奈良の大仏(市原市)

○大仏通り 千葉県市原市

 茂原街道(千葉県道14号)から、ENEOSのある交差点から大仏通りへ左折します。ここから大仏通りの終点まで、アップダウンの道で、信号は一つもありません。喜多トンネルを通過。横の標識のほか縦のローマ字表記なしの「大仏通り」標識もあります。

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 古都辺 (こつべ)から奈良へ入ります。古都辺の由来は、平将門が上野郷に居館し、その地を奈良と称しました。平将門は下総国相馬(現在の茨城県猿島地区)に移りましたが、当地は古い都の付近にあるという意味でつけられたといいます。

 「←1.3km 市指定名勝奈良の大仏」

 奈良の大仏へ寄るため「←1.3km 市指定名勝奈良の大仏」の標識を左折します。しかし、この表示は、通りの名前を示す標識ですよね、不思議な標識です。

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 大仏通りの終点です。リソルの森右折の看板が建っています。

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○奈良の大仏へ

<道標その1>

 大仏通りから奈良の大仏へ向かう途中に道標がありました。上が折れて消失しているのでよくわかりません。

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<電信柱支柱>

 電信柱の支柱は「奈良支」で、ここが奈良であることを示しています。

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<「奈良の大仏」と道標その2>

 道が2つに分かれるところに「奈良の大仏」表示と、道標があります。

 「市原市指定文化財
  奈良の大仏
  奈良町会」

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 昭和十二年一月と刻まれている道標です。

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<参道>

 道標から右の道を進むと、また2つに分かれます。今度は木が生い茂る参道らしき左の道を進みます。

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<奈良児童遊園>

 誰も遊んでいない奈良児童遊園です。ハイキングの人は見かけません。もちろん鹿もいません。

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<奉納>

 奉納碑には、昭和五十九年度町会長と本泉寺第五十七世の紀名がありますが、何を奉納されたのでしょうかね。

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<馬頭観世音供養塔四基>

 奉納碑の左奥に、馬頭観世音供養塔が三基並び、離れて一基あります。一番右の一基の台座には「競馬連」とあります。裏には、明治44(1911)年1月18日建立、馬匹改良大競馬紀念とあります。軍馬の資質を改善するため明治39(1906)年に馬政局が設置され馬匹改良事業に着手、馬匹の需要拡大を狙った競馬の振興も積極的に行いました。当時、奈良は軍馬と競馬の馬産地だったのでしょう。

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○奈良の大仏 市原市奈良369-2

 伝承によると、初代の大仏は、承平元(931)年に平将門が奈良の大仏を模して此の地に建立した仏像で、創建時は銅製だったとのことです。現在の大仏は文化元(1804)年再興の石造釈迦如来立像で、市川市指定文化財です。ちなみに東大寺の大仏は国宝です。2011年の東日本大震災では、像が台座から落ち損壊しましたが、住民が市原市と費用を折半して修復しました。
 市原市文化財(名勝)に指定されており、所有者・管理者は、本泉寺他32名となっています。

(説明板)
 目の前の大仏や平将門の説明より、参道の植物の説明のほうが圧倒的に多い不思議な説明板です。
「市指定文化財  奈良の大仏
   昭和四九年六月十日指定
 当地は将門伝説と風光の美しさで知られ、等身大の石造釈迦如来立像が鎮座し、以前より奈良の大仏の名で親しまれている。参道には樹齢約一○○年のヤマザクラの並木があり、目通り幹囲は、最大で三メートル以上にも及ぶ。また、近くには、多数のソメイヨシノが植栽されておりこの立像を囲んで、スダジイ・スギ・イチョウ・クロマツ・モミの大木がうっそうと茂り、その周辺の林床植物としては、コシオガマ・ツルニガクサ・ウコギ・ノコンギク・フタリシズカなど数百種類を数える。
  昭和五八年三月  市原市教育委員会」

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 手水鉢

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<台座>

 台座正面一番上
  「承平元辛卯
   春建立
   再三之造立
   八百七拾四年自
   文化元甲子歳
   釈迦如来
   十月十六日
   玄題三千部
   上総國市原郡
   奈良村」

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 台座その下「法界萬霊」、台座最下段に安政2年(1855)に台座新造の刻印があります。

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 台座2段目の左側面
 「文化元年 再興世話人」の名前が刻まれています。

