下落合の庚申塔
○下落合二丁目の庚申塔 新宿区文化財 新宿区下落合2-8-2
下落合氷川神社前の路傍(東山藤稲荷神社や新井薬師梅照院への参詣路)にある庚申塔で、文化13(1816)年に建てられたものです。
形態は駒型で、邪鬼を踏みつけた青面金剛像を主尊とし、邪鬼の下には三猿が刻まれています。
石塔の右側面には「左ぞうしがや道」、左側面には「右ばば下道」と刻まれ、道標も兼ねています。
道標を兼ねた庚申塔は、新宿区内では唯一のものです。
(新宿区サイトの「下落合二丁目の庚申塔」を参照しました。)




下落合氷川神社前の路傍(東山藤稲荷神社や新井薬師梅照院への参詣路)にある庚申塔で、文化13(1816)年に建てられたものです。
形態は駒型で、邪鬼を踏みつけた青面金剛像を主尊とし、邪鬼の下には三猿が刻まれています。
石塔の右側面には「左ぞうしがや道」、左側面には「右ばば下道」と刻まれ、道標も兼ねています。
道標を兼ねた庚申塔は、新宿区内では唯一のものです。
(新宿区サイトの「下落合二丁目の庚申塔」を参照しました。)





テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
下落合氷川神社
○新宿下落合氷川神社 新宿区下落合2-7-12
HP:https://www.shinjyuku-hikawa.jp/
「江戸時代には氷川明神社といい、旧下落合村の鎮守社である。祭神は稲田姫命一座で女体の宮ともいわれた。
下高田村鎮守の高田氷川神社の祭神が、素戔嗚尊一座で男体の宮と呼ばれたため、合わせて夫婦の宮と呼ばれた。」(「温故知しん!じゅく散歩」より引用)
<江戸名所図会 落合惣図>
「江戸名所図会 落合惣図」では、神田川と妙正寺川の合流点(落合)を中心に描かれています。
神田川に沿って「泰雲寺」「落合」「一枚岩」「田島橋」と記載されています。
絵図の左上に「薬王院」「鼠山」、右上に「氷川(氷川神社)」「富士(東山藤稲荷神社)」と記載。
惣図のほかに「泰雲寺古事」「藤森稲荷社」「一枚岩」「落合蛍」が別に描かれています。

「江戸名所図会 落合惣図」の氷川神社部分を拡大。

<表参道/南参道>
東側が表参道で、新目白通りに面した鳥居は、南参道となります。
表参道

南参道

<御由縁>
「 新宿下落合氷川神社 新宿区下落合二丁目七番十二号
御由緒
当社の御創建は今より二千四百年前、第五代孝昭天皇の御代とも、又更に上古と云われて詳らかではありませんが、蛍の名所として有名だった落合の郷、神田川の守り神として古くから信仰されてきました。豊島区高田氷川神社と夫婦の社と云い伝えられ、江戸期の文献には将軍家の御狩場「御留山」の山裾に広い境内を有していた様子が描かれています。
太平洋戦争末期に戦火に包まれるという憂き目に遭うものの、復興を遂げ昭和二十六年現在の御社殿が再建されました。(以下略)」

<境内社>
境内社の合殿には、三峰社、天祖社、稲荷社、諏訪社、浅間社が合祀されています。

<消防記念碑>
「消防記念碑
陸軍大将大庭二郎書」

<日露戦役記念碑>
「日露戦役記念碑
陸軍大将正三位勲一等功一級子爵川村景明書」
明治43(1910)年5月の建立。裏面に戦没者48名の名が刻まれています。

<狛犬>
慶応元(1865)年6月に地元の氏子が奉納。石工は兜木文蔵。獅子の子落としを表現しています。



<水鉢>
文政7年(1824)9月に地元の氏子が奉納。正面中央に刻まれた三つ巴紋は、近年の追刻とのこと。

<社殿>
社殿は1951(昭和26)年の再建。

HP:https://www.shinjyuku-hikawa.jp/
「江戸時代には氷川明神社といい、旧下落合村の鎮守社である。祭神は稲田姫命一座で女体の宮ともいわれた。
下高田村鎮守の高田氷川神社の祭神が、素戔嗚尊一座で男体の宮と呼ばれたため、合わせて夫婦の宮と呼ばれた。」(「温故知しん!じゅく散歩」より引用)
<江戸名所図会 落合惣図>
「江戸名所図会 落合惣図」では、神田川と妙正寺川の合流点(落合)を中心に描かれています。
神田川に沿って「泰雲寺」「落合」「一枚岩」「田島橋」と記載されています。
絵図の左上に「薬王院」「鼠山」、右上に「氷川(氷川神社)」「富士(東山藤稲荷神社)」と記載。
惣図のほかに「泰雲寺古事」「藤森稲荷社」「一枚岩」「落合蛍」が別に描かれています。

