち帰りください、寄進はお控えくださいとのことです。
改修前に寄進されていた「カエル」は神田明神で保管しているようです。

<板石塔婆/石燈籠>
将門塚中央に「板石塔婆」、その後ろに「石燈籠」があります。
昭和45(1970)年に将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという事件が起きました。
新しい板石塔婆が、真教上人が将門を供養した徳治2(1307)年の旧状を模し同年9月に再建されています。
板石塔婆の文面は、真教上人が「蓮阿弥陀仏」の諡号を追贈した際に作られた板碑の拓本から取ったものです。



表面「平将門 蓮阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
徳治二年」

側面「東京青山 石勝ガーデン刻」
江戸開府のために、徳川家康の命により全国から集められた職人衆に「石勝」がありました。
宝永3(1706)年に創業された「石勝」は、度重なる江戸城の石普請に加わりました。
石勝は、明治から大正にかけて全国至るところで多くの石造建造物を建造しました。
(現j:石勝エクステリアHPを参照しました。)

裏面 経緯が記されています。


<石燈籠/千鳥岩>
埋め立てられた御手洗池にあった石燈籠と千鳥岩が残されています。
石燈籠は板石塔婆の後ろに、千鳥岩は、石段を上がった正面にあります。


「江戸の今昔」(歌川広重 昭和7年)
昭和初期に出版の「江戸の今昔」に掲載の将門塚です。

○明治政府と平将門の排斥
平将門は天皇に逆らった朝敵であり、明治政府の命により平将門を祭る神社は祭神から外されました。
神田明神では、明治天皇が行啓する際、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、明治7(1874)年に平将門を御祭神からはずしています(昭和59(1984)年に復権)。
築土神社では、明治7(1874)年に、皇室とゆかりのある新たな祭神を歓請しています。
平将門を祀る鎧稲荷を合併した兜神社では、明治7(1874)年に新しい御祭神をお祀りしています。
平将門の鎧が埋められたと伝えられる鎧神社では、明治7年(1873)、御祭神の平将門公は末社に遷されています。(戦後になり御祭神に復活しています。)
将門塚は、排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたともされます。大蔵官僚だった織田完之が復権運動に精力を傾け、「将門塚」に古蹟保存碑を建立しています。
「東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)
月岡芳年のパロディーです。神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、写真師の勉強のために、カメラを前に元祭神としてポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。

【平将門像】
「平将門故蹟考」(織田完之 碑文協会 明治40年6月 国会図書館蔵より)

「芳年武者旡類 相模次郎平将門」(明治16年 国会図書館蔵より)

「平将門島広山討死の場」(豊原国周 明治23年 国会図書館蔵より)

「近江八景之内 堅田落雁 平将門」(豊国 嘉永5年 国立国会図書館蔵より)

「新形三十六怪撰 藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図」(芳年 国立国会図書館蔵より)
藤原秀郷(俵藤太)の百足退治が描かれています。

【平将門ゆかりの地】
○ 神田明神(外神田)
○ 築土神社(九段北)
○ 鎧神社 (北新宿)
○ 将門塚 (大手町)
○ 鎧の渡し(日本橋兜町)
○ 兜神社 (日本橋兜町)
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
築土神社
○築土神社石碑 千代田区九段北1-13-5
靖国通りと平行している中坂の坂下に「築土神社石碑」があります。
築土神社の由来が石碑に刻まれています。
<飯田橋散歩路 築土神社>
「築土神社
天慶三年(九四○)、関東平定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明一○年(一四七八)には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇された。」



○築土神社 千代田区九段北1-14-21
「江戸名所図会 築土八幡宮 同明神社」
江戸名所図会には、当初鎮座していた地に、築土八幡宮と並んで明神社が描かれています。

<築土神社の変遷>
天慶3(940)年、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明10(1478)年には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇されました。
天文21(1552)年に田安郷に移転、天正17(1589)年に江戸城の拡張により牛込見附へ移転、元和2(1616)年には江戸城外堀拡張のため筑土八幡神社(現:新宿区筑土八幡町)の横に移転し、「築土明神」と改称。
明治7(1874)年、平将門から主祭神がかわり「築土神社」と改称。戦災により全焼。昭和21(1946)年千代田区富士見に移転、昭和29(1954)年、現在地の世継稲荷境内地へ移転。現社殿は平成6(1994)年に建てらています。
<中坂の中腹に社号標>




