塩原太助翁記念公園/太助の郷(みなかみ町)
○塩原太助翁記念公園 みなかみ町新巻甲479
渋沢栄一揮毫の原書が4月から公開されているので、沼田市の米山の湯での入浴とセットで行ってきました。
塩原太助翁記念公園には「塩原太助翁之碑」(渋沢栄一揮毫)、「塩原太助と愛馬あお別れ之像」、「賓物庫」、「報徳太助神社」、「生方太吉顕彰胸像」があります。





<報徳太助神社> みなかみ町新巻甲479
塩原太助翁を祀り、立身出世、商売繁盛の神様として崇敬されています。拝殿と奥に本殿があります。






<石祠>
左手奥に石祠が3つ並んでいます。立派な燈籠が2基あります。


<庚申塔>
大勢至菩薩碑、庚申塔、石祠2基があります。

<地蔵>
地蔵の左の石碑には、
「石垣寄附者
生方太吉殿
原澤佐太雄殿」とあります。


<塩原太助翁小伝>
「塩原太助翁小伝」と題した説明板が建っています。
(説明板)
「 塩原太助翁小伝
塩原太助は寛保三年二月三日に生まれ、幼名は彦七、父は塩原角右衛門、母は「とめ」と云いました。
或る日江戸に出て、身を立て、家を興そうと父に願いでたが許されず、ついに、或る朝未明に草刈に出かけるように装って日頃飼いならした愛馬「あお」を引いて家を出ました。
この時「あお」をつないで別れた(別れの松が香才ヶ原にあります)時に宝暦十一年八月二十日途中榛名の御師の山本坊に寄り僅かばかりの旅銀を借り受け江戸に出ました。
(太助十九歳の時でした)
江戸に出ても奉公口を探すことが出来ず、ついに思い迫って死のうと決心し、神田昌平橋から身を投げようとしました。その刹那「早まるな」と後ろから抱き止めてくれた人が炭商山口屋善右衛門であります。太助はここで奉公を続け、朝は星を戴いて起き、夜は人声の鎮まるのをまって寝ました。他の奉公人の休む暇には穿き古しの、はき物の鼻緒などをすげ替えておいて俄の場合の役に立たせ落ち散ってある縄屑などは拾い溜めておいて炭俵のつくろいなどに使いました。
この様にして、奉公人の鑑とまで感心される様になりました。また翁は山口屋に奉公して5年目に、翁が毎日炭荷を積んだ車を引いて通る湯島無縁坂の改修、晩年、中山村の反峠に渋茶の接待所、伊香保より榛名神社に通ずる、天神峠に常夜燈を建て往来の者の便を計りました。
この様にして公益事業に巨費を投じたのです。
翁は山口屋に奉公したのが、実に、二十三年、その間、まめまめしく良く勤めついに本所相生町に店を構え巨万の富を築き公儀のお金御用を勤める身分となって、「本所にすぎたるものが2つあり津軽大名、炭屋塩原」と云われる様になりました。
翁は文化十三年閏八月十四日七十四歳で没せられました。
塩原太助翁生誕二五○周年記念事業実行委員会」

<塩原太助翁之碑>
見上げる大きな石碑です。碑の左には「子爵澁澤榮一書」とあり、下に雅号「青淵」の落款があります。記念碑の裏にもビッシリと漢文で文字が彫られています。
昭和3(1928)年4月25日に紀念公園の開園式と紀念碑の除幕式が行われ、渋沢栄一は風邪で自宅療養中、渋沢敬三が出席し渋沢栄一の祝辞を寄せています。
(説明板)
「塩原太助翁の記念碑
この記念碑は、郷土の偉人塩原太助翁の遺徳を後世に伝えるために、生方太吉、原澤裕治郎、塩原祐太郎の三名が発起人となり塩原太助翁記念公園が一九二五年(昭和元年)に完成しました。
後に記念碑(昭和三年除幕式)を設置する際、碑の揮毫を子爵渋沢栄一に依頼したところ、子爵はこれを快諾し、当時八十五歳という高齢ながら縦5m、横2mの和紙に大作を揮毫されました。
この原書は二○一五年(平成二十七年)に偶然発見され「太助の郷」に保存してあります。
塩原太助翁遺跡保存会」
(1925年は昭和元年ではなく大正14年です。どちらが正しいのか?)