「江戸名所図会 落合惣図」の氷川神社部分を拡大。

<表参道/南参道>
東側が表参道で、新目白通りに面した鳥居は、南参道となります。
表参道

南参道

<御由縁>
「 新宿下落合氷川神社 新宿区下落合二丁目七番十二号
御由緒
当社の御創建は今より二千四百年前、第五代孝昭天皇の御代とも、又更に上古と云われて詳らかではありませんが、蛍の名所として有名だった落合の郷、神田川の守り神として古くから信仰されてきました。豊島区高田氷川神社と夫婦の社と云い伝えられ、江戸期の文献には将軍家の御狩場「御留山」の山裾に広い境内を有していた様子が描かれています。
太平洋戦争末期に戦火に包まれるという憂き目に遭うものの、復興を遂げ昭和二十六年現在の御社殿が再建されました。(以下略)」

<境内社>
境内社の合殿には、三峰社、天祖社、稲荷社、諏訪社、浅間社が合祀されています。

<消防記念碑>
「消防記念碑
陸軍大将大庭二郎書」

<日露戦役記念碑>
「日露戦役記念碑
陸軍大将正三位勲一等功一級子爵川村景明書」
明治43(1910)年5月の建立。裏面に戦没者48名の名が刻まれています。

<狛犬>
慶応元(1865)年6月に地元の氏子が奉納。石工は兜木文蔵。獅子の子落としを表現しています。



<水鉢>
文政7年(1824)9月に地元の氏子が奉納。正面中央に刻まれた三つ巴紋は、近年の追刻とのこと。

<社殿>
社殿は1951(昭和26)年の再建。


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東山藤稲荷神社 旧社地
○東山藤稲荷神社 旧社地 新宿区下落合2-10-7
おとめ山通りの坂下に、東山藤稲荷神社旧社地があります。


社号標「東山藤稲荷神社」(昭和40年)


説明板「由緒 東山稲荷神社々務所」

社号標「正一位東山藤稲荷大明神」(天保7年)


○江戸名所図会と絵本江戸土産 が描く藤稲荷
<江戸名所図会 藤森稲荷社>
「江戸名所図会」には「藤森稲荷社」(東山いなりともいふ)として旧社地での様子が描かれています。

新井薬師道に面した参道入口右手に滝が描かれています。

参道の石段を上ると幟が立ち並び、藤棚も描かれています。
左上には鳥居が連なる参道と狐穴・奥之院が描かれています。

<絵本江戸土産 藤稲荷>(広重)
「藤稲荷に滝あり 夏日是にうたるときは冷気肌を徹して三伏の暑さを忘れしむ」とあります。
不動明王像の下に、龍の口から湧水が流れ落ちて瀧となっています。垢離場が設けられていたようです。

おとめ山通りの坂下に、東山藤稲荷神社旧社地があります。


社号標「東山藤稲荷神社」(昭和40年)


説明板「由緒 東山稲荷神社々務所」

社号標「正一位東山藤稲荷大明神」(天保7年)


○江戸名所図会と絵本江戸土産 が描く藤稲荷
<江戸名所図会 藤森稲荷社>
「江戸名所図会」には「藤森稲荷社」(東山いなりともいふ)として旧社地での様子が描かれています。

新井薬師道に面した参道入口右手に滝が描かれています。

参道の石段を上ると幟が立ち並び、藤棚も描かれています。
左上には鳥居が連なる参道と狐穴・奥之院が描かれています。

<絵本江戸土産 藤稲荷>(広重)
「藤稲荷に滝あり 夏日是にうたるときは冷気肌を徹して三伏の暑さを忘れしむ」とあります。
不動明王像の下に、龍の口から湧水が流れ落ちて瀧となっています。垢離場が設けられていたようです。


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東山藤稲荷神社
○東山藤稲荷神社 新宿区下落合2-10-5
東山藤稲荷神社の社伝によれば、清和源氏の祖六孫王源経基が、延長5(927)年に京都稲荷神社を勧請して、東国源氏の氏神として祀ったと伝えられています。
もとは現在地の坂下(下落合2-10-7付近)にありましたが、第二次大戦で焼失し、1953(昭和28)年に現在地へ移転しました。
境内に大きな藤の木があったことから藤森稲荷、また、富士稲荷、東山稲荷とも呼ばれました。
明治以降は下落合の氷川神社が兼務しておりこちらは無人です。
東山藤稲荷神社は、おとめ山公園と接しています。おとめ山公園の見晴台に向かう階段途中から見えますが、公園内からは行けません。参道からアプローチします。
<一の鳥居>
おとめ山通りから参道を進むと「一の鳥居」があります。


