渋沢栄一と寺社
○渋沢栄一と寺社
「寛永寺と浅草寺」 こちらで記載(寛永寺/浅草寺)
渋沢栄一は寛永寺の檀家総代を明治32(1899)年から務めました。
また1924(大正13)年からは浅草寺の信徒総代となり、浅草寺臨時営繕局、(財)浅草観音大慈会にも顧問として関わりました。
「日光東照宮」 こちらで記載
明治に入り幕府の庇護を失った日光の社寺と景勝を護るべく、明治12(1879)年に「保晃会」が組織され、渋沢栄一も会員の一人でした。
渋沢栄一は、日光鉄道(現JR日光線)の敷設、日光駅(現JR日光駅)の築造、日光ホテルの整備などを支援しました。
日光東照宮三百年祭奉斎会が大正2(1913)年に組織され栄一は会長を依嘱されました。三百年祭は大正四(1915)年六月三日に行われ、栄一は列席しました。
「日光東照宮社号標」
日光東照宮の参道、石鳥居の手前にある社号標は、大正13(1924)年5月に建立されたもので、渋沢栄一の揮毫です。


「明治神宮」
明治神宮は渋沢栄一が創建に当たって中心的役割を果たしました。
渋沢栄一書「明治神宮鎮座祭紀念碑」が素盞雄神社(荒川区南千住)に残っています(こちらで記載)。 大正9(1920)年11月1日から3日間、鎮座祭が行われています。


「富岡八幡宮」 こちらで記載(富岡八幡宮)
富岡八幡宮の社殿大修理のため、明治36(1903)年7月9日修補会会長となり尽力しました。

「増上寺」 こちらで記載(増上寺)
明治42(1909)年に火災で焼失した増上寺再建のため、大正7(1918)年に興勝会の副総裁となり尽力しました。

「諏訪神社」 こちらで記載(諏訪神社)
深谷市の旧血洗島村の鎮守の諏訪神社の本殿は、明治40(1907)年9月に渋沢栄一と血洗島村民が費用を折半して造営されました。本殿の扁額は渋沢栄一の揮毫です。拝殿は大正5(1916)年9月に渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進しました。社号標「村社諏訪神社」は、明治30(1897)年に栄一が揮毫したものです。



「福住稲荷神社」 こちらで記載(福住稲荷神社)
福住稲荷神社(旧渋沢邸内)の扁額は渋沢栄一の文字です。


「七社神社」 こちらで記載
渋沢栄一は明治34(1901)年に飛鳥山邸を本邸とし七社神社の氏子となりました。「栄一揮毫の社額」と「枯松を祭る文の碑」(飛鳥山別業南園の松が枯れたことを悲しみ建てた碑)があります。


「小塚原回向院」 こちらで記載
小塚原回向院烈士遣蹟保存会は、殉難烈士の墳墓が荒廃している状態を嘆き、渋沢栄一を会長として、大正8(1919)年に発足しました。大正9(1920)年に無縁仏供養塔、大正10(1921)年に渋沢栄一の篆額、岩崎英重の撰文で烈婦瀧本之碑を建立しています。




「湯島聖堂」 こちらで記載
関東大震災で焼失した湯島聖堂を復興するための聖堂復興期成会で、渋沢栄一は副会長となり、聖堂再建に尽力しました。
「寛永寺と浅草寺」 こちらで記載(寛永寺/浅草寺)
渋沢栄一は寛永寺の檀家総代を明治32(1899)年から務めました。
また1924(大正13)年からは浅草寺の信徒総代となり、浅草寺臨時営繕局、(財)浅草観音大慈会にも顧問として関わりました。
「日光東照宮」 こちらで記載
明治に入り幕府の庇護を失った日光の社寺と景勝を護るべく、明治12(1879)年に「保晃会」が組織され、渋沢栄一も会員の一人でした。
渋沢栄一は、日光鉄道(現JR日光線)の敷設、日光駅(現JR日光駅)の築造、日光ホテルの整備などを支援しました。
日光東照宮三百年祭奉斎会が大正2(1913)年に組織され栄一は会長を依嘱されました。三百年祭は大正四(1915)年六月三日に行われ、栄一は列席しました。
「日光東照宮社号標」
日光東照宮の参道、石鳥居の手前にある社号標は、大正13(1924)年5月に建立されたもので、渋沢栄一の揮毫です。


