上総一宮 まとめ
〇上総一宮
一宮の町名は上総国一之宮玉前神社の社格に由来しています。
1896(明治29)年に房総鉄道(現:外房線)が開通し、1897年には一ノ宮駅、1899年に大原まで延伸され、一宮は別荘地として有名人の別荘が多く建ち、「東の大磯」と呼ばれました。
2020年東京オリンピックのサーフィン競技が、一宮町の釣ヶ崎海岸で行われることになっていました。

以下記載
一宮町
○ 上総一宮まとめ(当ページ)
○ 魚料理タカラ亭
○ 上総国一之宮 玉前神社
○ 芥川荘/芥川龍之介文学碑
○ ホテル一宮シーサイドオーツカ
一宮の町名は上総国一之宮玉前神社の社格に由来しています。
1896(明治29)年に房総鉄道(現:外房線)が開通し、1897年には一ノ宮駅、1899年に大原まで延伸され、一宮は別荘地として有名人の別荘が多く建ち、「東の大磯」と呼ばれました。
2020年東京オリンピックのサーフィン競技が、一宮町の釣ヶ崎海岸で行われることになっていました。

以下記載
一宮町
○ 上総一宮まとめ(当ページ)
○ 魚料理タカラ亭
○ 上総国一之宮 玉前神社
○ 芥川荘/芥川龍之介文学碑
○ ホテル一宮シーサイドオーツカ
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 芥川龍之介
芥川荘/芥川龍之介文学碑
○芥川荘(国登録有形文化財) 一宮町一宮9241一宮館敷地内
ホテル一宮シーサイドオーツカでの日帰り入浴まで時間があるので、玉前神社から芥川荘へ向かいます。
一宮館の駐車場の奥の庭に、芥川荘があります。

(芥川荘説明)
「芥川荘
一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1961)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられた。芥川は滞在中にこの離れから、後に妻となる塚本文に長い求婚の手紙を送り、一宮での思い出を「微笑」「海のほとり」「玄鶴山房」「蜃気楼」などの作品に登場させている。建物は、明治30年(1897)の建築。茅葺寄棟造の木造平屋建てで、主屋と次の間2室の3方に縁側を回らし、縁側の一端には洗面所を設けており、当地方の伝統的な民家建築技法で建てられ、周囲の松林の閑静な雰囲気と相まって良好な景観となっている。」
(芥川荘の説明は、文化庁、千葉県HPなどにありますが、一宮観光協会サイトが詳しいのでそちらからの引用です)






<芥川龍之介文学碑>
芥川龍之介の塚本文(後の芥川夫人)あての一宮からの手紙を陶板に記したプレートを埋め込んだ御影石の碑です。
正面「芥川龍之介文学碑」、裏面に由縁が刻まれています。平成3年5月建立。





<小高倉之助歌碑>
地元の農民歌人。鍬の形をした歌碑で、碑は斜めになっています。平成3年12月建立。


○一宮館 一宮町一宮9241 0475-42-2127
HP:http://www.ichinomiyakan.com/
芥川荘のある庭側の一宮館

一宮館の表に回ってみました。



〇芥川龍之介 愛の碑 一宮町船頭給2512
一宮海岸広場(国民宿舎一宮荘跡地)に「芥川龍之介 愛の碑」があります。駐車場から見たものの下調べ不十分で芥川龍之介の碑とは気づかず、写真は取り損ねました。画像は一宮海岸です。



ホテル一宮シーサイドオーツカでの日帰り入浴まで時間があるので、玉前神社から芥川荘へ向かいます。
一宮館の駐車場の奥の庭に、芥川荘があります。

(芥川荘説明)
「芥川荘
一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1961)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられた。芥川は滞在中にこの離れから、後に妻となる塚本文に長い求婚の手紙を送り、一宮での思い出を「微笑」「海のほとり」「玄鶴山房」「蜃気楼」などの作品に登場させている。建物は、明治30年(1897)の建築。茅葺寄棟造の木造平屋建てで、主屋と次の間2室の3方に縁側を回らし、縁側の一端には洗面所を設けており、当地方の伝統的な民家建築技法で建てられ、周囲の松林の閑静な雰囲気と相まって良好な景観となっている。」
(芥川荘の説明は、文化庁、千葉県HPなどにありますが、一宮観光協会サイトが詳しいのでそちらからの引用です)






