渋沢栄一と日米人形交流

<国際交流にも尽力 渋沢栄一と日米人形交流>

 日米親善人形の取り組みは、1926年に米国で始まりました。 同志社大や京都大学で神学を教えた宣教師のシドニー・ギューリックが、日本に人形を贈って関係を改善しようと計画しました。

 米国から打診を受けた外務省と文部省は、相手が民間なのでこちらも民間で受けることとし渋沢栄一に協力を仰ぎ、栄一は「日米国際児童親善会」を立ち上げました。 事務局の担当者は外務省と文部省の職員が担い半官半民でした。

 米国で集められた12,739体が、翌年の昭和2(1927)年春、12隻の船に分かれ横浜と神戸に到着しました。
 3月3日の雛祭りに、明治神宮外苑の日本青年館で、歓迎式が盛大に行われました。そして、青い目の人形は、各地の尋常小学校などに贈られました。

 日本側も答礼で「ミス東京」「ミス横浜」など日本各地の名が付けられた大型の市松人形58体を米国に贈り、民間での交流が広がりました。

 戦争が始まると米国製の人形は敵視され、大半が焼かれたり捨てられたりしました。
 現在、青い目の人形は340体、日本人形は47体が確認されています(吉徳のHPを参照した)。

 東京浅草橋の「吉徳」は、吉徳10世・山田徳兵衛が答礼人形の企画・製作を指揮しました。
 答礼人形の里帰りに際して11世・山田徳兵衞がその大多数の修復監修を務めました。
 現在は12世・山田徳兵衞が答礼人形の修復に参画しています。これまで41体の修復を行ってきたそうです。

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〇吉徳これくしょん展示室 台東区浅草橋1-9-14

 吉徳のホームページ中、日米親善人形に、吉徳とのかかわりが詳しく記載されています。
 「青い目の人形」は現在340体の存在が確認されており、そのうちの一体「アニー」が吉徳資料室に保存されています(公開なし)。

 日米親善人形に関する資料などの展示があるのかなと吉徳これくしょん展示室を観覧しましたが、展示はありませんでした。親善人形の企画展でも行うと良いのになと思いました。
 収穫はあって、以下2冊の見本品に日米親善人形について記載されていました。
 『語りかける人形たち』11世・山田徳兵衞著 東京堂出版刊(2001)
 『人形歳時記』吉徳資料室長・小林すみ江著 婦女界出版社刊(1996)


<語りかける人形たち>

 日米親善人形について、かなり詳細に記載されています。
 青い目の人形を抱く渋沢栄一の写真をよく見るところですが、アサヒグラフ「人形大使歓迎号」の表紙に使われた写真だったのですね。

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<展示室>

[利用案内]
 所 在 地  株式会社吉徳 浅草橋本店4階(台東区浅草橋1-9-14)
 観覧時間  10:00~17:00
 休  日  本店休業日、展示替期間
 観 覧 料  無料

 浅草橋本店の4階に「吉徳これくしょん展示室」があります。
 所蔵している多数の資料が台東区有形民俗文化財として搭載されています。
 生人形「藤娘」がお出迎え。

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tag : 渋沢栄一

社会福祉協議会初代会長渋沢栄一

○全国社会福祉協議会初代会長渋沢栄一 千代田区霞が関3-3-2

<初代会長渋沢栄一>

 全国社会福祉協議会の初代会長は渋沢栄一でした。幹事には留岡幸助等が入っています。
 (明治41(1908)年10月の設立当時は中央慈善協会、大正10(1921)年社会事業協会と改称、
  昭和26(1951)年中央社会福祉協議会等を経て現在の全国社会福祉協議会)


<雑誌慈善→月刊福祉>

 渋沢栄一は明治42(1909)年に雑誌「慈善」を創刊し、
 その後時代に応じて「社会と救済」「社会事業」と変えて、現在は「月刊福祉」として続いています。


<渋沢栄一像>

 福祉新聞によると、渋沢栄一の大理石の胸像が全社協役員室にあるとのこと。
 制作者は渡辺義知で、昭和29年の作です。
 渋沢栄一が初代の、みずほ銀行、東京ガス、帝国ホテル等がモニュメント設置や展示を行い、元養育院が展示コーナーを設置している中、全社協も、渋沢栄一像を一般の方の目に触れない役員室ではなく、ホールとかに設置し併せて説明パネル設けたらどうでしょうかね。


「雨夜物語:青淵先生世路日記」(渋沢青淵 択善社 大正2年)

  渋沢栄一の論説談話をまとめた雨夜物語の「中央慈善協会」にかかる記述の抜粋です。
  「(四)中央慈善協会」

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○ 全国民生委員児童委員連合会の初代会長渋沢栄一

 昭和6(1931)年4月、全日本方面委員連盟(現在の全国民生委員児童委員連合会)が誕生し、
 初代会長に渋沢栄一が就任しました。
 病を押して救護法実施に取り組んだ渋沢栄一は、連盟の発会式をみることなく昭和6年11月に逝去、翌7年3月、渋沢別邸において発会式が行われました。