「明治神宮」
明治神宮は渋沢栄一が創建に当たって中心的役割を果たしました。
渋沢栄一書「明治神宮鎮座祭紀念碑」が素盞雄神社(荒川区南千住)に残っています(こちらで記載)。 大正9(1920)年11月1日から3日間、鎮座祭が行われています。


「富岡八幡宮」 こちらで記載(富岡八幡宮)
富岡八幡宮の社殿大修理のため、明治36(1903)年7月9日修補会会長となり尽力しました。

「増上寺」 こちらで記載(増上寺)
明治42(1909)年に火災で焼失した増上寺再建のため、大正7(1918)年に興勝会の副総裁となり尽力しました。

「諏訪神社」 こちらで記載(諏訪神社)
深谷市の旧血洗島村の鎮守の諏訪神社の本殿は、明治40(1907)年9月に渋沢栄一と血洗島村民が費用を折半して造営されました。本殿の扁額は渋沢栄一の揮毫です。拝殿は大正5(1916)年9月に渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進しました。社号標「村社諏訪神社」は、明治30(1897)年に栄一が揮毫したものです。



「福住稲荷神社」 こちらで記載(福住稲荷神社)
福住稲荷神社(旧渋沢邸内)の扁額は渋沢栄一の文字です。


「七社神社」 こちらで記載
渋沢栄一は明治34(1901)年に飛鳥山邸を本邸とし七社神社の氏子となりました。「栄一揮毫の社額」と「枯松を祭る文の碑」(飛鳥山別業南園の松が枯れたことを悲しみ建てた碑)があります。


「小塚原回向院」 こちらで記載
小塚原回向院烈士遣蹟保存会は、殉難烈士の墳墓が荒廃している状態を嘆き、渋沢栄一を会長として、大正8(1919)年に発足しました。大正9(1920)年に無縁仏供養塔、大正10(1921)年に渋沢栄一の篆額、岩崎英重の撰文で烈婦瀧本之碑を建立しています。




「湯島聖堂」 こちらで記載
関東大震災で焼失した湯島聖堂を復興するための聖堂復興期成会で、渋沢栄一は副会長となり、聖堂再建に尽力しました。

tag : 渋沢栄一
青淵澁澤榮一像(澁澤倉庫)
○青淵澁澤榮一像 澁澤シティープレイス永代 江東区永代2-37-2(旧深川黒江町)
澁澤シティープレイス永代のロビーに青淵澁澤榮一像があります。澁澤倉庫株式会社は、上場企業では唯一、渋沢の名を冠した会社です。
休日はロビーに入れないので、外から見ただけですが、平日に行き見ることができました。




(正面)
「青淵澁澤榮一」

(裏)
「澁澤倉庫株式会社
発祥地永代に
澁澤シティプレイス
建築を記念して製作
ニ○○四年四月吉日」

澁澤シティープレイス永代のロビーに青淵澁澤榮一像があります。澁澤倉庫株式会社は、上場企業では唯一、渋沢の名を冠した会社です。
休日はロビーに入れないので、外から見ただけですが、平日に行き見ることができました。




(正面)
「青淵澁澤榮一」

(裏)
「澁澤倉庫株式会社
発祥地永代に
澁澤シティプレイス
建築を記念して製作
ニ○○四年四月吉日」

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澁澤榮一墓所とタブの木
○渋沢栄一墓所のスタンプ
谷中霊園HPにはお知らせはありませんが、渋沢栄一の墓にスタンプ設置のお知らせが掲示されました。
屋内への立ち入りは自粛したので、管理事務所には寄らずに、お知らせのみ撮影です。
緊急事態宣言前の訪問のため、現在は緊急事態宣言に伴って、スタンプは一時撤去されているかもしれません(都営地下鉄の駅スタンプが一時撤去されているので)。
「澁澤榮一とタブの木」


