明治・大正の名所⑥ 池上温泉場光明館
○池上温泉場光明館 大田区池上1-11-1 本門寺公園
明治19(1886)年に、今の池上本門寺公園内に「池上温泉場光明館」(明ぼの楼・光明楼・光明館)が開業しました。池の付近から鉱泉が湧き出ていて、桶で担いで運び、風呂を沸かしました。
明治28(1895)年に「明ぼの楼」は手狭となり、木下順庵の隠居跡(現:大森めぐみ教会 池上1-19-35)に移転しました。昭和4(1929)年に閉鎖しています。
光明館は鉱泉宿として残り、後に「松葉館」に改名しました。その後温泉は廃止となり、昭和13(1938)年12月に東京市の池上本門寺公園が設立されました(その後、大田区に移管)。
(「わがまち池上」124号、125号を参照しました。)
(池上本門寺公園〜本門寺墓地側入口)


「一日の行楽」(田山花袋 大正7年)/「東京近郊一日の行楽」(田山花袋 大正12年)
田山花袋が、移転後の「明ぼの楼」について記述しています。鉱泉宿兼料理屋(一方つれ込み宿)としているので、移転後も、鉱泉湧出地(現:本門寺公園)から運んで沸かしていたか、新たに堀ったのでしょうかね。
「この本門寺の東の山の表に当つて、鉱泉宿兼料理屋の明ぼの楼がある。半ば、丘によつて建てられてあつて、その入口は丘の下になつてゐるが、楼は階梯で高く上へ登つて行くやうになつてゐる。矢張、梅の名所で、楼をめぐつて皆梅花である。春は遊客がかなりに多く集まつて来る。
この家は一方つれ込宿で、客がよく藝者などを伴れて泊りに来る。」


○めぐみ坂 大田区池上1丁目18番・19番
かつては、昭和4(1929)年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」 にちなみ「あけぼの坂」とも呼ばれた坂道です。
(大田区ホームページ「めぐみ坂」より引用)
「めぐみ坂
池上一丁目18番と19番の間を堤方神社脇まで上がる坂道。坂を上がる左側にめぐみ教会があるため、この名で呼ばれることが多いようです。
ところが、昭和5年発行の『大東京川崎横浜復興大地図』では、この坂は「あけぼの坂」となっています。明治時代中期に、徳富蘆花の小説『富士』にもでてくる料亭「あけぼ乃楼」が現在のめぐみ教会の敷地に開業し、それにちなんだ名であろうと思われます。
「あけぼ乃楼」は、明治大正期は大変繁盛し、元勲、貴族が連夜宴を催し、日露戦争の戦勝祝賀会も催されたと伝えられていますが、昭和4年に廃業しました。
地元の古老の方々によると、この坂は古くは相の坂とも呼ばれていたそうです。」
<標柱「めぐみ坂」> 大田区池上1-19
「めぐみ坂
現在では、坂の西側にめぐみ教会があるため、めぐみ坂と呼ばれることが多いようである。かつては、昭和四年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」 にちなみ「あけぼの坂」とも、古くは「相の坂」とも呼ばれた坂道である。
昭和六十三年十一月 大田区」



○「木下順庵先生之墓跡」「当地由来」 大田区池上1-19-35 大森めぐみ教会
大森めぐみ教会の正門のかたわらに「木下順庵先生墓跡」碑と、説明板「当地由来」が掲げられています。




<木下順庵先生之墓跡>
墓は、大正3(1914)年に大塚先儒墓所に改葬されており、墓跡碑が建てられています。

<当地由来>
「当地由来
大森めぐみ教会の正門の傍らに建つ「木下順庵先生墓跡」の碑は、この地に江戸前期の儒学者として有名な木下順庵(一六二一〜九八)の基があったことを伝えている。
木下順庵は、五代将軍徳川綱吉の時(一六八七〜一七○九)、幕府の儒官、将軍の侍講に挙げられ、新井白石ら多くの儒学者を育てた。その功により、元禄十一年(一六九八)に亡くなると、幕府よりこの地を墓所として与えられ、堤傍(堤方)村村民荒忠七とその子孫が墓を守っていたが、大正三年(一九一四)全国の儒者とともに小石川の大塚先儒墓所に改葬された。
明治期になって、この地で鉱泉が発見されると、明治十九年(一八八六)に河野実成が大料亭「明ぼの楼(明保乃楼、曙楼)」を建て、光明館などの池上温泉場が設けられた。池上本門寺に連なる台地斜面にあり、達く房総を望む景勝地であったことから、多くの政治家や著述家たちが訪れた。田山花袋の『東京近郊』や徳富蓋花の『富士」などにも登場する。庭には無数の梅や南天等が植えられていたといい、今も庭内に残る二本の梅の木は、三代将軍家光(一六二四〜五○)のお手植え梅と伝えられる。
この地に、大森めぐみ教会と幼稚園が移転してきたのは、昭和二十年(一六四五)五月のことである。大森めぐみ教会と幼稚園は、昭和二年(一九二七)、大田区新井宿(現中央七丁目)に岩村清四郎牧師が設立、更に昭和十四年(一九三九)めぐみ高等女学校を創立したが、不幸にして戦災によって焼失したため、教会と幼稚園だけがこの地に移転した。敷地二○○○坪。」

