繁栄稲荷神社/江戸~明治の大丸屋

○繁栄稲荷神社 江東区木場2-18-12

 大丸創業者である下村彦右衛門正啓が宝暦7(1757)年に創建した繁栄稲荷神社です。大丸松坂屋百貨店本社の敷地内となります。

<社号標/鳥居>
 社号標「繁榮稲荷神社」。鳥居(江東区文化財)は、下村店中による奉納で、安政4(1857)年再建銘です。

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<由緒>
(掲示)
「由緒
 当繁栄稲荷神社の祭神は京都伏見稲荷大社の御分霊にましまし乃古宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神の三御柱であります。古来五穀豊穣、商賣繁昌、藝能上達の神として世の尊崇敬仰をあつめております。
 当神社の起源は今を距ること二百四年前、江戸時代の中期、宝暦七年この木場の地に創祀されたのにはじまります。大丸の業祖下村彦右衛門正啓は享保二年伏見に創業し寛保三年日本橋大伝馬町に江戸店を設けましたが越えて宝暦七年深川木場四丁目即ち現在の繁栄橋々畔に貯木場を備うる別墅を営み、その一廓に社殿を造り伏見稲荷大社の御分霊を祀り繁栄稲荷と称したのであります。
 祭神の霊験いとあらたかで、地元の木場はもとより江戸一円の信仰をあつめ、三月十二、十三日の例祭には門前市がたつの大賑わいでその側の堀に架せられた橋もいつしか繁栄橋とよばれて今に伝わっているのであります。
 明治末年大丸東京店(昔の江戸店)を閉じ木場の別墅も廃したとき社殿は先代根津嘉一郎氏の青山邸に移り同家の嘉栄稲荷の社殿となり、関東大震災、第二次世界大戦の空襲にもその災禍から免がれ二百年前のお姿そのままで残ってまいりました。
 昭和三十五年五月たまたまその社殿が繁栄稲荷のものであったことがわかり、根津家の御厚意で大丸へ御返譲していただくこととなり、旧地に接したこの地に境域を卜して昔ながらのお姿を以て本殿、玉垣その他を移築あらたに伏見稲荷大社の御分霊を勧請してお祀りすることになったのであります。
 由緒の数々を思い御神徳のいやちこなるに今さら心うたるる次第であります。
  昭和三十六年十月吉日」

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(説明板)
「江東区指定有形文化財(建造物) 繁栄稻荷神社本殿
  木場二ー一八ー一二繁栄稻荷神社
  平成二六年四月四日指定
 繁栄稲荷神社は、呉服商大丸屋(現大丸)が宝暦七年(一七五七)に深川木場の別邸に伏見稲荷 から分霊して祀ったのが始まりとされます。現存する本殿は安政二年(一八五五)の江戸大地震後の再建と推定されます。本殿は桁行三間、梁間二間、木造平屋建、入母屋銅板葺屋根で、正面に千鳥破風を付け、さらに一間の向拝(正面の屋根を前に張り出した部分)を設けています。向拝は装飾をこらし、水引虹梁(向拝正面の梁)には渦を巻いた細かな絵様が施され、その上の中備には龍と人物の彫物が付けられています。明治四四年(一九一一)に大丸と親交のあった根津嘉一郎の青山邸(現根津美術館敷地内)に移築されたため、関東大震災と戦災を免れました。昭和三六年(一九六一)に大丸に返還され、旧地に近い現在地に移築されました。
 近世商家の信仰を示すとともに、向拝の装飾の細部に江戸末期の意匠の特徴をよく示すなど、繁栄稲荷神社本殿は江東区では稀有な近世木造建築です。
 昭和36年頃の繁栄稲荷神社。手前に見えるのは大島川東支川 。
 (J.フロントリテイリング史料館所蔵)
  平成二七年一二月  江東区教育委員会」

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<御神燈> 江東区文化財
 文政6(1823)年銘の燈籠講の奉納による御神燈です。表と裏に仙人の浮き彫りが施されています。

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<狛犬> 江東区文化財
 狛犬は両像とも足元に子犬がいます。神狐も置かれています。

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<天水桶> 江東区文化財
 嘉永7(1854)年銘の天水桶です。江東区資料によると、銅屋元次郎の作です。

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 天水桶上部の額縁には「大」の文字が模様として刻まれています。
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<石燈籠>
 大丸役員一同の奉献による石燈籠です。
 「昭和三十六年十月吉日奉献
  株式会社大丸役員一同」

