巣鴨プリズン(Sugamo Prison)

○巣鴨プリズン(Sugamo Prison)

 江戸時代の「石川島人足寄場」(こちらで記載)は、明治維新により幾度かの名称変更を経て、「石川島監獄署」となりました。
 明治28(1895)年、北豊島郡巣鴨村(現・豊島区東池袋)に移転、「警視庁監獄巣鴨支所」と改称、その後「巣鴨監獄」「巣鴨刑務所」と改められました。
 「巣鴨刑務所」は関東大震災で被災し、昭和10(1935)年に府中市へ移転し「府中刑務所」となります。
 「巣鴨刑務所」の跡地は昭和12(1937)年に「東京拘置所」となります。
 昭和20(1945)年11月、「GHQ」は接収した「東京拘置所」を利用してA級・BC級戦犯容疑者の収容、刑の確定後の刑の執行を目的として「巣鴨プリズン」(Sugamo Prison)を開設しました。
 昭和27(1952)年4月に「巣鴨プリズン」は日本に移管され「巣鴨刑務所」となり、昭和33(1958)年に最後の戦犯が釈放され、「巣鴨刑務所」は昭和37(1962)年に閉鎖となります。
 昭和33(1958)年に「東京拘置所」が「巣鴨刑務所」に併設して復元されますが、昭和46(1971)年に小管へ移転します。
 「東京拘置所」の跡地は「サンシャインシティ」や「東池袋中央公園」等となっています。
 (※矯正図書館HPを参照しました。)

※巣鴨監獄教誨師事件
 明治31(1998)年に、巣鴨監獄典獄に着任した有馬四郎助は、典獄誨師の活動のあり方に疑問を感じ、霊南坂教会で洗礼をうけた留岡幸助を教誨師として採用します。
 これに反発した本願寺の僧侶達は全員辞表を提出し、本山は、政府(大隈内閣)に檄文を送る大騒ぎとなり帝国議会まで巻き込む騒動となりました。事件は本願寺側に何ら合理性がないことが明らかになって終息します。教誨師事業への関心を喚起させるきっかけとなりました。


○巣鴨プリズン跡 豊島区東池袋3-1-6 東池袋中央公園

 巣鴨プリズンの絞首台があった場所に「平和の碑」扱いの巣鴨プリズン跡碑が建っています。

(碑表)
 「永久平和を願って」

DSCN9392_202307181415398a9.jpg

DSCN9388_2023071814154138d.jpg

DSCN9393_2023071814161946f.jpg

(碑陰)
「第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。
 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
  昭和五十五年六月」

DSCN9390_20230718141542712.jpg


<東池袋公園案内板>

DSCN9384_202307181414196a0.jpg

DSCN9385_20230718141422cec.jpg

DSCN9386_2023071814142426e.jpg

 東池袋中央公園前の地図です。
 次に向かう巣鴨プリズンの遺構がある「イケ・サンパーク」へ530m、「サンシャインシティ」へ100mです。

DSCN9383_2023071814154343f.jpg
DSCN9382_20230718141545dc1.jpg

 池袋中央公園からのサンシャイン60
DSCN9394_202307181415462ab.jpg


○石積みのモニュメント 豊島区東池袋4-34-16
 豊島区立としまみどりの防災公園(IKE・SUNPARK イケ・サンパーク)

