乃木神社と宝物殿

○乃木神社 港区赤坂8-11-27 HP

 令和5(2023)年は乃木神社が鎮座してから百年という記念の年です。

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 「令和五年 乃木神社御鎮座百年」
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<乃木神社案内記>

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<乃木神社境内案内図>

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<社号標>

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<洗心の井戸>

 非常災害用井戸(港区)で、手水舎にも供されています。

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<手水舎>

 空襲により本殿以下社殿は焼失しましたが、手水舎と二の鳥居は戦災を免れました。

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<乃木神社之碑>

 昭和6(1931)年5月の建立です。

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<乃木神社復興之記>

 昭和53(1978)年6月の建立です。

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<乃木神社参拝記念>

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<茅の輪>

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<竹添井々文学碑>

「竹添井々文學碑」
「竹添井々略歴
 竹添進一郎、光鴻号は井々、天保十三年天草郡大矢野島に生る。出熊木下韡村の門に学び、時習館居寮生となる。幕末戊申の役には肥後藩の参謀。時習館の訓導助勤後、明治五年から七年まで天名郡伊倉村に開塾。上京仕官、詩文の才を認められ朝鮮公使、東京帝大教授となる。棧雲峡雨日記、論語会箋、毛詩会箋、春秋左氏会箋等の著述多し。文学博士、大正六年歿七十六歳墓は東京小石川の護国寺」

「雙殉行 井々竹添光鴻 大正元年作
 昭和五十六年七月 寄進」

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<楷樹>

 楷の木は孔子の墓に植えられていることから日本では「孔子木」とも呼ばれています。樹姿端正で一点一画が整っていることから書法の楷書の語源であるとも言われている樹です。この楷は、孔子墓より種を持ち帰り育成された系統のもので、大正15年(1926)5月、林学博士中村弥六氏による奉納植樹です。

(説明掲示)
「楷樹
   植樹 大正十五年五月六日
   港区保護樹木指定 昭和四十九年九月
 林学博士・中村弥六氏の奉納植樹と伝えられています。大正四年日本で最初に白沢保美博士が 中国山東省曲阜県の孔子廟の子貢より種子を持ち帰り、育成された由緒正しい偕で 神田湯島聖堂と岡山県閑谷学校の楷と同系統のものです 楷とは樹姿端正で一点一画が整っていることから書法の楷書の語源になっています。
 また境内には、昭和天皇御在位六十年の記念樹の楷樹もあります」

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<教育の碑>

 明治41(1908)年1月に乃木希典が学習院院長に任命された際、明治天皇から賜った御製(和歌)です。

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(説明板)
「教育の碑
 明治天皇御製御製
   教育
  いさをある人を
   をしえの親にして
  おほしたてなむ
   やまとなでしこ
 明治四十年一月に御祭神乃木将軍が学習院院長に任命された頃に生徒心得の為に明治天皇より賜った御製であります 乃木将軍のような国家に勲功のある立派な人を学習院院長にして 大切な皇国の未来を担う子弟の教育に當らせたいという明治天皇のお気持ちがこめられています
 この碑は当時の御歌所所長 高崎正風氏が謹書したものを刻んだものであります」

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<拝殿/狛犬>

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<雷神木>

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(説明掲示)
「昭和四十七年九月十二日午後七時天空より閃光走り轟音凄まじき落雷あり あはや本殿に多大な損害を被る処 この楠身代はりとなりその一撃を受け樹片境内に飛散するも本殿にひとつとして損すること無し その後もこの楠 枯れる事なく亭々として葉を茂らせ活気旺盛の霊力を示したり
 それよりこの楠を雷神が宿り悪事災難を取り除く雷神木と称したり」

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<赤坂王子稲荷神社>

 昭和37年12月22日鎮座、王子稲荷神社の勧請です。

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(説明板)
「境内末社
 赤坂王子稲荷神社 
   昭和三十七年十二月二十二日鎮座
 御祭神  宇伽之御魂神 宇気母智神
      和久産巣日神
 御鎮座の由来
 當神社は乃木将軍御夫妻又御両親崇敬特に篤く 月詣りまでせられた北区王子に鎮座の王子稲荷神社を乃木神社戦災復興竣成を機に勧請した縁の神社であります」

