泊船軒 山吹の塚

○泊船軒 荒川区荒川7-17-2

 泊船軒は寛永4(1627)年、湯島の妻恋に創立したと伝わります。
 大正12(1923)年の関東大震災の後、現在地に移転してきました。

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<山吹の塚>

 境内には、太田道灌の故事による「山吹の塚」があります。
 道路拡張工事のため、山吹の塚は泊船軒に移転し、泊船軒が継承したようです。

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tag : 太田道灌

水稲荷神社 高田富士(冨塚古墳)

○水稲荷神社 新宿区西早稲田3-5-43 HP

<裏門>

 都電面影橋駅のある新目白通りからテニスコートの横の道を上ると裏門に出ます。

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<表門>

 新目白通りと早稲田通りを結ぶ道に面して、表門があります。

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<高田稲荷→水稲荷>

 平将門を討った藤原秀郷が、天慶4(941)年に冨塚の地に稲荷神社を勧請して創建され、江戸時代は、富塚稲荷や高田稲荷と称していましたが、元禄15(1702)年、神木の椋のもとから水か湧き出るようになり、目を患う人がこの水で目を漱ぐと治ったことから水稲荷と呼ばれるようになりました。昭和38(1963)年、早稲田大学との土地交換により、現在地に遷座しています。


「江戸名所図会 高田稲荷 毘沙門堂 富士山 神泉 守宮池 宝泉寺」

 江戸名所図会では、高田稲荷として描かれています。神池が、「イモリの池(守宮池)」につながって描かれています。

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<堀部武庸加功遺跡之碑>

 水稲荷神社の大鳥居を潜ると左手にあります。武庸は安兵衛の本名で、加功は助太刀のこと。碑は1910(明治43)年に、行田久蔵が私費で自所に建立したもの。篆額は西園寺公望です。

(説明板)
「新宿区指定有形文化財 歴史資料
 堀部武庸加功遺跡之碑
    所 在 地 西早稲田三丁目五四十三号
    指定年月日 平成二十八年三月四日
 この記念碑は、「忠臣蔵」における代表的説話であり、地域の伝承として知られる「高田馬場の決闘」(元禄七年)における赤穂浪士・堀部安兵衛(一六七○~一七○三)の事蹟を顕彰する記念碑である。江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫・行田久蔵が、明治四十三年(一九一○)に建立した。篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東作、鐫は堀部忠蔵の手になる。また賛助者には頭山満・犬養毅・大隈重信・三田村鳶魚など当時の名士が名を連ねている。当初は茶屋町通りにある忠蔵の植木園に建てられたが、昭和四十六年(一九七一)に現在地に移された。総高は約三五○cmである。
 この記念碑が建てられた当時は、日露戦争後の国家主義の高揚を背景とし、「忠臣蔵」の再評価が高まった時代であった。また、明治から大正にかけて全国的に建碑ブームが巻き起こり歴史上の事象や人物に関する顕彰運動が盛んな時代でもあった。
  平成二十八年三月二十五日    新宿区教育委員会」

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<甘泉園>

 参道途中右手に「甘泉園」入口があります。

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<社務所>

 馬と山羊がいます。定番の二宮尊徳もいます。

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<二の鳥居>

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<手水舎>

 手水舎の支柱には「清水建設株式会社」

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<大国社>

 鳥居を潜った右手にあります。

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<太田道灌駒繋松>

 社殿手前に「太田道灌駒繋松」

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<社殿>

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<主因なし>

 「朱印は一切いたしません」の掲示

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<御輿庫/神楽殿>

 御輿庫に水稲荷神社の御由縁掲示。

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<遷座之碑>
 
 境内階段上がって右手に「遷座之碑」があります。
 表「遷座之碑」裏「遷座の記」

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<耳欠け神稲荷>

 神稲荷は2体おられます。そのうち1体が耳欠神稲荷。

(掲示板)
 「耳欠け神狐
  身体の痛い所と神狐と交互になでると痛みがやわらぐといわれます」

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<水稲荷神社裏手の各社>

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・高木神社
 元々早稲田大学構内にあったものを移しています。

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・三島神社
 甘泉園の旧所有者徳川御三卿清水家下屋敷の屋敷神で、邸内社だったのが三島神社です。

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・北野天神社
 牛込天神町から遍座。大隈重信は日々拝礼し信奉厚かった社です。

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<高田富士(冨塚古墳)>

 高田富士(冨塚古墳)も移設されてきています。驚き。
 日本初の「江戸の富士山」で、大先達藤四郎が築山。
 古墳の穴や、古墳の上にも稲荷が祀られています。

(掲示板)
 「戸塚の町名の起源になった
  富塚古墳」

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<手水鉢>

 ・天神宮御宝前 貞享3(1686)年3月に奉納。「天神宮御宝前 牛込天竜山真定院 貞享三年三月廿五日」
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 ・御宝前 宝暦11(1761)年2月に奉納。
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 ・奉納 安永3(1774)年2月に奉納。
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 ・戸塚稲荷 天和2(1682)年9月に平井権兵衛ら3名が奉納。「戸塚稲荷」
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「江戸切絵図」

