道灌山・ひぐらしの里 まとめ
道灌山 まとめ
○ 道灌山
○ ひぐらし坂/道灌山遺跡
○ 向陵稲荷坂/向陵稲荷神社
日暮里/ひぐらしの里 まとめ
【惣図】
○ 日暮里/ひぐらしの里
○ 江戸名所図会 日暮里惣図
【諏訪台通り】
○ 西日暮里公園
○ 高村光太郎書「正直親切」の記念碑
○ 太平洋美術会
○ 日暮小学校跡
○ 諏訪台通り
【諏訪台通り寺町】
○ 諏方神社
○ 諏訪台/地蔵坂
○ 浄光寺(雪見の寺)
○ 養福寺と文人たち
【富士見坂】
○ 富士見坂
【六阿弥陀道寺町】
○ 青雲寺(花見寺)
○ 修性院(花見寺)
○ 南泉寺
○ 六阿弥陀道
【御殿坂~七面坂】
○ 本行寺(月見寺)
○ 経王寺
○ 延命院
○ 下御隠殿橋/トレイン・ミュージアム
○ 御殿坂
○ 七面坂
○ 道灌山
○ ひぐらし坂/道灌山遺跡
○ 向陵稲荷坂/向陵稲荷神社
日暮里/ひぐらしの里 まとめ
【惣図】
○ 日暮里/ひぐらしの里
○ 江戸名所図会 日暮里惣図
【諏訪台通り】
○ 西日暮里公園
○ 高村光太郎書「正直親切」の記念碑
○ 太平洋美術会
○ 日暮小学校跡
○ 諏訪台通り
【諏訪台通り寺町】
○ 諏方神社
○ 諏訪台/地蔵坂
○ 浄光寺(雪見の寺)
○ 養福寺と文人たち
【富士見坂】
○ 富士見坂
【六阿弥陀道寺町】
○ 青雲寺(花見寺)
○ 修性院(花見寺)
○ 南泉寺
○ 六阿弥陀道
【御殿坂~七面坂】
○ 本行寺(月見寺)
○ 経王寺
○ 延命院
○ 下御隠殿橋/トレイン・ミュージアム
○ 御殿坂
○ 七面坂
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南泉寺
〇南泉寺 荒川区西日暮里3-8-3
富士見坂を下りてきて、左手の六阿弥陀道沿に「南泉寺」があります。門前に「東京都指定旧跡 初代二代松林伯円墓」碑があります。ここにも警視庁の碑があります。「祈 交通安全 火の用心」



(説明板)
「 美濃遠山氏の聖観音(南泉寺)
山号を瑞応山と称する臨済宗妙心寺派の寺。元和二年(一六一六)、徳川家から境内三千二百余坪(約一○六○○平方メートル)を拝領し大愚が開創した。その後、将軍家光・家綱に仕えた老女岡野の遺言により貞享三年(一六八六)朱印地三十石を賜った。
本堂内の木造聖観音立像は、美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家紋、「遠山家 息心菴本尊、聖観音菩薩、安政四年丁巳星七月十日」の銘がある。上半身等に江戸期の補修が加えられているが、鎌倉期の作と推定される。その他、善光寺式阿弥陀三尊の一部と思われる銅造菩薩立像を所蔵。境内には、菅谷不動、講談師松林伯円の墓等がある。
荒川区教育委員会 」

<団十郎不動>
団十郎の弟子、新蔵の眼病を治した団十郎不動です。


<戦死之墓>
西南戦争の犠牲者を弔っている「戦死之碑」です。


<境内 葵紋>
徳川家と繋がりがあるのがうかがえます。





<境内>
三界万霊塔など。古そうなゴミ箱。



<本堂>



<蛙塚>
三匹の蛙が描かれています。「亀戸町 施主 本多藤太郎 大正六年五月十三日建之」(裏面)