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<正松神社/さざれ石>

 「よりそひ橋」を渡って正松神社へ。

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 橋の左手に「さざれ石」があります。
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 正松神社は、昭和38(1963)年1月22日鎮座、萩の松陰神社からの勧請です。

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(説明板)
「境内摂社
 正松神社
   昭和三十八年一月二十二日鎮座
   御祭神  正木文之進正?命
        吉田矩方松陰命
御鎮座の由来
 玉木文之進先生は 幕末維新に際し多くの偉人傑士を輩出した長州萩の学者であり 松下村塾の開祖であり 吉田松陰先生は 玉木先生の甥に當り その村塾を受継いで幾多の國士を養成せられた大教育者であり 國事に仆れた烈士であります 乃木将軍は吉田松陰先生の弟弟子として玉木先生に薫陶せられ 又吉田松陰先生を深く敬い 之が人格形成の基になったものと拝察致します 依て乃木神社戦災復興竣成を機に萩の松陰神社より二柱の御分霊を請受け 境内に鎮祭した縁の神社であります」

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○宝物殿

 入場無料です。

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 乃木希典石膏像(渡邊長男作)(※朝倉文夫は実弟です。)
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 ニューヨークタイムズ紙に乃木大将夫妻の自刃が第一面に写真入りで報道されました。
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 殉死当日朝の写真。
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 左に「純誠剛毅 澁澤榮一敬書」とあります。 (右は忠勇義烈、東郷平八郎書)
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(参考)乃木将軍墓所 近くの青山霊園にあります。こちらで記載

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乃木公園 旧乃木邸 乃木坂

○乃木公園 港区文化財 港区赤坂8-11-32

 乃木将軍の遺言により、乃木邸は東京市に寄贈され、大正2年に乃木公園が開設されました。現在は港区により管理されています。
 公園内に入ると、オブジェ「ひねり、うつり、ながれ」(津久井利彰、平成8年作)。

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 公園入口右手に、東郷平八郎書の社号標「乃木神社 東郷平八郎書」があります。
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(案内板)
「公園付近沿革案内
 この公園附近は、江戸時代の初期、青山常陸介忠成が家康の命をうけ、馬を乗り廻して賜わった土地で、力尽きて死んだ馬の塚を築き、駒留八幡といったという伝説がある。青山氏の敷地は現在の南北青山および赤坂7、8丁目を含む広大な地域であった。
 江戸時代末期このあたりは美濃郡上藩青山大膳亮の邸地で、明治維新後この一帯は新坂町と呼ばれ、名士の邸宅街となった。
 陸軍大将乃木希典は明治12年この地を買い求め、同35年新築をした。大将は大正元年9月明治天皇のあとを追い、夫人静子とともに自害して果てた。邸宅はその遺言により、東京市に寄付され、整備ののち公園として開園された。現在では、旧乃木邸を含めて区立公園として管理している。」

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<江戸切絵図>

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「樹に染まり96」

 津久井利彰、平成8年の作。

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○旧乃木邸 港区文化財

 乃木希典は明治12(1879)年この地を買い求め移りましたが、母屋の老朽化が甚だしくなり、明治35(1902)年に改築(ほぼ新築)したのが現存する建物です。ドイツ留学の折に視察したフランス陸軍の兵舎をスケッチしたものをもとに自ら設計しています。

<門柱「舊乃木邸」>

 「舊乃木邸」
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 「昭和四年三月建設 東京市」
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(説明板)
「旧乃木邸
 旧乃木邸は、日清・日露の両戦役に従事し、明治天皇崩御と共に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。この邸宅は、フランス軍隊の建物を模して自ら設計したものと言われています。明治35年(1902年)に新築されたものです。
 本館は、木造の日本瓦葺きで、正面玄関から見ると全体が2階建てに見えますが、傾斜した地形が巧みに利用され、実際は半地下も含め3階建ての構造となっています。建築面積が168平方メートルの建物です。
 半地下には、台所・茶の間・納戸・浴室・書生部屋・女中部屋があり、1階は、応接室・客室・次室・来賓室・大将居室・夫人居室があります。屋根裏には、2人の令息の居室と物置・書庫が造られています。
 旧乃木邸と馬小屋は、大正元年9月13日乃木夫妻殉死後、遺言で東京市に寄付され、現在は港区が管理しています。
 また、夫妻の命日に合わせ毎年9月12日・13日に邸内を一般公開(無料)しています。
  高橋是清翁記念公園管理事務所」