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<釈迦如来立像>

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 このあと、近くの「Sport & Do Resort リソルの森」の漆黒の黒湯「紅葉乃湯」へ向かいました(こちらで記載

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tag : 平将門電信柱

鎧神社(北新宿)

○鎧神社 新宿区北新宿3-16-18 HP

 藤原秀郷が平将門の鎧を埋めたとの伝承が残る神社です。明治維新により、明神の神号の使用が禁止され、鎧明神社から鎧神社へと改称となります。明治7(1873)年、御祭神の平将門公は末社に遷され、戦後になり御祭神に復活しています。


<江戸名所図会 鎧明神社 圓照寺>

 江戸名所図会に描かれています。社前に「兜松」が描かれています。

(本文)
「鎧明神祠 圓照寺の艮の方にあり 圓照寺の持なり 相伝ふ藤原秀郷 将門を誅戮し凱陣の後 将門の鎧を此地に埋蔵し上に禿倉を建て鎧明神と称すといふ 社前に兜松と称ふる古松あり これもその兜を埋たる印と云」

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※円照寺については、別途記載済です


<社号票/鳥居>

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<鎧神社縁起>

「鎧神社縁起
 祭神
 日本武尊 大己貴命 少彦名命 平将門公
 縁起、氏子地
 当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶三年(九四○)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(九四七)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子地は北新宿全域と西新宿一部
 平成二年十一月吉日 宮司 新井喜也記」

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<手水舎>

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<神楽殿>

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<兜松の碑>

 平将門の兜を埋めた跡と伝わる「兜松の碑」が拝殿右手にあります。「昭和五十三年九月」建碑。「江戸名所図会」にも描かれた兜松と呼ばれた大木を偲んでいます。
 兜松は、明治時代の台風で倒れ、代わりに椎の木が植えられました。当時の時代背景から平将門を想起させる松は植えられなかったのかもしれません。現在は石碑の横に松が植えられています。

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<拝殿/本殿>

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<天神社>

 「狛犬型庚申塔」と解説された狛犬があります。享保6(1721)年の紀銘です。

(説明板)
「(文化財愛護シンボルマーク)
 新宿区指定有形民俗文化財
 狛犬型庚申塔
    所在地 新宿区北新宿三丁目十六番十八号
    指定年月日 昭和六十年十月四日
 素朴な一対の狛犬を用いた庚申塔で、台座正面に「庚申奉造立供養」。側面には武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名と享保六辛丑天十一月(一七二一)の紀年銘が記されている。
 向かって右側が阿形像(雄)、左側が吽形像(雌)で、当時の姿をほぼそのまま残している。
 狛犬型の庚申塔は珍しく民俗学的にも貴重なものである。
  平成四年八月   東京都新宿区教育委員会」

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(考察)
 庚申供養のための狛犬が狛犬型庚申塔であるならば、庚申供養のための手水鉢や、出羽三山供養のための狛犬も、「手水鉢型庚申塔」や「狛犬型出羽三山供養塔」と呼んで差し支えないのでしょうか。

「手水鉢型庚申塔」(赤山日枝神社、旧安田庭園)
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「狛犬型出羽三山供養塔」(大鷲神社)
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「手水鉢型湯殿山供養塔」(渕の宮氷川神社)
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<石碑>

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<裏参道>

 狛犬は、天保7(1836)年と台座に銘があります。

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<合祀殿>

 裏参道にある合祀殿。稲荷神社・三峯神社・子の権現を祀っています。
 右の祠にお稲荷さんが置かれているので、右が稲荷神社のようです。

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tag : 江戸名所図会平将門藤原秀郷新宿

神田明神(神田神社)

〇神田明神(神田神社) 千代田区外神田2-16-2

 天平2(730)年創建とされる古社で、江戸城の大拡張に伴い移転、元和2(1616)年現在地へ移りました。国登録有形文化財が多々あります。
 将軍秀忠より江戸の総鎮守とされ、日本橋川より北東を神田明神、南西を山王権現がそれぞれ氏子としました。

 明治政府による明神の神号の使用禁止措置により、神田明神から神田神社に改称していますが、正式名称の神田神社ではなく、通称の神田明神で通っています。
 神田明神は、平将門を祀ってきましたが、明治7(1874)年に将門神社に遷座し、御祭神からはずされます。昭和59(1984)年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっています。

