鑑真像 (不忍池)
○鑑真像 台東区上野公園2
中国北京市にある中国美術館呉為山館長から東京都に寄贈された呉為山氏制作の鑑真像です。令和4(2022)年7月20日に除幕式が行われています。




「鑒真像
「鑑真像」688年ー763年」
「呉為山 2022年立」



○鳥たちの時間 台東区上野公園2
鑑真像から少し南へ行くと「鳥たちの時間」があります。
「鳥たちの時間
2010
池田政治」
「ここ不忍池は、古くから名勝の地として知られ、その起源は縄文の時代まで遡ります。
対岸の弁天堂や上野の山の木々の後方には、東京スカイツリーも望むことができます。
また、当地を目指して、多くの鳥たちも飛来してきます。
四季を通じて美しいこの環境が、末永く守られ続けていくことを願っています。」
「寄贈 台東区商店街連合会 2012年」





中国北京市にある中国美術館呉為山館長から東京都に寄贈された呉為山氏制作の鑑真像です。令和4(2022)年7月20日に除幕式が行われています。




「鑒真像
「鑑真像」688年ー763年」
「呉為山 2022年立」



○鳥たちの時間 台東区上野公園2
鑑真像から少し南へ行くと「鳥たちの時間」があります。
「鳥たちの時間
2010
池田政治」
「ここ不忍池は、古くから名勝の地として知られ、その起源は縄文の時代まで遡ります。
対岸の弁天堂や上野の山の木々の後方には、東京スカイツリーも望むことができます。
また、当地を目指して、多くの鳥たちも飛来してきます。
四季を通じて美しいこの環境が、末永く守られ続けていくことを願っています。」
「寄贈 台東区商店街連合会 2012年」






テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
生誕(朝倉文夫) 緑のパンダ像
○生誕(朝倉文夫) 台東区上野公園2-1 下町風俗資料館
昭和39(1964)年、生誕噴水塔建設。
平成13(2001)年、地下駐車場の整備に伴い撤去。

(説明板)
「「生誕」は、新生日本で立ち上がる若人を釈迦誕生のポーズに重ねた作品で、永らく上野公園入口前で生誕噴水塔の象徴として上野の街並みに潤いを与え、多くの人々に親しまれてきた。
生誕噴水塔は昭和39年(1964年)のオリンピック東京大会を機に、地元有志で結成された上野美化促進会による都市の美化と戦後復興を祈念して建設された後、円滑な交通の確保等に向けた上野中央通り地下駐車場の整備に伴い撤去された。
再び東京でオリンピック・パラリンピック競技大会を迎えるにあたり、不忍池を臨むこの地で「生誕」を継承し、昭和と令和の東京大会の象徴として、とこしへに輝き続けることを祈念する。
令和2年(2020年)7月15日 台東区」


令和2(2020)年7月15日、現在地に除幕(再設置)されました。




○緑のパンダ像(トピアリー) 台東区上野公園
かつて生誕噴水塔があった場所には、緑のパンダ像が設置されています。

平成24(2012)年に緑の国体の会場が上野公園だったことをきっかけに、商店会で歩道を緑化する計画が持ち上がり、「上野動物園のパンダが街へ逃げ出した」というコンセプトで、パンダをモチーフとしたトピアリーが設置されました。(上野案内所サイトを参照しました。)


左に父パンダ、右に母パンダと子パンダのファミリーです。2011年にリーリーとシンシンが上野動物園に来ています。母パンダの肩に乗っているのはシャンシャンですかね。


昭和39(1964)年、生誕噴水塔建設。
平成13(2001)年、地下駐車場の整備に伴い撤去。

(説明板)
「「生誕」は、新生日本で立ち上がる若人を釈迦誕生のポーズに重ねた作品で、永らく上野公園入口前で生誕噴水塔の象徴として上野の街並みに潤いを与え、多くの人々に親しまれてきた。
生誕噴水塔は昭和39年(1964年)のオリンピック東京大会を機に、地元有志で結成された上野美化促進会による都市の美化と戦後復興を祈念して建設された後、円滑な交通の確保等に向けた上野中央通り地下駐車場の整備に伴い撤去された。
再び東京でオリンピック・パラリンピック競技大会を迎えるにあたり、不忍池を臨むこの地で「生誕」を継承し、昭和と令和の東京大会の象徴として、とこしへに輝き続けることを祈念する。
令和2年(2020年)7月15日 台東区」


令和2(2020)年7月15日、現在地に除幕(再設置)されました。




○緑のパンダ像(トピアリー) 台東区上野公園
かつて生誕噴水塔があった場所には、緑のパンダ像が設置されています。

平成24(2012)年に緑の国体の会場が上野公園だったことをきっかけに、商店会で歩道を緑化する計画が持ち上がり、「上野動物園のパンダが街へ逃げ出した」というコンセプトで、パンダをモチーフとしたトピアリーが設置されました。(上野案内所サイトを参照しました。)