DSCN9407_2023071814285531e.jpg

DSCN9403_202307181428577b1.jpg

DSCN9404_20230718142859610.jpg


<石積みのモニュメント>

 巣鴨プリズンの排水口が移設保存され、説明パネルが設置されています。

DSCN9402_20230718143015e44.jpg

DSCN9396_202307181430175bc.jpg

DSCN9397_20230718143019fc3.jpg

 巣鴨プリズンの石垣石は、公園の植栽に再利用されています。

DSCN9405_20230718143132c31.jpg

DSCN9406_20230718143133b4c.jpg

(説明板)
「石積みのモニュメントについて
このアーチ状の石積みは、本公園の敷地の隣接道路(都市計画道路補助第176号線および特別区道41-340)を支えていた石垣の一部で、周辺道路整備で撤去した際に保存し、公園内に復元したものです。
かつてこの地には巣鴨刑務所があり、関東大震災で被害を受けその後縮小され、昭和14年、縮小により空地となった土地の一部に造幣局が移転してきました。この地には長らく貨幣の製造工場や博物館がありましたが、それらの機能は平成28年にさいたま市へ移転し、その跡地に豊島区からの要請を受けたUR都市機構が本公園を整備しました。
そうした歴史から、かつてこの石積みは巣鴨刑務所の排水口として、この周辺を流れていた水窪川(現・暗渠)につながっていたのではないかと考えられています。石垣の石は他にもこの公園で再利用していますので探してみてください。」

DSCN9398_20230718143135bfd.jpg

DSCN9399_20230718143136657.jpg

DSCN9400a.jpg

DSCN9400_20230718143140855.jpg

DSCN9401_20230718143141747.jpg


<石積みの排水工と石垣のあった場所>

 石積みの排水口と石垣があった場所は、公園の南西、坂下通りの終端の階段を降りたところです。

DSCN9412_20230718143338616.jpg

DSCN9408_2023071814334023d.jpg

DSCN9409_20230718143343446.jpg
    
 工事が続いています。

DSCN9410_2023071814334378c.jpg

DSCN9411_20230718143346337.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 池袋巣鴨プリズン

留岡幸助創設・家庭学校跡

○家庭学校跡 豊島区上池袋1-30-20 上池袋東公園

 上池袋東公園内には、かまどスツールなど、災害時を意識した設備があります。
 園内には、日本の福祉の先駆者である留岡幸助が開設した「家庭学校跡」の説明板が設置されています。豊島区の公園説明サイトではスルーされているのが残念ですが、教育委員会が説明板を設置しただけでも感心します。 

DSCN9285_20230709171844eb2.jpg

DSCN9284_20230709171847f2e.jpg

DSCN9283_20230709171850ab2.jpg

DSCN9282_20230709171930ae6.jpg

DSCN9279_20230709171932ae6.jpg

DSCN9280_20230709171934ca2.jpg

DSCN9281_20230709171936ee4.jpg


<家庭学校跡>

 説明板「家庭学校跡」が、南の公園入口に設置されています。
 明治32(1999)年1月に巣鴨村に家庭学校が設立されました。
 なお、留岡幸助は、明治31(1998)年に巣鴨監獄典獄に着任した有馬四郎助より、巣鴨監獄の獄誨師に採用されています(本願寺の反発で騒動となる)。

(説明板)
「家庭学校は、巣鴨村大字巣鴨(現上池袋一丁目三十七番一帯)にあった感化教育施設である。
 設立者の留岡幸助(とめおかこうすけ)は、元治元(一八六四)年に備中国(現岡山県)で生まれた。幼少期に経験した身分制社会の不条理から、すべての人間が平等に生きられる社会を希求するようになり、キリスト教にその理想を見出した。同志社英学校神学課卒業後、明治二十四(一八九一)年から北海道空知集治監の教誨師をつとめるなかで、「犯罪を犯すに至った原因は、少年期の環境が悪いためである」という考えをもつ。同三十二年一月、厳本善治の斡旋によって巣鴨村の三六○○坪の土地を購入し、同年十一月二十三日に家庭学校を開校した。
 家庭学校では、当時まだ自然豊かであった巣鴨村で、農業や牧畜の作業とキリスト教を通じて、不良少年の感化教育が行われた。生徒は校内の宿舎で父親役・母親役の教師と寝食を共にし、家族のような共同生活を送った。
 明治三十七年、日本初の慈善事業従事者養成機関として、慈善事業師範部を校内に設けた。明治四十二年、東京府代用感化院に指定。大正三(一九一四)年、北海道紋別郡遠軽に社名渕分校(現北海道家庭学校)、同十二年に神奈川県に茅ケ崎分校を開設した。
 昭和六(一九三一)年、留岡が倒れたことにより、家庭学校は東京府代用感化院の指定を辞退し、茅ヶ崎分校を閉鎖した。同九年二月五日、留岡が七十歳で死去する。巣鴨の校地は、日本初のガン専門の研究機関である癌研究所(昭和九年開設。平成十七年有明へ移転)及び付属治療所に譲渡した。
  平成二十九年三月三十一日  豊島区教育委員会」