 神田祭は江戸三大祭の一で、その豪華な行列は、江戸名所図会や浮世絵に描かれています。平将門が御祭神からはずされたことから、神田っ子は神田祭の開催を止めた時期もありました。

 現在は、アニメファンの巡礼地にもなっているようです。
 東京十社のひとつです。

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<江戸名所図会 神田明神社/神田明神祭礼>

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<絵本江戸土産 神田 明神の社>(広重)

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「神田明神は江戸大祭の随一にして祭事は九月十五日なり 惶くも大樹公の上覧あり 這は田安御門より繰込みたるを常盤橋御門より引出すのさまを図せり」

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<名所江戸百景 神田明神曙之景>(広重)

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<東都三十六景 神田明神>(広重)

 雪の構図です。

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<江戸の花名勝会 か 八番組 尾上菊五郎/神田明神の祭/神田>(豊国,貞秀,芳虎 国立国会図書館蔵)

 江戸の花名勝会から「か 八番組」の抜粋です。神田明神社と、その祭神に祀られている平将門の首が飛んで石をかりかりかんだ図柄です。左上に「将門の亡念打来て首が飛んで石をかりかり神田」とあります。

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<東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強>(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)

 神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、写真師の勉強のために、カメラを前にポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。

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<神田(八雲)神社暁>(小林清親)

 広重の名所江戸百景と同じ構図の夜明けの神田神社を描いています。右端の暗い影が、昇る太陽を暗示しています。版画からは「八雲」の文字が削除されているので、修正したようです。

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 ※ 地面に草が描かれていると思ったら、よく見たらこんなところに「小林清親」のサインです。

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<神田神社>(井上安治)

 井上安治の作品です。

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<神田神社社号塔/銅鳥居> 千代田区外神田2-17-2

 中山道に面して、建っています。

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<随身門>

 随身門は昭和50(1975)年に再建。隨神像は北村西望氏の監修です。

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<えびす様尊像>

 大海原を渡る「えびす様」が造形されています。

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<御防講の碑>

 「御防講」は神田明神の警護団体で、江戸火消の先駆け的な存在であったとも言われています。

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<だいこく様尊像>

 随身門を入って左手にある大黒様です。
 昭和51(1976)年完成。高さ6.6メートル、重さ30トンで、石造りとしては日本一の大きさです。

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<神楽殿>

 神楽殿のシャッターには神田祭が描かれています。

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<御守自動頒布機>

 御守の自動販売機ではなく、自動頒布機です。広い境内なので、2箇所に設置されていました。

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<獅子山> 千代田区指定文化財
 
 獅子の子落としを造形しています。子獅子は新調しています。

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(説明板)
「石獅子
千代田区指定文化財
1991年(平成3年)4月1日指定
 この石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物のひとつです。享保期(1716?1735年)に、下野(現在の栃木県)の名工・石切藤兵衛が作ったものといわれています。1862年(文久2年)11月に両替屋仲間が石を積んで神田神社へ奉納したという記録があります。
 3頭の石獅子は、親獅子が谷底へ突き落した子獅子を見る構図になっています。このうち江戸期以来のものは夫婦2頭のみで、子獅子と獅子山は1923年(大正12年)の関東大震災で失われ、1989年(平成元年)に天皇即位を記念して再建されました。
*千代田区指定文化財は獅子の夫婦2頭」

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<明治天皇御臨幸記念碑>

 獅子山の裏にあります。明治7(1874)年9月19日、明治天皇が神田明神に親拝。昭和15(1940)年の建立。
 明治天皇の御臨幸に際し、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、平将門は御祭神からはずされています(昭和59(1984)年に復権)。

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<鉄製天水桶> 千代田区指定文化財

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(説明板)
「鉄製天水桶
 千代田区指定有形民俗文化財
 1999年(平成11年)4月1日指定
 神田神社拝殿前にある鉄製の天水桶一対は、地上からの高さが約1.3メートルあり、1847年(弘化4年)9月、摂州灘大石(現在の兵庫県)と筋違外(現在の外神田一丁目)の酒屋が発起人となり、神田あるいは新川(現在の中央区)辺りの酒屋5名を世話人として奉納されました。
 天水桶の鋳造には、2人の鋳物師が関わっていて、神田在住の堀口武兵衛が仕事を請負い、川口(現在の埼玉県)在住の永瀬源七に鋳造させたと考えられます。」