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 本殿の周囲には、他に江東区文化財の「石造燈籠寛政6年在銘一対」「石造燈籠明治28年在銘一対」「燈籠(残欠)明治29年在銘一対」がありますが、 文化財に指定されているとは知らず確認しませんでした。後から知りましたが手水鉢も文化財です。

<本殿> 江東区文化財
 本殿は江東区文化財に指定されています。本殿内には江東区文化財の「木造燈明台文化15年在銘一対」「木造三宝寛政7年在銘」「木造随神倚像二躯」があるようです。

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 本殿右側に掲げられている扁額「稲荷神社」です。
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 本殿右側に掲げられている嘉永7(1854)年銘の扁額「富好行其徳」も江東区文化財です。
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○江戸時代〜明治時代の大丸屋

 江戸を代表する呉服店として、駿河町「越後屋呉服店」、通一丁目「白木屋呉服店」、大伝馬町「大丸屋呉服店」が「江戸三大呉服店」です。
 ・享保 2(1717)年 下村彦右衛門正啓が京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業(大丸創業)。
 ・寛保 3(1743)年 江戸日本橋大伝馬町3丁目に江戸店開業。
 ・宝暦 7(1757)年 江戸深川木場4丁目繁栄橋畔に木場別荘をつくり、繁栄稲荷を祀る。
 ・明治43(1919)年 東京店(江戸店)を閉鎖。
 ・昭和29(1954)年 東京駅八重洲口に東京店開店。

「名所江戸百景 大伝馬町こふく店」(広重)
 呉服店の大丸屋が描かれています。

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「江戸名所 大伝馬町大丸呉服店の図」(広重 ボストン美術館蔵)

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「下村呉服店之図」(豊広 寛政末-享和頃)
 下村呉服店(大丸屋)が描かれています。

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「大伝馬町大丸」(小林清親)
 明治時代の大丸が描かれています。電柱が描かれている他は、江戸時代と同様な大丸です。
 井上安治も「日本橋区大伝馬町参丁目大丸屋呉服店繁栄図」を描いています(パブリックドメイン画像みつけられず)。

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「日本之名勝」(史伝編纂所 明治33年)
 明治時代の大丸屋呉服店の写真です。 
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「日本鉄道線路案内記」(博文館 明治35年)
 明治時代の下村呉服店の広告です。
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tag : 歌川広重小林清親邸内社

木場親水公園

○下木場欅一枚板看板 江東区木場2-18-14(舟木橋第二児童遊園)

 木場親水公園に隣接する舟木橋第二児童遊園内に、下木場欅一枚板看板が建てられています。
 なお、この場所にカナダから寄贈されたトーテム・ポールがありましたが撤去されています。

(掲示)
 「下木場 下木場神輿保存会」

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(説明板)
「下木場欅一枚板看板
 この付近は、地域の俗名で「下木塲」と呼ばれており、三年に一度開催される深川八幡の本祭りでは、神輿を展示するお仮屋が設置されます。
 木場の川並(材木を河川で筏に組み運搬する職人)文化と「下木塲」という名を後世に伝えるために設置しています。」

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○舟木橋跡 江東区木場2-18-14

 舟木橋第二児童遊園前の歩道に建てられている「舟木橋跡」碑です。

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(碑文)
「舟木橋跡
 舟木橋は、江東区木場二丁目地内の大島川東支流に架けた旧入船町と木場町を結ぶ橋長25.2m、幅員33.8mの橋であった。橋名の由来、創架年月ともに不詳であるが、入船町と木場町に架かる橋なのでこの名を得たと言われている。昭和5年に鋼橋に架替えられたが、平成14年3月に老朽化に伴い撤去した。
  平成14年3月 東京都第五建設事務所」

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○深川さんぽ絵図 東京東信用金庫深川支店 江東区木場2-19-15

 信用金庫に「深川さんぽ絵図」が掲げられています。

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○木場親水公園 江東区木場2-20〜3-14

 木場親水公園は、「木場の風景」をテーマに整備された延長0.9kmの公園です。大島川東支川が親水公園化されており、平成4(1992)年4月1日の開園です。筏を操る川並の像など木場の風景を表す多くのパブリックアートが設置されています。

 昭和38年頃の大島川東市川と繁栄稲荷神社
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<舟木橋から>
 永代通りの舟木橋上から、大島川東支川が埋立てられた駐輪場とその先の木場親水公園です。