<千代田区 都市景観賞>
ビルの屋上には剣がそびえています。








<狛犬>
(説明板)
「狛犬
千代田区指定文化財
1996年(平成8年)4月1日指定
1780年(安永9年)元飯田町の人たちによって奉納された狛犬で、年代が明らかなものとしては千代田区内で最古となります。元飯田町とは1697年(元禄10年)の火災後の町地整備ののちにできた町名で、現在の富士見一丁目及び九段北一丁目付近にあたります。
社伝によれば築土神社は、940年(天慶3年)に武蔵国豊島郡上平川に祀られたのち、田安、牛込門内、牛込門外の筑土山と所在とを変えて、1954年(昭和29年)に現在の場所に戻ってきました。狛犬が奉納された1780年(安永9年)当時は、牛込門外の築土山(現在の新宿区筑土八幡町2番地)に神社が所在していた時期ですが、離れた場所にあってもなお、旧所在地の元飯田町の人々が厚く信仰していた様子がうかがえます。」






<手水舎>

<拝殿>




<力石>
拝殿右に力石2基祀られています。
開設板によると、船の重しとして利用されたとあり、この説明は初めて見ました。
(説明板)
「力石
千代田区指定文化財
1989年(平成元年)4月1日指定
力石は一定重量の円形または楕円形の石で、一般的には神社の境内や地域の集会を行う場所などにあって、若者たちが力試しに用いたと言われています。
しかし築土神社の場合は、神社が日本橋掘留橋近くにあったことから江戸時代の交易や運搬手段として主流であった水運との関係が指摘されています。すなわち、この力石は船底に積んで船を安定させるための重しとして利用されたとみられます。」



<平将門の首桶>
平将門の首桶は、戦災で焼失しています。
「東京市史稿 市街篇第貳」(東京市 大正3)に、記録と写真が残っています。


靖国通りと平行している中坂の坂下に「築土神社石碑」があります。
築土神社の由来が石碑に刻まれています。
<飯田橋散歩路 築土神社>
「築土神社
天慶三年(九四○)、関東平定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明一○年(一四七八)には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇された。」



○築土神社 千代田区九段北1-14-21
「江戸名所図会 築土八幡宮 同明神社」
江戸名所図会には、当初鎮座していた地に、築土八幡宮と並んで明神社が描かれています。

<築土神社の変遷>
天慶3(940)年、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明10(1478)年には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇されました。
天文21(1552)年に田安郷に移転、天正17(1589)年に江戸城の拡張により牛込見附へ移転、元和2(1616)年には江戸城外堀拡張のため筑土八幡神社(現:新宿区筑土八幡町)の横に移転し、「築土明神」と改称。
明治7(1874)年、平将門から主祭神がかわり「築土神社」と改称。戦災により全焼。昭和21(1946)年千代田区富士見に移転、昭和29(1954)年、現在地の世継稲荷境内地へ移転。現社殿は平成6(1994)年に建てらています。
<中坂の中腹に社号標>




<千代田区 都市景観賞>
ビルの屋上には剣がそびえています。








<狛犬>
(説明板)
「狛犬
千代田区指定文化財
1996年(平成8年)4月1日指定
1780年(安永9年)元飯田町の人たちによって奉納された狛犬で、年代が明らかなものとしては千代田区内で最古となります。元飯田町とは1697年(元禄10年)の火災後の町地整備ののちにできた町名で、現在の富士見一丁目及び九段北一丁目付近にあたります。
社伝によれば築土神社は、940年(天慶3年)に武蔵国豊島郡上平川に祀られたのち、田安、牛込門内、牛込門外の筑土山と所在とを変えて、1954年(昭和29年)に現在の場所に戻ってきました。狛犬が奉納された1780年(安永9年)当時は、牛込門外の築土山(現在の新宿区筑土八幡町2番地)に神社が所在していた時期ですが、離れた場所にあってもなお、旧所在地の元飯田町の人々が厚く信仰していた様子がうかがえます。」






<手水舎>

<拝殿>




<力石>
拝殿右に力石2基祀られています。
開設板によると、船の重しとして利用されたとあり、この説明は初めて見ました。
(説明板)
「力石
千代田区指定文化財
1989年(平成元年)4月1日指定
力石は一定重量の円形または楕円形の石で、一般的には神社の境内や地域の集会を行う場所などにあって、若者たちが力試しに用いたと言われています。
しかし築土神社の場合は、神社が日本橋掘留橋近くにあったことから江戸時代の交易や運搬手段として主流であった水運との関係が指摘されています。すなわち、この力石は船底に積んで船を安定させるための重しとして利用されたとみられます。」



<平将門の首桶>
平将門の首桶は、戦災で焼失しています。
「東京市史稿 市街篇第貳」(東京市 大正3)に、記録と写真が残っています。


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