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<御社殿> 国登録有形文化財

 昭和9(1934)年造営。
 鉄骨鉄筋コンクリート造ということを感じさせない工夫が随所に施されています。 以前、テレビでその工夫が紹介されており、感心しました。 東京大空襲にも耐え抜いています。

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<ハート・ライト・ゴーラウンドと社殿>
 奉納の美術作品です。

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【境内社など】

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<祖霊社>
 氏子・崇敬者の先祖をお祀りするお社。

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<合祀殿>
「籠祖神社・八幡神社・富士神社・天神社・大鳥神社・天祖神社・諏訪神社」を合祀しています。

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「籠祖講関係石造物群」 千代田区指定文化財

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(説明板)
「籠祖講関係石造物群
 千代田区指定有形文化財
 2005年(平成17年)4月1日指定
 籠祖神社は、塩土翁神と猿田彦大神祭神が祭神で、社伝によれば1798年(寛政10年)に神田神社境内に鎮座したとされています。籠祖講は神田青物市場や日本橋の魚河岸などで使われる籠や笊をつくっていた亀井町(現在の千代田区岩本町一丁目と中央区小伝馬町にまたがる地域)の籠職人や葛籠職人たちによって結成されました。現在も両神を職神として、籠祖講の活動が続けられており、毎年11月に例大祭が行われています。
 籠祖神社内には、1850年(嘉永3年)から1961年(昭和36年)までに奉納された石造物(鳥居・水盤・記念碑・狛犬・常夜燈・玉垣・石標)があります。」

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<彰忠碑 希典書>
 祖霊社の裏、合祀殿の横に、「彰忠碑」があります。「希典書」とあり、乃木希典書です。
 萬世橋の親柱の玉垣で囲われています。

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 他に2碑あり。

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<末広稲荷神社>

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<三宿稲荷神社・金刀比羅神社>
 水盤は千代田区指定文化財です。

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(説明板)
「水盤
 千代田区指定有形民俗文化財
 1997年(平成9年)4月1日指定
 この水盤は、1805年(文化2年)2月に伊勢屋治兵衛によって奉納され、1856年(安政3年)6月に神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈に住む人々により再建されたものです。再建の時には、炭薪問屋・人宿・六組飛脚問屋などの町人が関わっています。
 神田神社や末社の金刀比羅神社・三宿稲荷神社と、江戸の町人たちの関わりを知ることができる貴重な資料です。」

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<鳳輦神輿 奉安庫>
 神田明神大神輿を奉安しています。

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<浦安稲荷神社>

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<江戸神社>

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(説明板)
「三天王 一の宮 江戸神社
  御祭神 建速須佐之男命
  祭礼日 五月十四日
 大寳二年(七○二)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。
 鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道灌築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城地に祀ったが慶長八年(一六○三)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和二年(一六一六)に当地に遷座された。
 江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(一八六八)に須賀神社と改称、更に明治十八年(一八八五)に江戸神社と復称された。
 この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開かれその後、貞亨年間(一六八四?)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態が整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。
 現社殿は平成元年神田市場が大田区東海の地に移転するにあたり江戸神社奉賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。
◎三天王祭・一の宮江戸神社の祭について
 慶長十八年(一六一三)より始まったと伝えられる神輿の神幸は六月七日の朝、明神の境内を発輿して南伝馬町二丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を渡御して十四日還輿された。その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。
 現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神輿で、通称「千貫神輿」として人々に親しまれ、神田祭に担がれる凡そ二百基の神輿の象徴でもあります。」

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<力石> 千代田区指定文化財
 この力石は、銘文から文政5(1822)年12月に神田の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとされています。

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(説明板)
「力石
 千代田区指定文化財
 1991年(平成3年)4月1日指定
 力石とは、一定重量の円形または楕円形の石で、神社の境内や会所(地域の集会や寄合いを行う場所)などにあって、若者達が力試しに用いたと言われています。
 神田神社境内にある力石の由来は銘文があり、1822年(文政5年)12月に神田仲町二丁目(現在の外神田一丁目)の柴田四郎右衛門が持ち上げたことが分かります。江戸・東京の若者達の生活と娯楽を知るうえで貴重な資料です。」