(参考記事) 渋沢栄一の墓
谷中霊園HPにはお知らせはありませんが、渋沢栄一の墓にスタンプ設置のお知らせが掲示されました。
屋内への立ち入りは自粛したので、管理事務所には寄らずに、お知らせのみ撮影です。
緊急事態宣言前の訪問のため、現在は緊急事態宣言に伴って、スタンプは一時撤去されているかもしれません(都営地下鉄の駅スタンプが一時撤去されているので)。
「澁澤榮一とタブの木」


(参考記事) 渋沢栄一の墓
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渋沢栄一と製紙業
○洋紙発祥之碑 北区王子1-4-1
都電「王子駅前」の脇にあるサンスクエア敷地内に「洋紙発祥之碑」があります。
煉瓦が敷き詰められているのは、レンガ造りの工場のレンガかとも思いましたが、説明板には言及はないので違うんでしょうね。


<日本最初の近代産業の出発点 洋紙発祥の地 王子>
新たな説明パネルが、リトルマーメイド王子店の横、「洋紙発祥之碑」の後ろに 、大河ドラマ「青天を衝け」スタート前の2月に設置されています。





<洋紙発祥之碑>
大理石に銅板がはめ込まれています。
台座がヤギ!です。
(説明板)
「 洋紙発祥の碑
日本の洋紙生産は。明治六年 (一八七三年) ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した渋沢栄一 が「抄紙会社」を設立し, ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。
田圃の中、煙を吐くレンガづくりの工場は、当時の錦絵にも描かれ、東京の新名所になりました。その後日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、昭和二十年(一九四五)、戦災によりその歴史を閉じました。
この碑は、工場創立八十周年を記念し、昭和二十八年、その跡地に建てられたものです。
日本製紙株式会社 」







都電「王子駅前」の脇にあるサンスクエア敷地内に「洋紙発祥之碑」があります。
煉瓦が敷き詰められているのは、レンガ造りの工場のレンガかとも思いましたが、説明板には言及はないので違うんでしょうね。


<日本最初の近代産業の出発点 洋紙発祥の地 王子>
新たな説明パネルが、リトルマーメイド王子店の横、「洋紙発祥之碑」の後ろに 、大河ドラマ「青天を衝け」スタート前の2月に設置されています。





<洋紙発祥之碑>
大理石に銅板がはめ込まれています。
台座がヤギ!です。
(説明板)
「 洋紙発祥の碑
日本の洋紙生産は。明治六年 (一八七三年) ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した渋沢栄一 が「抄紙会社」を設立し, ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。
田圃の中、煙を吐くレンガづくりの工場は、当時の錦絵にも描かれ、東京の新名所になりました。その後日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、昭和二十年(一九四五)、戦災によりその歴史を閉じました。
この碑は、工場創立八十周年を記念し、昭和二十八年、その跡地に建てられたものです。
日本製紙株式会社 」








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西ヶ原一里塚 滝野川警察署 六石坂 昌林寺
○西ヶ原一里塚(国史跡) 北区西ヶ原2-4-2
東京23区内の一里塚は、対になる形で残されているのは、西ヶ原と志村の2ヶ所のみです。 西ヶ原一里塚の東の塚は七社神社参道入口にあり、西の塚は、「本郷通り」の中央分離帯の一部となっています。
大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去の危機に瀕しましたが、渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により「二本榎保存之碑」が建てられました。
塚の上には大きな榎が植えられています。江戸時代のものは枯れ、今は新たな榎の木が植えられています。塚上には「西ヶ原一里塚」と「二本榎保存之碑」の2種類の東京都教育委員会説明板が建てられています。
<北側一里塚>




<南側一里塚>
「史蹟 西ヶ原一里塚」の石碑は、「東京市」が建てたものです。




<二本榎保存之碑>
碑文(表裏とも)については、北区飛鳥山博物館「二本榎保存之碑」に記されているので、割愛します。




(裏面)
江戸城「虎の門」を壊した時に不要になった石垣を利用して、この碑が作られたことが記されています。

○滝野川警察署 北区西ヶ原2-4-1
<渋沢栄一直筆の書「道之以徳齊之以禮」>
昭和2(1927)年の滝野川警察署新築にあたって、渋沢栄一は同署協賛会会長を務めて新築を支援しました。渋沢栄一が新庁舎落成を記念してしたためた「道之以徳齊之以禮」が署長室に飾られています。実物は見学できませんが、東商渋沢ミュージアムに写真が掲示されています。