<塩原太助と愛馬あお別れ之像>
生誕250周年記念事業で作られたもので「平成6年11月22日建立」です。哀愁漂う銅像です。








<宝物庫>
扉の左右には、「塩原翁建碑賛助会芳名」として名前が彫られています。

右上から、
内閣総理大臣 若槻禮次郎
大蔵大臣 濱口雄幸
陸軍大臣 宇垣一成
海軍大臣 財部彪
外務大臣 幣原喜重郎・・・以下続く
子爵渋沢栄一・・・以下続く
さらに「衆議院議員 生方大吉」の名前が見えます。
胸像の生方太吉氏の長男が衆議院議員だった生方大吉氏(1882(明治15)年~1964(昭和39)年)です。
父の太吉の遺志を継いで、塩原太助の顕彰に携わり、1964(昭和39)年に報徳太助神社を創建しています。


扉の左には「貴族院議長徳川家達」「男爵大倉喜八郎」の名もあります。

横にもあるよの声に、横も見る。すると、裏にもあるよの声に裏も見る、
向こう側にもあるよとの声に右側面も見る。
寄付者名と金額が記されていました。若槻禮次郎と徳川家達が一番多いです。

<渋沢栄一揮毫の原書>
宝物庫を掃除していて、天井にあるのは何だろうと調べたら渋沢栄一の原書だったそうです。
記録によると、書き上げたのが1925(大正14)年、渋沢翁が85歳の時だったそうです。
高齢だからか最初は断られ、7回頼みに行ってようやく揮毫してもらったそうです。
<生方太吉翁顕彰胸像>
「昭和五十三年四月二十五日建之」の「生方太吉翁顕彰胸像」です。
像裏の記銘によると、生方太吉(安政2年~昭和17年)は、実業家で、利根銀行創立者。大正14(1925)年「塩原太助遺跡保存会」設立の中心人物です。





「胸像建設記念樹 第六十七代内閣総理大臣 福田赳夫」
像の除幕式には、福田赳夫氏も参列し、記念植樹をしています。


※ 宝物庫の芳名を見ていたら、選定作業中の方に話しかけられ、最近の人は知らない人ばかりなので芳名を見る人はいないけど渋沢栄一やら当時の蒼々たる人たちの名前があるとのことで、渋沢栄一の原書を宝物庫で発見した時の話や、生方太吉や生方大吉の逸話についてお教えいただきました。
色々とお詳しいと思ったら、元衆議院議員生方大吉の甥だそうで、新治村議とみなかみ町議を三期務めた方。88歳とは思えぬタフさで、選定作業をされていました。公園は老人クラブが管理していますが、みなさん高齢で、生方さんがお一人で選定をしているそうです。作業中にもかかわらず色々とお教えいただき感謝しております。
○太助の郷 みなかみ町新巻497
太助の郷に、農産物直売所と右隣に塩原太助記念館があります。


<農産物直売所>
(説明板)
「太助物語
塩原太助(一七四三~一八一六)は新治村下新田の農家に生まれ、幼くして両親を亡くした。一九歳の時、継母の仕打ちの辛さに耐えかねて江戸へ出て炭屋に奉公した。
二十二年間、「奉公人の鏡」と称されるほど勤勉に働き、後に独立して成功。晩年は多額の私財を公益事業に投じた。
太助が世に広く知られるようになったのは、明治時代の初めに落語家の三遊亭円朝が、人情噺「塩原太助一代記」を世に出し、当時の人々を感動させた。なかでも太助が幼い頃から飼い慣らした愛馬「あお」を松の枝につなぎ江戸に旅立つ別れの場面は多くの人々の涙を誘った。」
(註:文中、正確には「塩原多助一代記」)