DSCN9274_20230709172109043.jpg

DSCN9278_20230709172112036.jpg

DSCN9276_20230709172112dd9.jpg


「家庭学校 第1編」(留岡幸助 警醒社 明治34,35年 国立国会図書館蔵)

kateigakkou1.jpg

kateigakkou2.jpg

kateigakkou3.jpg

kateigakkou4.jpg

kateigakkou5.jpg

kateigakkou6.jpg

kateigakkou7.jpg

kateigakkou8.jpg

(参考)
「岡山医療福祉六峰」 岡山市北区祇園 旭川荘内

 「留岡幸助」「石井十次」「矢野恒太」「山室軍平」「三木行治」「川崎祐宣」のレリーフが設置されています。
 皆さん、岡山県出身です。
 「一路白頭に至る 留岡幸助(1864〜1934)」

DSC04742.jpg

DSC04741.jpg

DSC04738.jpg

DSC04739.jpg


 福祉の先人たちは、名言を残されています。
 「この子らを世の光に」(糸賀一雄 近江学園創設者)
 「この子は私である。あの子も私である。どんなに障害が重くともみんなその福祉を守ってあげなければと深く心に誓う。」
  (小林提樹 島田療育園創設者)
 「一路白頭に至る」(留岡幸助 家庭学校創設者)
 「流汗悟道」(谷昌恒 北海道家庭学校第5代校長)

(参考)
 北区滝野川には、北区の説明板「滝乃川学園跡」が設置されています。(こちらで記載

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 池袋

池袋氷川神社 池袋富士塚

○池袋氷川神社 豊島区池袋本町3-14-1 HP

 かつての池袋は、池袋駅より北側、当社を中心とした「池袋本町」周辺が中心でした。
 明治時代に境内から谷端川にいたる付近一帯から発見された貝塚は「池袋西貝塚」として知られています。(「池袋東貝塚」については、こちらで記載。)

<表参道>

 社号標「氷川神社」
 一之鳥居は、昭和40(1965)年に社殿が造営された時の建立です。

DSCN9329_20230718131142757.jpg

DSCN9330_20230718131144952.jpg

DSCN9331_2023071813114632b.jpg


<二之鳥居>

 大正4(1915)年に建立された鳥居です。

DSCN9332_202307181311471f0.jpg

DSCN9333_20230718131149065.jpg

DSCN9334_20230718131150c61.jpg


<狛犬>

 昭和40(1965)年に社殿が造営された時に奉納された狛犬です。歯を見せて笑っています。

DSCN9340_202307181311517a7.jpg

DSCN9341_20230718131153e1a.jpg


<由緒>

(石碑文)
「氷川神社略記
御祭神(省略)
御由緒
 建速須佐之男命を主神としておまつりし 古い時代から今日にいたるまで 池袋村の鎮守 氏神さまとしてこの土地に住む代々の人々の守り神として崇敬されてきました。
 埼玉県大宮市鎮座の氷川神社(武蔵国一之宮 平安時代の延喜式神名帳所載の官幣大社)から分かれた神社とも言われています。
 池袋の名は 今から四百三十年前の室町時代 永禄二年(西暦一五五九年)の「小田原衆所領役帳」に「武州豊島郡池袋村」と書かれ 当区内の長崎 菅面(巣鴨) 駒込、雑司谷 高田とともに 当時すでに村が形成されていたことが記録されています
 天保元年(一八三○年)の「新編武蔵風土記稿」の池袋村の条に「氷川社 村ノ鎮守」の記述があります。
 昭和の大戦に際して 東京大空襲の災禍にあいましたが 氏子中の一致協力により 戦後の混乱下にもかかわらず御復興を成し遂げました
 現在の御社殿は 昭和四十年の御造営氏子総奉賛事業として竣功した 戦後二度目の建築です。
 当神社の境内から およそ三千五百年前の縄文時代後期に使用されたと推定される土器片が発掘採集されています また明治時代に境内から谷端川にいたる 付近一帯から発見された貝塚は「池袋貝塚」として知られ 曲玉 管玉 土偶なども出土しています この土地で生活した古代人の様子がうかがえますが これは豊島区歴史年表の最初の項目を記すものです」