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(説明板)
「東京都港区指定文化財 有形文化財 旧乃木邸及び馬小屋
 旧乃木邸は、明治三十五年(一九〇二)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(一九一二)九月十三日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は一六八㎡、木造平屋建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。
 馬小屋は、平屋建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治二十二年(一八八九)に建てられた。間口約十二・五m、奥行約四・五mの細長い建物は、四つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
  昭和六十二年十月二十八日  東京都港区教育委員会」

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(説明掲示)
「乃木邸の由来
 乃木邸は明治十二年に買い求め、明治三十五年に改築されたものです。
(此の建物は明治十九年にドイツ留学中、フランスの陸軍訪問の折にスケッチした聯隊本部を参考に建てられています。) 」

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 5・9・11月の一般公開以外は、乃木邸の周りに巡らされている外通路から、部屋内の見学となります。

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「大東京寫眞帖」(1930年 国立国会図書館蔵)

 昭和5(1930)年の写真帖ですが、外通路がすでにあります。皆さん、外通路から覗いています。

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<御供待所>

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(説明掲示)
「乃木将軍は言うまでもなく日清、日露の両役に武功輝き又高風清節徳学高き人格者として一世の崇敬をうけた。
 陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に叙せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ専ら華冑子弟の薫育に蒸したが大正元年九月十三日明治天皇御大葬の当日六十四才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。
 将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄附せられた時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。
 将軍は嘉永二年十一月十一日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ、「少年乃木無人所載年譜」安政五年十一月将軍十才の砌り一家と共に長門国長府に移った、幼名を無人とよび慶応二年六月十八才の折文蔵と改名した。明治二年十一月二十一才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊しその後京都市河東練兵場御親兵練武掛を命ぜられ又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台供の教育に盡したが明治四年十一月二十三才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。
 明治八年二十七才の時熊本鎮台歩兵第十四聯隊長心得となり同十年には西南の役に従軍四月二十二日中佐に任ぜられた。
 将軍の父希次は 同年十月東京に於て病没した。
 翌年十一年一月二十六日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第一聯隊長となり、八月二十七日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に二十才であった。
 当時将軍は 芝桜川町に住んでいた。「山路愛山著乃木将軍」
 翌明治十二年八月二十八日長男勝典が生れ十一月に新坂町五十五番地に初めて邸宅を設けたのである。
 同十三年四月大佐に進み翌十四年二月次男保典が出生した。その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍 英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間 那須別邸に自適されたこともあったが本邸は依然として比地に在り、明治十二年以来三十四年間に及んだ。
 本旧邸は、素朴高潔であった。将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。
 因みに長男勝典中尉は 明治三十七年南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は 同年十一月三十日二〇三高地に於て戦死した。時に長男は二十六才、次男は二十四才であった。
 大将夫妻 及び両息子の墓はともに青山墓地にある。」

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<旧乃木邸の煙突>

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(説明掲示)
「旧乃木邸の煙突
 The Chimneys of Nogi Residence
 この煙突は、実際に旧乃木邸の屋根に設置されていた煙突の実物です。
 平成23年の東日本大震災の影響により被災したため、撤去しました。
 現在、旧乃木邸の屋根にある煙突はレプリカです。」

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<乃木将軍銅版レリーフ>

 「献 大正四年九月十二日 陸軍大佐 塚田清市」

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<乃木将軍と辻占売少年像>

 昭和43年に、乃木将軍の生誕地である旧ニッカ池(六本木六丁目)の縁に造立されましたが、六本木再開発に伴い池は消失、像は平成13年にこの地に移建されています。

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(説明板)
「乃木將軍と辻占売少年像
 今に伝えられる「乃木大将と辻占売りの少年」の話は、明治二十四年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時八歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。
 この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和四十三年に旧ニッカ池(六本木六丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることとなり、希典所縁のこの地に移建されました。
  平成十三年九月」