<経緯まとめ>
・大正12(1923)年
生方太吉が中心となり渋沢栄一に建碑の揮毫を依頼。渋沢栄一は快諾、後日揮毫することとする。発起人を快諾、200円を寄附。
栄一は大倉喜八郎翁と安田翁を紹介、両翁からも寄附を得る。
・大正14(1925)年
生方太吉らは、2月10日渋沢栄一に塩原太助翁の碑の揮毫を依頼、翌11日に栄一が揮毫。
・昭和 3(1928)年
塩原翁紀念公園の開園式と塩原太助翁の碑の除幕式が行われる。渋沢敬三が出席する。
・昭和39(1964)年
「報徳太助神社」が生方太吉の長男である生方大吉により建立。
・昭和53(1978)年
「生方太吉翁顕彰胸像」建立。
・平成 6(1994)年
「塩原太助と愛馬あお別れ之像」建立。生誕250年記念。
・平成27(2015)年
渋沢栄一揮毫の原書を宝物庫で発見。太助の郷にて保存。
・令和 3(2021)年 渋沢栄一揮毫の原書を修復し一般公開となる。
(碑文や渋沢栄一記念財団の伝記資料などを参照しました。)
(参考)
【東京の塩原太助関連】
・ 塩原太助炭屋跡(両国)
・ 塩原橋の由来(両国)
・ 塩原太助奉納の石燈籠(亀戸天神社)
・ 塩原太助の墓(東陽寺)
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
温泉農家民宿はしば
○温泉農家民宿はしば みなかみ町猿ヶ京温泉1093 0278-66-0153
8:00-18:00(最終受付17:00) 550円
HP:http://hashiba-onm.sakura.ne.jp/
国道17号線に面した猿ヶ京交差点の角が土産屋、その奥が民宿です。
土産屋には、足湯がありますが湯は張られていませんでした。
温泉は準備中の看板ですが、聞いてみると「大丈夫ですよ。」
550円を支払いポイントカード(スタンプ5つで1回入浴無料)を受け取ります。
次回半額のサービスは終了しています。






<民宿入口>
初めて見る「純温泉協会」のステッカー。
後から調べたら2019年5月に山口貴史氏が設立したのが「純温泉協会」です。



玄関先に昭和37年の分析書が置かれています。
古いなぁと思うも、脱衣所内には令和2年7月の真新しい分析書が掲示してありました。
玄関入ってすぐ真前が男湯、廊下を進んだ奥が女湯です。



<脱衣所>
なぜか洗面所に落葉が落ちています。



<分析書>(令和2年7月20日発行)
真新しい分析書です。2源泉の貯湯槽オーバーフロー管より採水の分析です。
源泉名「猿ヶ京源泉1号井戸・同2号井戸混合泉」
カルシウム・ナトリウム-硫酸塩・塩化物温泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
泉温53.7℃ pH7.8 カルシウムイオン222.6mg 硫酸イオン471.9mg 成分総計1.33g
湧出地 1号井戸 みなかみ町相俣2644-1
2号井戸 みなかみ町猿ヶ京温泉字宮野1211-2
申請者:有限会社赤岩湖遊船
(純温泉協会サイトより 湧出量620L(分湯量27L) 引湯距離約1000m 宿に貯湯槽なし)
※1号井戸の湧出地は赤岩湖遊船の会社所在地、2号井戸はその近くです。


<温泉利用状況>
加水なし、加温なし、循環ろ過なし、消毒なし。パーフェクトです。
<浴室>
内湯のみ、広い窓から陽光がはいってきて浴室内はとても明るいです。
湯口は白い析出の結晶物でコテコテに覆われています。
完全掛け流しで、ホースで加水もできますが適温で必要ありませんでした。
終始貸し切り状態で、のんびりしました。






8:00-18:00(最終受付17:00) 550円
HP:http://hashiba-onm.sakura.ne.jp/
国道17号線に面した猿ヶ京交差点の角が土産屋、その奥が民宿です。
土産屋には、足湯がありますが湯は張られていませんでした。
温泉は準備中の看板ですが、聞いてみると「大丈夫ですよ。」
550円を支払いポイントカード(スタンプ5つで1回入浴無料)を受け取ります。
次回半額のサービスは終了しています。






<民宿入口>
初めて見る「純温泉協会」のステッカー。
後から調べたら2019年5月に山口貴史氏が設立したのが「純温泉協会」です。



玄関先に昭和37年の分析書が置かれています。
古いなぁと思うも、脱衣所内には令和2年7月の真新しい分析書が掲示してありました。
玄関入ってすぐ真前が男湯、廊下を進んだ奥が女湯です。