<芥川龍之介文学碑>
芥川龍之介の塚本文(後の芥川夫人)あての一宮からの手紙を陶板に記したプレートを埋め込んだ御影石の碑です。
正面「芥川龍之介文学碑」、裏面に由縁が刻まれています。平成3年5月建立。





<小高倉之助歌碑>
地元の農民歌人。鍬の形をした歌碑で、碑は斜めになっています。平成3年12月建立。


○一宮館 一宮町一宮9241 0475-42-2127
HP:http://www.ichinomiyakan.com/
芥川荘のある庭側の一宮館

一宮館の表に回ってみました。



〇芥川龍之介 愛の碑 一宮町船頭給2512
一宮海岸広場(国民宿舎一宮荘跡地)に「芥川龍之介 愛の碑」があります。駐車場から見たものの下調べ不十分で芥川龍之介の碑とは気づかず、写真は取り損ねました。画像は一宮海岸です。



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上総国一之宮 玉前神社
〇上総国一之宮 玉前神社 一宮町一宮3048
HP:https://tamasaki.org/
上総一ノ宮駅駅前の「タカラ亭」で食事後、玉前神社に芭蕉句碑を見に訪問。

<芭蕉句碑>
「叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」
(説明板)
「一宮町指定文化財(史跡)
芭蕉の句碑 平成四年一月十四日指定
「この碑は表面中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」と大書されている。「はせを」は芭蕉のことであり、元禄元年(一六八八年)秋冬の頃の作で、仁徳天皇の聖徳を称えたものである。左には「名にしおはゞ名取草より社宮哉 金波」を発句とする表十句を刻んである。
背面には、上部に「無尽言」の題字、その下に百四十九句を刻み、起名庵金波の芭蕉景仰の漢文銘があり、左端に「明治紀元戊辰晩秋 催主 千丁 河野五郎兵衛」とあり、上総千町村 (現茂原市千町)の俳人起名庵金波「河野五郎兵衛」一門によって建てらたもので、書も金波といわれている。
金波は文化元年(一八〇四)岡山の井出家に生れ、俳句を学び起名庵を創始した。嘉永五年(一八五二)千町村の河野家の養子として迎えられ明治二十年八十四歳で没した。
平成五年八月三十一日 一宮町教育委員会 」
(誤字は適宜修正しました)




<一の鳥居>




<白鳥井/ご神水>
ご神水は、金気臭に金気味です。塩味はなし。分析すれば鉄鉱泉かと思います。




<ご神砂>

<二の鳥居/蜀山人書神号銅額>
一宮町HPによると
「蜀山人の書になる神号銅額は、境内正面の石鳥居に建立以来久しく掲げられおり、最近採った拓本に「文化十三子四月太田覃書」の刻文と「南畝」の印、当時の宮司家などの名が読まれた。」
石鳥居は文化三年と刻まれており、石鳥居が建ってから現在の神号額が掲げられたこととなります。
蜀山人は大田南畝です。



<狛犬>


<三峯神社/玉前稲荷神社>


<さざれ石>

<神楽殿/玉前神社上総神楽>


<社殿>



<神木 いす>


<力石>



<護錨記念碑>
(説明板)
「明治の末、九十九里浜の海に沈んでいて度々漁網に被害をおよぼしていた錨が漁師の網に掛かり引き揚げられた。漁師達は玉前神社のお陰と大いに喜び、網主十一名が東郷平八郎海軍大将に篆額をいただき、その錨とともに碑を建てた。(以下略)」



<招魂殿>
「大正十二年建立。日清戦争・日露戦争以降第二次世界大戦までの一宮出身の三二五柱の戦没者をお祀りしている。~以下略~」
砲弾が奉納されています。
奉納の戦利品は散逸しているところが多いので珍しいと思います。




<はだしの道>
築山の周りをはだしで3周して祈願するはだしの道。
築山は古墳の可能性があるようです。

<西南戦争紀念碑/征清紀念碑>
はだしの道の築山に石碑が2基あります。
左に「西南戦争紀念碑」(熾仁親王筆)、右に日清戦争の「征清紀念碑」(彰仁親王筆)。




<末社 十二社>
「玉前神社末社十二神社ご由緒
一宮町内の邑々に昔から祀られ信仰を集めていた神々が明治初年政府の命により玉前神社に合祀され
十二神社として現在にいたりました~以下省略」


