四つ木めだかの小道
○四つ木めだかの小道 葛飾区四つ木1丁目〜2丁目
曳舟川親水公園は国道6号線に行き当たり、その先から綾瀬川手前まで、延長260mの「四つ木めだかの小道」が続きます。
平成11(1999)年に、国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。





<曳舟の井>


<ロベルト本郷と大空翼> 葛飾区四つ木2-3-3先
四つ木は「キャプテン翼」の作者の出身地です。「ロベルト本郷と大空翼」像があります。
国道6号線の向こう側は、曳舟川親水公園が続いています。



(銘文)
「大空翼の師匠であり、元ブラジル代表の日系ブラジル人。翼の才能に惚れ、成長を見守りながら、時に厳しく叱咤激励する。
「Viva Tsubasa !」 2014年3月16日建立 葛飾区」

<曳舟川の由来>
親水公園にも複数掲示のあった、説明板「曳舟川の由来」があります。

<四つ木めだかの小道>





<東京下町を通っていた古代東海道・周辺案内図>
めだかの小道の途中に、古代東海道の説明板があります。
(説明板)
「東海道というと、徳川家康が日本橋を基点として整備した街道をイメージします。しかし、東海道はそれ以前から西の都と東国を繋
ぐ幹線道路として存在していました。
645(大化元)年の大化の改新以降、日本は唐を手本に都を造営し、全国に国・郡・里(郷)を設けるなど地方行政区画を定め、都と地方との往来を確保するために都から放射状に延びる七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)と呼ばれる交通路を整備します。
771(宝亀2)年には、東海道が葛飾区をはじめ東京の下町地城を東西に横断するようになりました。
上の図は近年判明した古代東海道の推定ルートです。立石地名の起こりとなった「立石様」は、この古代東海道の道しるべだったと考えられています。東京の下町地域は、西の都と東の常陸や、さらに陸奥を繋ぐ交通の要衝だったこともわかってきました。
葛飾区教育委員会」


曳舟川親水公園は国道6号線に行き当たり、その先から綾瀬川手前まで、延長260mの「四つ木めだかの小道」が続きます。
平成11(1999)年に、国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。





<曳舟の井>


<ロベルト本郷と大空翼> 葛飾区四つ木2-3-3先
四つ木は「キャプテン翼」の作者の出身地です。「ロベルト本郷と大空翼」像があります。
国道6号線の向こう側は、曳舟川親水公園が続いています。



(銘文)
「大空翼の師匠であり、元ブラジル代表の日系ブラジル人。翼の才能に惚れ、成長を見守りながら、時に厳しく叱咤激励する。
「Viva Tsubasa !」 2014年3月16日建立 葛飾区」

<曳舟川の由来>
親水公園にも複数掲示のあった、説明板「曳舟川の由来」があります。

<四つ木めだかの小道>





<東京下町を通っていた古代東海道・周辺案内図>
めだかの小道の途中に、古代東海道の説明板があります。
(説明板)
「東海道というと、徳川家康が日本橋を基点として整備した街道をイメージします。しかし、東海道はそれ以前から西の都と東国を繋
ぐ幹線道路として存在していました。
645(大化元)年の大化の改新以降、日本は唐を手本に都を造営し、全国に国・郡・里(郷)を設けるなど地方行政区画を定め、都と地方との往来を確保するために都から放射状に延びる七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)と呼ばれる交通路を整備します。
771(宝亀2)年には、東海道が葛飾区をはじめ東京の下町地城を東西に横断するようになりました。
上の図は近年判明した古代東海道の推定ルートです。立石地名の起こりとなった「立石様」は、この古代東海道の道しるべだったと考えられています。東京の下町地域は、西の都と東の常陸や、さらに陸奥を繋ぐ交通の要衝だったこともわかってきました。
葛飾区教育委員会」


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
曳舟川親水公園
○曳舟川親水公園
「曳舟川親水公園」は、亀有1丁目27番から南下、白鳥を経て、四つ木に至る曳舟川の暗渠にある葛飾区立公園です。
平成12(2000)年に、国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。
(参考)葛飾区施設案内→曳舟川親水公園
<道標>
四ツ木道と水戸佐倉道の交差点に、道標があります。
表面「四ツ木道」
左面「これより水戸佐倉街道」
右面「曳舟古上水橋」
裏面「平成九年三月 葛飾区」



<曳舟川親水公園入口>


<曳舟川の由来>
説明板「曳舟川の由来」があります。破損が激しいです。
(説明板)
「曳舟川の由来
曳舟川は、江戸幕府が明暦三年(一六五七)の大火ののち、開発に着手した本所・深川方面の新市街地へ、飲料水を供給する目的で開削された水路です。成立は万治二年(一六五九)といわれ、亀有上水あるいは本所上水・小梅上水とも呼ばれました。水源は瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有に入ってからは東側に中井堀を分水し、四つ木村付近までは二条の水路が平行して流れていました。
亀有上水の廃止は、享保七年(一七二二)のことで、小梅より南の水路は埋め立てられましたが、上流部はそのまま用水として残され、古上水堀と称されました。
上水の廃水後、篠原村(現四つ木)から亀有村間の二八町(約三キロメートル)の水路を利用して「ザッパコ」という小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で肩にかけて引くことが始まり、「曳舟川」と呼ばれるようになりました。
帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用した曳舟は江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や、初代歌川(安藤)広重の「名所江戸百景」などに情景が描かれています。」


