【烏山寺町】 幸龍寺②/専光寺
〇幸龍寺 世田谷区北烏山5-8-1
烏山寺町は、東京都世田谷区の26の仏教寺院が立ち並ぶ地域の通称で、寺町の成立は関東大震災後の1923年(大正12年)に浅草、築地、本所、荒川などにあった寺院が集団で移転してきたのが直接的な契機とされれいます。
幸龍寺は、浅草田甫と呼ばれた現在の浅草ビューホテルの辺りにあったことから田甫の幸龍寺の通称があります。





(説明板)
「日蓮宗 妙祐山 幸龍寺
幸龍寺の創建は、天正七年(一五七九)徳川家康が浜松城主の時、正心院殿日幸(秀忠の乳母)の願いにより、玄龍院殿日偆を招いて城下の半頭町に伽藍を整え、祈願所として開山されたことにはじまると伝えられています。
のちに家康が駿府へ移ると寺も移転、更に天正十八年(一五九○)家康の関東入国の翌年、神田湯島三丁目に移りました。
二代将軍秀忠は正室常源院殿懐妊に際し安産を祈願、無事に世嗣・家光が誕生すると、鬼子母神像などを寺へ奉納しました。つづく家光は、浅草に約八千坪の土地を寄進し寺は神田湯島から移転しました。
五代将軍綱吉は、さらに二千五百坪の境内地を寄進し、三代将軍家光の側室・順正院殿(六代家宣祖母)の廟所を設け、幸龍寺は徳川家の香華院の列に加わり、日蓮門下江戸五山の一つに数えられるほど隆盛しました。
大正十二年(一九二三)の関東大震災で多くの堂宇が罹災したため、昭和二年(一九二七)より現在地に移転を開始し、今に至っています。
墓域には順正院殿墓、旧唐津藩主小笠原家累代墓所、「江戸名所図会」の挿絵師・長谷川雪旦、雪提父子の墓、江戸後期の随筆「嬉遊笑覧」の著者・喜多村筠庭などの墓があります。
平成三十年三月 世田谷区教育委員会」


<長谷川雪旦/雪堤墓>
「江戸名所図会」の挿絵師・長谷川雪旦、雪提父子の墓があります。
江戸名所図会で記載済
<喜多村筠庭墓>
「嬉遊笑覧」の著者・喜多村筠庭の墓があるはずです。
江戸名所図会で記載済
<清正公堂>
山門入って右手に加藤清正公を祀る清正公堂があります。



<新吉原奉納手水鉢>
手水鉢には紋が2つ。
奉納者を確認したら、何と新吉原奉納です。
「清正大神祇二百五十遠忌 万治元年」







<さざれ石>


<旧唐津藩主・小笠原家累代墓所>
小笠原長行の子長生(1867-1958)が、小笠原家家督を継ぎ、長生によって小笠原家の墓が建てられました。






<力士本町東助碑>
「明治廿五年六月建立 力士本町東助碑 清隆謹書」





<亀趺>
立派な亀趺です。耳があり、牙があり、亀と見誤らない贔屓らしい贔屓です。



<庚申塔>
文化8(1811)年。


<順性院供養塔>
順性院は幸龍寺に埋葬、昭和5年に谷中霊園内寛永寺墓地(第一墓地)に改葬、
平成19年10月に寛永寺(常憲院霊廟)に改葬されています。
順性院の墓碑が幸龍寺に残されいます。
「順性院殿妙喜日圓大姉」、天和3年7月29日と刻まれています。






○専光寺 世田谷区北烏山4-28-1
烏山寺町の幸龍寺に来たので、ついでに専光寺の喜多川歌麿墓に寄りました。







(説明板)
「東京都指定旧跡 喜多川歌麿墓
所在地 世田谷区北烏山四の二八の一
専光寺墓地内
指 定 昭和三一年三月三日
喜多川歌麿(一七五三〜一八○六)は、江戸時代中期の浮世絵師で、浮世絵喜多川派の祖とされています。出生地については、いくつか説があり、出生年も定かではありません。大首絵と呼ばれる美人画で、当時人気を得ました。歌麿の作品は、天明・寛政期の浮世絵版画の黄金期を築きました。また、歌麿の作品は、フランス印象派の画家たちに強い影響を与えたことでも有名です。文化元年(一八○四)に「太閤五妻遊」を描き、入牢に処せられました。文化三年(一八○六)に亡くなり、浅草専光寺に葬られましたが、関東大震災後の区画整理により、昭和三年(一九二八)に現在の場所に墓が移転されました。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会 」






烏山寺町は、東京都世田谷区の26の仏教寺院が立ち並ぶ地域の通称で、寺町の成立は関東大震災後の1923年(大正12年)に浅草、築地、本所、荒川などにあった寺院が集団で移転してきたのが直接的な契機とされれいます。
幸龍寺は、浅草田甫と呼ばれた現在の浅草ビューホテルの辺りにあったことから田甫の幸龍寺の通称があります。