<脱衣所>
なぜか洗面所に落葉が落ちています。




<分析書>(令和2年7月20日発行)
真新しい分析書です。2源泉の貯湯槽オーバーフロー管より採水の分析です。
源泉名「猿ヶ京源泉1号井戸・同2号井戸混合泉」
カルシウム・ナトリウム-硫酸塩・塩化物温泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
泉温53.7℃ pH7.8 カルシウムイオン222.6mg 硫酸イオン471.9mg 成分総計1.33g
湧出地 1号井戸 みなかみ町相俣2644-1
2号井戸 みなかみ町猿ヶ京温泉字宮野1211-2
申請者:有限会社赤岩湖遊船
(純温泉協会サイトより 湧出量620L(分湯量27L) 引湯距離約1000m 宿に貯湯槽なし)
※1号井戸の湧出地は赤岩湖遊船の会社所在地、2号井戸はその近くです。



<温泉利用状況>
加水なし、加温なし、循環ろ過なし、消毒なし。パーフェクトです。
<浴室>
内湯のみ、広い窓から陽光がはいってきて浴室内はとても明るいです。
湯口は白い析出の結晶物でコテコテに覆われています。
完全掛け流しで、ホースで加水もできますが適温で必要ありませんでした。
終始貸し切り状態で、のんびりしました。






猿ヶ京区湯の町共同浴場
〇猿ヶ京住民センター猿ヶ京区湯の町共同浴場 みなかみ町猿ヶ京温泉 6:00ぐらいかな~夜
「猿ヶ京住民センター」の木の看板がかかっています。地域住民の方々の公衆浴場があります。


正面玄関脇には「関係者以外立ち入り禁止」の掲示があります。


玄関を開けると「会員以外の方も入浴いただけます 大人300円 小学生以下100円」の案内と、
料金箱が設けられています。300円投入して、手指を消毒します。


<湯の町共同浴場補修工事>
平成9年9月の補修工事の寄付者が掲示されています。
共同浴場の名称は、湯の町共同浴場となっています。


<温泉許可証/レジオネラ属菌検査結果>
玄関にあった温泉許可証(平成17年)とレジオネラ菌検査結果(平成20年)を見ると、
所在地の住所の地番が異なっています。
共同浴場名は、「猿ヶ京住民センター共同浴場」と「湯の町共同浴場」と記載されていました。
温泉許可証の許可先の猿ヶ京区長の住所を見ると「農家民宿はしば」です(こちらも寄りました)。
(住所がネットで見る限り記載されていないので、住所が記載されている書類は省略しました)
<脱衣所>
脱衣所に入ります。左手女湯、右手男湯。




<分析書>(平成14年11月8日分析)
源泉名「共有泉湯島」
湧出地「新治村大字相俣字手道甲1911」
猿ヶ京ホテル、長生館、まんてん星の湯(&湯島オートキャンプ場露天風呂)で使用されている源泉。
平成14年より新しい分析書が出回っているので、分析書記載内容は省略します。

<温泉利用状況>
加温なし、加水なし、循環ろ過なし、塩素なし。パーフェクトです。

<浴室>
浴室は天井が高く木材で組まれた湯気抜きです。




タイルの浴槽も味があります。
熱いのに慣れたのか、加水せずに入っても心地よかった。









よそ者ですが、地元の方々は親切でした。地元民の利用が多い共同浴場との印象を受けました。朝は何時からやっているのか聞いたら6時ぐらいかなぁ。良い湯だろと(ハイ!)みなさんご自慢の湯です。共同湯を維持していくのに掃除当番も大変とのこと。「ごゆっくりどうぞ~」と皆さん毎日入っているからか、入浴時間が短い。熱めでしたがゆっくりと一番長湯しました。
<貯湯タンク>
目の前にある貯湯タンクが源泉地かと思われがちですが、湧出地の住所を見ると違います。
給湯事業と旅館への分湯タンクといったところでしょうか。