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<木場親水公園案内図>

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<しっくい護岸> 江東区木場2-18
 元々のしっくい護岸ではなく、左官・漆喰作家の山本堪一氏の作品「なまこ壁」です。

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<モニュメントつるべ>
 「モニュメントつるべ」から先に親水が始まります。

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<モニュメント荷足>
 案内図には「荷足船(にたりぶね)」と記載されていますが船はありません。荷足が置かれています。荷足とは、船の安定性をよくするため、船底に積む重いバラストです。

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<川並> 江東区木場2-12
 川並は、背中に「木場」と書かれた半纏を着て、材木を操っています。

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(プレート文)
 「川並
  制作 日展会員 上野弘道
  (制作助手4名のお名前)
  建立 1992年3月吉日」

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<いろは歌>
 「いろは歌」が敷かれています。合間に「壱組」「寛永通宝」などをはさみます。何をイメージしているのかわかりません。江戸町火消しですか?

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<下木場の碑> 江東区木場2-17
 木工家の渡邊美壽雄氏(江東区指定無形文化財保持者)の木彫の作品が掲げれています。

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<ひのき舞台>
 なぜか「ひのき舞台」

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<モニュメント絵巻> 江東区木場2-17
 木場慕情絵巻のタイルモザイクのモニュメントです。案内板の記載から手前のタイルモザイクかと思いましたが、高速道路の橋脚下のタイルモザイクも含めてのようです。

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<下木場橋>
 木橋「下木場橋」です。その先は「築島橋」です。

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<護岸ギャラリー>
 下木場橋と中木場橋の間、築島橋と木場橋を潜る道の両岸護岸に「護岸ギャラリー」が描かれています。

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<鴨の家>

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<木場橋> 江東区木場3丁目
 大島川東支川に架かる橋です。昭和62(1987)年の架設ですが、昭和4(1929)年の震災復興橋梁が残されています。

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<角乗り練習場>
 角乗りの練習場で、水深は、他より深い1.5mあります。

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 大きな鯉が泳いでいました。
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 「この場所の水深1.5mなので注意してください。」
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<中木場橋>

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<江戸和船> 江東区木場3-8
 江戸和船と柳がマッチしています。

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<船着場>

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<杭>

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<鶴の橋>

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<中木場の碑> 江東区木場2-17
 木工家の渡邊美壽雄氏(江東区指定無形文化財保持者)の木彫の作品が掲げれています。

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<常夜燈>
 常夜燈が三基、配置されています。

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<ジャブジャブ池>

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<親水館>

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<親水終端>

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<水辺のまちの形成史・・・・400年>
 親水終端から道路を渡って北上します。江戸初期から現在までの江東区の歴史を説明した8枚のパネルが設置されています。

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 最初の2枚だけ拡大写真です。
(パネル)
「【江戸初期】1590→1657
◎江東地区の開発は、徳川家康 の入府による江戸のまちの拡大とともに始まります。
 この頃までの江東地区は、ほとんどが低湿地で、亀島、大島、宝六島、永代島などの地名でわかるように小島が点在していました。
 開発は、現在の森下を中心とした深川村、佐賀・永代辺りの永代島、猟師町、小名木川南岸沿いの海辺新田、大島や砂町などで行われました。
 この頃、石島や千田あたりは、まだ海でした。
 水辺のまち形成史・・・・400年 水域環境変遷パネル〜 江東区」

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<要橋>
 葛西橋通りに架かる要橋を潜り終えたところです。

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<ポンプ室>
 仙台堀川から導水しています。

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<仙台堀川>

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木場

○木場

 天正18(1590)年、徳川家康が江戸に入城すると、木材の流通に携わる商人を全国から招集し、江戸城修築後も、その多くが江戸に残り、日本橋本材木町を中心に店を構えました。
 寛永18(1641)年の江戸大火で、火事が延焼したのは点在する材木商の「高積み」が原因と指摘され、材木商は永代島に集められました。のちに元木場と称されました。
 元禄14(1701)年、15名の材木問屋に猿江の地が払い下げられ、四方に土手を築き、堀をめぐらすなどの整備を行い、貯木場を造成しました。この貯木場があったことが木場の名前の由来です。 (東京木材問屋協同組合HP及び国立国会図書館HPを参照しました。)