○曙楼門柱跡 大田区池上1-19-40
妙雲寺の駐車場の東門脇に、説明板「曙楼門柱跡」が掲げられています。
(説明板)
「曙楼門柱跡
当山は江戸幕府の不受不施禁圧と明治維新政府の廃仏政策の打?により境内地の大半を失い、こ^に明治初期創業された料亭曙楼の門柱が建てられていた。木骨煉瓦造りの珍しい構造で保存を望む声も多かったが、木骨の腐食甚しく復旧不可のため、日運聖人七百遠忌記念当山建設事業の折除却された。
妙雲寺」



<庚申塔>
確認できませんが、資料によると延宝8(1680)年銘らしい庚申塔があります。



○妙雲寺 大田区池上1-19-40
<縁起>
「妙雲寺 縁起
元和年間(一六一五〜一六二三)長勝寺と同じ智雄院日正聖人により開創。小湊誕生寺の末寺となる。守護神として若宮八幡社(堤方神社)を勧請したのもこの頃と思われ、のちに妙雲寺が別当となる起因となった。
駐車場入口にある庚申塔は、青面金剛と三猿が「見ざる、聞かざる、言わざる」の謹慎態度を示して浮彫りにされたもので、水をかけて祈願すると足腰が丈夫になると伝えられている。」


明治19(1886)年に、今の池上本門寺公園内に「池上温泉場光明館」(明ぼの楼・光明楼・光明館)が開業しました。池の付近から鉱泉が湧き出ていて、桶で担いで運び、風呂を沸かしました。
明治28(1895)年に「明ぼの楼」は手狭となり、木下順庵の隠居跡(現:大森めぐみ教会 池上1-19-35)に移転しました。昭和4(1929)年に閉鎖しています。
光明館は鉱泉宿として残り、後に「松葉館」に改名しました。その後温泉は廃止となり、昭和13(1938)年12月に東京市の池上本門寺公園が設立されました(その後、大田区に移管)。
(「わがまち池上」124号、125号を参照しました。)
(池上本門寺公園〜本門寺墓地側入口)


「一日の行楽」(田山花袋 大正7年)/「東京近郊一日の行楽」(田山花袋 大正12年)
田山花袋が、移転後の「明ぼの楼」について記述しています。鉱泉宿兼料理屋(一方つれ込み宿)としているので、移転後も、鉱泉湧出地(現:本門寺公園)から運んで沸かしていたか、新たに堀ったのでしょうかね。
「この本門寺の東の山の表に当つて、鉱泉宿兼料理屋の明ぼの楼がある。半ば、丘によつて建てられてあつて、その入口は丘の下になつてゐるが、楼は階梯で高く上へ登つて行くやうになつてゐる。矢張、梅の名所で、楼をめぐつて皆梅花である。春は遊客がかなりに多く集まつて来る。
この家は一方つれ込宿で、客がよく藝者などを伴れて泊りに来る。」


○めぐみ坂 大田区池上1丁目18番・19番
かつては、昭和4(1929)年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」 にちなみ「あけぼの坂」とも呼ばれた坂道です。
(大田区ホームページ「めぐみ坂」より引用)
「めぐみ坂
池上一丁目18番と19番の間を堤方神社脇まで上がる坂道。坂を上がる左側にめぐみ教会があるため、この名で呼ばれることが多いようです。
ところが、昭和5年発行の『大東京川崎横浜復興大地図』では、この坂は「あけぼの坂」となっています。明治時代中期に、徳富蘆花の小説『富士』にもでてくる料亭「あけぼ乃楼」が現在のめぐみ教会の敷地に開業し、それにちなんだ名であろうと思われます。
「あけぼ乃楼」は、明治大正期は大変繁盛し、元勲、貴族が連夜宴を催し、日露戦争の戦勝祝賀会も催されたと伝えられていますが、昭和4年に廃業しました。
地元の古老の方々によると、この坂は古くは相の坂とも呼ばれていたそうです。」
<標柱「めぐみ坂」> 大田区池上1-19
「めぐみ坂
現在では、坂の西側にめぐみ教会があるため、めぐみ坂と呼ばれることが多いようである。かつては、昭和四年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」 にちなみ「あけぼの坂」とも、古くは「相の坂」とも呼ばれた坂道である。
昭和六十三年十一月 大田区」



○「木下順庵先生之墓跡」「当地由来」 大田区池上1-19-35 大森めぐみ教会
大森めぐみ教会の正門のかたわらに「木下順庵先生墓跡」碑と、説明板「当地由来」が掲げられています。