「猿ヶ京住民センター」の木の看板がかかっています。地域住民の方々の公衆浴場があります。


正面玄関脇には「関係者以外立ち入り禁止」の掲示があります。


玄関を開けると「会員以外の方も入浴いただけます 大人300円 小学生以下100円」の案内と、
料金箱が設けられています。300円投入して、手指を消毒します。


<湯の町共同浴場補修工事>
平成9年9月の補修工事の寄付者が掲示されています。
共同浴場の名称は、湯の町共同浴場となっています。


<温泉許可証/レジオネラ属菌検査結果>
玄関にあった温泉許可証(平成17年)とレジオネラ菌検査結果(平成20年)を見ると、
所在地の住所の地番が異なっています。
共同浴場名は、「猿ヶ京住民センター共同浴場」と「湯の町共同浴場」と記載されていました。
温泉許可証の許可先の猿ヶ京区長の住所を見ると「農家民宿はしば」です(こちらも寄りました)。
(住所がネットで見る限り記載されていないので、住所が記載されている書類は省略しました)
<脱衣所>
脱衣所に入ります。左手女湯、右手男湯。




<分析書>(平成14年11月8日分析)
源泉名「共有泉湯島」
湧出地「新治村大字相俣字手道甲1911」
猿ヶ京ホテル、長生館、まんてん星の湯(&湯島オートキャンプ場露天風呂)で使用されている源泉。
平成14年より新しい分析書が出回っているので、分析書記載内容は省略します。

<温泉利用状況>
加温なし、加水なし、循環ろ過なし、塩素なし。パーフェクトです。

<浴室>
浴室は天井が高く木材で組まれた湯気抜きです。




タイルの浴槽も味があります。
熱いのに慣れたのか、加水せずに入っても心地よかった。









よそ者ですが、地元の方々は親切でした。地元民の利用が多い共同浴場との印象を受けました。朝は何時からやっているのか聞いたら6時ぐらいかなぁ。良い湯だろと(ハイ!)みなさんご自慢の湯です。共同湯を維持していくのに掃除当番も大変とのこと。「ごゆっくりどうぞ~」と皆さん毎日入っているからか、入浴時間が短い。熱めでしたがゆっくりと一番長湯しました。
<貯湯タンク>
目の前にある貯湯タンクが源泉地かと思われがちですが、湧出地の住所を見ると違います。
給湯事業と旅館への分湯タンクといったところでしょうか。



猿ヶ京温泉の手湯
○猿ヶ京温泉の手湯
猿ヶ京温泉に手湯が3つあり、それぞれ民話の説明板が掲げらています。
設置されたのは2010年で、湯受けの縁は温泉らしく鉄分で色づいています。
<いたちの湯> みなかみ町猿ヶ京温泉1142-4
さかえや洋品店の前に「いたちの湯」(手湯)。
隣の仁田屋は町有1号泉の掛け流し(日帰り600円)。



<河童の湯> みなかみ町猿ヶ京温泉「まんてん星の湯」駐車場
まんてん星の湯第1駐車場の入口脇に「河童の湯」(手湯)。





<阿部鳩雨の歌碑>
河童の湯の横に歌碑があります。
「山の温泉にかよう峡路は夏ながら秋草咲けりその路の辺に」
説明板には、旧新治村出身の歌人・阿部鳩雨とあります。



<きつねの湯> みなかみ町猿ヶ京温泉253猿ヶ京温泉多目的集会所
多目的集会所の脇に、「きつねの湯」(手湯)。
3か所の中でも熱く、手を入れらず、缶コーヒーを入れて温めました。
しっかり掃除をされている様子で、ブラシとスチールウールが置いてありました。
スチールウールでゴシゴシやっているためでしょう、他の手湯と見た目が異なります。






多目的集会所の入浴は17:00-21:30。遅くからの開湯なので未湯です。


猿ヶ京温泉に手湯が3つあり、それぞれ民話の説明板が掲げらています。
設置されたのは2010年で、湯受けの縁は温泉らしく鉄分で色づいています。
<いたちの湯> みなかみ町猿ヶ京温泉1142-4
さかえや洋品店の前に「いたちの湯」(手湯)。
隣の仁田屋は町有1号泉の掛け流し(日帰り600円)。