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○厩と馬用井戸

 明治22(1889)年に、現存の母屋改築より先に建築されたもので、英国より取り寄せたレンガで作られています。人々は母屋に比べ厩が立派であったので『新坂の厩』(新坂は旧町名)と評しました。ステッセル将軍から贈られた壽号もここで過ごしました。

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(説明掲示)
「厩(うまや)
 明治二十二年に新築されたものです。」
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 愛馬用井戸も残されています。
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(説明板)
「愛馬の由来
 正馬壽号は、「ステッセル」将軍の愛用した「アラビヤ」産の牡馬で明治三十八年一月五日水師営会見の際に乃木大将に贈らんとしたが大将はその志を謝し直ちにこれを受けとることは軍規の許さない事なので後日約してこれを「壽」号と名づけて戦役中乗用し凱旋後拂い下げを受け自分の馬として愛用した。
 大将は壽号を明治三十九年末に種馬として鳥取県赤崎町佐伯友文氏に贈られた。後大正四年五月同氏より島根県隠岐島村上寿夫氏に贈られ海士村渡辺淳三氏方で飼育中大正八年五月二十七日終命した。馬齢二十三歳でその仔馬は二十余頭に及んでいる。副馬「璞」号は去勢馬で仔馬なし。」

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【庭】
<水師営のナツメ>

 日露戦争、水師営の会見の際、乃木将軍の副官である兼松が記念に持ち帰ったナツメ樹の3代目です。

(説明掲示)
「棗(なつめ)の標
 「水師営棗の樹の孫」」

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<乃木大将瘞血之處>

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(説明掲示)
「乃木大将夫妻
 瘞血之處
 (殉死された時の血のついた物を埋めるところ)」

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<乃木家祖霊舎>

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(説明掲示)
「ご祭神ご生前には、大神宮殿と、祖先の霊を祀る家廟があり、ご祭神はこれらを篤く祀っておりました。
この2つの神殿は、遺言に基づき、浄火で焼き、その後にご祭神が所持していた中野の家にあった社殿を移築したものです。
この小社には、乃木家祖先と御令息との御霊をお祀りしてあります。」

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<灯籠>

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(説明掲示)
「灯籠
 石材は門柱として準備されましたが適当でなかったため、そのまま邸内に保存してあったものを死去後親族が灯籠として建てたものです。」

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<マッカーサーの植樹>

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(説明掲示)
「マックアーサーの植樹
 終戦後マックアーサー将軍が植樹したアメリカハナミズキの樹」

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<希典歌碑>

(碑文)
 「武士は     
  玉も黄金も
  なにかせん
  いのちにかへて
  名こそをしけれ 希典」

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<旧乃木邸裏門>

 旧乃木邸裏門は、乃木神社参道に接しています。

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○乃木坂 港区赤坂8-11・9-6

 大正元(1912)年9月19日、乃木夫妻葬儀の日に赤坂区議会の決議により、幽霊坂は乃木坂と改名されました。

(碑文)
「乃木坂
 由来
 乃木大將の殉死された大正元年九月以来幽霊坂が乃木坂と改名された
  寄贈 東京赤坂ライオンズクラブ」

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Harry Potter 階段とタイムターナー(赤坂駅)

Harry Potter 階段とタイムターナー(赤坂駅)

<Wizarding World Gate>

 赤坂駅を降りて「TBS赤坂ACTシアター」に向かう出口に行くと、ハリーポッターの世界です。
 レッドカーペットと、その先にタイムターナー(逆転時計)が見えます。

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<ツリー>

 赤坂BizタワーSHOPS&DINING2階のツリーです。

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tag : 赤坂

勝海舟終焉の地 勝海舟・坂本龍馬の師弟像

○勝安房邸跡(勝海舟終焉の地) 港区赤坂6-6-14(赤坂子ども中高生プラザ)

 勝海舟は23才で結婚した翌年に、赤坂で最初の赤坂田町中通(現在のみすじ通りあたり)に引っ越しました。その後、安政6(1859)年の36歳から明治元(1868)年の45歳まで、赤坂氷川神社の下に住んでいました。
 そして、徳川慶喜とともに静岡に移住した後、明治5(1872年)に再び東京に戻った際に、ここに住み晩年を過ごしました。石碑の脇にある大きな銀杏は、勝海舟邸の中心部にあったものを移植したものです。また、建物の中には、勝海舟邸を発掘調査した際に出土した陶器類が展示されています。

