麻布山善福寺
○麻布山善福寺 港区元麻布1-6-21 HP
「江戸名所図会 麻布善福寺」

「江戸名所図会 善福寺開山了海上人誕生図」

<参道/寺号標/都旧蹟最初のアメリカ公使宿館跡>


「開山弘法大師創立
親鸞聖人御舊蹟地
初代米國公使館趾」

<柳の井戸>
江戸名所図会に「柳の井」が描かれています。麻布善福寺から抜粋しています。

<楊柳水銘>
参道の途中に、今も湧水がわいています。 この湧水は「東京の名湧水57選」(平成15年1月)に選定されています。



(説明板)
「柳の井戸
自然に地下から湧き出る清水である。
東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に析願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて掘ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。」
昭和四十九年一月(平成二十六年十二月建替) 港区教育委員会」

<勅使門>




(説明板)
「麻布山善福寺勅使門
当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(一二七四)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。
寺院の門としても重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。
当時の火災は免れたものの、昭和廿年五月廿五日戦災を受けて焼失し、昭和五十五年十一月五日の再建によって現在の形を再び現した。」

<麻布山善福寺案内図>
「境内の史跡」
・本堂(港区指定有形文化財)
・秩父宮妃の碑(妃殿下お手植えの松)
・柳の井戸(表参道にあり)
・開山堂(国の重要文化財了海上人安置)
・逆さいちょう(国の天然記念物)
・親鸞上人像
・ハリス記念碑(初代アメリカ合衆国公使館跡)
・福沢諭吉翁の墓(慶應義塾の創始者)
・越路吹雪・岩谷時子の歌碑


<最初のアメリカ公使宿館跡(ハリス記念碑)>
(碑表)
「 ON
THIS SPOT
TOWNSEND HARRIS
OPENED
THE FIRST AMERICAN LEGATION
IN JAPAN
JULY 7.1859
DEDICATED BY THE AMERICAN-JAPAN SOCIETY
DECEMBER 19 1930」




(碑裏)
「本邦駐箚 初代米国公使館址」

(副碑)
「此の碑は
日米修好通商百年にあたり同記念行事運営会が復元したものである。
昭和三十五年五月十二日」



(説明板)
「東京都指定旧跡
最初のアメリカ公使宿館跡
所在地 港区麻布一の六の二一善福寺
史跡指定 昭和二八年一一月三日
旧跡指定 昭和三○年三月二八日
安政五年(一八五八)六月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政六年(一八五九)善福寺をアメリカ公使館として八月に赴任します。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していましたが、文久三年(一八六三)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを焼失したため、本堂、開山堂なども使用しました。明治八年(一八七五)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。
寺には「亜墨利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられています。
平成二四年三月建設 東京都教育委員会」

<手水鉢>

<鐘楼堂>

<亀子台>

<開山堂>

(説明板)
「善福寺 開山堂
開山堂ははじめ真言宗の蔵王権現として開かれたもので、古く麻布郷の鎮守であったと伝える。
親鸞聖人のお立寄りによって浄土真宗に改宗した中興開山了海上人は、蔵王権現の申し子として大井(現、品川区)に生まれ、この像が堂内に安置されることになった。かつては堂前でさまざまな行事も行われていたが、戦災焼失後再建されて、今は東京都の有形文化財となった。
像とともに港区の有形文化財である、秀吉朱印状他の貴重な寺歴を物語る古文書等が収蔵されている。」

<金燈籠>
明和2(1765)年と明和8(1771)年銘の燈籠です。




<善福寺本堂>



(説明板)
「港区指定有形文化財
建造物 善福寺本堂
善福寺本堂は、当初東本願寺八尾別院大信寺の本堂として建設された建物を移築して、昭和三十六年に現在地で組上げたものです。大信寺は慶長年間の創建で、移築された本堂は明和四年(一七六七)に再建されたものです。再建の際に創建当初の柱など建築部材を一部利用したと思われます。
正面幅約二十八メートル、奥行約三十四メートル、入母屋屋根、桟瓦葺。広い外陣と装飾性豊かな内陣、内陣の正面を華やかな欄間彫刻で飾り、金、極彩色で仕上げ、浄土真宗特有の形式をとります。組物は尾垂木付の二手先です。
天明の大火[天明八年(一七八八)]で京都の東本願寺が焼失したので、同年から寛政十年(一七九八)まで東本願寺へ移築されて御影堂として使用されましたが、翌年八尾別院に再建されました。
本建築は江戸時代の大規模な浄土真宗の本堂の構成を良く示す都内有数のものであり、また三度の移築を経るなど特殊な履歴も含めて、大変に貴重な建築です。
平成二十一年十月二十七日 港区教育委員会」