「江戸切絵図」
 木場の抜粋です。「木置場」の文字が多く見えます。

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「江戸名所図会 深川木場」
 木場は江戸の名所のひとつとなっていました。 四方を土手に囲まれた造成地に堀が巡らされ、橋で繋がれています。多くの材木と材木問屋が見えます。釣り糸を垂らしている人物も描かれています。

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「名所江戸百景 深川木場」(広重)
 広重も木場を描いています。

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「絵本江戸土産 深川木場」(広重)
 挿絵には「この辺材木屋の園多きにより名を木場といふ その園中おのおの山水のながめありて風流の地と称せり」とあります。

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「江戸名所百人美女 木場」(豊国・国久)
 太い綱が巻かれた錨が描かれた着物を着た女性が、棒手振りの「竹馬古着屋」を呼びとめ、古着の布を見ています。

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 こま絵に木場が描かれています。
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 「竹馬古着屋」はこちらで記載
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「東都花暦 木場ノ魚釣」(英泉)
 材木の上でこどもが釣りをしています。

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「武蔵百景之内 深がわ木場」(小林清親)
 広重の名所江戸百景と同じような構図です。

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「東京開化狂画名所 深川木場 川童臭気に辟易」(月岡芳年 都立図書館蔵)
 材木の上で釣りをする人間から、尻子玉(人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で河童の好物)を抜こうとした河童が、釣り人のおならに撃退されています。河童のお腹まで黄色くなっています。

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「木場之雪」(川瀬巴水)

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「東京風景木場雪景」(織田一磨 大正6年 都立図書館蔵)

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「新東京百景 深川木場」(前川千帆 昭和5年 都立図書館蔵)

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○木場公園 江東区木場四・五丁目・平野四丁目・三好四丁目・東陽六丁目

 木材関連業者が昭和49(1974)年から昭和56(1981)年にかけて新木場へ移転し、跡地の木場(貯木場)は平成4(1992)年に木場公園として開園しました。

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「東京震災録 地図及写真帖」(東京市 大正15年)
 大正12年10月22日の「深川木場町」です。

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○本所立川

 木場と同じく、本所の竪川の北側(旧相生町一丁目〜二丁目付近)にも材木問屋が密集していました(こちらでも記載)。

「江戸切絵図」

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「富嶽三十六景 本所立川」(北斎 メトロポリタン美術館蔵)

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「江戸名所道戯尽 三十七 本所立川辺り景」(広景 都立図書館蔵)

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○猿江材木蔵
 猿江恩賜公園には、かつて江戸幕府の貯木場がありました(こちらで記載)。

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tag : 江戸名所図会歌川広重江戸名所百人美女小林清親月岡芳年葛飾北斎歌川広景

滝沢馬琴誕生の地

○滝沢馬琴誕生の地(江東区史跡)  江東区平野1-2-3

 「江東区深川ふれあいセンター/江東区平野児童館」に滝沢馬琴誕生の地のモニュメントがあります。
 モニュメントは、「里見八犬伝」の計106冊分です。

(説明板)
「滝沢馬琴誕生の地(平野一 - 七・八付近)
 江戸時代後期の小説家。明和四(一七六七)年六月九日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元(一八四七)年十一月六日、八十二歳で病没しました。名は興邦、曲亭馬琴、著作堂主人などと号しました。
 安永四(一七七五)年、九歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、同九(一七八〇)年、十四歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、寛政二(一七九〇)年山東京伝のもとに入門しました。翌年正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙「尽用而二分狂言 」を発表しました。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。
 天保五(一八三四)年ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けました。
 読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約四七〇種にものぼる著作を残しています。
平成九年三月  江東区教育委員会 」

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tag : 滝沢馬琴史跡

洲崎神社 洲崎汐干

〇洲崎神社 江東区木場6-13-13

 元禄13(1700)年、5代将軍綱吉の生母・桂昌院の守本尊である弁財天を祀るために、江戸城紅葉山より此の地に遷座して、洲崎に建立されました。
 海岸に面した土手の先端にありました。周辺は初日の出や潮干狩り、月見の名所として賑わいました。

「江戸名所図会 洲崎弁財天社」

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「江戸切絵図 深川絵図」

 「十万坪ト云」の記載があります。 海岸に沿った堤に「洲嵜ト云」とあり、「木置場」も見えます。堤の先に「弁天」(洲崎弁財天)と「吉祥寺」(別当)が見えます。

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「絵本江戸土産 洲崎辨天」(広重)