<木下順庵先生之墓跡>
墓は、大正3(1914)年に大塚先儒墓所に改葬されており、墓跡碑が建てられています。

<当地由来>
「当地由来
大森めぐみ教会の正門の傍らに建つ「木下順庵先生墓跡」の碑は、この地に江戸前期の儒学者として有名な木下順庵(一六二一〜九八)の基があったことを伝えている。
木下順庵は、五代将軍徳川綱吉の時(一六八七〜一七○九)、幕府の儒官、将軍の侍講に挙げられ、新井白石ら多くの儒学者を育てた。その功により、元禄十一年(一六九八)に亡くなると、幕府よりこの地を墓所として与えられ、堤傍(堤方)村村民荒忠七とその子孫が墓を守っていたが、大正三年(一九一四)全国の儒者とともに小石川の大塚先儒墓所に改葬された。
明治期になって、この地で鉱泉が発見されると、明治十九年(一八八六)に河野実成が大料亭「明ぼの楼(明保乃楼、曙楼)」を建て、光明館などの池上温泉場が設けられた。池上本門寺に連なる台地斜面にあり、達く房総を望む景勝地であったことから、多くの政治家や著述家たちが訪れた。田山花袋の『東京近郊』や徳富蓋花の『富士」などにも登場する。庭には無数の梅や南天等が植えられていたといい、今も庭内に残る二本の梅の木は、三代将軍家光(一六二四〜五○)のお手植え梅と伝えられる。
この地に、大森めぐみ教会と幼稚園が移転してきたのは、昭和二十年(一六四五)五月のことである。大森めぐみ教会と幼稚園は、昭和二年(一九二七)、大田区新井宿(現中央七丁目)に岩村清四郎牧師が設立、更に昭和十四年(一九三九)めぐみ高等女学校を創立したが、不幸にして戦災によって焼失したため、教会と幼稚園だけがこの地に移転した。敷地二○○○坪。」

○曙楼門柱跡 大田区池上1-19-40
妙雲寺の駐車場の東門脇に、説明板「曙楼門柱跡」が掲げられています。
(説明板)
「曙楼門柱跡
当山は江戸幕府の不受不施禁圧と明治維新政府の廃仏政策の打?により境内地の大半を失い、こ^に明治初期創業された料亭曙楼の門柱が建てられていた。木骨煉瓦造りの珍しい構造で保存を望む声も多かったが、木骨の腐食甚しく復旧不可のため、日運聖人七百遠忌記念当山建設事業の折除却された。
妙雲寺」



<庚申塔>
確認できませんが、資料によると延宝8(1680)年銘らしい庚申塔があります。



○妙雲寺 大田区池上1-19-40
<縁起>
「妙雲寺 縁起
元和年間(一六一五〜一六二三)長勝寺と同じ智雄院日正聖人により開創。小湊誕生寺の末寺となる。守護神として若宮八幡社(堤方神社)を勧請したのもこの頃と思われ、のちに妙雲寺が別当となる起因となった。
駐車場入口にある庚申塔は、青面金剛と三猿が「見ざる、聞かざる、言わざる」の謹慎態度を示して浮彫りにされたもので、水をかけて祈願すると足腰が丈夫になると伝えられている。」



明治・大正の名所⑤ 穴守鉱泉
○鈴木新田
江戸後期、鈴木弥五右衛門が羽田浦浅瀬の「要島」を中心として開墾し、鈴木新田と呼ばれるようになりました。羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の三つの町が生まれました。
海岸に堤防を巡らし、「要島」の堤防の上に新田開発の守護神として「穴守稲荷神社」を祀りました。「穴守」という社名から、遊女からの信仰も篤かったといいます。また、競馬・競輪・宝くじなどのファンからの信仰も集めるようになりました。
GHQは昭和20(1945)年9月21日、三町の3000人に強制立ち退きを命じ、穴守稲荷神社の大鳥居を除きすべての建物は壊されました。昭和27(1952)年7月に日本に返還され、東京国際空港として再出発しました。
(羽田の大鳥居の脇に建つ「鈴木弥五右衛門」の碑)



○穴守鉱泉
明治27(1894)年 、和泉茂八が穴守稲荷神社の境内そばで、ナトリウム冷鉱泉を発見し、泉館という温泉旅館を起こしました。以後、鉱泉宿や料理屋、芸妓置屋などが軒を並べていきました。
(「旧三町顕彰の碑」の解説板より)


「一日の行楽」(田山花袋 博文館 大正7年)
田山花袋が穴守鉱泉について、記載しています。
「川崎大師と穴守稲荷(抜粋)
その他穴森には、鉱泉をわかして客を待つ旅館兼料理屋が二二軒ある。中で、羽田館と言ふのが一番大きい。つれ込み宿としてもきこえてゐる。」

「武蔵國荏原郡羽田穴守神社全圖」(Wikipedia 明治34年)
本社の横に、「鉱泉場」の大きな幟が三本建っています。手前から「泉館」「羽田館」「要館」「西本」と見えます。羽田館の手前には「水行場」が見えます。


また、「鉱泉倶楽部」があります、日帰り館でしょうか?