<おまねぎ様>
陰陽石が祀られています。




<墓地>
広大な墓地で、諏訪台通り沿の家まで、坂と階段で続いています。




<市橋家墓域>
手すり付の階段を上がった先に、市橋家墓域。



<坂氏代々之墓>






「老女岡野の基」
坂氏代々之墓に、徳川2代~4代将軍に仕えた大奥女中(筆頭老女)岡野(宗仙の二女)の墓があります。正面「栄寿院殿松岩慧昌大姉」


「ウィキペディアの記載が矛盾していて理解不能。」
徳川家光の生没は1604年~1651年6月
老女岡野の生没は1604年~1676年8月22日(家光より25年長く生きています)
「岡野が病没した際は、家光は深く哀悼し永代回向のため、南泉寺に葵の紋章使用を許し、朱印寺として遇した。1686年(貞享3年)には岡野の遺言で朱印地三十石を南泉寺に賜る。将軍自ら墓参したが、これは臣下の墓へ前例のないことだと記されている。」
現地の墓誌を見ると、同内容が書かれています。
「宗仙法印の墓」
正面「洞庵宗仙法印」
洞庵宗仙法印は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた御典医で、「法印」の称号で子孫代々将軍に仕えました。
隣接する洞庵室墓は、墓誌によると改葬の際に一骨もなかったとのこと。


「墓誌」

<初代と二代の松林伯円の墓>(東京都旧跡)
幕末の講談師、初代と二代の松林伯円の墓です。
「軍談師 初代伯円之墓」(初代の墓)
「二世松林伯円事 若林義行累世之墓」(二代の墓)
「二世松林伯円 児女墓」(明治9年に亡くなった二世松林伯円の子の墓?)






<遠山景高墓所>
浦賀奉行の遠山景高の墓所は、広大な墓地の坂を登り切った左奥にあります。
ここまで来ると、横にある民家は、諏訪台通りに面している家でした。


富士見坂を下りてきて、左手の六阿弥陀道沿に「南泉寺」があります。門前に「東京都指定旧跡 初代二代松林伯円墓」碑があります。ここにも警視庁の碑があります。「祈 交通安全 火の用心」



(説明板)
「 美濃遠山氏の聖観音(南泉寺)
山号を瑞応山と称する臨済宗妙心寺派の寺。元和二年(一六一六)、徳川家から境内三千二百余坪(約一○六○○平方メートル)を拝領し大愚が開創した。その後、将軍家光・家綱に仕えた老女岡野の遺言により貞享三年(一六八六)朱印地三十石を賜った。
本堂内の木造聖観音立像は、美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家紋、「遠山家 息心菴本尊、聖観音菩薩、安政四年丁巳星七月十日」の銘がある。上半身等に江戸期の補修が加えられているが、鎌倉期の作と推定される。その他、善光寺式阿弥陀三尊の一部と思われる銅造菩薩立像を所蔵。境内には、菅谷不動、講談師松林伯円の墓等がある。
荒川区教育委員会 」

<団十郎不動>
団十郎の弟子、新蔵の眼病を治した団十郎不動です。


<戦死之墓>
西南戦争の犠牲者を弔っている「戦死之碑」です。


<境内 葵紋>
徳川家と繋がりがあるのがうかがえます。





<境内>
三界万霊塔など。古そうなゴミ箱。



<本堂>



<蛙塚>
三匹の蛙が描かれています。「亀戸町 施主 本多藤太郎 大正六年五月十三日建之」(裏面)



<おまねぎ様>
陰陽石が祀られています。




<墓地>
広大な墓地で、諏訪台通り沿の家まで、坂と階段で続いています。




<市橋家墓域>
手すり付の階段を上がった先に、市橋家墓域。



<坂氏代々之墓>






「老女岡野の基」
坂氏代々之墓に、徳川2代~4代将軍に仕えた大奥女中(筆頭老女)岡野(宗仙の二女)の墓があります。正面「栄寿院殿松岩慧昌大姉」


「ウィキペディアの記載が矛盾していて理解不能。」
徳川家光の生没は1604年~1651年6月
老女岡野の生没は1604年~1676年8月22日(家光より25年長く生きています)
「岡野が病没した際は、家光は深く哀悼し永代回向のため、南泉寺に葵の紋章使用を許し、朱印寺として遇した。1686年(貞享3年)には岡野の遺言で朱印地三十石を南泉寺に賜る。将軍自ら墓参したが、これは臣下の墓へ前例のないことだと記されている。」
現地の墓誌を見ると、同内容が書かれています。
「宗仙法印の墓」
正面「洞庵宗仙法印」
洞庵宗仙法印は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた御典医で、「法印」の称号で子孫代々将軍に仕えました。
隣接する洞庵室墓は、墓誌によると改葬の際に一骨もなかったとのこと。


「墓誌」

<初代と二代の松林伯円の墓>(東京都旧跡)
幕末の講談師、初代と二代の松林伯円の墓です。
「軍談師 初代伯円之墓」(初代の墓)
「二世松林伯円事 若林義行累世之墓」(二代の墓)
「二世松林伯円 児女墓」(明治9年に亡くなった二世松林伯円の子の墓?)