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<角田竹冷の句碑>

 「白うおや はばかりながら 江戸の水」

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(説明板)
「角田竹冷の句碑
  白うおや はばかりながら 江戸の水
 安政三年(一八五六)五月に静岡県冨士郡加島村に誕生。職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人として名を知られていた。
 明治二十八年十月、みずから発起人となり、尾崎紅葉・岡野知十・巌谷小波・川上眉山・戸川残花らの参加を得て秋声会を組織し、翌年十一月俳詩「秋の声」を創刊した。明治三十年六月「卯杖」を出し、後に「木太刀」と改題主宰した。
 正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もあった。晩年は古俳書の収集に熱中した。いま「竹冷文庫」をして東京大学図書館に保管されている。竹冷は大正八年(一九一九)三月二十日六十六歳で没す。」

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<大伝馬町八雲神社>
 鉄製天水桶は千代田区指定文化財です。

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(説明板)
「三天王 二の宮 大伝馬町八雲神社
  御祭神 建速須佐之男命
  祭礼日 六月五日
 この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられる。三天王の二の宮の天王祭は、六月五日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して八日に還輿していた。このことから大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(一六一五)頃より行われて、江戸時代には他の天王祭と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町一丁目・本町三丁目東町会の有志諫鼓会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。
 尚、東京の風物詩「べったら市」も神田神社兼務社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により祭礼伝統文化行事として継承されている。」

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<小舟町八雲神社>

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(説明板)
「三天王 三の宮 小舟町八雲神社
  御祭神 建速須佐之男命
  祭礼日 六月六日
 この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町〔貞亨年間(一六八四~)までは小伝馬町〕お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。
 明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に神輿を奉安し祈祷が行われた。
 東都歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、二丁目には七、八間の絹張りの神門が造られその左右に随神が置かれ長さ五丈の杉の木を植込み、鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。
 神輿は六月十日に明神境内を発輿して氏子百八十か町を巡り還輿するのは十三日か十四日その間の里程は十三里に及んだといわれる。このことがら十三里天王ともいわれた。
 近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている。」

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<小舟町八雲神社鉄製天水桶> 千代田区指定文化財

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(説明板)
「小舟町八雲神社鉄製天水桶
 千代田区有形民俗文化財
 2005年(平成17年)4月1日指定
 小舟町八雲神社の天水桶は、江戸の魚問屋仲間の遠州屋新兵衛他10名によって、1811年(文化8年)に奉納されました。深川大島の鋳物師で当時「釜六」と呼ばれた、太田近江大掾藤原正次の作とされていますが、左右一対の天水桶のうち、本殿左側のものは失われ、1857年(安政4年)に再建されています。小舟町八雲神社は江戸時代には祇園牛頭天王社(二の宮)と呼ばれていました。魚問屋仲間が集住していた小舟町(現在の中央区日本橋小舟町)の人々により崇敬されるようになり、現在に至ります。」

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<日本橋魚河岸水神社>

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 「日本橋
  神 田 桶工水溜講」
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(説明板)
「魚河岸水神社
  御祭神 弥都波能売命
  祭礼日 五月五日
 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。
 元和年間(一六一五〜)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治二十四年(一八九一)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には、当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。
 当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し徳川歴代将軍の上覧に浴し、再三褒賞を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災により烏有に帰した。
 その後、昭和三十年江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久二年(一八六二)当時そのままの山車を再現した。隔年に行われる神田際には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。」

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【裏参道】

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<小唄塚/小唄作詞塚>
 裏参道入って左手。

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(説明板)
「小唄塚・小唄作詩塚
 当神社の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴でありました。江戸小唄の中には神田祭は随所に取り入れられています。この憧憬もあって、大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名吉田金太郎)を、縁りあるこの地に顕彰し、三十一年三月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当たった)により、小唄塚は建立された。
 その後昭和六十二年六月に、小唄火星会をはじめ小唄作詞家協会の人々の発起により、小唄塚建立三十周年を記念して、作詞家を讃え、顕彰すべく小唄作詞塚が建立された。
 茲に、小唄の両輪である、作詞・作曲双方の塚を揃え顕彰する事ができました。」

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<水野年方顕彰碑> 千代田区指定文化財
 裏参道入って右手。