<玉前神社槇の群生>

<平廣常顕彰碑>


〇寿屋本家 一宮町一宮2987 0475-36-3989
門前に風格のある明治時代の中期に建てられた寿屋本家(すやほんけ)があります。たまたまの休みでした。

次に芥川荘へ向かう。
HP:https://tamasaki.org/
上総一ノ宮駅駅前の「タカラ亭」で食事後、玉前神社に芭蕉句碑を見に訪問。

<芭蕉句碑>
「叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」
(説明板)
「一宮町指定文化財(史跡)
芭蕉の句碑 平成四年一月十四日指定
「この碑は表面中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」と大書されている。「はせを」は芭蕉のことであり、元禄元年(一六八八年)秋冬の頃の作で、仁徳天皇の聖徳を称えたものである。左には「名にしおはゞ名取草より社宮哉 金波」を発句とする表十句を刻んである。
背面には、上部に「無尽言」の題字、その下に百四十九句を刻み、起名庵金波の芭蕉景仰の漢文銘があり、左端に「明治紀元戊辰晩秋 催主 千丁 河野五郎兵衛」とあり、上総千町村 (現茂原市千町)の俳人起名庵金波「河野五郎兵衛」一門によって建てらたもので、書も金波といわれている。
金波は文化元年(一八〇四)岡山の井出家に生れ、俳句を学び起名庵を創始した。嘉永五年(一八五二)千町村の河野家の養子として迎えられ明治二十年八十四歳で没した。
平成五年八月三十一日 一宮町教育委員会 」
(誤字は適宜修正しました)




<一の鳥居>




<白鳥井/ご神水>
ご神水は、金気臭に金気味です。塩味はなし。分析すれば鉄鉱泉かと思います。




<ご神砂>

<二の鳥居/蜀山人書神号銅額>
一宮町HPによると
「蜀山人の書になる神号銅額は、境内正面の石鳥居に建立以来久しく掲げられおり、最近採った拓本に「文化十三子四月太田覃書」の刻文と「南畝」の印、当時の宮司家などの名が読まれた。」
石鳥居は文化三年と刻まれており、石鳥居が建ってから現在の神号額が掲げられたこととなります。
蜀山人は大田南畝です。



<狛犬>


<三峯神社/玉前稲荷神社>


<さざれ石>

<神楽殿/玉前神社上総神楽>


<社殿>



<神木 いす>


<力石>



<護錨記念碑>
(説明板)
「明治の末、九十九里浜の海に沈んでいて度々漁網に被害をおよぼしていた錨が漁師の網に掛かり引き揚げられた。漁師達は玉前神社のお陰と大いに喜び、網主十一名が東郷平八郎海軍大将に篆額をいただき、その錨とともに碑を建てた。(以下略)」



<招魂殿>
「大正十二年建立。日清戦争・日露戦争以降第二次世界大戦までの一宮出身の三二五柱の戦没者をお祀りしている。~以下略~」
砲弾が奉納されています。
奉納の戦利品は散逸しているところが多いので珍しいと思います。




<はだしの道>
築山の周りをはだしで3周して祈願するはだしの道。
築山は古墳の可能性があるようです。

<西南戦争紀念碑/征清紀念碑>
はだしの道の築山に石碑が2基あります。
左に「西南戦争紀念碑」(熾仁親王筆)、右に日清戦争の「征清紀念碑」(彰仁親王筆)。




<末社 十二社>
「玉前神社末社十二神社ご由緒
一宮町内の邑々に昔から祀られ信仰を集めていた神々が明治初年政府の命により玉前神社に合祀され
十二神社として現在にいたりました~以下省略」


<玉前神社槇の群生>

<平廣常顕彰碑>


〇寿屋本家 一宮町一宮2987 0475-36-3989
門前に風格のある明治時代の中期に建てられた寿屋本家(すやほんけ)があります。たまたまの休みでした。

次に芥川荘へ向かう。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
東岸寺 小林一茶(木更津市)
○東岸寺 木更津市中央1-13-3
撰擇寺の裏に東岸寺があります。



<一茶句碑>
文化6(1809)年3月6日、東岸寺の大藤の下に於いて、「藤勧進」の句会が開かれ時の一茶の句碑が建っています。平成6年建立と新しい碑です。
「藤棚やうしろ明りの草の花」