<河童の湯> みなかみ町猿ヶ京温泉「まんてん星の湯」駐車場
まんてん星の湯第1駐車場の入口脇に「河童の湯」(手湯)。





<阿部鳩雨の歌碑>
河童の湯の横に歌碑があります。
「山の温泉にかよう峡路は夏ながら秋草咲けりその路の辺に」
説明板には、旧新治村出身の歌人・阿部鳩雨とあります。



<きつねの湯> みなかみ町猿ヶ京温泉253猿ヶ京温泉多目的集会所
多目的集会所の脇に、「きつねの湯」(手湯)。
3か所の中でも熱く、手を入れらず、缶コーヒーを入れて温めました。
しっかり掃除をされている様子で、ブラシとスチールウールが置いてありました。
スチールウールでゴシゴシやっているためでしょう、他の手湯と見た目が異なります。






多目的集会所の入浴は17:00-21:30。遅くからの開湯なので未湯です。



猿ヶ京温泉 若山牧水と与謝野晶子
○猿ヶ京温泉
猿ヶ京温泉は、1956(昭和31)年に相俣ダムの完成で現在地に移りました。
それまでは赤谷川沿いに湯島の湯、生井林の湯(笹の湯)があり、今は湖底に沈んでいます。
湯島の湯は元禄年間(17世紀末)に発見されたと伝えられています。
猿ヶ京温泉には7本の源泉があります。
・村有2号泉 平成8年より測定不能 未利用
・湖城閣源泉 63.6℃ 195.0L 動力揚湯 旅館1
・共有泉湯島 57.2℃ 660.0L 動力揚湯 旅館2・給湯事業
・町有1号泉 61.5℃ 313.0L 動力揚湯 給湯事業74件・共同浴場
・三島源泉 昭和60年より測定不能 未利用
・猿ヶ京源泉1号井戸 56.4℃ 420.0L 動力揚湯 町有1号泉と同じ
・猿ヶ京源泉2号井戸 49.4℃ 204.0L 動力揚湯 町有1号泉と同じ
(以上、みなかみ町国民保養温泉地計画書を参照しました。)
<猿ヶ京温泉の現在まで>
湯島河原の温泉は、地の利の良い笹の湯に比べて地の利が悪く、江戸時代は村人のみに利用されていました。
猿ヶ京村は小学校増築の資金調達のため、県道生井坂の工事を請け負いましたが、かえって赤字となり、湯島河原の温泉は民間に売却して借金を支払いました(1915(大正15)年)。
その後、猿ヶ京温泉は、湯島河原の「桑原館」(1946年、持谷氏が桑原氏から買収して猿ヶ京ホテルと改称)、 「長生館」、「見晴館」(1995年倒産、現在は日帰り温泉施設「まんてん星の湯」)の三軒からなる湯島温泉、生井林の相生館(移転後1997年廃業)1軒からなる笹の湯温泉の四軒二つの温泉からなっていました。
四軒は自家源泉を持っていました。
昭和30年に相俣ダム・赤谷湖が完成し、四軒の旅館は赤谷湖に沈むことになりました。
群馬県と四軒は温泉源の補償協定を結び、源泉の代替として湯島に源泉を掘削し、四軒それぞれが4分の一づつの所有権を持つことになりました。
この源泉は「共有泉湯島」と命名され、四軒は「湯元泉協同組合」を設立し、管理運営に当ってきました。
4軒共同の新たな温泉(1955年)は、村の人々には無料で入れるようにしていました。
元は村の所有だったことと、湯導管が民間の土地を通ることから借地料の代わりでした。
この源泉を使用した共同湯がありますが、そのような経緯から存在しているのだろうと勝手に思います。
(猿ヶ京ホテルのHP記載内容を縮め、文献「新治村の観光発展過程と観光地形成」(溝尾良隆)を参照し、適宜まとめました。)
〇赤谷水管橋
<歌碑の道>
歌碑の道の看板の指示に従って行くも、「みなかみ紀行」の一節を刻んだ若山牧水の紀行文碑があるようですが、荒れていてわからず。