<遠山景高墓所>
浦賀奉行の遠山景高の墓所は、広大な墓地の坂を登り切った左奥にあります。
ここまで来ると、横にある民家は、諏訪台通りに面している家でした。



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諏訪台通り 富士見坂 六阿弥陀道
○諏訪台通り 荒川区西日暮里3丁目
諏訪台通りは見所多く、歩いている人を多くみかけます。
日暮里駅から西日暮里に向かって歩く人が多いかな。反対からだと坂道上りますから。
諏訪台通りの路上に正岡子規の句がはめ込まれています。
芋坂の路上に設置されているのではなく、諏訪台通りというのが違和感あり。
月見寺のそばなので、とりあえず納得。
「俳句のまち あらかわ
芋坂も 団子も 月のゆかりかな 正岡子規」






○富士見坂(花見坂・妙隆寺坂) 荒川区西日暮里3丁目7番と8番の間
六阿弥陀道の旧妙隆寺と南泉寺の間から諏訪台通りへ向かう坂が富士見坂。
坂の上と下の道路面にタイルで富士山が描かれています。



(説明板)
「 富士見坂
坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。
都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。
荒川区教育委員会 」



2013年6月に前方にマンションが建ったので、富士山は、ほとんど見えなくなっているとのことです。
見える富士は、街灯の富士山です。
参考:日暮里富士見坂を守る会
「坂からの眺めは、2013年6月に失われました。」


<パネル写真>
富士山が見えていた時の写真が途中までパネル写真が展示されています。
富士山が見えなくなって、写真をはめられなくなったのでしょう、最近の写真はありません。







〇六阿弥陀道 荒川区西日暮里3丁目
平成4年に南泉寺が設置した比較的新しい、六阿弥陀道の道標です。
「ろくあみたみち」
「左 たばた」「右 やなか」



諏訪台通りは見所多く、歩いている人を多くみかけます。
日暮里駅から西日暮里に向かって歩く人が多いかな。反対からだと坂道上りますから。
諏訪台通りの路上に正岡子規の句がはめ込まれています。
芋坂の路上に設置されているのではなく、諏訪台通りというのが違和感あり。
月見寺のそばなので、とりあえず納得。
「俳句のまち あらかわ
芋坂も 団子も 月のゆかりかな 正岡子規」






○富士見坂(花見坂・妙隆寺坂) 荒川区西日暮里3丁目7番と8番の間
六阿弥陀道の旧妙隆寺と南泉寺の間から諏訪台通りへ向かう坂が富士見坂。
坂の上と下の道路面にタイルで富士山が描かれています。



(説明板)
「 富士見坂
坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。
都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。
荒川区教育委員会 」



2013年6月に前方にマンションが建ったので、富士山は、ほとんど見えなくなっているとのことです。
見える富士は、街灯の富士山です。
参考:日暮里富士見坂を守る会
「坂からの眺めは、2013年6月に失われました。」


<パネル写真>
富士山が見えていた時の写真が途中までパネル写真が展示されています。
富士山が見えなくなって、写真をはめられなくなったのでしょう、最近の写真はありません。







〇六阿弥陀道 荒川区西日暮里3丁目
平成4年に南泉寺が設置した比較的新しい、六阿弥陀道の道標です。
「ろくあみたみち」
「左 たばた」「右 やなか」




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養福寺と文人たち
○養福寺と文人たち 荒川区西日暮里3-3-8
門前に説明板と「西國貮拾七番播磨國書寫寺寫」「梅翁花樽碑」があります。
(説明板)
「 養福寺と文人たち
養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保三年(一七一八)没)によって中興されたという。
江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる『談林派歴代の句碑(区指定文化財)』や、江戸の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた『柏木如亭の碑』、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。
荒川区教育委員会 」