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(説明板)
「水野年方顕彰碑
 千代田区有形文化財
 2001年(平成13年)4月1日指定
 水野年方は、1866年(慶応2年)に江戸神田で左官の棟梁の子として生まれました。当初、歌川派の月岡芳年に入門し、浮世絵の「歴史画」を数多く制作しました。
 明治時代半ばから、「やまと新聞」をはじめとする新聞挿絵、『文芸倶楽部』などの木版彩色の口絵を盛んに描き、上品で繊細な美人画を得意としました。
 1908年(明治41年)、年方は42歳の若さで逝去します。その十七回忌の前年にあたる1923年(大正12年)5月、門人や縁故者が年方の氏神である神田神社に顕彰碑を建立しました。年方の門人からは、鏑木清方を筆頭に、池田輝方や蕉園ら、近代日本画を代表する画家たちが多く輩出されています。」

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【明神男坂】

 男坂は東側にあり、明神石坂、東坂とも呼ばれるようです。浮世絵にも描かれています。

(標柱)
「明神男坂
 南側に平行してある緩やかな明神女坂に対し、勾配が急であるから明神男坂と呼ばれています。天保期、神田の町火消であった「い」「よ」「は」「萬」の四組が献納して造られた坂道です。明神石坂の別名もあります。坂からの眺めが非常によく、月見の名所としても知られました。」

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<東都名所 神田明神>(広重)

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<大公孫樹/さざれ石>
 天神男坂門を入った直ぐ右に、大公孫樹とさざれ石があります。
 大公孫樹の親木は枯木につき上部を伐採、震災時のひこばえが育っています。

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<銭型平次の碑>

 昭和45(1970)年12月、有志の作家と出版社が発起人となり、明神下を見下ろすこの地に建立されました。
 寛永通宝の銭形の中央に平次の碑があります。平治の碑の右に、子分八五郎の小さな碑が建てられています。

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(説明板)
「銭形平次碑
 銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
 平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。
 此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。
 石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。」

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<國學發祥之地>

 京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満(東丸)(寛文9年1月3日〜元文元年7月2日(1669年2月3日~1736年8月8日)が、江戸に出て初めて国学の教場を開いたのが神田神社社家の芝崎邸内でした。そのゆかりから神田神社境内が江戸における国学の発祥の地とされ、碑が建てられています。

(碑文)
「國學發祥之地
   今東光撰文 
 荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仙道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真淵もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に至れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽痺し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年 門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は加茂真淵 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺蹟に記して以て国学の為に伝ふ」

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<阿部筲人の句碑>

 「山茶花の 散るや己の 影の中」
 昭和47(1972)年11月12日、好日俳句会により建立。

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<神田神社西門入口>

 神田神社西門入口から入ってすぐ左手に「将門首塚の由来」説明板。
 大手町の将門塚の改修が終わり、新しい小ぶりの説明板が設置されたので、保存会事務所が現地から回収してここに置いているのでしょう。改修後の将門塚は別途記載。

(説明板)
「東京都文化財
  将門首塚の由来
 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。
 将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の怨霊がが崇をなすため、徳治二年時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神その霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
 天慶の乱の頃は平安期の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春謳歌していたが遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。
    史蹟 将門塚保存会
     保存会事務所 千代田区外神田二ノ十六ノ二 神田神社内
     電話○三(三二五四)○七五三番

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○宮本公園 千代田区外神田2-16-9

<神田の家> 千代田区文化財

 徳川家康の江戸城築城に際し、材木商・遠藤家は木材の集荷を命じられ鎌倉(神奈川県)から神田へと移り住みます。当時、神田周辺に鎌倉の材木職人が集められたことから、神田鎌倉町(現在の内神田1丁目)の名が生まれました。昭和2年(1927年)に建てられた店舗住宅が千代田区文化財に指定されています。「井政」は材木商の屋号です。

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<三谷長三郎胸像> 千代田区文化財

 北村西望氏の作品があります。昭和9年制作。三谷氏は学校教育に多大な寄付をした人。

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(説明板)
「三谷長三郎胸像
 千代田区有形文化財
 2002年(平成14年)4月1日指定
 三谷家は紀伊国屋という屋号の商家で、1660年(万治3年)の創業以来、神田塗師町(現在の鍛冶町二丁目)で銅や真鍮などを取り扱っていました。
 この胸像は、十代目三谷長三郎を讃えるものです。三谷長三郎は1869年(明治2年)に生まれ、家業を近代企業へと大きく発展させました。1909年(明治42年)には三谷報恩会を設立し、のちに財団化します。この財団を社会福祉事業への基盤とし、地元の神田区の学校教育のために資金や備品を積極的に支援しました。
 三谷長三郎の三回忌にあたる1934年(昭和9年)、神田区内の人々が中心となり生前の教育普及事業への功績に感謝を表して、神田神社の裏手、大銀杏の側に銅像を建設しました。像の制作は「長崎平和祈念像」の作者としても有名な北村西望(1884〜1987年)です。1961年(昭和36年)に神社境内の再開発により、像は現在の宮本公園内に移設されました。」