<奉献石燈籠>
増上寺または寛永寺のものと思われる奉献石燈籠が2基ありました。
2基とも全ての文字は削られており、将軍名はわかりませんでした。


<善福寺のイチョウ(逆さ銀杏)> 国の天然記念物
「天然記念物 善福寺ノ公孫樹
昭和十一年十一月建設」


(説明板)
「天然記念物 善福寺のイチョウ
所在地 港区元麻布一丁目六番二一号
麻布山善福寺境内
指 定 大正一五年一○月二○日
イチョウ(銀杏・公孫樹)は、中国原産のイチョウ科の落葉高木である。雌雄異株で神社や寺院の境内樹・公園樹・庭園樹・街路樹として広く植栽されている。四月に開花し、雌株は十月に種子(イチョウの実)が成熱して独特の臭気を放ち、黄葉する。
この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは一○・四メートルあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹令は七五○年以上と推定される。
善福寺は、昭和二十年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。
根がせり上がって、枝先が下にのびているところから『逆さイチョウ』ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した技から成長したとの伝説から『杖イチョウ』の別名もある。
平成三十一年 三月 建設 東京都教育委員会」

「江戸名所図会」
江戸名所図会の麻布善福寺の挿絵の中に、「杖銀杏」が描かれています。

<墓地>
「秩父宮妃の碑」(開山堂の右手)、「福沢諭吉の墓」(開山堂の左手)、「越路吹雪・岩谷時子の歌碑」(墓地入口右手)がありました。他にも著名人のお墓があるようです。
「江戸名所図会 麻布善福寺」

「江戸名所図会 善福寺開山了海上人誕生図」

<参道/寺号標/都旧蹟最初のアメリカ公使宿館跡>


「開山弘法大師創立
親鸞聖人御舊蹟地
初代米國公使館趾」

<柳の井戸>
江戸名所図会に「柳の井」が描かれています。麻布善福寺から抜粋しています。

<楊柳水銘>
参道の途中に、今も湧水がわいています。 この湧水は「東京の名湧水57選」(平成15年1月)に選定されています。



(説明板)
「柳の井戸
自然に地下から湧き出る清水である。
東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に析願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて掘ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。」
昭和四十九年一月(平成二十六年十二月建替) 港区教育委員会」

<勅使門>




(説明板)
「麻布山善福寺勅使門
当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(一二七四)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。
寺院の門としても重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。
当時の火災は免れたものの、昭和廿年五月廿五日戦災を受けて焼失し、昭和五十五年十一月五日の再建によって現在の形を再び現した。」

<麻布山善福寺案内図>
「境内の史跡」
・本堂(港区指定有形文化財)
・秩父宮妃の碑(妃殿下お手植えの松)
・柳の井戸(表参道にあり)
・開山堂(国の重要文化財了海上人安置)
・逆さいちょう(国の天然記念物)
・親鸞上人像
・ハリス記念碑(初代アメリカ合衆国公使館跡)
・福沢諭吉翁の墓(慶應義塾の創始者)
・越路吹雪・岩谷時子の歌碑


<最初のアメリカ公使宿館跡(ハリス記念碑)>
(碑表)
「 ON
THIS SPOT
TOWNSEND HARRIS
OPENED
THE FIRST AMERICAN LEGATION
IN JAPAN
JULY 7.1859
DEDICATED BY THE AMERICAN-JAPAN SOCIETY
DECEMBER 19 1930」