DSCN9343_20230718131520763.jpg

DSCN9342_20230718131522368.jpg


<奉納碑>

DSCN9345_20230718131524c59.jpg


<手水舎/百度石>

 手水舎の手前に百度石があります。

DSCN9346_202307181316547e9.jpg

DSCN9366_20230718131657557.jpg


<社号碑>

DSCN9335_20230718131702d1b.jpg


<土俵>

 土俵には覆いがかぶせられています。
 参考までに、渋谷氷川神社には、屋根付の土俵がありました(こちらで記載)。

DSCN9339_2023071813170006b.jpg

DSCN9365_202307181317002d9.jpg


<八紘一宇>

 昭和15(1940)年の奉納です。

(表)
 「紀元二千六百年記念 八紘一宇 陸軍少将 中柴末純書」
DSCN9336_20230718131948f78.jpg

DSCN9337_202307181319512fa.jpg

(裏)
 「記念碑壹基櫻樹六本 本事業ハ班員ノ浄財據出勤勞奉仕ニ依り完成ス
  昭和十五年十一月十日
  帝國在郷軍人會池袋分會第六班」
DSCN9338_2023071813195191b.jpg


<掲揚台>

 戦前かと思える表記ですが、戦後です。
 「敬神崇祖 文部大臣 中村梅吉謹書」

DSCN9349_20230718131952057.jpg


<御輿庫>

DSCN9368_20230718131954443.jpg


<境内社>

 御祭神
 日本武尊・應神天皇・菅原道眞命

DSCN9367_20230718131956025.jpg

DSCN9348_20230718131957440.jpg


<社殿>

DSCN9347_20230718132500694.jpg


○池袋富士塚(浅間神社) 豊島区史跡

 明治45(1912)年に「池袋月三十七夜元講」によって築かれた富士塚です。7月1日と7月の第一日曜日の年に2日だけ、「お山開き」で登拝可能となっています。

 富士塚入り口
DSCN9350_20230718132706fcc.jpg

 手水鉢
DSCN9356_2023071813270890c.jpg

 普段は、門は開いていますが、「お山にのぼらないでください 社務所」との掲示です。
DSCN9352_20230718132708457.jpg

 登山口に「神猿」がいます。
DSCN9353_2023071813271171a.jpg

 富士塚全景
DSCN9360_20230718133124d04.jpg

 富士塚全景
DSCN9363_20230718133126ebb.jpg

 富士塚全景
DSCN9364_202307181331271fe.jpg

 教祖角行の像
DSCN9362_20230718133130c46.jpg

 奥宮
DSCN9361_202307181331319b7.jpg


<修復事業完遂>

 令和5年6月に富士塚の修復事業完遂とのこと。

DSCN9351_20230718134912bd1.jpg

(説明板)
「池袋富士塚
富士塚は、さまざまな理由から富士登山ができない人たちも、これに登れば富士山に登ったのと同じ霊験が得られるとして、江戸時代後期以降、現東京都域および近隣地域に各富士講集団を単位として築造されたものである。高さ約五メートル、東西幅約一三メートル、南北幅約一八メートルを測り、全山がボク石で覆われている。登山道は正面部分に電光形に設けられており、その道筋ははっきり確認できる。
 この池袋富士塚は明治四五年(一九一二)六月に池袋月三十七夜元講によって築かれたものである。塚内に造立された講碑から、歴代先達の名前や近隣の富士講集団とのつきあいの様子が知られる。一般に、富士塚の石造物は、頂上に奥宮、中腹向かって右には小御嶽社をあらわす石祠、中腹向かって左には烏帽子岩を配置するのを基本としている。池袋富士塚の石造物は、こうした特徴を備えているほか、経ヶ岳(日蓮ゆかりの霊地)を示す題目碑、合目石、講碑、教祖角行像、一対の天狗像、さらに胎内が配置されており、充実した石造物群を構成している。
 豊島区に残された数少ない富士塚のひとつとして、また池袋本町地区に展開した民間信仰を考えていくうえでも貴重なことから、平成十年(一九九八)六月に東京都豊島区指定史跡となり、保存がはかられている。
  平成十一年三月  東京都豊島区教育委員会」