○渋沢栄一と感化教育

 養育院従業員慰労会での挨拶(昭和4年5月19日)で、こんな記述を見ました。
 子どもに対する取扱方が、厳格に躾けねば情弱になるとして厳格であったので、子どもの将来のため決して策の得たものではないと感じ
「児童の為めに親に代つて心配して呉れる人が必要である」
と直ちに職員を任用した結果、児童の性質がよくなったと語っています。

 まさに子どもへの福祉対応の本質を突いた対応と思います。
 内務省主催の感化救済事業講習会(現在の国立武蔵野学院付属児童自立支援専門員養成所)や、感化院長会議(現在の児童自立支援施設長会議)に中央慈善協会会長(現在の全国社会福祉協議会)として出席、演説する力のいれようをみると、養育院として感化部も有し(現在の東京都立萩山実務学校)、児童の感化教育に尽力した渋沢栄一の卓越さを感じます。


○渋沢栄一と清水建設/清水基金

 明治20(1887)年、清水組(現:清水建設)の後継者が幼少のため、渋沢栄一は相談役に就き経営にあたり、約30年間務めました。
 渋沢栄一が創業に関わった企業は多々ですが、清水建設は江戸時代創業で渋沢栄一は創業に関わっていませんが渋沢栄一の精神をしっかりと受け継いでいる会社だなと思います。
 昔、清水基金海外研修30周年記念後援会を聞きに行って、末光先生のお話も感銘を受けましたが、清水建設社長の清水康雄氏が、渋澤栄一から 「会社の利益は、社会のおかげで得たものであるから、利益の一部は社会に還元しなければならない。」
と助言を受け、清水康雄氏の遺言に添って清水基金が創設されたということに改めて感銘しました。
 知的障害児者と重症心身障害児者の福祉の向上にしっかりと取り組んできた清水基金に感銘します。

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○ノーベル平和賞候補

 渋沢栄一は、日米関係の改善に取り組んだことで、1926年と27年にノーベル平和賞の候補に推薦されていました。

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滝乃川学園と渋沢栄一

○滝乃川学園跡 北区滝野川1-90-11

 明治通りの滝野川1丁目の歩道の植栽の中に「滝乃学園跡」説明板があります。

(説明板)
「滝乃川学園跡     滝野川一-九○地先
 滝乃川学園は、日本で初めての知的障がい児のための教育福祉施設として滝野川七四三番地に設立されました。
 学園創立者の石井亮一は、キリスト教精神に基づく知的障がい児の教育・研究に生涯をささげた教育者で、アメリカで障がい児教育の見分を広め、こうした成果を自らの学園で実践し、妻の筆子と共に我が国の障がい児教育と福祉・女子教育に大きな足跡を残しました。
 学園の起こりは、明治二四年(一八九一)年に発生した濃尾地震で孤児となった女児たちを引き取り、「孤女学院」を設立したことに始まります。この児童の中に知的障がいの子供がいたことから、障がい児の教育と福祉に力を注ぐことを決意したのです。翌年滝野川の地に園舎を建て、明治三○(一八九七)年に「滝乃川学園」と改称しました。滝乃川学園となってからは、従来からの孤女への教育と障がい児への教育を行う二つの教育部が設けられ、教員保母の養成も行われました。七・八百坪とされる敷地内には、生徒の居室にあたる建物や教室、祈りをささげる礼拝堂などが所在しました。
 その後、園児の増加や設備の増設などの必要から明治三九(一九○六)年、隣接する巣鴨村に約四二○○坪の敷地を確保し移転しました。昭和三(一九二八)年にはさらに、現在の学園の所在する国立市谷保へと移転しています。
  平成二十五年三月     東京都北区教育委員会」

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○石井亮一/筆子の墓 府中市多磨町4-628 多磨霊園8区2種13側1番

 石井亮一は「滝乃川学園」(2021年に創立130年を迎えます)の創設者。
 日本知的障害者福祉協会の創設者。

 墓石には、十字架の下に「石井亮一室筆子之墓」と刻まれています。
 裏面は生没年月日が刻まれています。

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○滝乃川学園と渋沢栄一

 大正9(1920)年3月、園児の失火が原因で滝乃川学園は被災し、石井夫妻は学園の閉鎖を決意します。
 石井筆子の東京女学校時代の同級生の穂積歌子(法律家の穂積陳重の妻で、渋沢栄一の長女)と渋沢栄一が学園に来て援助を申し出たらしいです(歴史が眠る多摩霊園のサイトで記載を見ましたが、記念財団のアーカイブには記載は見つけられない)。
 また、渋沢栄一は大蔵省では筆子の父・渡辺清と席を並べた間柄でした。

 貞明皇后より事業存続の内旨があり、寄付金が集まり学園は再建されます。
 間もなく3代目理事長に渋沢栄一が就任しました(大正9年9月から死去まで。記念財団のアーカイブより。滝乃川学園のHPでは大正10年就任とあります)。