(碑裏)
「本邦駐箚 初代米国公使館址」

(副碑)
「此の碑は
日米修好通商百年にあたり同記念行事運営会が復元したものである。
昭和三十五年五月十二日」



(説明板)
「東京都指定旧跡
最初のアメリカ公使宿館跡
所在地 港区麻布一の六の二一善福寺
史跡指定 昭和二八年一一月三日
旧跡指定 昭和三○年三月二八日
安政五年(一八五八)六月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政六年(一八五九)善福寺をアメリカ公使館として八月に赴任します。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していましたが、文久三年(一八六三)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを焼失したため、本堂、開山堂なども使用しました。明治八年(一八七五)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。
寺には「亜墨利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられています。
平成二四年三月建設 東京都教育委員会」

<手水鉢>

<鐘楼堂>

<亀子台>

<開山堂>

(説明板)
「善福寺 開山堂
開山堂ははじめ真言宗の蔵王権現として開かれたもので、古く麻布郷の鎮守であったと伝える。
親鸞聖人のお立寄りによって浄土真宗に改宗した中興開山了海上人は、蔵王権現の申し子として大井(現、品川区)に生まれ、この像が堂内に安置されることになった。かつては堂前でさまざまな行事も行われていたが、戦災焼失後再建されて、今は東京都の有形文化財となった。
像とともに港区の有形文化財である、秀吉朱印状他の貴重な寺歴を物語る古文書等が収蔵されている。」

<金燈籠>
明和2(1765)年と明和8(1771)年銘の燈籠です。




<善福寺本堂>



(説明板)
「港区指定有形文化財
建造物 善福寺本堂
善福寺本堂は、当初東本願寺八尾別院大信寺の本堂として建設された建物を移築して、昭和三十六年に現在地で組上げたものです。大信寺は慶長年間の創建で、移築された本堂は明和四年(一七六七)に再建されたものです。再建の際に創建当初の柱など建築部材を一部利用したと思われます。
正面幅約二十八メートル、奥行約三十四メートル、入母屋屋根、桟瓦葺。広い外陣と装飾性豊かな内陣、内陣の正面を華やかな欄間彫刻で飾り、金、極彩色で仕上げ、浄土真宗特有の形式をとります。組物は尾垂木付の二手先です。
天明の大火[天明八年(一七八八)]で京都の東本願寺が焼失したので、同年から寛政十年(一七九八)まで東本願寺へ移築されて御影堂として使用されましたが、翌年八尾別院に再建されました。
本建築は江戸時代の大規模な浄土真宗の本堂の構成を良く示す都内有数のものであり、また三度の移築を経るなど特殊な履歴も含めて、大変に貴重な建築です。
平成二十一年十月二十七日 港区教育委員会」

<奉献石燈籠>
増上寺または寛永寺のものと思われる奉献石燈籠が2基ありました。
2基とも全ての文字は削られており、将軍名はわかりませんでした。


<善福寺のイチョウ(逆さ銀杏)> 国の天然記念物
「天然記念物 善福寺ノ公孫樹
昭和十一年十一月建設」


(説明板)
「天然記念物 善福寺のイチョウ
所在地 港区元麻布一丁目六番二一号
麻布山善福寺境内
指 定 大正一五年一○月二○日
イチョウ(銀杏・公孫樹)は、中国原産のイチョウ科の落葉高木である。雌雄異株で神社や寺院の境内樹・公園樹・庭園樹・街路樹として広く植栽されている。四月に開花し、雌株は十月に種子(イチョウの実)が成熱して独特の臭気を放ち、黄葉する。
この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは一○・四メートルあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹令は七五○年以上と推定される。
善福寺は、昭和二十年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。
根がせり上がって、枝先が下にのびているところから『逆さイチョウ』ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した技から成長したとの伝説から『杖イチョウ』の別名もある。
平成三十一年 三月 建設 東京都教育委員会」

「江戸名所図会」
江戸名所図会の麻布善福寺の挿絵の中に、「杖銀杏」が描かれています。

<墓地>
「秩父宮妃の碑」(開山堂の右手)、「福沢諭吉の墓」(開山堂の左手)、「越路吹雪・岩谷時子の歌碑」(墓地入口右手)がありました。他にも著名人のお墓があるようです。
有栖川宮記念公園
○有栖川宮記念公園 港区南麻布5-7-29
<有栖川宮熾仁親王騎馬像>
中央広場の南に「有栖川宮熾仁親王騎馬像」があります。旧陸軍参謀本部構内に建立したものを、昭和37年(1962)にこの公園に移設されています。