 上に清水殿の屋敷と姿見橋が見えます。
 下にすでに水稲荷社と記載され、富士がしっかりと描かれています。

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「江戸名所図会」

 高田稲荷部分を拡大。富士山が大きく描かれています。麓には浅間社。
 稲荷社の境内下に神水が湧いています。いもり池に連なります。

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甘泉園 太田道灌駒繋松

○甘泉園公園 新宿区西早稲田3-5

 この地は、徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷が置かれたところです。

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(説明板)
「 甘泉園案内
 甘泉園という名は、園内に湧き水があり、清川で常時涸れず、また、茶に適したところから起ったものであり、その由来を書きしるした石碑が、園の南東に当たる水稲荷神社の社務所脇に現存している。
 この地は、江戸中期の安永三年(一七七四年)徳川御三卿 の一つ、清水家 の下屋敷がおかれたところである。明治三十年ごろ、相馬家 の所有となったが、昭和十三年早稲田大学に移譲された。
 戦後、都はこの地を買収し、改修の手を加えて、昭和四十四年、区へ移管した。
 庭園は、神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地とその低地にあって、段丘の高低差を利用し、泉の水を引いた池を廻遊する林泉になっている。
 池傍より見上げる雄大な常緑樹林に囲まれ、春のツツジ秋の紅葉が水面に写り、美事な景観を創り出している。
「日本の歴史公園一○○選」にも選定された。(以下省略)
  令和三年二月  新宿区」

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「江戸名所図会 山吹の井」

 山吹の井の湧水は、甘泉園の池となっていたようです。

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<甘泉銘碑>

 甘泉銘碑が水稲荷神社の社務所前にあります。
 不詳の「北風」碑が横にあります。

「現在の水稲荷神社は江戸時代、徳川御三卿のひとつ清水家の屋敷で、甘泉園という庭園があった(現在の甘泉園公園)。園名は、一角にあった泉が清冽で茶に適したため甘泉と呼ばれたからという。文政8年(1825)8月に建立されたこの碑は泉の由来について記したもので、撰文と書は塙正邦による。」(新宿区サイトより引用)

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 不老門は甘水にちなんでいるのか不詳です。

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<茶室 聴松亭>

 徳川家の遺構の「茶室 聴松亭」が、水稲荷神社の遍座の際に、移築されて残っています。
 亭内に燈籠が見えますが、すぐ近くには立派な燈籠2基があります。

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<茶器>
 
 水稲荷神社参道に、茶器があります。

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<浅間神社>

 三島神社は清水徳川家の守護神でした。
 水稲荷神社は遍座してこちらにありますが、三島神社は元々この地にありました。

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<太田道灌駒繋松>

 水稲荷神社に駒繋松が植えられています。

(掲示板)
 「太田道灌駒繋松
  山吹の里は此辺一帯を云う名です」

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tag : 太田道灌江戸名所図会

南蔵院 高田氷川神社

「江戸名所図会 高田 南蔵院 鶯宿梅 氷川社 右橋」

 本文には、南蔵院と氷川社の間の道は鎌倉街道とあります。
 馬や駕籠など、交通量多いですね。茶屋や露店も描かれています。
 南蔵院は、現在の六地蔵と同じ場所に六地蔵が描かれています。

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○南蔵院 豊島区高田1-19-16

<山吹の里弁財天>

 1695(元禄9)年に建てられた「山吹の里弁財天」と水鉢があります。

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<南蔵院門前>

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(説明板)
「南蔵院
    所在地 豊島区高田一ー一九ー一六
 真言宗豊山派に属し、大鏡山薬師寺南蔵院という。寺伝では、開山は室町時代の円成比丘〔永和二(一三七六)年寂〕とされる。本尊の薬師如来は、木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ、円成比丘が諸国遊化の時、彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。
 正徳六年(一七一六)の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には、境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他、山門、薬師堂と思われる建物及び樹木三本が描かれている。また、江戸時代の地誌にも紹介されており、『江戸名所図会』や『新編武蔵風土記稿』では徳川三代将軍家光がしばしば訪れたと記している。
 現在の境内には、元禄九(一六九六)年に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石碑と手水鉢や、庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。また三遊亭圓朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。
  平成二十一(二○○九)年三月  豊島区教育委員会」

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(説明板)
「江戸時代の高田村
 天保五(一八三四)年に刊行された『江戸名所図会』では、高田村付近の様子が、長谷川雪旦による三枚の挿絵付きで紹介されている。
 「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され、境内に薬師(堂)と鶯宿梅が描かれている。
 鶯宿梅は、江戸幕府三代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このとき既に枯れていたとされるが、『新編武蔵風土記稿』では、鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。
 南蔵院の前には右橋、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれている。道を隔てたところには氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは、現在もほとんど変わっておらず、江戸時代の名残をとどめている。
  平成二十一(二○○九)年三月  豊島区教育委員会」