「穴守神社」(最新東京名所写真帖 小島又市 明治42年)
写真下の解説文を見ると、とても賑わっていた様子が伺えます。
「荏原郡羽田町鈴木新田にあり 近時の建社たりと雖も霊験灼々たるを以て〜。此地海魚に富み加ふるに鉱泉の温浴あり 一夜の族眠を貪ぼるに足れり〜。」

<京浜電気鉄道>
京浜電気鉄道(現:京急)は、穴守稲荷神社への参拝者を運ぶため、明治35(1902)年に蒲田〜穴守間を開業しました。大正2(1913)年には神社の前まで延伸され、門前は一大歓楽街として栄えました。
(旧三町復元タイルのタイル写真、大鳥居掲示抜粋、旧三町の解説板抜粋 )




○「天然温泉 泉天空の湯 羽田空港」が、2022年12月21日(水)に開業します。HP
【源泉名】羽田空港 泉天空温泉
【泉質】含よう素-ナトリウム塩化物強温泉(高張性・弱アルカリ性)
【入浴料】4800円
塩辛い高張泉ですね、穴守鉱泉も塩辛かったようです。
江戸後期、鈴木弥五右衛門が羽田浦浅瀬の「要島」を中心として開墾し、鈴木新田と呼ばれるようになりました。羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の三つの町が生まれました。
海岸に堤防を巡らし、「要島」の堤防の上に新田開発の守護神として「穴守稲荷神社」を祀りました。「穴守」という社名から、遊女からの信仰も篤かったといいます。また、競馬・競輪・宝くじなどのファンからの信仰も集めるようになりました。
GHQは昭和20(1945)年9月21日、三町の3000人に強制立ち退きを命じ、穴守稲荷神社の大鳥居を除きすべての建物は壊されました。昭和27(1952)年7月に日本に返還され、東京国際空港として再出発しました。
(羽田の大鳥居の脇に建つ「鈴木弥五右衛門」の碑)



○穴守鉱泉
明治27(1894)年 、和泉茂八が穴守稲荷神社の境内そばで、ナトリウム冷鉱泉を発見し、泉館という温泉旅館を起こしました。以後、鉱泉宿や料理屋、芸妓置屋などが軒を並べていきました。
(「旧三町顕彰の碑」の解説板より)


「一日の行楽」(田山花袋 博文館 大正7年)
田山花袋が穴守鉱泉について、記載しています。
「川崎大師と穴守稲荷(抜粋)
その他穴森には、鉱泉をわかして客を待つ旅館兼料理屋が二二軒ある。中で、羽田館と言ふのが一番大きい。つれ込み宿としてもきこえてゐる。」

「武蔵國荏原郡羽田穴守神社全圖」(Wikipedia 明治34年)
本社の横に、「鉱泉場」の大きな幟が三本建っています。手前から「泉館」「羽田館」「要館」「西本」と見えます。羽田館の手前には「水行場」が見えます。


また、「鉱泉倶楽部」があります、日帰り館でしょうか?

「穴守神社」(最新東京名所写真帖 小島又市 明治42年)
写真下の解説文を見ると、とても賑わっていた様子が伺えます。
「荏原郡羽田町鈴木新田にあり 近時の建社たりと雖も霊験灼々たるを以て〜。此地海魚に富み加ふるに鉱泉の温浴あり 一夜の族眠を貪ぼるに足れり〜。」

<京浜電気鉄道>
京浜電気鉄道(現:京急)は、穴守稲荷神社への参拝者を運ぶため、明治35(1902)年に蒲田〜穴守間を開業しました。大正2(1913)年には神社の前まで延伸され、門前は一大歓楽街として栄えました。
(旧三町復元タイルのタイル写真、大鳥居掲示抜粋、旧三町の解説板抜粋 )