(説明板)
「有栖川熾仁親王の銅像
有栖川熾仁親王(1835〜1895)は有栖川宮家九代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役で優れた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治28年(1895)1月に亡くなられました。
この銅像は大熊氏広作で、明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治36年(1903)10月10日千代田区三宅坂旧参謀本部構内に建立したものを、昭和37年(1962)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園に移設しました。」

「最新東京名所写真帖 陸軍参謀本部と有栖川宮銅像」(小島又市 明治42(1909)年)

「京浜所在銅像写真 故有栖川宮殿下銅像」(人見幾三郎 諏訪堂 明治43(1910)年)

「東京風景 有栖川宮銅像」(小川一真出版部 明治44(1911)年)

<有栖川宮記念公園碑>
中央広場の北に「有栖川宮記念公園碑」があります。
(碑文)
「有栖川宮記念公園
位置 港区麻布盛岡町広尾町
面積 三五、六○一・一二平方米
開園 昭和九年十一月十七日
沿革
この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の下屋敷であったが、明治二十九年有栖川宮家の御用地となり大正二年高松宮殿下がこれを受けつがれた。
殿下は都民の保健に深く心をよせられ多年にわたり小学校の校外教授等に利用させまた一般児童の入園も許しておられたが昭和九年一月御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄付されたのがこの公園である 本都はその御主旨にそい直ちに造園工事に着手同年十一月これを完工し広く都民に開放したものである
東京都」


<僕は少年新聞や>
中央広場に東に「僕は少年新聞や」像があります。朝倉文夫の次女、朝倉響子女史の作品です。

(台座前面銘文)
「僕は少年新聞や
軽くしごけば新聞の
インキがプンと匂います
大事にかかえて走るとき
マラソン選手のようでしょう
ぼくは元気な新聞や」

(台座背面銘文)
「この像を建てたわけ
毎朝毎晩、私たちの待っている新聞を届けてくれるのは、多くの配達少年です。
雨にも、風にも、負けないで元気に働く少年たちです。
その清純な姿が朝倉響子氏の手によって表現されました。
この像は、少年たちには、仕事への誇りと責任を、
大人には、働く少年たちへもっと愛の想いをと、
呼びかけているのです。
昭和三十三年五月三十日
新聞を配る少年保護育成の会」

<有栖川宮熾仁親王騎馬像>
中央広場の南に「有栖川宮熾仁親王騎馬像」があります。旧陸軍参謀本部構内に建立したものを、昭和37年(1962)にこの公園に移設されています。





(説明板)
「有栖川熾仁親王の銅像
有栖川熾仁親王(1835〜1895)は有栖川宮家九代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役で優れた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治28年(1895)1月に亡くなられました。
この銅像は大熊氏広作で、明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治36年(1903)10月10日千代田区三宅坂旧参謀本部構内に建立したものを、昭和37年(1962)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園に移設しました。」

「最新東京名所写真帖 陸軍参謀本部と有栖川宮銅像」(小島又市 明治42(1909)年)

「京浜所在銅像写真 故有栖川宮殿下銅像」(人見幾三郎 諏訪堂 明治43(1910)年)

「東京風景 有栖川宮銅像」(小川一真出版部 明治44(1911)年)

<有栖川宮記念公園碑>
中央広場の北に「有栖川宮記念公園碑」があります。
(碑文)
「有栖川宮記念公園
位置 港区麻布盛岡町広尾町
面積 三五、六○一・一二平方米
開園 昭和九年十一月十七日
沿革
この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の下屋敷であったが、明治二十九年有栖川宮家の御用地となり大正二年高松宮殿下がこれを受けつがれた。
殿下は都民の保健に深く心をよせられ多年にわたり小学校の校外教授等に利用させまた一般児童の入園も許しておられたが昭和九年一月御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄付されたのがこの公園である 本都はその御主旨にそい直ちに造園工事に着手同年十一月これを完工し広く都民に開放したものである
東京都」