<曳舟川の由来>
続いて、説明板「曳舟川の由来」があります。こちらは破損しておらず、読みやすい。
最初の説明板と内容は微妙に異なっています。
(説明板)
「曳舟川の由来
曳舟川の名は、江戸時代中期から明治一五年頃まで、篠原村(現四つ木)~亀有村間の二八町(約3km)でサッパコという小舟に乗せた人を、船頭が土手から舳先につけた縄を引いたことにちなんでいます。
曳舟川は江戸時代当初は、干拓・埋立が進んだ葛西領沿岸部の本所・深川地域へ飲料水を供給した水路でした。成立は万治三年(一六五九)で、亀有上水・本所上水・白堀上水ともいわれました。水源は、元荒川に設けられた瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有以南は古隅田川から引いた東側の中井堀と四つ木付近まで並んで流れていました。
享保一四年(一七二九年)、葛西領の用水溜井が、亀有溜井から小合溜井(現水元公園)に変わると、すでに享保七年に廃止されていた上水路は葛西用水の水路として再利用され、古上水堀と呼ばれます。曳舟は、江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や初代歌川広重の「名所江戸百景」などに描かれています。
昭和三十三年(一九五八)中井堀と古上水堀が一本化されて以降は、曳舟川の名のみが残り、現在の曳舟川親水公園へと受け継がれています。
挿絵「安政4年(1857)葛飾区歴史と天文の博物館蔵」 葛飾区」


<一之舟着場/二之舟着場(休憩所)>
一之舟着場から三之舟着場まで休憩所があります。



<亀有物語>
(銘板)
「亀有物語
亀有の名が歴史の記録に登場してくるのは、今から約八百年前のことです。
「義経記」によれば、治承四年(一一八○年)、約三万人の軍勢を率いる源頼朝は、鎌倉に向かう途中、亀無(現在の亀有)などから、海人の釣舟数千艘を用意させ、三日間で隅田川に浮橋をつくらせたと記されています。
当時の地形は現在とすいぶん違っていて、浅草付近まで海岸線があったとされ、亀有周辺にも漁に携わる人々が住んでいたと想像できます。
江戸時代の初期には、亀無は亀有に改められました。
亀有は千住宿から東に分かれる水戸佐倉道の街道筋にあたり、一里塚が設けられました。
街道は旅人のほか、水戸や奥州諸藩の大名の参勤交替、小金原(松戸)のお鹿狩りに向かう将軍家の通行もあって賑わいをみせました。
明治三○年(一八九七)には、常磐線に亀有駅が設置され、都市化の進行によってのどかな農村風景も次第に変化をみせ、現在に至っています。」

<曳舟川物語>
(銘板)
「曳舟川物語
江戸時代後期、篠原村から亀有村までの古上水堀では、引舟が行われていました。
かつて、本所方面に上水を供給した古上水堀は、川底が浅く、流れがゆるやかであったため、櫓でこぐのが困難でした。そこで五、六人乗りの小舟を綱で引く、いわゆる引舟が行なわれました。引く方法には、川筋をはさんで両側から引く方法と片側のみで引く方法がありました。
篠原村の発着所には吉野屋としいう茶見世があり、利用客のなかには、その見世より飯、酒をとりよせてから舟に乗り込み、一杯やりながらのんびりとキセルをふかして葛飾の風情を味わう人もいました。その後、利用客がふえるにつれ、吉野屋も花菖蒲、ぼたん、藤などを栽培し、屋号の吉野屋にかえ、付近の堀切園(現在の区立堀切菖蒲園)と共に、花の季節には訪れる人々でたいそう賑わいました。
やがて、明治の中頃には文明開化の波がこの辺にもおしよせ、街道の整備が進むにつれて人力車を利用する人がふえたため、この引舟もいつしかその姿を消していきました。」

<木橋>


<曳舟川親水公園の水のしくみ>
(説明板)
「・この流れの水は、水道水が循環しています。
汚さないようにお願いします。
・水は水槽内にあるポンプで上流まで運ばれます。
・水の一部は、ろ過機を通りきれいになります。
・ろ過機を通った水は滅菌機で殺菌されます。」


<曳舟川の歴史>
(説明板)
「曳舟川の歴史
綱をかけた小舟を、川岸から引く。これが曳舟川の名の由来です。
江戸時代前期の一六六○年代に作られたという本所・深川方面に通じる水路が、その後下流側が埋め立てられ上流部だけが残ったものです。
「曳舟」は、篠原村(現四つ木)から亀有村の間の二八町(約三キロメートル)の水路で始まりました。
当時は柴又帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用し、江戸近郊の風物として人気を呼びました。」
「絵本江戸土産」四ツ木通 引舟道(国立公文書館蔵)より


<モニュメント>






<国立国会図書館所蔵「絵本江戸土産」「四ツ木通引舟道」>
「四ツ木通引舟道
前に知るせし掘割のその長きを二里に余り末流新宿の川に入る道それを過る旅客舟に乗って往還すれど元来幅の狭きによりてその舟に縄を掛け陸に在りてそれを引く。 よって引船通りと唱える水竿を操り櫓をだすより、またその客は風雅なり。土産」「四ツ木通引舟道」