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<本堂>

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<石碑群>

 右から馬頭観音2基、庚申塔4基、地蔵菩薩、不動明王と並びます。

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<六地蔵>

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<彰義隊九士供養費>

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<當院開山 円成比丘五百年忌供養>

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<忠魂碑>

 日露戦争の戦没者供養塔。明治39年7月建立。

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○高田氷川神社 豊島区高田2-2-18

 明治2年に氷川神社と改称する前は、山吹の里氷川宮とも称していました。
 御神域を清浄に保つため写真撮影・ペットの入場・自転車等の乗入・喫煙禁止の掲示があり、外からの写真のみです。

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tag : 太田道灌江戸名所図会戊辰戦争彰義隊戦役紀念碑三遊亭円朝

山吹の里

○江戸名所図会 山吹の里

 伝説の初出は、江戸時代の『和漢三才図会』(寺島良安)最初のようです。山吹伝説を広く有名にしたのが『常山紀談』だと言われています。『江戸名所図会』にも取り上げられています。

<挿絵記載文>

「山吹の里は高田の馬場より北の方民家の辺をいふ 昔太田持資江城にありし頃一日此戸塚の金川の辺に放鷹す 急雨に遇ふて傍の農家に入り箕をからんことを乞う時に内より小女出て詞はなく盛りなる山吹の花一枝をもて持資に捧ぐ こは後拾遺集に 七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞわびしき とある兼明親王の和歌によりて答えたるにて今も其才を賞し世に伝えて美談とせり」

< 「かなしき」「あやしき」「わびしき」 >

 「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき」
 後拾遺では「あやしき」が、江戸時代の流布本などでは「かなしき」となっているものが多いようです。
 「江戸名所図会」本文では「かなしき(後拾遺)」と注をいれて「わびしき」になっています。

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○東都舊跡盡 高田山吹の里故事(広重)

 広重が山吹の里の故事を描いています。

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○「山吹の里」の碑 豊島区高田1-18-1

 神田川にかかる面影橋の豊島区側に「山吹きの里」の碑があります。供養塔を転用しています。
 供養塔の転用といえば、明智光秀が城を築く時に石垣に供養塔を転用し、工期の短縮を図ったとか。

(説明板)
「山吹の里の碑
    所在地 高田一ー十八ー一
 新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に簑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七飯八重 花は咲けども 山吹の みの(簑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図会」(正徳二・一七一二年)などの文献から、江戸時代中期の一八世紀前半には成立していたようです。
 「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和六十三年(一九八八)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
 この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享三年(一六八六)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
    平成十六(二〇〇四)年三月  豊島区教育委員会」

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○面影橋の由来 新宿区西早稲田3丁目

 面影橋の新宿区側に、説明板「面影橋の由来」があります。

(説明板)
「面影橋の由来
 目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。
 橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。
 なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。
  江戸名所図会「俤橋・姿見の橋」
 お問合せ 新宿区 道とみどりの課」

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「江戸名所図会 姿見橋」
 姿見橋は右手に描かれています。

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「法生会」
 橋の袂で、放生会(ほうじょうえ)のための、吊し亀を売っている光景が描かれています。
  売人は草履を横に置いて裸足です。売って放たれた亀を、またつかまえに行くのでしょう。
 <名所江戸百景 深川萬年橋>(広重) でも吊るし亀が描かれています。こちらで記述済

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「絵本江戸土産 山吹の里 姿見橋」(広重)

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「名所江戸百景 高田姿見のはし俤の橋砂利場」(広重)

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○山吹の里公園 豊島区高田1-10-5

 この公園の周辺が山吹の里として有力な地域であるため、山吹の里公園と命名されました。山吹の里の由来板、山吹の和歌が刻まれた石碑、山吹の里ものしりかわら版が設置されています。

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<山吹の里>

(説明板)
「山吹の里
 むかし、太田道灌という武将が、このあたりに鷹狩りにやってきました。途中でにわか雨にあい、農家の若い娘に簑を借りようとしたところ、娘はだまってヤマブキのひと枝をささげるばかりでした。道灌は不愉快に思って城に帰り、家臣に話したところ、中村治部少輔重頼という家臣が、それは「七重八重は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき」(「後拾遺集」中務卿兼明親王)という古い歌にならって、実のならないヤマブキと家に簑がないことをかけた、少女の奥ゆかしい応対であろうと説いたのです。道灌は自分の無学を大いに恥じて、それからは一心に和歌の勉強にはげみ文武両道の武将となったということです。このお話は十八世紀の半ばごろにかかれた伝説です。太田道灌は江戸城を築いた実在の人物です。
このあたりは昭和の初めころまでやまぶき村とよばれ、特に実のならない八重ヤマブキが多く群落をつくっていたということです。」

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<山吹の歌碑>

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<山吹の里ものしりかわら版>

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