左に父パンダ、右に母パンダと子パンダのファミリーです。2011年にリーリーとシンシンが上野動物園に来ています。母パンダの肩に乗っているのはシャンシャンですかね。



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上野広小路遺跡三橋遺構
○上野広小路遺跡三橋遺構 台東区上野公園2-1 下町風俗資料館
令和5(2023)年1月19日に「上野広小路遺跡三橋遺構」完成記念式典が行われ、1月20日から一般公開されています。
上野広小路遺跡から出土した石材・木材を使い、江戸時代に上野広小路から寛永寺へ渡るための橋であった「三橋」の下部構造となる石組について、その半面を再現して整備されています。



(説明板)
「上野広小路遺跡三橋遺構(台東区有形文化財) 台東区上野公園二番
上野広小路遺跡三橋遺構は、台東区立上野中央通り地下駐車場を建設する際の敷地内発掘調査により、平成十七年度に発見された石組水路の遺構で、構築年代は十七世紀後半頃と推測される。
江戸時代には、不忍池の南東角から広小路を横切るように東へ水路(忍川)が流れており、忍川には寛永寺に参詣するための三つの橋(中央に将軍が参詣する時に使用した大橋、左右に一般用の小橋)が架けられていたことから、「三橋」と呼ばれていた。
この遺構は、三橋の株構造(橋台)の一部を構成する石組水路であると考えられている。
発掘時、石組水路は深い部分で上幅三メートル、下幅一メートル、高さ三メートルあり、石垣は「間知石」を積上げ、底面の砂層の上には板材が組み合わせて敷かれていた。
本遺構は遺存が良好であり、底面に類例の知られていない板敷きを有するなど貴重である。また忍川と上野広小路の歴史を解明し、寛永寺と三橋の関係を考える上でも重要である。
ここでは、上野広小路遺跡三橋遺構から実際に出土した石材・木材を使い、石組の半面を再現して設置・展示している。
令和五年一月 台東区教育委員会」


<石組/底板>



底板の寛永通宝


<パネル>












「温古東錦正月十日諸侯上野霊廟へ参詣之図」(小島勝月 国立国会図書館蔵)

「温故東の花 旧諸侯上野初御仏参之図」(楊洲周延 都立図書館蔵)

※三橋については、こちらで記載済です
○龍門橋碑 台東区上野公園2-1
上野恩賜公園内の下町風俗資料館に近い植え込みの中に、石碑「龍門橋」があります。

「上野公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)
地図を見ると、不忍池から忍川へ流れ出す水路に「龍門橋」が架かっています。

○「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧上野恩賜公園」 台東区上野公園2-1
上野公園は広いですからね、旧町名由来案内が龍門橋碑の正面にもありました。
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模景観はもとより施設などが我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。 台東区」
令和5(2023)年1月19日に「上野広小路遺跡三橋遺構」完成記念式典が行われ、1月20日から一般公開されています。
上野広小路遺跡から出土した石材・木材を使い、江戸時代に上野広小路から寛永寺へ渡るための橋であった「三橋」の下部構造となる石組について、その半面を再現して整備されています。



(説明板)
「上野広小路遺跡三橋遺構(台東区有形文化財) 台東区上野公園二番
上野広小路遺跡三橋遺構は、台東区立上野中央通り地下駐車場を建設する際の敷地内発掘調査により、平成十七年度に発見された石組水路の遺構で、構築年代は十七世紀後半頃と推測される。
江戸時代には、不忍池の南東角から広小路を横切るように東へ水路(忍川)が流れており、忍川には寛永寺に参詣するための三つの橋(中央に将軍が参詣する時に使用した大橋、左右に一般用の小橋)が架けられていたことから、「三橋」と呼ばれていた。
この遺構は、三橋の株構造(橋台)の一部を構成する石組水路であると考えられている。
発掘時、石組水路は深い部分で上幅三メートル、下幅一メートル、高さ三メートルあり、石垣は「間知石」を積上げ、底面の砂層の上には板材が組み合わせて敷かれていた。
本遺構は遺存が良好であり、底面に類例の知られていない板敷きを有するなど貴重である。また忍川と上野広小路の歴史を解明し、寛永寺と三橋の関係を考える上でも重要である。
ここでは、上野広小路遺跡三橋遺構から実際に出土した石材・木材を使い、石組の半面を再現して設置・展示している。
令和五年一月 台東区教育委員会」


<石組/底板>



底板の寛永通宝


<パネル>












「温古東錦正月十日諸侯上野霊廟へ参詣之図」(小島勝月 国立国会図書館蔵)

「温故東の花 旧諸侯上野初御仏参之図」(楊洲周延 都立図書館蔵)

※三橋については、こちらで記載済です
○龍門橋碑 台東区上野公園2-1
上野恩賜公園内の下町風俗資料館に近い植え込みの中に、石碑「龍門橋」があります。

「上野公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)
地図を見ると、不忍池から忍川へ流れ出す水路に「龍門橋」が架かっています。

○「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧上野恩賜公園」 台東区上野公園2-1
上野公園は広いですからね、旧町名由来案内が龍門橋碑の正面にもありました。
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模景観はもとより施設などが我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。 台東区」