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<史蹟 勝安房邸阯(勝海舟終焉の地)>

 (表面)
 「史蹟
  勝安房邸阯
  勝海舟伯終焉ノ地ナリ
  昭和五年十二月  東京府」

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 (裏面)
 「氷川小學校後援會敬建
  昭和八年十二月
  東京市長牛塚虎太郎書」

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(説明板)
「東京都指定旧跡 勝安房邸跡
 この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治五年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成十五年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。  港区」

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<氷川邸之図>(氷川清話より)

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○勝海舟展示品

 勝海舟邸跡の発掘調査の品々の展示と、説明パネルがあります。
 左手が氷川小学校の資料展示、右手が勝海舟の展示となっています。
 照明が落ちているので、自分で照明のスイッチを入れます。

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<勝海舟邸跡の発掘調査>

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<「赤坂氷川町4番の勝海舟」「年表で見る勝海舟と港区」>

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「赤坂氷川町4番の勝海舟
 明治5年(1872)5月、勝海舟は赤坂の旧柴田邸(赤坂氷川町10番地、のちに4番地となる)に居を構えました。同じ月、海舟は海軍大輔に任ぜられ、さらに翌6年(1873)年10月、参議兼海軍卿に昇進します。明治8年(1875)11月、海舟は明治政府の中枢部から離れて行きますが、明治20年(1887)5月に伯爵を授けられ、翌21年(1888)年4月には枢密顧問官に任ぜられると、死去するまでその職にありました。明治政府とのかかわりをもつ一方で海舟は、徳川一門や旧幕臣に対して経済面などを支える世話役をしていました。また、旧幕府にかかわる史料を収集して「吹塵録」「吹塵余録」「開国起原」などを編さんしました。晩年には、ここ氷川邸で海舟が語った数々の談話が、新聞・雑誌などに掲載されて話題となりました。
 江戸幕府の最後、そして明治時代を生き、眺め続けた海舟は、明治32年(1899)年1月19日、氷川邸でその生涯を閉じました。
 旧氷川小学校校庭の発掘調査では、氷川邸に関連する新旧2時期の遺構が検出されました。遺物はあまり多くありませんが、建物の基礎に用いられたレンガや、日々の生活に使われた陶磁器などが出土しています。」
 監修:吉原健一郎
 作成:辻まゆみ(文教大学講師)・港区立港郷土資料館」

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<グランドピアノ>

 明治時代のグランドピアノが展示されていました。

(説明板)
「日本ではじめてピアノが製造されたのは明治33年(1900)です。グランドピアノは明治35年(1902)に製造が開始されました。
 このピアノはそのときのものと思われます。(日本楽器)
 昭和6年(1931)旧校舎落成の折、当時隣にお住まいだった九条家から寄贈されました。」

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○勝海舟・坂本龍馬の師弟像 港区赤坂6-6-14

 平成28(2016)年9月に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立されました。海舟像は座った姿で、龍馬は立像です。

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(説明板)
「「明日に向かって」
  勝海舟・坂本龍馬の師弟像
 この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。
 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳〜46歳)で、龍馬 (26歳〜31歳)は海舟を師と仰いで慕い緊密な交流があったようです。
 この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
 また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
 銅像の細部を見て頂くと、海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。また、海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐)を絡めて刀をぬけないようにしています。剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。
  勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会

 この銅像の建立にあたっては、「勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月(平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。」

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tag : 赤坂勝海舟坂本龍馬旧跡銅像

赤坂氷川神社

○赤坂氷川神社 港区赤坂6-10-12 HP

 赤坂氷川神社は、紀州徳川家の中屋敷の産土神であったことから徳川吉宗が崇敬し、八代将軍となったのち現在地に社殿の造営を命じ、享保15(1730)年に遷座しました。

「江戸名所図会 赤坂氷川社」

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「絵本江戸土産 赤坂氷川大明神」(広重)

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「江戸名所百人美女 赤さか氷川」(豊国・国久)