○六石坂 北区西ヶ原2-16地先
江戸切絵図にも描かれている六石坂です。



説明標板があります。
「 六石坂
東京府村誌に「長さ二十四間広さ三間元と坂上に租六石を納る水田あり故に云ふ」とある。
江戸切絵図には「六コク坂」と記されている。
この道は岩槻街道(旧日光御成道)で、飛鳥山の前へと続いているため花見時などには賑わいをみせた。
付近にはこの辺りに鷹狩などに来た将軍の休み場としてのお立場もあった。
昭和五十九年三月 東京都」





<江戸切絵図>
石標の銘板にはめられている江戸切絵図の該当部分です。

○昌林寺 北区西ケ原3-12-6
六阿弥陀詣の木残です。

<寺号標>
参道下に面した道路に、寺号標「補陀山昌林寺」があります。


<石標>
山門の前に「末木観世音」の石標があります。


「江戸切絵図」
「観世音補陀山昌林寺曹洞宗」「行基菩薩六阿弥陀ノ末ノ木ヲ以テ彫刻ス本尊末木」とあります。

○無量寺 こちらで記載
東京23区内の一里塚は、対になる形で残されているのは、西ヶ原と志村の2ヶ所のみです。 西ヶ原一里塚の東の塚は七社神社参道入口にあり、西の塚は、「本郷通り」の中央分離帯の一部となっています。
大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去の危機に瀕しましたが、渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により「二本榎保存之碑」が建てられました。
塚の上には大きな榎が植えられています。江戸時代のものは枯れ、今は新たな榎の木が植えられています。塚上には「西ヶ原一里塚」と「二本榎保存之碑」の2種類の東京都教育委員会説明板が建てられています。
<北側一里塚>




<南側一里塚>
「史蹟 西ヶ原一里塚」の石碑は、「東京市」が建てたものです。




<二本榎保存之碑>
碑文(表裏とも)については、北区飛鳥山博物館「二本榎保存之碑」に記されているので、割愛します。




(裏面)
江戸城「虎の門」を壊した時に不要になった石垣を利用して、この碑が作られたことが記されています。

○滝野川警察署 北区西ヶ原2-4-1
<渋沢栄一直筆の書「道之以徳齊之以禮」>
昭和2(1927)年の滝野川警察署新築にあたって、渋沢栄一は同署協賛会会長を務めて新築を支援しました。渋沢栄一が新庁舎落成を記念してしたためた「道之以徳齊之以禮」が署長室に飾られています。実物は見学できませんが、東商渋沢ミュージアムに写真が掲示されています。


○六石坂 北区西ヶ原2-16地先
江戸切絵図にも描かれている六石坂です。



説明標板があります。
「 六石坂
東京府村誌に「長さ二十四間広さ三間元と坂上に租六石を納る水田あり故に云ふ」とある。
江戸切絵図には「六コク坂」と記されている。
この道は岩槻街道(旧日光御成道)で、飛鳥山の前へと続いているため花見時などには賑わいをみせた。
付近にはこの辺りに鷹狩などに来た将軍の休み場としてのお立場もあった。
昭和五十九年三月 東京都」





<江戸切絵図>
石標の銘板にはめられている江戸切絵図の該当部分です。

○昌林寺 北区西ケ原3-12-6
六阿弥陀詣の木残です。

<寺号標>
参道下に面した道路に、寺号標「補陀山昌林寺」があります。


<石標>
山門の前に「末木観世音」の石標があります。


「江戸切絵図」
「観世音補陀山昌林寺曹洞宗」「行基菩薩六阿弥陀ノ末ノ木ヲ以テ彫刻ス本尊末木」とあります。

○無量寺 こちらで記載
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
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