○「天然温泉 泉天空の湯 羽田空港」が、2022年12月21日(水)に開業します。HP
【源泉名】羽田空港 泉天空温泉
【泉質】含よう素-ナトリウム塩化物強温泉(高張性・弱アルカリ性)
【入浴料】4800円
塩辛い高張泉ですね、穴守鉱泉も塩辛かったようです。
船橋ヘルスセンター
○船橋ヘルスセンター 船橋市浜町2-1-1
かつて存在した大規模な綜合レジャー施設「船橋ヘルスセンター」、現在は「ららぽーとTOKYO-BAY」。
開業:1955(昭和30)年11月3日、閉業:1977(昭和52)年5月5日。
遊覧飛行が珍しく、そこで写真を撮った記憶が残ります(乗っていないけど)。外で綱渡りをやっていたのがインパクト強く記憶に残ります。
船橋ヘルスセンターの痕跡が残っています。
<週間読売選定 全国温泉コンクールベストテン記念碑 昭和三十二年>
船橋ヘルスセンターが「週刊読売」選定の全国温泉コンクールベストテンに入選した時の記念碑が、ららぽーとTOKYO-BAY 第6駐車場にあります。船橋市浜町公民館の隣りです。
碑には鳩の彫像が載っています。
1位 定山渓温泉(北海道) 6位 道後温泉(愛媛)
2位 船橋ヘルスセンター(千葉) 7位 飯坂温泉(福島)
3位 熱海温泉(静岡) 8位 川原湯温泉(群馬)
4位 指宿温泉(鹿児島) 9位 嬉野温泉(佐賀)
5位 戸倉・上山田温泉(長野) 10位 別府温泉(大分)
つい最近、川原湯温泉でも見てきたので、船橋ヘルスセンター跡地にも現存しているので見てきました。












<伏見稲荷>
記念碑のすぐ近くには、伏見稲荷があります。




かつて存在した大規模な綜合レジャー施設「船橋ヘルスセンター」、現在は「ららぽーとTOKYO-BAY」。
開業:1955(昭和30)年11月3日、閉業:1977(昭和52)年5月5日。
遊覧飛行が珍しく、そこで写真を撮った記憶が残ります(乗っていないけど)。外で綱渡りをやっていたのがインパクト強く記憶に残ります。
船橋ヘルスセンターの痕跡が残っています。
<週間読売選定 全国温泉コンクールベストテン記念碑 昭和三十二年>
船橋ヘルスセンターが「週刊読売」選定の全国温泉コンクールベストテンに入選した時の記念碑が、ららぽーとTOKYO-BAY 第6駐車場にあります。船橋市浜町公民館の隣りです。
碑には鳩の彫像が載っています。
1位 定山渓温泉(北海道) 6位 道後温泉(愛媛)
2位 船橋ヘルスセンター(千葉) 7位 飯坂温泉(福島)
3位 熱海温泉(静岡) 8位 川原湯温泉(群馬)
4位 指宿温泉(鹿児島) 9位 嬉野温泉(佐賀)
5位 戸倉・上山田温泉(長野) 10位 別府温泉(大分)
つい最近、川原湯温泉でも見てきたので、船橋ヘルスセンター跡地にも現存しているので見てきました。












<伏見稲荷>
記念碑のすぐ近くには、伏見稲荷があります。





tag : 船橋市
明治・大正の名所④ 網代温泉
〇網代温泉 あきる野市網代75
網代弁天山の南麓にある、廃業して久しいらしい網代温泉の現況を見てきました。以前はGoogle mapでの記載がありましたが今は記載が消えました。網代温泉の名称は消えましたが、山の中の一軒家が今でも描かれています。
江戸時代から玉之湯として知られており、明治・大正・昭和・平成と一軒宿として営業してきました。「全国温泉鉱泉ニ関スル調査」(内務省衛生局大正12年)には記載はなく、一軒宿で名所というわけではありませんが、文人も訪れて記録に残しているのでとりあげます。
北村透谷は、「三日幻境」で川口村(八王子市川口地区)での生活を著しており、1892(明治25)年7月28日、秋山国三郎の孫たちと、網代温泉を訪れ、夕方に川口村森下に戻ります。
以下該当部分です。引用元青空文庫。
「三日幻境(抜粋) 北村透谷
少娘と其が兄なる少年とを携へて、網代と呼べる仙境に蹈入れり。網代は山間の一温泉塲なり、むかし蒼海と手を携へて爰に遊びし事あり、巌に滴る涓水に鉱気ありければ、これを浴室にうつし、薪火をもて暖めつゝ、近郷近里の老若男女、春冬の閑時候に来り遊ぶの便に供せり。一条の山径草深くして、昨夕の露なほ葉上にのこり、かゝぐる裳も湿れがちに、峡々を越えて行けば、昔遊の跡歴々として尋ぬべし。老鶯に送迎せられ、渓水に耳奪はれ、やがて砧の音と欺かれて、とある一軒の後ろに出づれば、仙界の老田爺が棒打とか呼べることをなすにてありけり。こゝは網代の村端にて、これより渓澗に沿ひ山一つ登れば、昔し遊びし浴亭、森粛たる叢竹の間にあらはれぬ。この行甚だ楽しからず、蒼海約して未だ来らず、老侠客の面未だ見ず、加に魚なく肉なく、徒らに浴室内に老女の喧囂を聞くのみ。肱を曲げて一睡を貪ぼると思ふ間まに、夕陽已に西山に傾むきたれば、晩蝉の声に別れてこの桃源を出で、元の山路に拠らで他の草径をたどり、我幻境にかへりけり、この時弦月漸く明らかに、妙想胸に躍り、歩々天外に入るかと覚えたり。」
※北村透谷(「近代日本人の肖像」国立国会図書館より引用)
明治元年11月16日〜明治27年5月16日
(1868年12月29日〜1894年5月16日)