<曳舟十二橋>


<鷹狩りと葛西> 葛飾区白鳥3-25
鷹匠ら2人と飛んでいる鳥を見る2人の像があります。鷹匠の横に、碑「鷹狩りと葛西」があります。





(碑文)
「鷹狩りと葛西
鷹狩りは鷹匠によって飼いならされた鷹を放ち、鶴・白鳥・鴨などの獲物をとらえる古くから伝わる狩猟法です。慶長八年(一六○三)江戸に幕府を開いた徳川家康は、鷹狩りを非常に好んで各地に御殿やお茶屋を設けました。
三代将軍家光の代には制度も整い、五代将軍綱吉の時は生類憐みの令の影響もあって、一時中断しましたが、八代将軍吉宗は享保元年(一七一七)制度を復活させ、幕末まで続きました。
当区一帯は墨田・江東・江戸川区とともに葛西筋といわれ、河川や沼地・湿地が各所にあり野鳥が多く飛来するので将軍家の鷹場となりました。しかしひとたび鷹狩りが行われると、村々にはさまざまな人足役や諸品の納入などが課せられ、田畑の作物や生活面でもいろいろな規制を受けて、農民にとっては大きな負担となっていました。
かつて、この付近には白鳥の飛来した沼があり、鷹狩りの場所のひとつで、白鳥という町名はこのことにちなんでいます。周辺にはお花茶屋など鷹場に関する地名や将軍の休憩所となった寺も残っています。」

説明板にあるこの2つは見当たりません。
6.ブロンズ像(舟を曳く人)
7.和舟






<葛西用水と曳舟碑>
「ブロンズ像(舟を曳く人)」「和舟」は見当たりませんが、石碑「葛西用水と曳舟碑」があります。
(碑文)
「葛西用水と曳舟
親水公園として生まれ変わった水路は、江戸時代には葛西用水とよばれ、利根川中流の川俣(埼玉県羽生市)を取水口とし、万治三年(一六六○)関東郡代伊奈忠克によって開削された農業用水路です。当初は幸手用水と称されましたが、享保四年(一七一九)上流に新たに元圦が設けられたことにより、羽生・幸手・新方・松伏・二郷半・八条・谷古田・淵江・東葛西・西葛西領の十か領・十一万石余・二六七か村を灌漑する大用水となりました。
用水は、西葛西領に入ると槐戸圦(常磐線線ガード下)付近で東井堀と西井堀に分け、本流も東側に中井堀、西側に古上水堀の二筋となり、四つ木付近まで平行して流れていました。
この内古上水堀は本所に上水を供給していましたが、享保年間に上水が廃止となり、その後、曳舟が始まったといわれています。
曳舟の名は亀有村の水戸街道際から、篠原村までの間の二十八町(約3km)を、船の舳先に付けた長い綱を肩に懸けて人が引いたことにちなんでいます。『新編武蔵風土記行』によれば、舟は亀有村に七艘、篠原村に二艘、四ツ木村に三艘あり、多くの文人墨客が来遊して葛西の風物を楽しみました。」

<たんぼ>



<曳舟中之橋>

<十号橋>





<曳舟川の歴史>
(説明板)
「曳舟川の歴史
綱をかけた小舟を、川岸から引く。これが曳舟川の名の由来です。
江戸時代前期の一六六○年代に作られたという本所・深川方面に通じる水路が、その後下流側が埋め立てられ上流部だけが残ったものです。
「曳舟」は、篠原村(現四つ木)から亀有村の間の二八町(約三キロメートル)の水路で始まりました。
当時は柴又帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用し、江戸近郊の風物として人気を呼びました。」
「絵本江戸土産」四ツ木通 引舟道(国立公文書館蔵)より


<道標「四ツ木道」>
表面「四ツ木道」
左面「至 亀有、水戸」
右面「至 四つ木、本所」


<広場> 葛飾区白鳥2-1-1
(説明板)
「曳舟川親水公園
江戸時代後期、葛西用水の一部であった古上水堀では、小船のへさきに綱をつけて土手から人が引く乗合舟が登場しました。亀有から四つ木まで行われたごの曳舟は、初代歌川広重の名所江戸百景にも描かれ、明治15、6年頃まで行われました。曳舟川親水公園は、足立区から葛飾区にかけて約6.5kmを流れる葛西用水緑地の一部です。緑道の他、亀有から四つ木まで約3.0kmある親水公園には、水遊びのできる広場が3ゾーンあります。その前後には昔の小川の姿に近づけた景観水路があります。本公園は、そのほぼ中央に位置する拠点広場です。」



<八号橋/七号橋>


<三之舟着場(休憩所)> 葛飾区四つ木5-10-3


<曳舟川物語>
(銘板)
「曳舟川物語
江戸時代後期、篠原村から亀有村までの古上水堀では、引舟が行われていました。
かつて、本所方面に上水を供給した古上水堀は、川底が浅く、流れがゆるやかであったため、櫓でこぐのが困難でした。そこで五、六人乗りの小舟を綱で引く、いわゆる引舟が行なわれました。引く方法には、川筋をはさんで両側から引く方法と片側のみで引く方法がありました。
篠原村の発着所には吉野屋としいう茶見世があり、利用客のなかには、その見世より飯、酒をとりよせてから舟に乗り込み、一杯やりながらのんびりとキセルをふかして葛飾の風情を味わう人もいました。その後、利用客がふえるにつれ、吉野屋も花菖蒲、ぼたん、藤などを栽培し、屋号の吉野屋にかえ、付近の堀切園(現在の区立堀切菖蒲園)と共に、花の季節には訪れる人々でたいそう
賑わいました。
やがて、明治の中頃には文明開化の波がこの辺にもおしよせ、街道の整備が進むにつれて人力車を利用する人がふえたため、この引舟もいつしかその姿を消していきました。」