<僕は少年新聞や>
中央広場に東に「僕は少年新聞や」像があります。朝倉文夫の次女、朝倉響子女史の作品です。

(台座前面銘文)
「僕は少年新聞や
軽くしごけば新聞の
インキがプンと匂います
大事にかかえて走るとき
マラソン選手のようでしょう
ぼくは元気な新聞や」

(台座背面銘文)
「この像を建てたわけ
毎朝毎晩、私たちの待っている新聞を届けてくれるのは、多くの配達少年です。
雨にも、風にも、負けないで元気に働く少年たちです。
その清純な姿が朝倉響子氏の手によって表現されました。
この像は、少年たちには、仕事への誇りと責任を、
大人には、働く少年たちへもっと愛の想いをと、
呼びかけているのです。
昭和三十三年五月三十日
新聞を配る少年保護育成の会」

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 銅像
勝海舟終焉の地 勝海舟・坂本龍馬の師弟像
○勝安房邸跡(勝海舟終焉の地) 港区赤坂6-6-14(赤坂子ども中高生プラザ)
勝海舟は23才で結婚した翌年に、赤坂で最初の赤坂田町中通(現在のみすじ通りあたり)に引っ越しました。その後、安政6(1859)年の36歳から明治元(1868)年の45歳まで、赤坂氷川神社の下に住んでいました。
そして、徳川慶喜とともに静岡に移住した後、明治5(1872年)に再び東京に戻った際に、ここに住み晩年を過ごしました。石碑の脇にある大きな銀杏は、勝海舟邸の中心部にあったものを移植したものです。また、建物の中には、勝海舟邸を発掘調査した際に出土した陶器類が展示されています。



<史蹟 勝安房邸阯(勝海舟終焉の地)>
(表面)
「史蹟
勝安房邸阯
勝海舟伯終焉ノ地ナリ
昭和五年十二月 東京府」


(裏面)
「氷川小學校後援會敬建
昭和八年十二月
東京市長牛塚虎太郎書」


(説明板)
「東京都指定旧跡
勝安房邸跡
この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治五年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成十五年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
港区」


<氷川邸之図>(氷川清話より)

○ 勝海舟展示品
勝海舟邸跡の発掘調査の品々の展示と、説明パネルがあります。
左手が氷川小学校の資料展示、右手が勝海舟の展示となっています。
照明が落ちているので、自分で照明のスイッチを入れます。






<勝海舟邸跡の発掘調査>





<「赤坂氷川町4番の勝海舟」「年表で見る勝海舟と港区」>


「赤坂氷川町4番の勝海舟
明治5年(1872)5月、勝海舟は赤坂の旧柴田邸(赤坂氷川町10番地、のちに4番地となる)に居を構えました。同じ月、海舟は海軍大輔に任ぜられ、さらに翌6年(1873)年10月、参議兼海軍卿に昇進します。明治8年(1875)11月、海舟は明治政府の中枢部から離れて行きますが、明治20年(1887)5月に伯爵を授けられ、翌21年(1888)年4月には枢密顧問官に任ぜられると、死去するまでその職にありました。明治政府とのかかわりをもつ一方で海舟は、徳川一門や旧幕臣に対して経済面などを支える世話役をしていました。また、旧幕府にかかわる史料を収集して「吹塵録」「吹塵余録」「開国起原」などを編さんしました。晩年には、ここ氷川邸で海舟が語った数々の談話が、新聞・雑誌などに掲載されて話題となりました。
江戸幕府の最後、そして明治時代を生き、眺め続けた海舟は、明治32年(1899)年1月19日、氷川邸でその生涯を閉じました。
旧氷川小学校校庭の発掘調査では、氷川邸に関連する新旧2時期の遺構が検出されました。遺物はあまり多くありませんが、建物の基礎に用いられたレンガや、日々の生活に使われた陶磁器などが出土しています。」
監修:吉原健一郎
作成:辻まゆみ(文教大学講師)・港区立港郷土資料館」





<グランドピアノ>
明治時代のグランドピアノが展示されていました。
(説明板)
「日本ではじめてピアノが製造されたのは明治33年(1900)です。グランドピアノは明治35年(1902)に製造が開始されました。
このピアノはそのときのものと思われます。(日本楽器)
昭和6年(1931)旧校舎落成の折、当時隣にお住まいだった九条家から寄贈されました。」


○勝海舟・坂本龍馬の師弟像 港区赤坂6-6-14
平成28(2016)年9月に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立されました。海舟像は座った姿で、龍馬は立像です。