DSCN9359_20230718134914dd6.jpg

テーマ : 神社・仏閣巡り - ジャンル : 旅行

tag : 池袋富士塚史跡遺跡八紘一宇

池袋東貝塚再発見の地碑

○池袋東貝塚再発見の地碑 豊島区池袋本町3-21-15

 池袋東貝塚は、明治29(1896)年に考古学者の蒔田鎗次郎により発見された縄文時代の貝塚です。
 付近では池袋西貝塚(現在の氷川神社裏貝塚)も見つかっていましたが、宅地化が進む中で大正時代にはどちらの貝塚も正確な位置がわからなくなっていました。
 平成29(2017)年10月から12月にかけて発掘調査が行われ、縄文時代後期の貝塚であることが判明しています。

<池袋東貝塚再発見の地>

 説明プレートが南投碧山巖寺東京別院入口に設置されています。

DSCN9328_20230718130358867.jpg

DSCN9319_202307181304005e3.jpg

(碑文)
「池袋東貝塚再発見の地
 平成三十年 豊島区教育委員会」

DSCN9327_20230718130448a1c.jpg

DSCN9325_202307181304502ca.jpg

(説明プレート)
「池袋東貝塚は、明治二九(一八九六)年に蒔田鎗次郎により発見された縄文時代の貝塚です。付近では池袋西貝塚(現在の氷川神社裏貝塚)も見つかっていましたが、近隣の宅地化が進む中でしだいに破壊され、すでに大正時代にはどちらの貝塚も正確な位置がわからなくなっていました。
 平成二九(二○一七)年十月、本地点で行われた発掘調査において、地中より貝塚が発見されました。ハマグリやハイガイなどの貝、獣骨や魚骨とともに、縄文時代後期の土器や石器が多数出土しました。消滅したと考えられてきたこの地域の縄文貝塚の実態を示す重要な発見といえます。
  平成三○年  豊島区教育委員会」

DSCN9320_20230718130653349.jpg


○南投碧山巌寺東京別院 豊島区池袋本町3-21-15

 台湾の南投にある1852年建立の仏教寺院「碧山巌寺」の東京別院です。
 別院の建て替え工事の際に貝塚が発見されました。

DSCN9323_202307181307364a2.jpg

DSCN9322_2023071813073947f.jpg

DSCN9318_20230718130739a88.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 池袋遺跡

雑司ヶ谷霊園(著名人の墓)

○雑司ヶ谷霊園著名人の墓 豊島区南池袋4-25-1

 雑司ヶ谷霊園の著名人の墓の一部を巡りました。パンフレットと現地の掲示で探しやすいです。

DSCN3585_20230109124558598.jpg

DSCN3586_20230109124600fa3.jpg

DSCN3584b.jpg


○永井荷風墓 1種1号7側3番

 永井荷風の墓は、1種1号7側と8側の間で、8側の標識が立っているところを入ると、左手に生け垣に囲まれた永井荷風の墓があります。
 永井荷風は、死んだら浄閑寺に埋葬して欲しいと願っていましたが、父の長井久一郎の墓の隣に埋葬され墓が建てられました。
 永井荷風は掃苔(そうたい・墓参り)好きで、父の墓参の他、尊敬する文人のお墓をよく訪れました。

(参考)
 ・永井荷風筆塚と詩碑(浄閑寺)
 ・永井荷風文学碑(白幡天神社)