<お花茶屋物語>
(銘板)
「お花茶屋物語
江戸時代、この辺一帯は、沼地が多く、徳川将軍のお鷹狩りの場でした。
お鷹狩りとは鷹匠によって飼いならされた鷹を放し、野鳥を捕えるというもので、毎年秋から翌年春にかけて行なわれました。
ある年の寒い冬・・・
将軍様が鷹狩りに興じていると、にわかに腹痛を起こし、近くの新左衛門茶屋と称する見世にかけこみました。新左衛門は、早速、秘蔵の銀の茶釜で湯をわかし、娘のお花に看病させました。
気だてのやさしいお花は、精一杯に介抱し、そのかいがあって将軍様の病は、不思議にもまたたくまによくなりました。
側近の家臣達はもとより、将軍様自身のお喜びは大へんなものでした。
このことがあって、将軍様はこの茶見世に「お花茶屋」の名を、またその茶釜には「公家助け茶釜」と命名しました。
そして鷹狩りの際には必ず「お花茶屋」に立ち寄るようになりました。
その後、お花の名声と茶見世の人気は高まって、近郷近在にまで知れわたり、ついにこの付近一帯の呼び名も「お花茶屋」になったといわれています。」

<無題>

<案内板/藤棚>


<曳舟橋>


<吉野園> 葛飾区四つ木4-27-6
(説明板)
「吉野園
吉野園は、江戸時代には吉野屋といい、四つ木通りの曳舟川(古上水堀)沿いの「藤棚の茶屋」として知られていました。明治時代になると「四つ木の花屋敷」と称され、20年代には吉野園を開園、堀切とともに東京名所のひとつに数えられました。
吉野園から出展された花菖蒲は、明治43年(1910)ロンドン日英博覧会で名誉賞、大正4年(1915)サンフランシスコ・パナマ太平洋博覧会では金賞を受賞しています。国際的に発展をみた菖蒲園も、昭和10年代には戦時下の影響を受けて相次いで閉園し、江戸期以来の伝統と繁栄に幕が下ろされました。
美人観吉野園花菖蒲
水野年方 明治28年(1895)(葛飾区 郷土と天文の博物館蔵)」

<曳舟一号橋>
曳舟一号から始まり、数を増やして橋碑が続いています。


<解説板「曳舟川の歴史」>
激しく摩耗している解説板「曳舟川の歴史」です。摩耗していない同じ解説板は他にも掲示されています。

<案内板「曳舟川親水公園」>

<白川橋>
曳舟橋親水公園の終端です。ここから親水公園が続きます。
国道6号線を越えて先は「四つ木めだかの小道」が続きます。

「曳舟川親水公園」は、亀有1丁目27番から南下、白鳥を経て、四つ木に至る曳舟川の暗渠にある葛飾区立公園です。
平成12(2000)年に、国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。
(参考)葛飾区施設案内→曳舟川親水公園
<道標>
四ツ木道と水戸佐倉道の交差点に、道標があります。
表面「四ツ木道」
左面「これより水戸佐倉街道」
右面「曳舟古上水橋」
裏面「平成九年三月 葛飾区」



<曳舟川親水公園入口>


<曳舟川の由来>
説明板「曳舟川の由来」があります。破損が激しいです。
(説明板)
「曳舟川の由来
曳舟川は、江戸幕府が明暦三年(一六五七)の大火ののち、開発に着手した本所・深川方面の新市街地へ、飲料水を供給する目的で開削された水路です。成立は万治二年(一六五九)といわれ、亀有上水あるいは本所上水・小梅上水とも呼ばれました。水源は瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有に入ってからは東側に中井堀を分水し、四つ木村付近までは二条の水路が平行して流れていました。
亀有上水の廃止は、享保七年(一七二二)のことで、小梅より南の水路は埋め立てられましたが、上流部はそのまま用水として残され、古上水堀と称されました。
上水の廃水後、篠原村(現四つ木)から亀有村間の二八町(約三キロメートル)の水路を利用して「ザッパコ」という小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で肩にかけて引くことが始まり、「曳舟川」と呼ばれるようになりました。
帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用した曳舟は江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や、初代歌川(安藤)広重の「名所江戸百景」などに情景が描かれています。」