 公職を去っていた渋沢栄一は「石井さんの事業だけは、経営の労を省いて教育に専心させてあげたい」と理事長に就任します(滝乃川学園二十年史)。

 渋沢栄一は、大正4年に中央慈善協会の懇談会が滝乃川学園で開催され出席、大正6(1917)年9月13日に、養育院の安達幹事を伴って滝乃川学園を参観しているので、被災前から心を寄せていたようです。

 巣鴨で栄一を出迎えた亮一は、度重なる労苦に見違えるほど痩せ細り、元気を失っていたといいます。傍らで寄り添う筆子に、栄一は、「上州渋川の奥の四万温泉に2週間ほど行ってきなさい。多少不便な山の湯だが、どんな名医にかかるより効き目があると我が故郷では評判だ。石井君の神経と胃腸にも、お筆さんの足の怪我にも効き目抜群、騙されたと思って行きなさい」と優しく語りかけました。これが渋沢理事長から亮一に出た初の出張命令だったそうです。
 (北区ホームページ 堀船中学校 「滝乃川学園と渋沢栄一のつながり」より引用)


○社会福祉法人 瀧乃川学園 国立市矢川3-16-1

 社会福祉法人 瀧乃川学園のホームページが網羅的に詳しいです。 以下は、見学時の画像の一部のみ抜粋です。グループホームなど、施設外の地域にも展開しています。 本館は国登録有形文化財です。

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tag : 渋沢栄一滝野川巣鴨多摩霊園国登録有形文化財

大久保一翁と養育院

○大久保一翁と養育院

<大久保一翁(忠寛)>

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 【近世名士写真頒布会 昭和10年 引用】


【経歴】
 1818~1888年。安政元(1854)年、老中阿部正弘に登用され、目付兼海防掛となる。以後、蕃書調所総裁、駿府町奉行、京都町奉行などをつとめる。家斉、家慶、家定、家茂、慶喜、家達の6人の徳川家当主に仕えました。
 安政の大獄で井伊直弼により罷免されますが、文久元(1861)年再び登用され、蕃書調所頭取、外国奉行などを経て、明治元(1868)年会計総裁、若年寄となる。江戸城の無血開城実現に寄与。 のち静岡県知事、東京府知事、元老院議官等を歴任しました。

【七分積金と養育院創設】
 東京府知事に任命された3年半の在職期間中に、幕府から引き継がれた町会所を営繕会議所に改組し、松平定信以来の七分積金の用途を営繕会議所に諮問、都市基盤の整備、「救貧三策」などの答申を得ました。 救貧三策の一策として、養育院が創設されました。上野の護国院の開所時には一翁自身が訪れています。直接西洋を訪問したわけではありませんが、蕃書(洋書)を見て養育院を構想したようです。

【養育院掟書初款】
 明治6年、養育院を恒久施設として上野に開所した時、大久保一翁府知事が視察後に書き加えました。
 「人の万物に勝れたるは 相親しみ相助くるの 心あるゆえなれば
  常に我が身に費やす衣食住の 世の恵みにむくわんと心がけ
  何業なりとも 世のためとなるべきこと 勤めて怠るまじき事」
 東京都健康長寿医療センターの養育院・渋沢記念コーナーに展示されています。

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【辞世】
 「なにひとつ世のためはせでまうつしに のこす姿の恥ずかしきかな」


○大久保一翁墓 府中市多磨町4-628 多磨霊園11区1種2側3番

 多摩霊園「養育院合葬冢」の説明板に「ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。」と言及されていたので、養育院合葬冢から大久保一翁の墓所へ向かいました。
 都市計画により、昭和12年年10月に青山墓地より改葬されています。

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<石燈籠>

 墓所入口に「故元老院議官従二位勲二等子爵一翁大久保翁零前石燈籠」

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<一翁忠寛之墓>

 墓所には墓が5基あり、大久保一翁の墓は正面中央です。
 上部「大久保氏墓」
 正面「一翁忠寛之墓」と刻まれ、「勝海舟の書」です。
 右に生没年月日が刻まれています。(二千五百四十八年と紀元での表記)

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<4基の墓>

 左側に左から「大久保谷子墓」「大久保業世廣墓」。
 左手側に「大久保家之墓」。その左に墓誌。
 右側に古い墓誌。
 右手側に「大久保立 幾子 墓」。

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養育院合葬冢 多摩霊園

○養育院合葬冢 府中市多磨町4-628 多磨霊園5区

 5区の無縁墓地に「養育院合葬冢」があります。

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(説明板)
「 養育院合葬冢
 養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ多磨霊園には、昭和八年以降、養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬し、現在も供養をしている。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺及び栃木県那須塩原市の妙雲寺がある。
 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
   平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会
 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   東京都福祉保健局
 ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。」

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<歸入無為楽>

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 「東京市養育院合葬冢」
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 「歸入無為楽」
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 「昭和五年三月 成」
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裏に五基の合葬冢があります。

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「東京市養育院合葬墓」「東京市養育院収容者之碑」二基
 明治42年2月と大正8年1月の建碑です。

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「東京市養育院収容者之碑」三基
 左から大正15年3月、昭和3年3月、大正12年10月の建碑です。

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