DSCN3571_202301091255214b6.jpg

DSCN3572_202301091255237fc.jpg

DSCN3570_2023010912552481c.jpg

DSCN3556_20230109125526206.jpg

DSCN3546_202301091257278f4.jpg

 向かって左は父親の永井久一郎の墓です。「禾原(かげん)先生墓」とあります。
 中央が永井荷風(永井壮吉)の墓です。
 向かって右は永井家の墓です。

DSCN3554_2023010912572887e.jpg

DSCN3548_202301091257309a6.jpg

DSCN3550_20230109125731996.jpg

DSCN3551_20230109125733ebb.jpg

 表に「永井荷風墓」と刻まれ、裏に「永井壯吉 昭和三十四年四月三十日卒 享年七十九」と刻まれています。

DSCN3549_20230109125926046.jpg

DSCN3555_20230109125928178.jpg

DSCN3552_20230109125930323.jpg

DSCN3553_2023010912593160c.jpg


○小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)墓 1種1号8側35番

「小泉八雲肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 嘉永3年5月18日〜明治37年9月26日(1850年6月27日〜1904年9月26日)
 明治23(1890)年来日し、島根県の松江中学校に英語教師として赴任。同年小泉セツと結婚しました。明治29(1896)年日本に帰化。同年東京帝大文科大学講師に就任します。後任は夏目漱石です。代表的著作に『怪談』『心』等があります。

koizumiyakumo.jpg

 左 「小泉セツ之墓」
 中央「小泉八雲之墓」
 右 「小泉家之墓」

DSCN3619_20230109130306d1c.jpg

DSCN3618_20230109130309962.jpg

DSCN3620_20230109130309869.jpg

 表「小泉八雲之墓」、左側面「明治三十七年九月二十六日寂」と刻まれています。永井荷風は、小泉八雲の墓を再三訪れています。

DSCN3621_2023010913054095b.jpg

DSCN3622_20230109130542aac.jpg

DSCN3623_20230109130543609.jpg

(参考)「小泉八雲記念碑

DSCN6921.jpg

DSCN6921b.jpg


○東條英機墓 1種1号12側6番

「東條英機肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 明治17(1884)年12月30日〜昭和23(1948)年12月23日

tojohideki.jpg

「東條英教肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 安政2年11月8日〜大正2年12月16日
 (1855年12月16日〜1913年12月16日)

tozyohidenori.jpg


「東條家墓」

DSCN3614_202301091313041e3.jpg

DSCN3613_202301091313048ea.jpg

DSCN3615_2023010913140919c.jpg

DSCN3616_20230109131411917.jpg

 「明治四十四年七月第二代英俊埋葬の機会に於て墓地を浅草区松葉町清水寺より雑司ヶ谷共葬地に移し新に此墳墓を築く 第三代英教識す」
DSCN3617_202301091314136fe.jpg

(参考)
 東條家墓から北へ1kmのところに、巣鴨プリズンの絞首台があった場所に建つ「平和の碑」扱いの巣鴨プリズン跡碑があります(こちらで記載)。


○成島柳北墓 1種4号6側2番

<成島柳北>

 天保8年2月16日〜明治17年11月30日(1837年3月22日〜1884年11月30日)
 成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。幕府の儒者の家(蔵前)に生まれ、18歳の時、家職をついで侍講に進み、奥儒者として将軍徳川家定・家茂に仕えました。後に、騎兵奉行・外国奉行・会計副総裁を歴任しました。
 明治維新後は向島の地に暮らし、新政府の招きを固辞しました。明治5(1872)年東本願寺の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺しました。
 また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力しました。
 明治7(1874)年『柳橋新誌』を刊行、墨堤植桜の保存に尽力し、グラント前米大統領の接遇委員も務めました。
 明治17(1884)年11月30日、海棠園と呼ばれた向島の住居で48年の生涯を閉じました。初め、横川にある本法寺に葬られましたが、明治42(1909)年に豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬されました。

「成島柳北肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
narushimaryuuhoku.jpg

 長命寺成島柳北の碑
DSCN9482b.jpg

 「肖像」(野村文紹 国立国会図書館蔵)
narusima.jpg


<成島家の墓>

 左「柳北先生墓」、右「成島家之墓」。

DSCN3563_202301091320129c3.jpg

DSCN3562_20230109132014780.jpg

DSCN3566_202301091320175b2.jpg

DSCN3564_202301091320178c3.jpg

<成島柳北墓>

 永井荷風は亡父の墓参りに来た際、成島柳北墓の墓が本法寺から移ってきたことを知り、その墓を訪れています。その後も再三訪れています。
 (正面)「柳北先生墓」
 (側面)「明治十七年十一月
      門生小澤圭謹書」