<曳舟川の由来>
続いて、説明板「曳舟川の由来」があります。こちらは破損しておらず、読みやすい。
最初の説明板と内容は微妙に異なっています。
(説明板)
「曳舟川の由来
曳舟川の名は、江戸時代中期から明治一五年頃まで、篠原村(現四つ木)~亀有村間の二八町(約3km)でサッパコという小舟に乗せた人を、船頭が土手から舳先につけた縄を引いたことにちなんでいます。
曳舟川は江戸時代当初は、干拓・埋立が進んだ葛西領沿岸部の本所・深川地域へ飲料水を供給した水路でした。成立は万治三年(一六五九)で、亀有上水・本所上水・白堀上水ともいわれました。水源は、元荒川に設けられた瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有以南は古隅田川から引いた東側の中井堀と四つ木付近まで並んで流れていました。
享保一四年(一七二九年)、葛西領の用水溜井が、亀有溜井から小合溜井(現水元公園)に変わると、すでに享保七年に廃止されていた上水路は葛西用水の水路として再利用され、古上水堀と呼ばれます。曳舟は、江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や初代歌川広重の「名所江戸百景」などに描かれています。
昭和三十三年(一九五八)中井堀と古上水堀が一本化されて以降は、曳舟川の名のみが残り、現在の曳舟川親水公園へと受け継がれています。
挿絵「安政4年(1857)葛飾区歴史と天文の博物館蔵」 葛飾区」


<一之舟着場/二之舟着場(休憩所)>
一之舟着場から三之舟着場まで休憩所があります。



<亀有物語>
(銘板)
「亀有物語
亀有の名が歴史の記録に登場してくるのは、今から約八百年前のことです。
「義経記」によれば、治承四年(一一八○年)、約三万人の軍勢を率いる源頼朝は、鎌倉に向かう途中、亀無(現在の亀有)などから、海人の釣舟数千艘を用意させ、三日間で隅田川に浮橋をつくらせたと記されています。
当時の地形は現在とすいぶん違っていて、浅草付近まで海岸線があったとされ、亀有周辺にも漁に携わる人々が住んでいたと想像できます。
江戸時代の初期には、亀無は亀有に改められました。
亀有は千住宿から東に分かれる水戸佐倉道の街道筋にあたり、一里塚が設けられました。
街道は旅人のほか、水戸や奥州諸藩の大名の参勤交替、小金原(松戸)のお鹿狩りに向かう将軍家の通行もあって賑わいをみせました。
明治三○年(一八九七)には、常磐線に亀有駅が設置され、都市化の進行によってのどかな農村風景も次第に変化をみせ、現在に至っています。」

<曳舟川物語>
(銘板)
「曳舟川物語
江戸時代後期、篠原村から亀有村までの古上水堀では、引舟が行われていました。
かつて、本所方面に上水を供給した古上水堀は、川底が浅く、流れがゆるやかであったため、櫓でこぐのが困難でした。そこで五、六人乗りの小舟を綱で引く、いわゆる引舟が行なわれました。引く方法には、川筋をはさんで両側から引く方法と片側のみで引く方法がありました。
篠原村の発着所には吉野屋としいう茶見世があり、利用客のなかには、その見世より飯、酒をとりよせてから舟に乗り込み、一杯やりながらのんびりとキセルをふかして葛飾の風情を味わう人もいました。その後、利用客がふえるにつれ、吉野屋も花菖蒲、ぼたん、藤などを栽培し、屋号の吉野屋にかえ、付近の堀切園(現在の区立堀切菖蒲園)と共に、花の季節には訪れる人々でたいそう賑わいました。
やがて、明治の中頃には文明開化の波がこの辺にもおしよせ、街道の整備が進むにつれて人力車を利用する人がふえたため、この引舟もいつしかその姿を消していきました。」

<木橋>


<曳舟川親水公園の水のしくみ>
(説明板)
「・この流れの水は、水道水が循環しています。
汚さないようにお願いします。
・水は水槽内にあるポンプで上流まで運ばれます。
・水の一部は、ろ過機を通りきれいになります。
・ろ過機を通った水は滅菌機で殺菌されます。」


<曳舟川の歴史>
(説明板)
「曳舟川の歴史
綱をかけた小舟を、川岸から引く。これが曳舟川の名の由来です。
江戸時代前期の一六六○年代に作られたという本所・深川方面に通じる水路が、その後下流側が埋め立てられ上流部だけが残ったものです。
「曳舟」は、篠原村(現四つ木)から亀有村の間の二八町(約三キロメートル)の水路で始まりました。
当時は柴又帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用し、江戸近郊の風物として人気を呼びました。」
「絵本江戸土産」四ツ木通 引舟道(国立公文書館蔵)より


<モニュメント>






<国立国会図書館所蔵「絵本江戸土産」「四ツ木通引舟道」>
「四ツ木通引舟道
前に知るせし掘割のその長きを二里に余り末流新宿の川に入る道それを過る旅客舟に乗って往還すれど元来幅の狭きによりてその舟に縄を掛け陸に在りてそれを引く。 よって引船通りと唱える水竿を操り櫓をだすより、またその客は風雅なり。土産」「四ツ木通引舟道」


<曳舟十二橋>


<鷹狩りと葛西> 葛飾区白鳥3-25
鷹匠ら2人と飛んでいる鳥を見る2人の像があります。鷹匠の横に、碑「鷹狩りと葛西」があります。





(碑文)
「鷹狩りと葛西
鷹狩りは鷹匠によって飼いならされた鷹を放ち、鶴・白鳥・鴨などの獲物をとらえる古くから伝わる狩猟法です。慶長八年(一六○三)江戸に幕府を開いた徳川家康は、鷹狩りを非常に好んで各地に御殿やお茶屋を設けました。
三代将軍家光の代には制度も整い、五代将軍綱吉の時は生類憐みの令の影響もあって、一時中断しましたが、八代将軍吉宗は享保元年(一七一七)制度を復活させ、幕末まで続きました。
当区一帯は墨田・江東・江戸川区とともに葛西筋といわれ、河川や沼地・湿地が各所にあり野鳥が多く飛来するので将軍家の鷹場となりました。しかしひとたび鷹狩りが行われると、村々にはさまざまな人足役や諸品の納入などが課せられ、田畑の作物や生活面でもいろいろな規制を受けて、農民にとっては大きな負担となっていました。
かつて、この付近には白鳥の飛来した沼があり、鷹狩りの場所のひとつで、白鳥という町名はこのことにちなんでいます。周辺にはお花茶屋など鷹場に関する地名や将軍の休憩所となった寺も残っています。」