(説明板)
「「明日に向かって」
勝海舟・坂本龍馬の師弟像
この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。
海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳〜46歳)で、龍馬 (26歳〜31歳)は海舟を師と仰いで慕い緊密な交流があったようです。
この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
銅像の細部を見て頂くと、海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。また、海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐)を絡めて刀をぬけないようにしています。剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。
勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会
この銅像の建立にあたっては、「勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月(平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。」


勝海舟は23才で結婚した翌年に、赤坂で最初の赤坂田町中通(現在のみすじ通りあたり)に引っ越しました。その後、安政6(1859)年の36歳から明治元(1868)年の45歳まで、赤坂氷川神社の下に住んでいました。
そして、徳川慶喜とともに静岡に移住した後、明治5(1872年)に再び東京に戻った際に、ここに住み晩年を過ごしました。石碑の脇にある大きな銀杏は、勝海舟邸の中心部にあったものを移植したものです。また、建物の中には、勝海舟邸を発掘調査した際に出土した陶器類が展示されています。



<史蹟 勝安房邸阯(勝海舟終焉の地)>
(表面)
「史蹟
勝安房邸阯
勝海舟伯終焉ノ地ナリ
昭和五年十二月 東京府」


(裏面)
「氷川小學校後援會敬建
昭和八年十二月
東京市長牛塚虎太郎書」


(説明板)
「東京都指定旧跡
勝安房邸跡
この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治五年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成十五年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
港区」


<氷川邸之図>(氷川清話より)

○ 勝海舟展示品
勝海舟邸跡の発掘調査の品々の展示と、説明パネルがあります。
左手が氷川小学校の資料展示、右手が勝海舟の展示となっています。
照明が落ちているので、自分で照明のスイッチを入れます。






<勝海舟邸跡の発掘調査>





<「赤坂氷川町4番の勝海舟」「年表で見る勝海舟と港区」>


「赤坂氷川町4番の勝海舟
明治5年(1872)5月、勝海舟は赤坂の旧柴田邸(赤坂氷川町10番地、のちに4番地となる)に居を構えました。同じ月、海舟は海軍大輔に任ぜられ、さらに翌6年(1873)年10月、参議兼海軍卿に昇進します。明治8年(1875)11月、海舟は明治政府の中枢部から離れて行きますが、明治20年(1887)5月に伯爵を授けられ、翌21年(1888)年4月には枢密顧問官に任ぜられると、死去するまでその職にありました。明治政府とのかかわりをもつ一方で海舟は、徳川一門や旧幕臣に対して経済面などを支える世話役をしていました。また、旧幕府にかかわる史料を収集して「吹塵録」「吹塵余録」「開国起原」などを編さんしました。晩年には、ここ氷川邸で海舟が語った数々の談話が、新聞・雑誌などに掲載されて話題となりました。
江戸幕府の最後、そして明治時代を生き、眺め続けた海舟は、明治32年(1899)年1月19日、氷川邸でその生涯を閉じました。
旧氷川小学校校庭の発掘調査では、氷川邸に関連する新旧2時期の遺構が検出されました。遺物はあまり多くありませんが、建物の基礎に用いられたレンガや、日々の生活に使われた陶磁器などが出土しています。」
監修:吉原健一郎
作成:辻まゆみ(文教大学講師)・港区立港郷土資料館」





<グランドピアノ>
明治時代のグランドピアノが展示されていました。
(説明板)
「日本ではじめてピアノが製造されたのは明治33年(1900)です。グランドピアノは明治35年(1902)に製造が開始されました。
このピアノはそのときのものと思われます。(日本楽器)
昭和6年(1931)旧校舎落成の折、当時隣にお住まいだった九条家から寄贈されました。」


○勝海舟・坂本龍馬の師弟像 港区赤坂6-6-14
平成28(2016)年9月に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立されました。海舟像は座った姿で、龍馬は立像です。












(説明板)
「「明日に向かって」
勝海舟・坂本龍馬の師弟像
この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。
海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳〜46歳)で、龍馬 (26歳〜31歳)は海舟を師と仰いで慕い緊密な交流があったようです。
この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
銅像の細部を見て頂くと、海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。また、海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐)を絡めて刀をぬけないようにしています。剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。
勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会
この銅像の建立にあたっては、「勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月(平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。」