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将門塚 明治政府と平将門の排斥

○将門塚 千代田区大手町1-2-1

 将門塚は、平将門の首を祀る塚です。東京都指定旧跡となっています。
 将門塚の改修工事が完了し、2021年4月26日、落慶法要と改修竣工の式典が行われています。

<標識「将門首塚」>

 近くの交差点に、標識「将門首塚」が掲示されています。

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<故蹟保存碑/都旧跡将門塚>

 入口右脇に「故蹟保存碑」「都旧跡将門塚」の2基の石碑があります。
 「故蹟保存碑」は、明治39(1906)年5月に大蔵省が建立し、現在の碑は昭和15(1940)年に再建されたもので、当時の大蔵大臣・河田烈の書です。

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<ウッドフェンス>

 ウッドフェンスには将門公の九曜紋が入れられています。
 他にも九曜紋が見られます。

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(説明板)

 石碑2基の裏に、コンパクトな説明パネル板が3枚あります。

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<東京都指定旧蹟 将門塚>

(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
    所在地 千代田区大手町一の二
    指 定 昭和四六年三月二十六日
 平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱)を起こし九四○年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。
 徳治二年(一三○七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を立てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は、神田明神において祀られ神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建のため崩されました。
 幾多の変遷の後、令和三年(二○二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。
  令和三年五月  東京都教育委員会」

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<保存会/神田明神>

(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
  史蹟 将門塚保存会
  江戸総鎮守 神田明神」

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<参詣者の皆さまへのお願い>

 供物は持ち帰りください、寄進はお控えくださいとのことです。
 改修前に寄進されていた「カエル」は神田明神で保管しているようです。

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<板石塔婆/石燈籠>

 将門塚中央に「板石塔婆」、その後ろに「石燈籠」があります。
 昭和45(1970)年に将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという事件が起きました。
 新しい板石塔婆が、真教上人が将門を供養した徳治2(1307)年の旧状を模し同年9月に再建されています。
 板石塔婆の文面は、真教上人が「蓮阿弥陀仏」の諡号を追贈した際に作られた板碑の拓本から取ったものです。

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 表面「平将門 蓮阿弥陀仏
    南無阿弥陀仏
    徳治二年」

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 側面「東京青山 石勝ガーデン刻」
  江戸開府のために、徳川家康の命により全国から集められた職人衆に「石勝」がありました。
  宝永3(1706)年に創業された「石勝」は、度重なる江戸城の石普請に加わりました。
  石勝は、明治から大正にかけて全国至るところで多くの石造建造物を建造しました。
  (現j:石勝エクステリアHPを参照しました。)

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 裏面 経緯が記されています。

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<石燈籠/千鳥岩>

 埋め立てられた御手洗池にあった石燈籠と千鳥岩が残されています。
 石燈籠は板石塔婆の後ろに、千鳥岩は、石段を上がった正面にあります。

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「江戸の今昔」(歌川広重 昭和7年)

 昭和初期に出版の「江戸の今昔」に掲載の将門塚です。

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○明治政府と平将門の排斥

 平将門は天皇に逆らった朝敵であり、明治政府の命により平将門を祭る神社は祭神から外されました。
 神田明神では、明治天皇が行啓する際、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、明治7(1874)年に平将門を御祭神からはずしています(昭和59(1984)年に復権)。
 築土神社では、明治7(1874)年に、皇室とゆかりのある新たな祭神を歓請しています。
 平将門を祀る鎧稲荷を合併した兜神社では、明治7(1874)年に新しい御祭神をお祀りしています。
 平将門の鎧が埋められたと伝えられる鎧神社では、明治7年(1873)、御祭神の平将門公は末社に遷されています。(戦後になり御祭神に復活しています。)