<現況>
五日市トンネルの手前から東京五日市カントリー倶楽部へ向かう道の途中、弁天山方面に向かう小道があります。電柱が建っているのがこの先にある網代温泉の名残でもあります。木々の切り株が目立ちます。
宿は休業中というより草木に埋もれて廃墟でした。昔から湧いている鉱泉なので、祠や石碑がありそうなもんですが、わかりませんでした。






○網代弁天山公園 あきる野市網代
網代温泉から、山道をそのまま登れば網代弁天山へ辿り着けるようですが、正規の弁天山登山道入口へ向かいました。
網代(自治)会館前の分岐に最後の道標があり、右に折れると「女中念仏供養塔」が建っています。その先の貴志島神社の赤い鳥居に到着。鳥居の場所が網代弁天山登山道入口です。
網代弁天山への登山道一帯が網代弁天山公園となります。昔は賑わった観光地で、網代弁天山リフトが設けられていましたが、撤去されています。
昭和39年4月20日の福生新聞(福生図書館所有)によると、五日市町網代地区で共有財産の山林を売って、建設費用をつくり、弁天山に全長320mのリフトを夏までに完成させるとの記事が掲載されています。
弁天山には向かわず、またの機会にしました。なお、網代橋は、2019年台風19号による損傷で、通行止でした。




網代弁天山の南麓にある、廃業して久しいらしい網代温泉の現況を見てきました。以前はGoogle mapでの記載がありましたが今は記載が消えました。網代温泉の名称は消えましたが、山の中の一軒家が今でも描かれています。
江戸時代から玉之湯として知られており、明治・大正・昭和・平成と一軒宿として営業してきました。「全国温泉鉱泉ニ関スル調査」(内務省衛生局大正12年)には記載はなく、一軒宿で名所というわけではありませんが、文人も訪れて記録に残しているのでとりあげます。
北村透谷は、「三日幻境」で川口村(八王子市川口地区)での生活を著しており、1892(明治25)年7月28日、秋山国三郎の孫たちと、網代温泉を訪れ、夕方に川口村森下に戻ります。
以下該当部分です。引用元青空文庫。
「三日幻境(抜粋) 北村透谷
少娘と其が兄なる少年とを携へて、網代と呼べる仙境に蹈入れり。網代は山間の一温泉塲なり、むかし蒼海と手を携へて爰に遊びし事あり、巌に滴る涓水に鉱気ありければ、これを浴室にうつし、薪火をもて暖めつゝ、近郷近里の老若男女、春冬の閑時候に来り遊ぶの便に供せり。一条の山径草深くして、昨夕の露なほ葉上にのこり、かゝぐる裳も湿れがちに、峡々を越えて行けば、昔遊の跡歴々として尋ぬべし。老鶯に送迎せられ、渓水に耳奪はれ、やがて砧の音と欺かれて、とある一軒の後ろに出づれば、仙界の老田爺が棒打とか呼べることをなすにてありけり。こゝは網代の村端にて、これより渓澗に沿ひ山一つ登れば、昔し遊びし浴亭、森粛たる叢竹の間にあらはれぬ。この行甚だ楽しからず、蒼海約して未だ来らず、老侠客の面未だ見ず、加に魚なく肉なく、徒らに浴室内に老女の喧囂を聞くのみ。肱を曲げて一睡を貪ぼると思ふ間まに、夕陽已に西山に傾むきたれば、晩蝉の声に別れてこの桃源を出で、元の山路に拠らで他の草径をたどり、我幻境にかへりけり、この時弦月漸く明らかに、妙想胸に躍り、歩々天外に入るかと覚えたり。」
※北村透谷(「近代日本人の肖像」国立国会図書館より引用)
明治元年11月16日〜明治27年5月16日
(1868年12月29日〜1894年5月16日)

<現況>
五日市トンネルの手前から東京五日市カントリー倶楽部へ向かう道の途中、弁天山方面に向かう小道があります。電柱が建っているのがこの先にある網代温泉の名残でもあります。木々の切り株が目立ちます。
宿は休業中というより草木に埋もれて廃墟でした。昔から湧いている鉱泉なので、祠や石碑がありそうなもんですが、わかりませんでした。