<警火 警視庁>
このお寺にも警視庁の警火の碑があります。
「警火 警視庁」
消防も警視庁の所管だった時代物です。

<仁王門/仁王像>





(説明板)
「 荒川区指定文化財
善福寺仁王門
この仁王門は、宝永年間(一七○四?一一)の建築と伝えられる。表側に安置されている仁王像の胎内から宝永四年の銘札が発見されており、門柱の上部等の木鼻・蟇股などに施された渦文の絵様から、銘札とほぼ同年代のものと推定される。裏側には四天王の内の、広目天・多聞天の像が安置されている。旧本堂など江戸期の建造物は戦災で失ったが、この仁王門は焼失を免れ、近世建造物として現在にその姿を留めている。
荒川区教育委員会 」


<妍斎落歯塚>

<庚申塔2基>





<自堕落先生の墓>

<柏山人碑>
詩人・柏木如亭をしのんで文政3(1820)年に造立。
「柏山人碑」の篆額は陰陽頭安倍晴親です。

<本堂>

<談林派歴代の句碑>
(説明柱)
「談林派は大阪の西山宗因を祖とする俳諧の一流派である。軽口俳諧・連吟などを得意とし、江戸初期に流行した。
『好色一代男』の作者・井原西鶴も宗因に師事し俳諧師として活躍している。ここに立つ碑は、寛政四年(一七九二)西鶴の百回忌を記念して建てられた。中央に梅翁花尊碑、左右に雪の碑、月の碑、手前に菱形標石を配する。発起人は谷素外。三基は建立当時のものだが、雪の碑は文化五年(一八○八)の再建である。」






<梅花佛の碑>
各務支考の供養塔です。

門前に説明板と「西國貮拾七番播磨國書寫寺寫」「梅翁花樽碑」があります。
(説明板)
「 養福寺と文人たち
養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保三年(一七一八)没)によって中興されたという。
江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる『談林派歴代の句碑(区指定文化財)』や、江戸の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた『柏木如亭の碑』、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。
荒川区教育委員会 」



<警火 警視庁>
このお寺にも警視庁の警火の碑があります。
「警火 警視庁」
消防も警視庁の所管だった時代物です。

<仁王門/仁王像>





(説明板)
「 荒川区指定文化財
善福寺仁王門
この仁王門は、宝永年間(一七○四?一一)の建築と伝えられる。表側に安置されている仁王像の胎内から宝永四年の銘札が発見されており、門柱の上部等の木鼻・蟇股などに施された渦文の絵様から、銘札とほぼ同年代のものと推定される。裏側には四天王の内の、広目天・多聞天の像が安置されている。旧本堂など江戸期の建造物は戦災で失ったが、この仁王門は焼失を免れ、近世建造物として現在にその姿を留めている。
荒川区教育委員会 」


<妍斎落歯塚>

<庚申塔2基>





<自堕落先生の墓>

<柏山人碑>
詩人・柏木如亭をしのんで文政3(1820)年に造立。
「柏山人碑」の篆額は陰陽頭安倍晴親です。

<本堂>

<談林派歴代の句碑>
(説明柱)
「談林派は大阪の西山宗因を祖とする俳諧の一流派である。軽口俳諧・連吟などを得意とし、江戸初期に流行した。
『好色一代男』の作者・井原西鶴も宗因に師事し俳諧師として活躍している。ここに立つ碑は、寛政四年(一七九二)西鶴の百回忌を記念して建てられた。中央に梅翁花尊碑、左右に雪の碑、月の碑、手前に菱形標石を配する。発起人は谷素外。三基は建立当時のものだが、雪の碑は文化五年(一八○八)の再建である。」






<梅花佛の碑>
各務支考の供養塔です。

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浄光寺(雪見寺)
○浄光寺(雪見の寺) 荒川区西日暮里3-4-3
浄光寺は諏方神社の別当寺で、開基は、豊島経泰説と太田道灌説とがあります。諏訪台の高台に位置し、「雪見寺」とも呼ばれていました。
<江戸六地蔵と雪見寺>
江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる銅造地蔵菩薩立像があります。江戸六地蔵といえば、一般的には深川の江戸六地蔵を指しますが、それよりもこちらの江戸六地蔵(東都六地蔵)のほうが古いです。
(説明板)
「江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約三メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(一六九一)、空無上人の勧化により江戸東部六か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文二年(一七三七)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。
眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。
荒川区教育委員会 」