<二の鳥居>
参道の階段を上がると、左手に説明板「由緒 東山稲荷神社々務所」(旧社地掲示と同一)。二の鳥居と手前に神狐。




鳥居の後ろに、文政年間に奉納の壊れている鳥居があります。

右手には、鳥居の柱が転がっています。

左手には、「正一位 稲荷大明神」の扁額が雑多に置かれていました。

<神狐像と台座>
神狐像の台座背面に、大田南畝の揮毫「蜀山人書」とあります。
台座「世話人 蜀山人書 良夜 藤次郎 庄助 小日向水道町石工勘介」
台座部分は文化15(1818)年の奉納です。






<神狐>
文化15(1818)年の台座に乗っていたと思われる古い破損した神狐。




<手水鉢>
手水鉢 寛延3(1750)年奉納 「東山稲荷大明神」と刻まれています。

手水鉢 天保9(1838)年奉納


手水鉢 不明 寛延4年の地蔵前


手水鉢 不明 参道の階段両脇

<藤棚>
藤棚があります。


<社殿>
おとめ山公園の見晴台への階段に接しています。




東山藤稲荷神社の社伝によれば、清和源氏の祖六孫王源経基が、延長5(927)年に京都稲荷神社を勧請して、東国源氏の氏神として祀ったと伝えられています。
もとは現在地の坂下(下落合2-10-7付近)にありましたが、第二次大戦で焼失し、1953(昭和28)年に現在地へ移転しました。
境内に大きな藤の木があったことから藤森稲荷、また、富士稲荷、東山稲荷とも呼ばれました。
明治以降は下落合の氷川神社が兼務しておりこちらは無人です。
東山藤稲荷神社は、おとめ山公園と接しています。おとめ山公園の見晴台に向かう階段途中から見えますが、公園内からは行けません。参道からアプローチします。
<一の鳥居>
おとめ山通りから参道を進むと「一の鳥居」があります。


<二の鳥居>
参道の階段を上がると、左手に説明板「由緒 東山稲荷神社々務所」(旧社地掲示と同一)。二の鳥居と手前に神狐。




鳥居の後ろに、文政年間に奉納の壊れている鳥居があります。

右手には、鳥居の柱が転がっています。

左手には、「正一位 稲荷大明神」の扁額が雑多に置かれていました。

<神狐像と台座>
神狐像の台座背面に、大田南畝の揮毫「蜀山人書」とあります。
台座「世話人 蜀山人書 良夜 藤次郎 庄助 小日向水道町石工勘介」
台座部分は文化15(1818)年の奉納です。






<神狐>
文化15(1818)年の台座に乗っていたと思われる古い破損した神狐。




<手水鉢>
手水鉢 寛延3(1750)年奉納 「東山稲荷大明神」と刻まれています。

手水鉢 天保9(1838)年奉納


手水鉢 不明 寛延4年の地蔵前


手水鉢 不明 参道の階段両脇

<藤棚>
藤棚があります。


<社殿>
おとめ山公園の見晴台への階段に接しています。





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tag : 大田南畝
おとめ山通り/相馬坂
○おとめ山通り
おとめ山公園の東側と西側の間の坂道がおとめ山通りです。
「カルガモ横断注意」の道路標識があります。初めてみましたこの標識。
カルガモも、この公園を子育てに利用しています。


標柱「おとめ山通り」 新宿区下落合2-10-7
「おとめ山通り
江戸時代、おとめ山一帯は将軍家の狩猟地で一般人の立入が禁止されていたため御留山(おとめやま)と呼ばれていた。」



○相馬坂 新宿区下落合2丁目
おとめ山公園の西側に、公園に沿って「相馬坂」があります。坂の上と下に説明柱があります。
(説明柱)
「 相馬坂
この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。
平成十五年三月 新宿区教育委員会」
坂下 新宿区下落合2-6-18

坂上 新宿区下落合2-24-6


おとめ山公園の東側と西側の間の坂道がおとめ山通りです。
「カルガモ横断注意」の道路標識があります。初めてみましたこの標識。
カルガモも、この公園を子育てに利用しています。


標柱「おとめ山通り」 新宿区下落合2-10-7
「おとめ山通り
江戸時代、おとめ山一帯は将軍家の狩猟地で一般人の立入が禁止されていたため御留山(おとめやま)と呼ばれていた。」



○相馬坂 新宿区下落合2丁目
おとめ山公園の西側に、公園に沿って「相馬坂」があります。坂の上と下に説明柱があります。
(説明柱)
「 相馬坂
この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。
平成十五年三月 新宿区教育委員会」
坂下 新宿区下落合2-6-18

坂上 新宿区下落合2-24-6



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