<新治村温泉給湯管>
赤谷水管橋を温泉給湯管が渡っています。

<猿ヶ京バンジー> みなかみ町相俣1731
62メートルの高さがある赤谷水管橋からのバンジージャンプです。
赤谷水管橋を渡ったバンジー受付所で引き返す。



<赤谷湖と相生橋>
赤谷水管橋から、赤谷湖と相生橋を見下ろす。
笹の湯相生館はダムに沈みましたが、橋名に相生が残ります。



<笹の湯/若山牧水と与謝野晶子>
若山牧水が笹の湯で食事に立ち寄っています。
与謝野晶子が昭和14(1939)年11月4、5日笹の湯相生館(宿名が見あたらないけどたぶん)に2泊して、法師温泉を廻っています。
「晶子鑑賞:(平野萬理)によると、昭和13年秋に笹の湯から法師温泉を廻るとありますが、平野萬理の勘違いでしょう。
晶子書簡で確認すると笹の湯温泉へ観楓にまいるお誘いの手紙を昭和14年10月に複数出しています。
笹の湯の紅葉は八分ほど、法師は奥に行くに従い、火のような山がつづいていたと書簡に書いています。
笹の湯では「またたびの塩づけ」を食べて、昔の感慨にふけっています。名物なの?
堀口大学も「またたびの塩づけ」が好物だったようです。
『白桜集』奥上州
与謝野寛と共に歩んだ思い出の挽歌が多いです。
笹の湯(ダムに沈んだ猿ヶ京温泉)と法師で30句掲載されており、以下は一部抜粋です。
(笹の湯)2泊
「身をめぐり泡雪のごと湯の絮の深山の秋の温泉」
「みやびかに笹の舊湯が紅葉著て住へる溪に靡く霧かな」
「川面へ二百六十尺と云ふ相生橋にたぢろぐ落葉」
「寂しくも越路に近き笹の湯の笹鳴るほどの夜の時雨聞く」
「猿が京新治村の笹の湯にありて悲しむ秋のともし灯」
「笹の湯を渓に見出でて胸鳴りぬはかなきことにときめけるかな」
「笹の湯の竹のむしろを朝踏みて溜る涙と思ひけるかな」
<三国路与謝野晶子紀行文学館椿山房> みなかみ町猿ヶ京1175
猿ヶ京ホテルの女将さんがオープンした文学館です。


<長生館>
長生館の露天風呂の日帰り入浴も選択肢に入れていましたが、今回はパス。
赤谷川へのオーバーフローの捨湯がスゴイかったです。



○猿ヶ京関所跡 みなかみ町猿ヶ京温泉1144
猿ヶ京は三国街道の関所がおかれた宿場町です。






<やる気稲荷>

○庚申塔
巨大な庚申塔が国道17号線沿にあります。

猿ヶ京温泉は、1956(昭和31)年に相俣ダムの完成で現在地に移りました。
それまでは赤谷川沿いに湯島の湯、生井林の湯(笹の湯)があり、今は湖底に沈んでいます。
湯島の湯は元禄年間(17世紀末)に発見されたと伝えられています。
猿ヶ京温泉には7本の源泉があります。
・村有2号泉 平成8年より測定不能 未利用
・湖城閣源泉 63.6℃ 195.0L 動力揚湯 旅館1
・共有泉湯島 57.2℃ 660.0L 動力揚湯 旅館2・給湯事業
・町有1号泉 61.5℃ 313.0L 動力揚湯 給湯事業74件・共同浴場
・三島源泉 昭和60年より測定不能 未利用
・猿ヶ京源泉1号井戸 56.4℃ 420.0L 動力揚湯 町有1号泉と同じ
・猿ヶ京源泉2号井戸 49.4℃ 204.0L 動力揚湯 町有1号泉と同じ
(以上、みなかみ町国民保養温泉地計画書を参照しました。)
<猿ヶ京温泉の現在まで>
湯島河原の温泉は、地の利の良い笹の湯に比べて地の利が悪く、江戸時代は村人のみに利用されていました。
猿ヶ京村は小学校増築の資金調達のため、県道生井坂の工事を請け負いましたが、かえって赤字となり、湯島河原の温泉は民間に売却して借金を支払いました(1915(大正15)年)。
その後、猿ヶ京温泉は、湯島河原の「桑原館」(1946年、持谷氏が桑原氏から買収して猿ヶ京ホテルと改称)、 「長生館」、「見晴館」(1995年倒産、現在は日帰り温泉施設「まんてん星の湯」)の三軒からなる湯島温泉、生井林の相生館(移転後1997年廃業)1軒からなる笹の湯温泉の四軒二つの温泉からなっていました。
四軒は自家源泉を持っていました。
昭和30年に相俣ダム・赤谷湖が完成し、四軒の旅館は赤谷湖に沈むことになりました。
群馬県と四軒は温泉源の補償協定を結び、源泉の代替として湯島に源泉を掘削し、四軒それぞれが4分の一づつの所有権を持つことになりました。
この源泉は「共有泉湯島」と命名され、四軒は「湯元泉協同組合」を設立し、管理運営に当ってきました。
4軒共同の新たな温泉(1955年)は、村の人々には無料で入れるようにしていました。
元は村の所有だったことと、湯導管が民間の土地を通ることから借地料の代わりでした。
この源泉を使用した共同湯がありますが、そのような経緯から存在しているのだろうと勝手に思います。
(猿ヶ京ホテルのHP記載内容を縮め、文献「新治村の観光発展過程と観光地形成」(溝尾良隆)を参照し、適宜まとめました。)
〇赤谷水管橋
<歌碑の道>
歌碑の道の看板の指示に従って行くも、「みなかみ紀行」の一節を刻んだ若山牧水の紀行文碑があるようですが、荒れていてわからず。