 将門塚は、排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたともされます。大蔵官僚だった織田完之が復権運動に精力を傾け、「将門塚」に古蹟保存碑を建立しています。


「東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)

 月岡芳年のパロディーです。神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、写真師の勉強のために、カメラを前に元祭神としてポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。

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【平将門像】

 「平将門故蹟考」(織田完之 碑文協会 明治40年6月 国会図書館蔵より)

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 「芳年武者旡類 相模次郎平将門」(明治16年 国会図書館蔵より)

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「平将門島広山討死の場」(豊原国周 明治23年 国会図書館蔵より)

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「近江八景之内 堅田落雁 平将門」(豊国 嘉永5年 国立国会図書館蔵より)

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「新形三十六怪撰 藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図」(芳年 国立国会図書館蔵より)

 藤原秀郷(俵藤太)の百足退治が描かれています。

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【平将門ゆかりの地】
 ○ 神田明神(外神田)
 ○ 築土神社(九段北)
 ○ 鎧神社 (北新宿)
 ○ 将門塚 (大手町)
 ○ 鎧の渡し(日本橋兜町)
 ○ 兜神社 (日本橋兜町)

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tag : 平将門藤原秀郷旧跡大手町

築土神社

○築土神社石碑 千代田区九段北1-13-5

 靖国通りと平行している中坂の坂下に「築土神社石碑」があります。
 築土神社の由来が石碑に刻まれています。

<飯田橋散歩路 築土神社>

「築土神社
 天慶三年(九四○)、関東平定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明一○年(一四七八)には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇された。」

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築土神社 千代田区九段北1-14-21

「江戸名所図会 築土八幡宮 同明神社」

 江戸名所図会には、当初鎮座していた地に、築土八幡宮と並んで明神社が描かれています。

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<築土神社の変遷>

 天慶3(940)年、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明10(1478)年には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇されました。
 天文21(1552)年に田安郷に移転、天正17(1589)年に江戸城の拡張により牛込見附へ移転、元和2(1616)年には江戸城外堀拡張のため筑土八幡神社(現:新宿区筑土八幡町)の横に移転し、「築土明神」と改称。
 明治7(1874)年、平将門から主祭神がかわり「築土神社」と改称。戦災により全焼。昭和21(1946)年千代田区富士見に移転、昭和29(1954)年、現在地の世継稲荷境内地へ移転。現社殿は平成6(1994)年に建てらています。


<中坂の中腹に社号標>

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<千代田区 都市景観賞>

 ビルの屋上には剣がそびえています。

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<狛犬>

(説明板)
「狛犬
 千代田区指定文化財
 1996年(平成8年)4月1日指定
 1780年(安永9年)元飯田町の人たちによって奉納された狛犬で、年代が明らかなものとしては千代田区内で最古となります。元飯田町とは1697年(元禄10年)の火災後の町地整備ののちにできた町名で、現在の富士見一丁目及び九段北一丁目付近にあたります。
 社伝によれば築土神社は、940年(天慶3年)に武蔵国豊島郡上平川に祀られたのち、田安、牛込門内、牛込門外の筑土山と所在とを変えて、1954年(昭和29年)に現在の場所に戻ってきました。狛犬が奉納された1780年(安永9年)当時は、牛込門外の築土山(現在の新宿区筑土八幡町2番地)に神社が所在していた時期ですが、離れた場所にあってもなお、旧所在地の元飯田町の人々が厚く信仰していた様子がうかがえます。」

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<手水舎>

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<拝殿>
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<力石>

 拝殿右に力石2基祀られています。
 開設板によると、船の重しとして利用されたとあり、この説明は初めて見ました。

(説明板)
「力石
 千代田区指定文化財
 1989年(平成元年)4月1日指定
 力石は一定重量の円形または楕円形の石で、一般的には神社の境内や地域の集会を行う場所などにあって、若者たちが力試しに用いたと言われています。
 しかし築土神社の場合は、神社が日本橋掘留橋近くにあったことから江戸時代の交易や運搬手段として主流であった水運との関係が指摘されています。すなわち、この力石は船底に積んで船を安定させるための重しとして利用されたとみられます。」

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<平将門の首桶>

 平将門の首桶は、戦災で焼失しています。
 「東京市史稿 市街篇第貳」(東京市 大正3)に、記録と写真が残っています。

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