(説明板)
「日蓮宗 妙祐山 幸龍寺
幸龍寺の創建は、天正七年(一五七九)徳川家康が浜松城主の時、正心院殿日幸(秀忠の乳母)の願いにより、玄龍院殿日偆を招いて城下の半頭町に伽藍を整え、祈願所として開山されたことにはじまると伝えられています。
のちに家康が駿府へ移ると寺も移転、更に天正十八年(一五九○)家康の関東入国の翌年、神田湯島三丁目に移りました。
二代将軍秀忠は正室常源院殿懐妊に際し安産を祈願、無事に世嗣・家光が誕生すると、鬼子母神像などを寺へ奉納しました。つづく家光は、浅草に約八千坪の土地を寄進し寺は神田湯島から移転しました。
五代将軍綱吉は、さらに二千五百坪の境内地を寄進し、三代将軍家光の側室・順正院殿(六代家宣祖母)の廟所を設け、幸龍寺は徳川家の香華院の列に加わり、日蓮門下江戸五山の一つに数えられるほど隆盛しました。
大正十二年(一九二三)の関東大震災で多くの堂宇が罹災したため、昭和二年(一九二七)より現在地に移転を開始し、今に至っています。
墓域には順正院殿墓、旧唐津藩主小笠原家累代墓所、「江戸名所図会」の挿絵師・長谷川雪旦、雪提父子の墓、江戸後期の随筆「嬉遊笑覧」の著者・喜多村筠庭などの墓があります。
平成三十年三月 世田谷区教育委員会」


<長谷川雪旦/雪堤墓>
「江戸名所図会」の挿絵師・長谷川雪旦、雪提父子の墓があります。
江戸名所図会で記載済
<喜多村筠庭墓>
「嬉遊笑覧」の著者・喜多村筠庭の墓があるはずです。
江戸名所図会で記載済
<清正公堂>
山門入って右手に加藤清正公を祀る清正公堂があります。



<新吉原奉納手水鉢>
手水鉢には紋が2つ。
奉納者を確認したら、何と新吉原奉納です。
「清正大神祇二百五十遠忌 万治元年」







<さざれ石>


<旧唐津藩主・小笠原家累代墓所>
小笠原長行の子長生(1867-1958)が、小笠原家家督を継ぎ、長生によって小笠原家の墓が建てられました。






<力士本町東助碑>
「明治廿五年六月建立 力士本町東助碑 清隆謹書」





<亀趺>
立派な亀趺です。耳があり、牙があり、亀と見誤らない贔屓らしい贔屓です。



<庚申塔>
文化8(1811)年。


<順性院供養塔>
順性院は幸龍寺に埋葬、昭和5年に谷中霊園内寛永寺墓地(第一墓地)に改葬、
平成19年10月に寛永寺(常憲院霊廟)に改葬されています。
順性院の墓碑が幸龍寺に残されいます。
「順性院殿妙喜日圓大姉」、天和3年7月29日と刻まれています。






○専光寺 世田谷区北烏山4-28-1
烏山寺町の幸龍寺に来たので、ついでに専光寺の喜多川歌麿墓に寄りました。







(説明板)
「東京都指定旧跡 喜多川歌麿墓
所在地 世田谷区北烏山四の二八の一
専光寺墓地内
指 定 昭和三一年三月三日
喜多川歌麿(一七五三〜一八○六)は、江戸時代中期の浮世絵師で、浮世絵喜多川派の祖とされています。出生地については、いくつか説があり、出生年も定かではありません。大首絵と呼ばれる美人画で、当時人気を得ました。歌麿の作品は、天明・寛政期の浮世絵版画の黄金期を築きました。また、歌麿の作品は、フランス印象派の画家たちに強い影響を与えたことでも有名です。文化元年(一八○四)に「太閤五妻遊」を描き、入牢に処せられました。文化三年(一八○六)に亡くなり、浅草専光寺に葬られましたが、関東大震災後の区画整理により、昭和三年(一九二八)に現在の場所に墓が移転されました。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会 」