DSCN3569_202301091323052ca.jpg

DSCN3565_20230109132306e80.jpg

DSCN3568_20230109132308f15.jpg

DSCN3567_202301091323091af.jpg

(参考)
 ・成島柳北の住居跡(墨田区向島)
 ・成島柳北「柳橋新誌」
 ・墨堤植櫻と成島柳北
 ・成島柳北の碑(長命寺)


○森田草平墓 1種東6号3側9番

 明治14(1881)年3月19日〜昭和24(1949)年12月14日
 明治41(1908)年3月22日、福渡「万翠館 満寿屋」に泊まった森田草平と平塚明(らいてう)は、翌朝23日に宿を出立、人力車で町のはずれまで行き、そこから尾頭峠での心中を目指します。24日翌朝早々、尾頭峠付近山中で捜索隊に救助されます。この心中未遂を小説化したのが「煤煙」です。尾頭峠の麓、上塩原「和楽遊苑」の池の前に、「煤煙」碑があります。

DSCN3597_20230109132910832.jpg

DSCN3596_20230109132912b78.jpg

DSCN3598_20230109132915e45.jpg

(正面)「森田家之墓」
(側面)「昭和三年九月森田草平建之」
(側面) 森田草平の戒名「浄光院寂然草平居士」と没年「昭和二十四年十二月十四日」が刻まれています。

DSCN3599_20230109133244afb.jpg

DSCN3600_20230109133246b48.jpg

DSCN3601_20230109133249911.jpg

(参考)
 ・森田草平文学碑


○ラファエル・ケーベル墓 1種東6号2側13番

「ラファエル・フォン・ケーベル肖像」(神学及中古哲学研究の必要 ラファエル・フォン・ケーベル 教学研鑽和仏協会 明治43年 国立国会図書館蔵)
 1848年1月15日〜1923年6月14日

koeber.jpg

<ラファエル・ケーベル墓>

DSCN3588_20230109133859579.jpg

DSCN3587_20230109133901106.jpg

DSCN3589_20230109133903199.jpg

(説明板)
「東京都指定旧跡 ラファエル・ケーベルの墓
  所在地 豊島区南池袋四 雑司ヶ谷霊園六区一種ニ側一三番
  史蹟指定 昭和ニ九年一一月三日
  旧跡指定 昭和三○年三月ニ八日
 ラファエル・フォン・ケーベル(一八四八〜一九ニ三)は、ドイツ系口シア人の家に生まれ、モスクワ音楽院で音楽を学んだのち、ハイデルベルク大学に移り哲学と文学を学びました。明治二六年(一八九三)、帝国大学文科大学外国人教師として来日し、哲学や美学を講じました。また、東京音楽学校でも教鞭をとり、ピアノと音楽史の指導にあたるとともに、数多くの演奏会に出演しビ
アニストとしての手腕も発揮しました。日本の哲学の基礎を築き、また、日本近代音楽の葵展に大きな影響を与えたケーベルは、大正一二年(一九ニ三)に横浜で亡くなりました。
  平成ニ四年三月 建設  東京都教育委員会」

DSCN3590_202301091339038a0.jpg


○アレクサンダー・ジョセフ・ヘアー墓

 「ラファエル・ケーベル墓」の隣に、「アレクサンダー・ジョセフ・ヘアー墓」があります。

DSCN3593_202301091340505d2.jpg

DSCN3594_20230109134052d8e.jpg

DSCN3595_20230109134054fee.jpg

(説明板)
「アレクサンダー・ジョセフ.・ヘアー先生は一八四八年口ンドンに生まれ、明治の初めに来日、海軍省傭員となる。
 一旦北米に渡るが、再来日し、一八七九年一橋大学の前身である商法講習所(明治八年、一八七五年森有礼が創設)に着任した。その後、同校の後身である東京高等商業学校を含め通算四〇年間教育に携わり、最古参の外国人教師として、勲三等旭日章を受けられた。
 ヘアー先生が学生たちに教えた商業英語、商業通信文は開国間もない我が国実業界に大いに貢献した。
 一九一八年五月病没。享年七〇歳。住居の表札に「平谷」と書く茶目っ気もあった。
 墓石および石碑銘文(左記ご参照)は先生の教え子であった同窓有志者により一九ニ九年三月に建立された。
  国立大学法人 一橋大学
  一般社団法人 如水会」