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<社号標/一の鳥居(南側)>

 社殿正面のこちらの参道は、江戸時代にはなく、明治以降に設けられた参道です。

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<几号水準点>

 一の鳥居(南側)の次が、几号水準点が刻まれている三の鳥居です。社殿前鳥居(三の鳥居)の向かって左の基台に几号水準点が刻まれています。

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<力石> 港区文化財

 一の鳥居から入って左手奥に、「庭石」「燈籠」「力石」があります。

(標柱)
「港区の文化財 氷川神社の力石
 「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。この力石にまつわる話は特に伝わっていません。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。区内の力石は全部で十四点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。
  平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録」

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<イチョウ> 港区文化財

 境内にそびえる樹齢約400年のイチョウです。港区指定文化財です。

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(説明板)
「東京都港区指定文化財
 天然記念物 赤坂氷川神社のイチョウ(イチョウ科)
 目通り(地上一・五メートルの高さ)の幹径約二・四メートル、幹周約七・五メートルを測る推定樹齢四○○年の巨木である。
 氷川神社の記録をはじめ記載された史料はないが、神社が現在の地に建立された享保十五年(一七三○)には、すでに一○○年を超える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられる。
 イチョウは、生きた化石とも言われ、一億五千万年前には地球上の至る所で生い茂っていた。氷河期に絶滅しかけたが、中国大陸南東部に残っていたものが、日本に渡ってきたといわれる。落葉性の大木で成長も早く、高さ三○メートルにも成長する。雌雄異株であり、この木は雄株である。
 港区内に現存するイチョウでは最大である善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木である。
  平成六年九月二十七日  東京都港区教育委員会」

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<浅野土佐守邸跡> 東京都史跡

 説明板「浅野土佐守邸跡」があります。奥にあるのは九神社です。

(説明板)
「東京都指定史跡 浅野土佐守邸跡
   所在地 港区赤坂六の一〇・一九 氷川神社他
   標識 昭和一八年三月一六日
   指定 昭和三〇年三月二八日
 元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。三次藩は、寛永九年(一六三二)に安芸国広島藩から五万石を分知され立てられた支藩です。初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。
 元禄一四年(一七〇一)三月一四日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きました。長矩は即日切腹を命じられ、領地没収の上、家は断絶となりました。そのため、長矩の正室阿久里は、出家し揺泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。以後、正徳四年(一七一四)に死去するまで、ここに幽居しました。この事件が起こった時、藩主が土佐守を称した三代藩主長澄であったことから、「浅野土佐守邸跡」として標識されました。
 三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため享保三年(一七一八)に断絶となり、遺領は広島藩へ還付されます。享保一五年(一七三〇)、現在の赤坂四丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され、今日に至っています。
  平成二五年三月 建設  東京都教育委員会

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<包丁塚>

 昭和49(1974)年11月、赤坂青山料飲組合による建立です。「包丁塚」の文字は田中栄一書です。

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<石燈籠> 港区文化財

 港区指定文化財の石燈籠です。

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(標柱)
「港区の文化財 氷川神社の石燈籠 四基
 門の内外に立つ二対四基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ二基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂一〜二丁目)の講中が、享保九年(一七二四)閏四月に奉納したものです。氷川神社が徳川吉宗の産土神として信仰され、現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にありました。この燈籠はその時代のもので、遷座に際し移されたものと考えられます。
 門外の二基は、遷座の年に岡崎城主水野忠之が奉納したものです。水野忠之は吉宗が行った享保の改革の前半を主導した老中です。幕府財政の建て直しに尽力した人物で、吉宗との強いつながりをこの石燈籠からも伺うことができます。岡崎藩水野家は吉良邸討入後の赤穂浪士九人を三田の中屋敷に預かった家としても知られています。
  平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録」