○網代弁天山公園 あきる野市網代
網代温泉から、山道をそのまま登れば網代弁天山へ辿り着けるようですが、正規の弁天山登山道入口へ向かいました。
網代(自治)会館前の分岐に最後の道標があり、右に折れると「女中念仏供養塔」が建っています。その先の貴志島神社の赤い鳥居に到着。鳥居の場所が網代弁天山登山道入口です。
網代弁天山への登山道一帯が網代弁天山公園となります。昔は賑わった観光地で、網代弁天山リフトが設けられていましたが、撤去されています。
昭和39年4月20日の福生新聞(福生図書館所有)によると、五日市町網代地区で共有財産の山林を売って、建設費用をつくり、弁天山に全長320mのリフトを夏までに完成させるとの記事が掲載されています。
弁天山には向かわず、またの機会にしました。なお、網代橋は、2019年台風19号による損傷で、通行止でした。




tag : 閉館
明治・大正の名所③ 鶴の湯温泉
明治・大正の名所 鶴の湯温泉
○ 全国温泉鉱泉ニ関スル調査
「全国温泉鉱泉ニ関スル調査」(内務省衛生局編 内務省衛生局 大正12年)によると、東京府には、鶴ノ温泉(奥多摩)、岩倉温泉(青梅)、森ヶ崎温泉の3つが掲載されています。
浴客者数を見ると、鶴の温泉と岩倉温泉が4~5百人に対し、森ヶ崎鉱泉は5万5千410人と桁違いに多いです。
鶴の湯温泉と岩倉(岩蔵)温泉は、今も営業しています。
両温泉は、東京都内では一番古い温泉だったわけです。

○鶴の湯温泉源泉地 奥多摩町原568
フェンスで囲まれた場所がポンプ場で、湖底から温泉をくみ上げています。
ここからタンクローリーで奥多摩湖下界の宿へローリー湯しています。
「鶴の湯温泉由来
鶴の湯温泉は、南北朝時代の延文年間(1356~61)頃から、利用され始めており、江戸時代には武州多摩郡原村温泉として、多摩川沿いの旧青梅街道わきにあって、伊豆方面にくらべ江戸に近いところから、多くの来遊客で賑わい、湖底に沈むまで、湯治場として600年の長い間、栄えてきました。
その昔、弓矢で射られて傷ついた一羽の鶴が、崖から湧出する温泉に身を浸して、傷を癒し、元気に飛び去ったのを見て、初めてその効験を知り、人々が浴する様になり「鶴の湯」と呼ばれるようになったと、伝えられています。
平成3年、小河内ダム建設によって水没した、「シカの湯、ムシの湯、ツルの湯」の三つの源泉を合流して、湖底からポンプで汲み上げて、「鶴の湯温泉」として復活いたしました。
現在は、奥多摩湖周辺の旅館、民宿及び販売所にタンクローリーで毎日、配湯されています。
アルカリ性単純硫黄温泉で、かすかに「タマゴ」の香りがする、お肌にツルツルの美人の湯です。ほとんど無色透明で、諸病に効くことで名湯として、評判の温泉です。」(小河内振興財団HPより引用)






案内図にある宿で、入浴できる施設はなくなりました。
ローリー車は案内図に記載されていない下界の宿へローリーしています。


垂れ流しは、相当前から中止で、雨水がたまっています。



<小河内振興財団>
小河内振興財団が鶴の湯温泉利用者組合の施設へタンクローリーで配湯しています。
○温泉神社 奥多摩町原276
かつては鶴の湯の湯壺の傍らにありましたが、現在地に移転しています。
熱海トンネル手前左手の小道に入り、民宿小河内荘を右手に過ぎ、その先の倉戸山登山口の階段を上ります。










<武州多摩郡小河内温泉之碑>(奥多摩町指定有形文化財)
『「地誌等に所載するところの温泉場は、海内(国内)に二百余ヶ所あるが小河内温泉は、それらの首級(トップクラス)である。」と江戸時代後期の文政4年(1821)亀田鵬斎選書による小河内温泉之碑文にある。
又、温泉の碑の裏面には、鶯邨抱一の「千代にほふ鶴の出温泉や夏しら須」の句がある。』(小河内鶴の湯温泉の由来より一部引用)


<水天宮石碑>

○鶴の湯温泉郷
「鶴の湯温泉郷」の看板がありますが、奥多摩湖畔で鶴の湯温泉に入浴できる施設はなくなりました。
奥多摩湖下界の氷川、鳩ノ巣、二俣尾の宿にローリー湯されているので、そこで入浴できます。

【日帰り入浴可能施設】
おくたま路
820円 青梅市二俣尾2-371 0428-78-9711
青梅市までローリーしています。
はとのす荘 1150円 奥多摩町棚沢662 0428-84-7123
源泉「鶴の湯温泉」を露天風呂で使用、内湯は自家源泉「鳩ノ巣温泉」使用。

観光荘 700円 奥多摩町氷川1765 0428-83-2122

玉翠荘 800円 奥多摩町氷川160 0428-83-2363
入浴しました。

【休業】
馬頭館 奥多摩町川野73 0428-86-2151
休業して久しいようです。






小河内荘 奥多摩町原160 0428-86-2550
温泉神社に行く途中に通過しましたが、駐車場は封鎖、民宿は閉ざされていました。




「中止」
丹下堂 奥多摩町原180 0428-86-2235
2020年3月から温泉利用は中止です。
再開の予定を聞いたところ、予定なしとのこと。
食堂は賑わっていました。