<新治村温泉給湯管>
赤谷水管橋を温泉給湯管が渡っています。

<猿ヶ京バンジー> みなかみ町相俣1731
62メートルの高さがある赤谷水管橋からのバンジージャンプです。
赤谷水管橋を渡ったバンジー受付所で引き返す。



<赤谷湖と相生橋>
赤谷水管橋から、赤谷湖と相生橋を見下ろす。
笹の湯相生館はダムに沈みましたが、橋名に相生が残ります。



<笹の湯/若山牧水と与謝野晶子>
若山牧水が笹の湯で食事に立ち寄っています。
与謝野晶子が昭和14(1939)年11月4、5日笹の湯相生館(宿名が見あたらないけどたぶん)に2泊して、法師温泉を廻っています。
「晶子鑑賞:(平野萬理)によると、昭和13年秋に笹の湯から法師温泉を廻るとありますが、平野萬理の勘違いでしょう。
晶子書簡で確認すると笹の湯温泉へ観楓にまいるお誘いの手紙を昭和14年10月に複数出しています。
笹の湯の紅葉は八分ほど、法師は奥に行くに従い、火のような山がつづいていたと書簡に書いています。
笹の湯では「またたびの塩づけ」を食べて、昔の感慨にふけっています。名物なの?
堀口大学も「またたびの塩づけ」が好物だったようです。
『白桜集』奥上州
与謝野寛と共に歩んだ思い出の挽歌が多いです。
笹の湯(ダムに沈んだ猿ヶ京温泉)と法師で30句掲載されており、以下は一部抜粋です。
(笹の湯)2泊
「身をめぐり泡雪のごと湯の絮の深山の秋の温泉」
「みやびかに笹の舊湯が紅葉著て住へる溪に靡く霧かな」
「川面へ二百六十尺と云ふ相生橋にたぢろぐ落葉」
「寂しくも越路に近き笹の湯の笹鳴るほどの夜の時雨聞く」
「猿が京新治村の笹の湯にありて悲しむ秋のともし灯」
「笹の湯を渓に見出でて胸鳴りぬはかなきことにときめけるかな」
「笹の湯の竹のむしろを朝踏みて溜る涙と思ひけるかな」
<三国路与謝野晶子紀行文学館椿山房> みなかみ町猿ヶ京1175
猿ヶ京ホテルの女将さんがオープンした文学館です。


<長生館>
長生館の露天風呂の日帰り入浴も選択肢に入れていましたが、今回はパス。
赤谷川へのオーバーフローの捨湯がスゴイかったです。



○猿ヶ京関所跡 みなかみ町猿ヶ京温泉1144
猿ヶ京は三国街道の関所がおかれた宿場町です。






<やる気稲荷>

○庚申塔
巨大な庚申塔が国道17号線沿にあります。


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