説明板にあるこの2つは見当たりません。
6.ブロンズ像(舟を曳く人)
7.和舟






<葛西用水と曳舟碑>
「ブロンズ像(舟を曳く人)」「和舟」は見当たりませんが、石碑「葛西用水と曳舟碑」があります。
(碑文)
「葛西用水と曳舟
親水公園として生まれ変わった水路は、江戸時代には葛西用水とよばれ、利根川中流の川俣(埼玉県羽生市)を取水口とし、万治三年(一六六○)関東郡代伊奈忠克によって開削された農業用水路です。当初は幸手用水と称されましたが、享保四年(一七一九)上流に新たに元圦が設けられたことにより、羽生・幸手・新方・松伏・二郷半・八条・谷古田・淵江・東葛西・西葛西領の十か領・十一万石余・二六七か村を灌漑する大用水となりました。
用水は、西葛西領に入ると槐戸圦(常磐線線ガード下)付近で東井堀と西井堀に分け、本流も東側に中井堀、西側に古上水堀の二筋となり、四つ木付近まで平行して流れていました。
この内古上水堀は本所に上水を供給していましたが、享保年間に上水が廃止となり、その後、曳舟が始まったといわれています。
曳舟の名は亀有村の水戸街道際から、篠原村までの間の二十八町(約3km)を、船の舳先に付けた長い綱を肩に懸けて人が引いたことにちなんでいます。『新編武蔵風土記行』によれば、舟は亀有村に七艘、篠原村に二艘、四ツ木村に三艘あり、多くの文人墨客が来遊して葛西の風物を楽しみました。」

<たんぼ>



<曳舟中之橋>

<十号橋>





<曳舟川の歴史>
(説明板)
「曳舟川の歴史
綱をかけた小舟を、川岸から引く。これが曳舟川の名の由来です。
江戸時代前期の一六六○年代に作られたという本所・深川方面に通じる水路が、その後下流側が埋め立てられ上流部だけが残ったものです。
「曳舟」は、篠原村(現四つ木)から亀有村の間の二八町(約三キロメートル)の水路で始まりました。
当時は柴又帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用し、江戸近郊の風物として人気を呼びました。」
「絵本江戸土産」四ツ木通 引舟道(国立公文書館蔵)より


<道標「四ツ木道」>
表面「四ツ木道」
左面「至 亀有、水戸」
右面「至 四つ木、本所」


<広場> 葛飾区白鳥2-1-1
(説明板)
「曳舟川親水公園
江戸時代後期、葛西用水の一部であった古上水堀では、小船のへさきに綱をつけて土手から人が引く乗合舟が登場しました。亀有から四つ木まで行われたごの曳舟は、初代歌川広重の名所江戸百景にも描かれ、明治15、6年頃まで行われました。曳舟川親水公園は、足立区から葛飾区にかけて約6.5kmを流れる葛西用水緑地の一部です。緑道の他、亀有から四つ木まで約3.0kmある親水公園には、水遊びのできる広場が3ゾーンあります。その前後には昔の小川の姿に近づけた景観水路があります。本公園は、そのほぼ中央に位置する拠点広場です。」



<八号橋/七号橋>


<三之舟着場(休憩所)> 葛飾区四つ木5-10-3


<曳舟川物語>
(銘板)
「曳舟川物語
江戸時代後期、篠原村から亀有村までの古上水堀では、引舟が行われていました。
かつて、本所方面に上水を供給した古上水堀は、川底が浅く、流れがゆるやかであったため、櫓でこぐのが困難でした。そこで五、六人乗りの小舟を綱で引く、いわゆる引舟が行なわれました。引く方法には、川筋をはさんで両側から引く方法と片側のみで引く方法がありました。
篠原村の発着所には吉野屋としいう茶見世があり、利用客のなかには、その見世より飯、酒をとりよせてから舟に乗り込み、一杯やりながらのんびりとキセルをふかして葛飾の風情を味わう人もいました。その後、利用客がふえるにつれ、吉野屋も花菖蒲、ぼたん、藤などを栽培し、屋号の吉野屋にかえ、付近の堀切園(現在の区立堀切菖蒲園)と共に、花の季節には訪れる人々でたいそう
賑わいました。
やがて、明治の中頃には文明開化の波がこの辺にもおしよせ、街道の整備が進むにつれて人力車を利用する人がふえたため、この引舟もいつしかその姿を消していきました。」