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
赤坂氷川神社
○赤坂氷川神社 港区赤坂6-10-12
赤坂氷川神社は、紀州徳川家の中屋敷の産土神であったことから徳川吉宗が崇敬し、八代将軍となったのち現在地に社殿の造営を命じ、享保15(1730)年に遷座しました。
<几号水準点>
社殿前鳥居(三の鳥居)、向かって左の基台に几号水準点が刻まれています。




「江戸名所図会 赤坂氷川社」

「絵本江戸土産 赤坂氷川大明神」(広重)

「江戸名所百人美女 赤さか氷川」(豊国・国久)

<社号標/一の鳥居(南側)>
一の鳥居の次が、几号水準点が刻まれている三の鳥居です。
社殿正面のこちらの参道は、江戸時代にはなく、明治以降に設けられた参道です。


<力石>
一の鳥居から入って左手奥に、「庭石」「燈籠」「力石」があります。
(説明板)
「港区の文化財 氷川神社の力石
「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。この力石にまつわる話は特に伝わっていません。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。区内の力石は全部で十四点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。
平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録」







<イチョウ>
境内にそびえる樹齢約400年のイチョウです。港区指定文化財です。



<九神社>
説明板「浅野土佐守邸跡」と九神社。

<包丁塚>
昭和49(1974)年11月、赤坂青山料飲組合による建立です。「包丁塚」の文字は田中栄一書です。


<石燈籠> 港区指定文化財
港区指定文化財の石燈籠。



<天水桶>
戦時中の金属供出を逃れています。

<東京十社/楼門/社殿>
徳川吉宗の命によって造営された社殿が現存しています。



<東参道の一の鳥居/二の鳥居>
江戸名所図会に描かれているように、こちらの参道が、古くからの表参道となります。


<庭園/太鼓橋>


<四合稲荷>
勝海舟により「四合稲荷」と名付けられています。


<西行稲荷>





<山車>
令和3(2021)年に設けられたばかりの山車展示場です。山車が2基展示されています。





<本氷川坂>
氷川神社の西に面しているのが本氷川坂です。
赤坂氷川神社は、紀州徳川家の中屋敷の産土神であったことから徳川吉宗が崇敬し、八代将軍となったのち現在地に社殿の造営を命じ、享保15(1730)年に遷座しました。
<几号水準点>
社殿前鳥居(三の鳥居)、向かって左の基台に几号水準点が刻まれています。




「江戸名所図会 赤坂氷川社」

「絵本江戸土産 赤坂氷川大明神」(広重)

「江戸名所百人美女 赤さか氷川」(豊国・国久)

<社号標/一の鳥居(南側)>
一の鳥居の次が、几号水準点が刻まれている三の鳥居です。
社殿正面のこちらの参道は、江戸時代にはなく、明治以降に設けられた参道です。


<力石>
一の鳥居から入って左手奥に、「庭石」「燈籠」「力石」があります。
(説明板)
「港区の文化財 氷川神社の力石
「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。この力石にまつわる話は特に伝わっていません。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。区内の力石は全部で十四点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。
平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録」







<イチョウ>
境内にそびえる樹齢約400年のイチョウです。港区指定文化財です。



<九神社>
説明板「浅野土佐守邸跡」と九神社。

<包丁塚>
昭和49(1974)年11月、赤坂青山料飲組合による建立です。「包丁塚」の文字は田中栄一書です。


<石燈籠> 港区指定文化財
港区指定文化財の石燈籠。



<天水桶>
戦時中の金属供出を逃れています。

<東京十社/楼門/社殿>
徳川吉宗の命によって造営された社殿が現存しています。



<東参道の一の鳥居/二の鳥居>
江戸名所図会に描かれているように、こちらの参道が、古くからの表参道となります。


<庭園/太鼓橋>


<四合稲荷>
勝海舟により「四合稲荷」と名付けられています。


<西行稲荷>





<山車>
令和3(2021)年に設けられたばかりの山車展示場です。山車が2基展示されています。





<本氷川坂>
氷川神社の西に面しているのが本氷川坂です。

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