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<天水桶>

 戦時中の金属供出を逃れています。深川大島の鋳物師で当時「釜六」と呼ばれた、太田近江大掾藤原正次作の天水桶(天保12(1841)年銘)です。

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<東京十社/楼門/社殿>

 徳川吉宗の命によって造営された社殿が現存しています。

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<東参道の一の鳥居/二の鳥居>

 江戸名所図会に描かれているように、こちらの参道が、古くからの表参道となります。

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<庭園/太鼓橋>

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<四合稲荷>

 勝海舟により「四合稲荷」と名付けられています。

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(説明板)
「四合稲荷神社
  ※毎年四月十五日例大祭(ご自由に参列下さい)
・御祭神
 宇迦之御魂神─食物の神、殊に稲の神
・御縁起
 ① 古呂故稲荷 (赤坂一ッ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)
 ② 地頭稲荷  (氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
 ③ 本氷川稲荷 (本氷川神社隣接、別当盛徳寺の境内に鎮座)
 ④ 玉川稲荷  (赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により「四合(しあわせ)稲荷」と称えられる。
 大正十四年に、鈴降稲荷神社(赤坂一ッ木町に鎮座)及び、縁起稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)二社を、また昭和九年に、明徳稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。
 勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
・附記
 古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であって、明治十七年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。
 本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応三年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治十六年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体が玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治二十一年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。」

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<西行稲荷>

(説明板)
「正一位 西行稲荷神社縁起
 文政(一八一六?一八三〇)年間、町方書上の赤坂田町四丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂で本社は六尺に七尺五寸、拝殿二間四方で前方に三尺に六尺の向拝がありました。
 勧請の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)、田町五丁目に西行五兵衛と異名をもつ男あり、榎坂を通行中、甲冑を帯し弓箭を携え、狐の形をしている三寸程の鉄像をひろいとったが、稲荷の御神体らしいと云ふので、これを勧請し、五兵衛の異名を以って、西行稲荷と唱えられました。
 明治以後、町の発展に伴い、大正十年(一九二一)九月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい、火災除の御神徳があると称されております。
  平成七年九月吉日建之  赤坂田町三・四・五丁目町会」

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<山車>

 令和3(2021)年に設けられたばかりの山車展示場です。山車が2基展示されています。

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(説明板)
「赤坂氷川山車
 江戸の祭の華は山車であり、主要神社の祭礼に用いられていました。
 山車の多くは「江戸型山車」と呼ばれ、徳川将軍の上覧に際し、江戸城の城門をくぐるため、人形がカラクリで上下することが特徴です。
 当社社殿内の大絵馬にも山車13本が神域内を巡行している様子が描かれています。
 しかし時代が明治に移り、山車祭りの衰退に加え、関東大震災や東京大空襲の被災により、祭礼の主役は山車から神輿へと変わっていきました。
 都内二十三区から殆んど姿を消していった山車ですが、社殿裏手の倉庫には、完全な形でないものの、奇跡的に9体の山車人形が残存していました。
 『現代に江戸祭礼絵巻を描く』
 失われた江戸の祭礼を現代に復活させるべく、地域全体で山車の修復・復元を行い、展示や巡行規模は年を拡大し続けています。」

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(説明板)
「赤坂氷川山車『頼義』 松雲斎徳山作 弘化三年(一八四六)
 全国的にも大変珍しい三層型の山車です。
 平安時代の武将、源頼義が戦いの最中に八幡神に念じ、手にした弓で岩を打ったところ清水が吹き出た、という石清水八幡の伝統に基づいで制作されたようです。
 きらびやかん人形は弓を手に持ち、上段の飾り幕には岩と水しぶきが刺繍されており、人形と幕が一体となって物語を構成していることがわかります。
 山車人形づくりの名工と称えられる松雲斎徳山が制作し、明治三十年に久月(台東区浅草橋)によって修復がなされたと伝えられております。」

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(説明板)
「赤坂氷川山車『猿』 作者不明 弘化二年(一八四五)
 赤坂氷川山車のなかでは唯一 上段に六角形の高欄を持つ珍しい形をした山車です。
 山王権現(日枝神社)、神田明神(神田神社)の天下祭では、山車行列の先頭は「天下泰平」を象徴する「閑古鳥」、続いて神様のお使いとされる『猿』が巡行していました。
 赤坂氷川祭でも天下祭にならい、猿の山車が行列の前方巡行していたと考えられます。
 飾り幕の上段は『龍と波』が、下段には赤坂氷川神社の御神紋である『巴』が金糸で刺繍されています。」

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<本氷川坂> 港区赤坂6-10・6-19

 氷川神社の西に面しているのが本氷川坂です。坂下には「勝海舟邸跡」があります。

(標柱)
「本氷川坂 もとひかざか
坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年四月氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。」

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