(裏面)
「東岸寺藤勧進
文化六年三月六日
小林一茶四十七歳
平成六年十月吉日
東岸寺第二十七世
徳誉隆定」

なお、東岸寺藤勧進の句は以下。
藤棚や うしろ明りの 草の花 一茶
石なごの 玉にもかゝれ ふぢの花 雨十
必も 夕日さしけり 藤の花 魚沢
藤さくや 里はすらりと 更衣 大椿
あか桶も 皆ふぢ棚の 月よ哉 貞印
撰擇寺の裏に東岸寺があります。



<一茶句碑>
文化6(1809)年3月6日、東岸寺の大藤の下に於いて、「藤勧進」の句会が開かれ時の一茶の句碑が建っています。平成6年建立と新しい碑です。
「藤棚やうしろ明りの草の花」


(裏面)
「東岸寺藤勧進
文化六年三月六日
小林一茶四十七歳
平成六年十月吉日
東岸寺第二十七世
徳誉隆定」

なお、東岸寺藤勧進の句は以下。
藤棚や うしろ明りの 草の花 一茶
石なごの 玉にもかゝれ ふぢの花 雨十
必も 夕日さしけり 藤の花 魚沢
藤さくや 里はすらりと 更衣 大椿
あか桶も 皆ふぢ棚の 月よ哉 貞印
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tag : 小林一茶
②選擇寺(木更津市)
②選擇寺(木更津市)
「於竹大日如来供養塔」に続いて、他を見ていきます。
<柴原和詩碑>
木更津県は、1871(明治4)年に設置され、明治6年に印旛県と統合し千葉県が誕生しています。
柴原和は、木更津県の権令を務め、選擇寺を宿舎とし、後に初代千葉県令に就任しました。
2018(平成30)年3月11日、柴原の詩書を複写し刻んだ詩碑が設置されています。



<木更津警察署発祥之地>



<「思亭記」碑>
亀田鵬斉の門人で、書家の寺本海若が文政10(1827)年11月に書し建立。



<軍用兎之霊>
戦時中、兎の毛皮が動員されており、兎の霊を弔う碑です。
軍用馬の碑は多く見かけますが、軍用兎の碑は初めて見ました。

<わらべ地蔵尊/おもちゃ塚>
童心を育むためのようです。


<保科正重と母の墓>
左に保科正直次男正重墓、右に母墓。


<歴代上人墓>

<藤勧進>
(説明板)
「藤勧進
小林一茶は、木更津に度々訪れ、選擇寺に宿泊する事もありました。
文化六年三月六日、当時末寺の東岸寺の大藤の下に於いて、一茶俳諧友の大椿・雨十・魚沢・貞印等が集まり、「藤勧進」の句会が開かれた事が「文化句帖」に記載されています。
選擇寺から東岸寺にかけ、幾つもの藤棚があったと伝えられ、その「藤勧進」句会を偲ばせる、唯一の藤棚が、木更津第一小学校に花を咲かせています。
又、俳諧の友「大椿」は、選擇寺二十八世潮譽秀海上人で、東岸寺住職を経て選擇寺に入山されました。一茶と大変親しかった様です。
本年秀海上人二百回忌菩提の為、「藤勧進」の折詠んだ一首を石に刻み供養とするものです。 合掌
平成二十年十月六日
浄土宗選擇寺 」
「藤さくや 里はすらりと 更衣」
道を隔てた東岸寺には、小林一茶の藤勧進句碑があります。


<木更津市近代幼児・児童教育発祥之地>


<「こうもり安」の墓>
(説明板)
「「こうもり安」の墓
歌舞伎「与話情浮名横櫛」で切られ与三郎の相棒としておなじみのこうもり安は、本名を山口瀧蔵といい、文化元年、木更津五平町の大きな油屋「紀の国屋」の次男として生まれました。芝居中の人物像とは異なり、実際はなかなかの男振り、天性の美声に加え、金回りもよく、花柳界の寵児といわれれるほどの人物で、ゆすりを働くような人柄ではなかったようです。毎夜ふらふらと出歩くことからこうもり安と呼ばれ、芝居では右ほほにあるこうもりの入れ墨は、実は左の太ももにあったと言われています。
ここ選擇寺にある紀の国屋代々の墓碑銘には「進岳浄精信士 慶応四年四月五日」と刻まれています。(本堂左側)
木更津市 木更津市観光協会 」




<その他>





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