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西町太郎稲荷
○西町太郎稲荷 台東区東上野1-23-2
西町太郎稲荷神社は、筑後柳川藩立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、立花藩上屋敷(当地)に建立されました(邸内社)。
柳川藩は下谷御徒町に上屋敷、浅草鳥越に中屋敷、浅草末に下屋敷を持っていました。下屋敷跡(旧光月町)にも太郎稲荷があります(こちらで記載済)。




<太郎稲荷の由来>
金ピカに輝く説明板です。
(説明板)
「太郎稲荷の由来
当町は、江戸時代の万冶年間、九州筑後柳川藩十一万九千六百石の太守立花左近将監が江戸上屋敷として設けた跡地であって、当太郎稲荷は、立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として同邸内の現在地に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え給い、特に商売繁昌に御利益あらたかな処から江戸明治大正時代を通じて広くその名が知られ、多くの善男善女に厚く信仰されて来ております。現在も町内有志集って由緒ある当祠の維持運営に務め初午祭などが盛大に行われております。
台東区東上野一丁目会建之
町会長 木村金吾
昭和五十九年三月十一日初午祭」

<手水鉢/改築・改修銘板>



<拝殿>



<江戸切絵図>
江戸切絵図からの抜粋です。「立花左近将監」と隣に「佐竹次郎」とあります。
忍川が「不忍池」から「三橋」を抜けて立花左近将監の屋敷堀を巡り「三味線堀」に至っています。「三味線堀」から鳥越川となり、隅田川に注いでいました。

西町太郎稲荷神社は、筑後柳川藩立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、立花藩上屋敷(当地)に建立されました(邸内社)。
柳川藩は下谷御徒町に上屋敷、浅草鳥越に中屋敷、浅草末に下屋敷を持っていました。下屋敷跡(旧光月町)にも太郎稲荷があります(こちらで記載済)。




<太郎稲荷の由来>
金ピカに輝く説明板です。
(説明板)
「太郎稲荷の由来
当町は、江戸時代の万冶年間、九州筑後柳川藩十一万九千六百石の太守立花左近将監が江戸上屋敷として設けた跡地であって、当太郎稲荷は、立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として同邸内の現在地に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え給い、特に商売繁昌に御利益あらたかな処から江戸明治大正時代を通じて広くその名が知られ、多くの善男善女に厚く信仰されて来ております。現在も町内有志集って由緒ある当祠の維持運営に務め初午祭などが盛大に行われております。
台東区東上野一丁目会建之
町会長 木村金吾
昭和五十九年三月十一日初午祭」

<手水鉢/改築・改修銘板>



<拝殿>



<江戸切絵図>
江戸切絵図からの抜粋です。「立花左近将監」と隣に「佐竹次郎」とあります。
忍川が「不忍池」から「三橋」を抜けて立花左近将監の屋敷堀を巡り「三味線堀」に至っています。「三味線堀」から鳥越川となり、隅田川に注いでいました。


tag : 邸内社
天海僧正毛髪塔 開門
○天海僧正毛髪塔(東京都指定旧跡) 台東区上野公園1
<開門>
普段は鉄柵が施錠されていますが、正月に寄ったら開門されていました。
中に入って石燈籠等を確認。鉄柵は松坂屋が寄進されたようです。
石燈籠2基は、「厳有院殿 尊前 延宝九年五月八日」「慈眼大師毛髪等寶前」と刻まれています。
徳川家綱霊廟に奉献された石燈籠が転用されています。












○天海大僧正(慈眼大師)については、パソコンサイトで整理済です。
天海大僧正(慈眼大師)
○天海大僧正銅像 日光市上鉢石町
○天海墓所「慈眼堂」 日光市山内
○天海僧正毛髪塔 台東区上野公園
○開山堂(両大師) 台東区上野公園
○会津高田に残る天海大僧正の史跡
・慈眼大師御誕生地の碑
・天海大僧正石像
・護法石
・天海大僧正両親の墓(龍興寺)
・天海大僧正御手植檜
<開門>
普段は鉄柵が施錠されていますが、正月に寄ったら開門されていました。
中に入って石燈籠等を確認。鉄柵は松坂屋が寄進されたようです。
石燈籠2基は、「厳有院殿 尊前 延宝九年五月八日」「慈眼大師毛髪等寶前」と刻まれています。
徳川家綱霊廟に奉献された石燈籠が転用されています。












○天海大僧正(慈眼大師)については、パソコンサイトで整理済です。
天海大僧正(慈眼大師)
○天海大僧正銅像 日光市上鉢石町
○天海墓所「慈眼堂」 日光市山内
○天海僧正毛髪塔 台東区上野公園
○開山堂(両大師) 台東区上野公園
○会津高田に残る天海大僧正の史跡
・慈眼大師御誕生地の碑
・天海大僧正石像
・護法石
・天海大僧正両親の墓(龍興寺)
・天海大僧正御手植檜
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