DSCN3592_20230109134055bd4.jpg


○大町桂月墓 1種9号5側17番

<大町桂月像>

 明治2年1月24日〜大正14年(1869年3月6日〜1925年6月10日)
 「温泉郷」を最初に使用したのは大町桂月で、田山花袋が普及・定着させました。

「大学時代の桂月翁」
oomachikeigetu1daigaku.jpg

「富士の頂上にて(中央桂月先生)」
oomachikeigetu1fuji.jpg

「大正七年夏」
oomachikeigetu2.jpg

※以上、「文豪大町桂月」(田中貢太郎 青山書院 大正15年 国立国会図書館蔵)より


「著者最近の小照」(冷汗記 大町桂月 富山房 大正5年  国立国会図書館蔵)
reikanki.jpg


「書斎における著者」
syosai_20230109190303fa2.jpg

「庭前旅装の著者」
  大町桂月の旅装は、どことなく若山牧水の旅装に似ています。
tabiso.jpg

※以上、「自然の詩趣」(大町桂月 日本書院 大正7年 国立国会図書館蔵)より


<大町桂月の墓>

DSCN3573_20230109134229ef0.jpg

DSCN3574_20230109134231fc8.jpg

 「大町の墓」は、桂月の筆によるものです。
 裏には「大正五年五月建之 」と刻まれています。

DSCN3575_202301091343280cb.jpg

DSCN3577_20230109134329d6b.jpg

DSCN3579_20230109134330cdc.jpg

(参考)
 ・大町桂月と温泉(PCサイト)


○夏目漱石墓 1種14号1側

 別途記載


○中浜万次郎(ジョン・万次郎)墓 1種15号19側1番

「中浜万次郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 文政10年1月1日〜明治31年11月12日
 (1827年1月27日〜1898年11月12日)
 天保12(1841)年漁で遭難し、無人島でアメリカ船に救助され渡米。嘉永4(1851)年琉球に上陸、嘉永5(1852)年土佐に帰郷します。
 翌年、ペリー来航時幕府より召喚され、中浜姓を授けられ、江川太郎左衛門の配下となり、太郎左衛門の江戸屋敷の長屋に住みました。 この頃、勝海舟に英語を教えています。
 万延元(1860)年日米修好通商条約批准使節の通訳として咸臨丸で渡米します。帰国後も小笠原開拓調査、開成所(後の東京大学)教授就任など活躍しました。

nakahamamanjiro.jpg

「万延元年遣米使節図録 咸臨丸烈風航行の圖」(田中一貞 1920)

 「咸臨丸」です。

kanrinmaru.jpg

<中濱家墓域>

DSCN3606_20230109134949652.jpg

DSCN3603_20230109134952d53.jpg

DSCN3602_20230109134952629.jpg

「贈正五位 中濱萬次郎翁記念碑
        公爵徳川家達書」

DSCN3604_202301091352433eb.jpg

DSCN3612_20230109135245db8.jpg

DSCN3611_20230109135247b13.jpg

「中濱萬次郎之墓」

DSCN3609_202301091353587f9.jpg

DSCN3608_20230109135400c24.jpg

「中濱家累代之墓」

DSCN3605_20230109135402f2a.jpg

「團野千代之墓」

DSCN3610_202301091354039c8.jpg

(参考)
 ・江川太郎左衛門屋敷跡


○東郷青児墓 1種15号19側3番

 中浜万次郎(ジョン・万次郎)墓と同じ並びにあります。

DSCN3607_20230109135650e69.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 永井荷風成島柳北グラント将軍ジョン万次郎森田草平巣鴨プリズン池袋旧跡

カウンター
プロフィール

ほっと湯Web

Author:ほっと湯Web

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
03 | 2024/04 | 05
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
検索フォーム
リンク
カテゴリ
タグリスト

全記事タイトル表示

全ての記事を表示する

Japanese→English
English
♥. ♠. ♣Alice
QRコード
QR