 挿絵には「洲嵜辨天 元禄年間 この海浜をつき立て 護持院大僧正隆光 弁天の宮居を建る 春秋 遊人ここに群集す」とあります。

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「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」(広重)

 「十万坪」と呼ばれるほど広大な深川洲崎(現住所:江東区千田・千石・海辺)の雪景が描かれています。寛政3(1791)年に起きた大津波によって甚大な被害を蒙りました。
 遠景に筑波山が見えます。鷹の視線の先には棺おけが浮かんでいます。

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「東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図」 (広重)

 品川洲崎と似ていますが、右下には「深川木場」と記されています。大きな波除碑が見えます。浅瀬には多くの人々が汐干に繰り出しているのが見えます。

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「東都名所 江都名所 洲崎弁天境内」(広重)

 浅瀬には人々が汐干に繰り出しているのが見えます。

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「東都名所 江戸名所 洲崎はつ日の出」(広重)

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「銀世界東十二景 雪の朝州崎の日の出」(広重)

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「江戸高名会亭尽 洲崎初日之出 武蔵屋」(広重 シカゴ美術館)

 初日の出の洲崎と、料理茶屋「武蔵屋」が描かれています。

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「江戸名所百人美女 洲崎」(豊国・国久)

 こま絵には、初日の出の洲崎が描かれています。「洲崎弁財天社」の鳥居と、二階建の料理茶屋「武蔵屋」が見えます。
 美女は土手から初日の出を拝もうとしているのでしょう。帯の裏地に「大當」とあります。

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○現在の洲崎神社

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(説明板)
「洲崎神社由緒
 当州崎神社神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊を祭神市杵島比売命を斉祀しております。創立は徳川五大将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄十三年、江戸城中、紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
 明治五年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斎して居りましたが昭和四十三年現在の社殿を造営し斉祀して現在に至っております。」

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<津波警告・波除碑> 東京都文化財

 江戸名所図会や浮世絵に描かれている波除碑はとても巨大でしたが、関東大震災と戦災で破損と標柱に書かれています。
 台石下、碑裏に几号が刻まれていますが塀裏で暗くてうまく確認できませんでした。

(説明板)境外
「波除碑
 由来
 寛政3年(1791)9月3日に大雨が降り始め、翌日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって弁天社を始め、その付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出ました。幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西の5,467余坪を買上げて空地とし、家作を禁じて後の水害に備えるこことし、さらに同6年(1794)12月、空地東西の北端に波除碑2基を建て、見通しの標としました。」

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(標柱)
「津波警告の碑
 寛政三年九月四日暴風雨による津波が襲来しこの付近一帯の家屋や住民も海中に押し流されて被害はなはだしく以来幕府はこの付近を空地とし家屋を建てることを禁じ津波襲来を警告して寛政六年今の洲崎神社と平久橋付近の二箇所に津波警告の碑をたてた 碑は大正十ニ年震災と昭和二十年戦災によって破損した
  昭和三十三年十月一日 江東区第四号」

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(説明板)
「東京都指定有形文化財(歴史資料)
 波除碑
   所在地 江東区木場六の十三の十三
   指 定 大正一三年二月五日 府仮指定
 寛政三年(一七九一)、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視し、洲崎弁天社から西方一帯を買い上げて空地とした。その広さは東西二八五間余、南北三○間余、総坪数五四六七坪余(約一万八千㎡)に及んだ。そして空地の両端の北側地点に、波除碑を二基建立した。建設は寛政六年頃で、当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。
 現在は二基ともかなり破損しており、特に平久橋碑は上部約三分の二を失っている。碑文は屋代弘賢と言われているが、二基ともほとんど判読不能である。「東京市史稿」によれば、「葛飾郡永代浦築地 此所寛政三年波あれの時家流れ人死するもの少なからず此後高なみの変はりかたく流死の難なしといふべからす是によりて西は入船町を限り 東ハ吉祥寺前に至るまて 凡長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかるゝもの也 寛政甲寅十二月日」と記されていたという。
 材質は砂岩で、総高は平久橋碑が一三○・八cm、洲崎神社碑が一六○・一cm。現在の位置は、旧地点を若干移動しているものと思われる。江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要なものと思われる。江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要な資料である。
  平成二三年三月 建設  東京都教育委員会」

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<江戸名所図会に描かれている波除碑>

 江戸名所図会に描かれている波除碑ですが、周囲に描かれている人物と比べると、かなりな大きさです。

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<東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図 (広重)>