<お花茶屋物語>
(銘板)
「お花茶屋物語
江戸時代、この辺一帯は、沼地が多く、徳川将軍のお鷹狩りの場でした。
お鷹狩りとは鷹匠によって飼いならされた鷹を放し、野鳥を捕えるというもので、毎年秋から翌年春にかけて行なわれました。
ある年の寒い冬・・・
将軍様が鷹狩りに興じていると、にわかに腹痛を起こし、近くの新左衛門茶屋と称する見世にかけこみました。新左衛門は、早速、秘蔵の銀の茶釜で湯をわかし、娘のお花に看病させました。
気だてのやさしいお花は、精一杯に介抱し、そのかいがあって将軍様の病は、不思議にもまたたくまによくなりました。
側近の家臣達はもとより、将軍様自身のお喜びは大へんなものでした。
このことがあって、将軍様はこの茶見世に「お花茶屋」の名を、またその茶釜には「公家助け茶釜」と命名しました。
そして鷹狩りの際には必ず「お花茶屋」に立ち寄るようになりました。
その後、お花の名声と茶見世の人気は高まって、近郷近在にまで知れわたり、ついにこの付近一帯の呼び名も「お花茶屋」になったといわれています。」

<無題>

<案内板/藤棚>


<曳舟橋>


<吉野園> 葛飾区四つ木4-27-6
(説明板)
「吉野園
吉野園は、江戸時代には吉野屋といい、四つ木通りの曳舟川(古上水堀)沿いの「藤棚の茶屋」として知られていました。明治時代になると「四つ木の花屋敷」と称され、20年代には吉野園を開園、堀切とともに東京名所のひとつに数えられました。
吉野園から出展された花菖蒲は、明治43年(1910)ロンドン日英博覧会で名誉賞、大正4年(1915)サンフランシスコ・パナマ太平洋博覧会では金賞を受賞しています。国際的に発展をみた菖蒲園も、昭和10年代には戦時下の影響を受けて相次いで閉園し、江戸期以来の伝統と繁栄に幕が下ろされました。
美人観吉野園花菖蒲
水野年方 明治28年(1895)(葛飾区 郷土と天文の博物館蔵)」

<曳舟一号橋>
曳舟一号から始まり、数を増やして橋碑が続いています。


<解説板「曳舟川の歴史」>
激しく摩耗している解説板「曳舟川の歴史」です。摩耗していない同じ解説板は他にも掲示されています。

<案内板「曳舟川親水公園」>

<白川橋>
曳舟橋親水公園の終端です。ここから親水公園が続きます。
国道6号線を越えて先は「四つ木めだかの小道」が続きます。


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曳舟川(亀有)
○曳舟川(亀有) 古隅田川交差路〜曳舟川親水公園 葛飾区亀有5丁目〜亀有3丁目・4丁目
<橋跡石碑>
亀有大水車及び古隅田川交差路から南に入ると、足立区から葛飾区となります。
曳舟川親水公園までの曳舟川の橋の跡地に、かつての橋の写真が石碑に掲げられています。 以下は一部です。
<街路灯>


<亀六一之橋>


<亀六二之橋>


<曳舟川の面影(昭和62年当時)>

<三共橋>
常磐線の架道橋の北に「三共橋」


<曳舟槐戸橋>
常磐線の架道橋の南に「曳舟槐戸橋」



<曳舟古上水橋>
曳舟川親水公園の始点と、旧水戸街道との道上小学校東交差点の街灯には、曳舟が描かれています。
「曳舟古上水橋碑」があります。





<橋跡石碑>
亀有大水車及び古隅田川交差路から南に入ると、足立区から葛飾区となります。
曳舟川親水公園までの曳舟川の橋の跡地に、かつての橋の写真が石碑に掲げられています。 以下は一部です。
<街路灯>


<亀六一之橋>


<亀六二之橋>


<曳舟川の面影(昭和62年当時)>

<三共橋>
常磐線の架道橋の北に「三共橋」


<曳舟槐戸橋>
常磐線の架道橋の南に「曳舟槐戸橋」



<曳舟古上水橋>
曳舟川親水公園の始点と、旧水戸街道との道上小学校東交差点の街灯には、曳舟が描かれています。
「曳舟古上水橋碑」があります。






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tag : 江戸幕府施設
中居堀親水水路
中居堀親水水路
○しょうぶ沼公園
○中居堀親水水路
○東綾瀬せせらぎ水路
花畑川の水源からの取水は、しょうぶ沼公園の裏見することができる岩屋の滝からの流れとなり、3連水車を回しながら菖蒲田を潤します(現在は冬期で菖蒲田には水なし)。
いったん地下にもぐり、公園南側の下谷中稲荷神社脇で「石垣の小滝」となって地上に流れ出ます。
「中居堀親水水路」となって住宅街を流れ、東綾瀬公園で「東綾瀬公園せせらぎ水路」となり流れていきます。
水路に水が流れているのは東京武道館の北までで、武道館から南は水は流れていません。
綾瀬駅に近づくと、水路は自転車置場に整備されて消失しています。
綾瀬駅前で「八か村落し親水緑道」に暗渠で合流し、さらに古隅田川へ合流していきます。
〇しょうぶ沼公園 足立区谷中2-4-1
しょうぶ沼公園の公園名は、旧地名である「菖蒲沼耕地」にちなんでいます。
公園は北綾瀬駅に接しています。
中居堀親水水路で東綾瀬公園に繋がっています。