◇鶴の湯温泉郷では入浴できるところはなくなったので、奥多摩湖から下界の奥多摩駅徒歩3分の玉翠荘へ。こちらに続く
○ 全国温泉鉱泉ニ関スル調査
「全国温泉鉱泉ニ関スル調査」(内務省衛生局編 内務省衛生局 大正12年)によると、東京府には、鶴ノ温泉(奥多摩)、岩倉温泉(青梅)、森ヶ崎温泉の3つが掲載されています。
浴客者数を見ると、鶴の温泉と岩倉温泉が4~5百人に対し、森ヶ崎鉱泉は5万5千410人と桁違いに多いです。
鶴の湯温泉と岩倉(岩蔵)温泉は、今も営業しています。
両温泉は、東京都内では一番古い温泉だったわけです。

○鶴の湯温泉源泉地 奥多摩町原568
フェンスで囲まれた場所がポンプ場で、湖底から温泉をくみ上げています。
ここからタンクローリーで奥多摩湖下界の宿へローリー湯しています。
「鶴の湯温泉由来
鶴の湯温泉は、南北朝時代の延文年間(1356~61)頃から、利用され始めており、江戸時代には武州多摩郡原村温泉として、多摩川沿いの旧青梅街道わきにあって、伊豆方面にくらべ江戸に近いところから、多くの来遊客で賑わい、湖底に沈むまで、湯治場として600年の長い間、栄えてきました。
その昔、弓矢で射られて傷ついた一羽の鶴が、崖から湧出する温泉に身を浸して、傷を癒し、元気に飛び去ったのを見て、初めてその効験を知り、人々が浴する様になり「鶴の湯」と呼ばれるようになったと、伝えられています。
平成3年、小河内ダム建設によって水没した、「シカの湯、ムシの湯、ツルの湯」の三つの源泉を合流して、湖底からポンプで汲み上げて、「鶴の湯温泉」として復活いたしました。
現在は、奥多摩湖周辺の旅館、民宿及び販売所にタンクローリーで毎日、配湯されています。
アルカリ性単純硫黄温泉で、かすかに「タマゴ」の香りがする、お肌にツルツルの美人の湯です。ほとんど無色透明で、諸病に効くことで名湯として、評判の温泉です。」(小河内振興財団HPより引用)






案内図にある宿で、入浴できる施設はなくなりました。
ローリー車は案内図に記載されていない下界の宿へローリーしています。


垂れ流しは、相当前から中止で、雨水がたまっています。



<小河内振興財団>
小河内振興財団が鶴の湯温泉利用者組合の施設へタンクローリーで配湯しています。
○温泉神社 奥多摩町原276
かつては鶴の湯の湯壺の傍らにありましたが、現在地に移転しています。
熱海トンネル手前左手の小道に入り、民宿小河内荘を右手に過ぎ、その先の倉戸山登山口の階段を上ります。










<武州多摩郡小河内温泉之碑>(奥多摩町指定有形文化財)
『「地誌等に所載するところの温泉場は、海内(国内)に二百余ヶ所あるが小河内温泉は、それらの首級(トップクラス)である。」と江戸時代後期の文政4年(1821)亀田鵬斎選書による小河内温泉之碑文にある。
又、温泉の碑の裏面には、鶯邨抱一の「千代にほふ鶴の出温泉や夏しら須」の句がある。』(小河内鶴の湯温泉の由来より一部引用)


<水天宮石碑>

○鶴の湯温泉郷
「鶴の湯温泉郷」の看板がありますが、奥多摩湖畔で鶴の湯温泉に入浴できる施設はなくなりました。
奥多摩湖下界の氷川、鳩ノ巣、二俣尾の宿にローリー湯されているので、そこで入浴できます。

【日帰り入浴可能施設】
おくたま路
820円 青梅市二俣尾2-371 0428-78-9711
青梅市までローリーしています。
はとのす荘 1150円 奥多摩町棚沢662 0428-84-7123
源泉「鶴の湯温泉」を露天風呂で使用、内湯は自家源泉「鳩ノ巣温泉」使用。

観光荘 700円 奥多摩町氷川1765 0428-83-2122

玉翠荘 800円 奥多摩町氷川160 0428-83-2363
入浴しました。

【休業】
馬頭館 奥多摩町川野73 0428-86-2151
休業して久しいようです。






小河内荘 奥多摩町原160 0428-86-2550
温泉神社に行く途中に通過しましたが、駐車場は封鎖、民宿は閉ざされていました。




「中止」
丹下堂 奥多摩町原180 0428-86-2235
2020年3月から温泉利用は中止です。
再開の予定を聞いたところ、予定なしとのこと。
食堂は賑わっていました。




◇鶴の湯温泉郷では入浴できるところはなくなったので、奥多摩湖から下界の奥多摩駅徒歩3分の玉翠荘へ。こちらに続く
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