 広重の浮世絵に描かれている波除碑部分を拡大すると、やはり周囲の人物と比べると、かなりな大きさです。

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<昭和初期の浪除碑>

 「江戸の今昔」(昭和7年)に掲載の浪除碑。鳥居の左手に見えます。解説には、潮干狩は頗る賑わっていたが、海岸を埋め立てかつての俤なしとあります。

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<名人竿忠之碑>

 昭和49年再建。徳富蘇峰の揮毫です。

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 4代目「竿忠」の店が「竿忠つり具店」(荒川区南千住5-11-14)です。 (コロナで4月7日から休業)

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<玉の輿たまちゃん> 江東区木場6-13-10

 2019年8月除幕。祠前に御影石の玉があり、祠内に「玉の輿たまちゃん」。
 たまちゃんの実家は八百屋さん、人参を持っています。尻尾は破魔矢、木場なのでキバがあります。首輪には神紋があります。神紋の鞄をぶら下げています。

(説明板)
「玉の輿たまちゃん
 「由来」
 五代表軍・徳川綱吉公の生母桂昌院(幼名=お玉)は八百屋の娘から武士の養女・公家出身の尼僧の侍女へそして将軍家光の側室にまで上り、立身出世した事から、桂昌院が「玉の輿」の語源・代名詞となったことが頷けます。
 当社は一七○○年に桂昌院が建立したのが始まりです。
  須崎神社々務所」

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<狛犬>

 狛犬の台座がピンク色です。

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<境内社>

 左から「弁天社」「豊川稲荷神社」「於六稲荷神社」と並んでいます。

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<力石> 江東区文化財

 石碑の周りに力石が並んでいます。

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<社殿>

 現在の社殿は昭和43(1968)年の再建です。

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○木場6丁目児童遊園 江東区木場6-13-7

 神社横の児童遊園入口に広重の絵が掲示されています。でも、違和感大。この絵は、「銀世界東十二景 真崎の大雪(広重)」で、隅田川右岸の真崎稲荷の雪景色を描いたものです。ここの場所の光景ではないのです。なぜこの絵なの?

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 掲示するなら「銀世界東十二景 雪の朝州崎の日の出(広重)」こっちでしょう。洲崎の雪景色と目の前の海からの日の出を描いたものです。 できあがるまでに誰か気づきそうなもんですけどね。2枚掲示すれば良いとは思うけど。

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○新田橋  江東区木場5丁目・6丁目

 大横川に架かる新田(にった)橋です。

(説明板)
「新田橋
 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場五丁目から木場六丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場五丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
 平成十ニ年の護岸整備により現在の橋に架替られましたが、架かっていた橋は、八幡堀遊歩道に大切に保存されています。」

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○洲崎汐干狩

「東都事時記 深川洲崎汐干」

 汐干狩りは3月の年中行事として、芝浦、高輪、品川、佃島、深川州崎、中川などが名所でした。なかでも品川と洲崎は、潮干狩りの名所として、多くの人々で賑わいました。

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「江都名所 洲崎しほ干狩」(広重)

 江戸時代の潮干狩りは、熊手とか道具は使わず、みなさん素手なんですね。

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「東都三十六景 洲さき汐干狩」(広重)

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「江戸自慢三十六興 洲さき汐干かり」(広重)

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「江戸名所道外尽十二 洲崎の汐干」(歌川広景)

 前掲の広重「江都名所 洲崎しほ干狩」とそっくりな絵です。「汐干狩」でタコが出てきて女性の足に絡みついています。男性はヒラメに驚きひっくり返っています。

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「東京名所三十六戯撰 洲崎汐干」(昇齋一景)

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「東京開化狂画名所 洲崎汐干 大赤貝ゆびを挟む」(月岡芳年 都立図書館蔵)

 月岡芳年が描くとこうなります。

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「江戸名所 品川沖汐干狩之図」(重宣)

 こちらは、品川の汐干狩です。

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「江戸風俗十二ケ月の内 三月 潮干狩の図」(楊洲周延 明治23(1890)年)

 明治時代も続く潮干狩りです。江戸時代もそうですが、道具を使わず素手で取っています。タイトルに場所の記載はありませんが、品川台場が見えるので品川汐干かと思います。

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 カゴの中にはたくさんの大きな貝が見えます。当時は、道具を使わずとも、大きな貝が簡単にとれたのでしょうね。

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