<岩屋の滝>
花畑川(花畑運河)からの取水は、地下を通って、しょうぶ沼公園の「岩屋の滝」で姿を表します。
裏見の滝となっていて、風情はあるかな。



<3連水車>
吊り橋があり、3連水車があります。



<菖蒲田>
冬期は菖蒲田には水もありません。

○中居堀親水水路
<石垣の小滝>
しょうぶ沼公園南側の下谷中稲荷神社脇に「石垣の小滝」があります。
しょうぶ沼公園を流れてきた水流が地上に流れ出ます。
(下谷中稲荷についてはレポ済)






<親水水路>
東綾瀬公園まで水路が続きます。






○東綾瀬公園/東綾瀬せせらぎ水路




<東綾瀬せせらぎ水路>
公園北の入口脇から、水流が溢れ出て、水路となっています。
観察の池ではカルガモが多く泳いでいます。




まんなか島があります。



陸橋を渡ります。


<せせらぎ水路の終端>
東京武道館の北で、せせらぎ水路は終端となります。


<過去の水路>
東京武道館から南の水路には水は流れていません。

その先の水路は、自転車置き場が整備され、水路は消失しています。

<八か村落し口>
綾瀬駅前で「八か村落し親水緑道」に暗渠で合流し、さらに古隅田川へ合流していきます。



○しょうぶ沼公園
○中居堀親水水路
○東綾瀬せせらぎ水路
花畑川の水源からの取水は、しょうぶ沼公園の裏見することができる岩屋の滝からの流れとなり、3連水車を回しながら菖蒲田を潤します(現在は冬期で菖蒲田には水なし)。
いったん地下にもぐり、公園南側の下谷中稲荷神社脇で「石垣の小滝」となって地上に流れ出ます。
「中居堀親水水路」となって住宅街を流れ、東綾瀬公園で「東綾瀬公園せせらぎ水路」となり流れていきます。
水路に水が流れているのは東京武道館の北までで、武道館から南は水は流れていません。
綾瀬駅に近づくと、水路は自転車置場に整備されて消失しています。
綾瀬駅前で「八か村落し親水緑道」に暗渠で合流し、さらに古隅田川へ合流していきます。
〇しょうぶ沼公園 足立区谷中2-4-1
しょうぶ沼公園の公園名は、旧地名である「菖蒲沼耕地」にちなんでいます。
公園は北綾瀬駅に接しています。
中居堀親水水路で東綾瀬公園に繋がっています。




<岩屋の滝>
花畑川(花畑運河)からの取水は、地下を通って、しょうぶ沼公園の「岩屋の滝」で姿を表します。
裏見の滝となっていて、風情はあるかな。



<3連水車>
吊り橋があり、3連水車があります。



<菖蒲田>
冬期は菖蒲田には水もありません。

○中居堀親水水路
<石垣の小滝>
しょうぶ沼公園南側の下谷中稲荷神社脇に「石垣の小滝」があります。
しょうぶ沼公園を流れてきた水流が地上に流れ出ます。
(下谷中稲荷についてはレポ済)






<親水水路>
東綾瀬公園まで水路が続きます。






○東綾瀬公園/東綾瀬せせらぎ水路




<東綾瀬せせらぎ水路>
公園北の入口脇から、水流が溢れ出て、水路となっています。
観察の池ではカルガモが多く泳いでいます。




まんなか島があります。



陸橋を渡ります。


<せせらぎ水路の終端>
東京武道館の北で、せせらぎ水路は終端となります。


<過去の水路>
東京武道館から南の水路には水は流れていません。

その先の水路は、自転車置き場が整備され、水路は消失しています。

<八か村落し口>
綾瀬駅前で「八か村落し親水緑道」に暗渠で合流し、さらに古隅田川へ合流していきます。



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花畑川(花畑運河)
〇花畑川(花畑運河)
花畑川(花畑運河)は昭和6(1931)年、綾瀬川と中川を結ぶ運河として開削されました。水質保持のため綾瀬川との花畑水門は閉じられています。
葛西用水親水水路及び中居堀親水水路の水源となっています。







<花畑川環境整備事業>
桜木橋の袂に、「花畑川環境整備事業」の掲示があります。
事業期間:令和3年から10年程度


〇足立区花見橋排水場 足立区六木3-5-18
葛西用水の旧排水樋管を利用して、満潮時に花畑川の水を葛西用水上流域に貯留、干潮時にはポンプアップも併用し、オリフィス管(絞り管)で流量を調節しながら下流に流しています。水量については下流部である葛飾区と調整し、通年通水しています。 (環境省サイトより一部引用)




〇中居堀揚水場(中居堀樋管) 足立区神明南1-15
花畑川から中居堀親水水路に取水しています。







花畑川(花畑運河)は昭和6(1931)年、綾瀬川と中川を結ぶ運河として開削されました。水質保持のため綾瀬川との花畑水門は閉じられています。
葛西用水親水水路及び中居堀親水水路の水源となっています。







<花畑川環境整備事業>
桜木橋の袂に、「花畑川環境整備事業」の掲示があります。
事業期間:令和3年から10年程度


〇足立区花見橋排水場 足立区六木3-5-18
葛西用水の旧排水樋管を利用して、満潮時に花畑川の水を葛西用水上流域に貯留、干潮時にはポンプアップも併用し、オリフィス管(絞り管)で流量を調節しながら下流に流しています。水量については下流部である葛飾区と調整し、通年通水しています。 (環境省サイトより一部引用)




〇中居堀揚水場(中居堀樋管) 足立区神明南1-15
花畑川から中居堀親水水路に取水しています。







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