<江戸六地蔵>




<地蔵菩薩座像>
文化6(1809)年作の銅造地蔵菩薩坐像。



<境内>
庚申塔群7基が山門入ってすぐ左手にあります。





<火の用心 警視庁>
火の用心の碑が他寺でも見ましたが、ここにもあります。
昔は消防も警視庁の所管だったため、警視庁の記銘です。

<福神漬発明者野田清右衛門表彰碑>
明治初期に上野の漬物店「山田屋」(現在の酒悦)の店主・第15代野田清右衛門は、7種の野菜を細かく刻み醤油と砂糖、ミリンなどで作った調味液につけた漬物を発明しました。
谷中七福神にちなみ「梅亭金鵞」が「福神漬」と名付けたと言われています。
裏面には「明治四拾四年拾貮月建立 永代維持料金壹百圓添納」と刻まれています。




<三代将軍御腰掛石>
「将軍腰掛石」があります。
江戸名所図会の浄光寺部分を拡大すると、「御腰掛石」が描かれています。

「御腰掛石」と石標「三代将軍御腰掛石」
江戸名所図会に描かれている「御腰掛石」は、少々南で、現在は鉄道路に少々削られているようです。荷物も置けるような大きい平板の四角形で描かれています。手前にも腰掛けずらい石が描かれています。 腰掛けずらいほうの石だけが保存されているのかも?
元文2(1737)年、八代将軍吉宗が鷹狩の際に浄光寺にお成りになり、同5年(1740)以降徳川将軍御膳所となりました。
3代の将軍が腰掛けた石ということでしょうか?(勝手な推測)。
(石柱は「第三代将軍」ではなく単に「三代将軍」と刻み、第三代将軍が腰掛けたなら「家光公」とお名前が刻まれているかと思います?。)



浄光寺は諏方神社の別当寺で、開基は、豊島経泰説と太田道灌説とがあります。諏訪台の高台に位置し、「雪見寺」とも呼ばれていました。
<江戸六地蔵と雪見寺>
江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる銅造地蔵菩薩立像があります。江戸六地蔵といえば、一般的には深川の江戸六地蔵を指しますが、それよりもこちらの江戸六地蔵(東都六地蔵)のほうが古いです。
(説明板)
「江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約三メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(一六九一)、空無上人の勧化により江戸東部六か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文二年(一七三七)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。
眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。
荒川区教育委員会 」



<江戸六地蔵>




<地蔵菩薩座像>
文化6(1809)年作の銅造地蔵菩薩坐像。



<境内>
庚申塔群7基が山門入ってすぐ左手にあります。





<火の用心 警視庁>
火の用心の碑が他寺でも見ましたが、ここにもあります。
昔は消防も警視庁の所管だったため、警視庁の記銘です。

<福神漬発明者野田清右衛門表彰碑>
明治初期に上野の漬物店「山田屋」(現在の酒悦)の店主・第15代野田清右衛門は、7種の野菜を細かく刻み醤油と砂糖、ミリンなどで作った調味液につけた漬物を発明しました。
谷中七福神にちなみ「梅亭金鵞」が「福神漬」と名付けたと言われています。
裏面には「明治四拾四年拾貮月建立 永代維持料金壹百圓添納」と刻まれています。




<三代将軍御腰掛石>
「将軍腰掛石」があります。
江戸名所図会の浄光寺部分を拡大すると、「御腰掛石」が描かれています。

「御腰掛石」と石標「三代将軍御腰掛石」
江戸名所図会に描かれている「御腰掛石」は、少々南で、現在は鉄道路に少々削られているようです。荷物も置けるような大きい平板の四角形で描かれています。手前にも腰掛けずらい石が描かれています。 腰掛けずらいほうの石だけが保存されているのかも?
元文2(1737)年、八代将軍吉宗が鷹狩の際に浄光寺にお成りになり、同5年(1740)以降徳川将軍御膳所となりました。
3代の将軍が腰掛けた石ということでしょうか?(勝手な推測)。
(石柱は「第三代将軍」ではなく単に「三代将軍」と刻み、第三代将軍が腰掛けたなら「家光公」とお名前が刻まれているかと思います?。)




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