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西加平神社
新吉原奉納まとめ(ブログではなくパソコンサイトです)
松葉屋半蔵/八百屋善四郎/駿河屋市兵衛
○ 白髭神社
○ 素盞雄神社
○ 虎ノ門金刀比羅宮
その他奉納(各別ページ)
墨田区や荒川区より遠い、足立区や千葉県流山での奉納も見られます。
【台東区】
○ 浅草神社狛犬奉納
○ 人丸堂(浅草神社)歌碑奉納
○ 浅草寺弁天堂の聖観音真言梵字の碑
○ 浅草寺観音裏の一葉観音
○ 待乳山聖天の奉納石板
【世田谷区】
○ 幸龍寺・清正公堂の手水鉢奉納
【荒川区】
○ 回向院の烈婦瀧本之碑発企人
○ 宮地稲荷神社の新吉原奉納手水鉢
【足立区】
○ 西加平神社の手水鉢奉納
○ 国土安穏寺の南無妙法蓮華経題目碑奉納
○ 大鷲神社の石垣奉納
【流山市】
○ 駒木諏訪神社の手水鉢奉納
ブログにアップしていなかった、西加平神社をアップします。
○西加平神社 足立区西加平1-1-39
六町の再開発にともない、平成28年に移転先から戻ってきたばかりの神社で、まだ森のない神社です。
鳥居は寛政11(1799)年の銘。






<手水舎>
嘉永7(1854)年2月に新吉原角町の安房屋が奉納した手水鉢があります。
明治13年の「全盛古郷便覧」には「安房屋」の記載はありますが、明治27年の新吉原配置図には記載はありません。



<狛犬>




<三峰神社>


<天祖神社他>





<庚申塔>
境内外の裏道に、庚申塔が並んでいます。


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寄進者 (松葉屋 八百善 駿河屋)
○寄進者
<松葉屋>
松葉屋は、新吉原角町の遊郭です。楼主は代々半左衛門を襲名(寄進者名としては半蔵もあり)。松葉屋の花魁ショーは、はとバスコースにもなっていましたが、平成10年に廃業。
<八百善>
八百善は、文人墨客から将軍家までが利用する江戸第一と称された山谷の料亭です。寄進者名として、八百屋善四郎。八百善があった場所は、新鳥越2丁目で、後に、吉野町二一番地、現在は東浅草1-8-12です。現地には、今は何の痕跡もありません。
(参考)八百善のホームページ インタビュー記事
<駿河屋>
駿河屋は、新吉原仲ノ町の引手茶屋です。寄進者名として、駿河屋市兵衛。
○白髭神社 墨田区東向島3-5-2
八百善と松葉屋半左衛門、駿河屋市兵衛の寄進した狛犬(文化12年(1815))があります。
台座に「松葉屋半左衛門」と刻まれています。台座側面に「八百屋善四郎」「駿河屋市兵衛」と刻まれています。








(白髭神社由来より)
「社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が、文化12年に奉納したもので、其の信仰のほどが偲ばれる。」
由来に記載はありませんが、狛犬には吉原の引手茶屋の駿河屋市兵衛の名が見えます。


○素盞雄神社 荒川区南千住6-60-1
狛犬の台座に「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあります。






狛犬の台座に「昭和10年」の年号記されているので、昭和10年に修復されているのかも。

○虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう) 港区虎ノ門1-2-7
丸亀藩の邸内社だった金刀比羅宮です。
<銅鳥居>
銅鳥居には、新吉原の各町の遊郭が数多く刻まれています。
文政四年(1821年)奉納の願主に3名の名があります。そのうちの1人が新吉原京町1丁目「若松屋藤右エ門」 です。世話人に「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあります。仲ノ町には、ここにも「駿河屋市兵衛」の名があります。新鳥越2丁目には、「岡田屋忠七」「八百屋善四郎」の名があります。




<松葉屋>
松葉屋は、新吉原角町の遊郭です。楼主は代々半左衛門を襲名(寄進者名としては半蔵もあり)。松葉屋の花魁ショーは、はとバスコースにもなっていましたが、平成10年に廃業。
<八百善>
八百善は、文人墨客から将軍家までが利用する江戸第一と称された山谷の料亭です。寄進者名として、八百屋善四郎。八百善があった場所は、新鳥越2丁目で、後に、吉野町二一番地、現在は東浅草1-8-12です。現地には、今は何の痕跡もありません。
(参考)八百善のホームページ インタビュー記事
<駿河屋>
駿河屋は、新吉原仲ノ町の引手茶屋です。寄進者名として、駿河屋市兵衛。
○白髭神社 墨田区東向島3-5-2
八百善と松葉屋半左衛門、駿河屋市兵衛の寄進した狛犬(文化12年(1815))があります。
台座に「松葉屋半左衛門」と刻まれています。台座側面に「八百屋善四郎」「駿河屋市兵衛」と刻まれています。








(白髭神社由来より)
「社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が、文化12年に奉納したもので、其の信仰のほどが偲ばれる。」
由来に記載はありませんが、狛犬には吉原の引手茶屋の駿河屋市兵衛の名が見えます。


○素盞雄神社 荒川区南千住6-60-1
狛犬の台座に「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあります。






狛犬の台座に「昭和10年」の年号記されているので、昭和10年に修復されているのかも。

○虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう) 港区虎ノ門1-2-7
丸亀藩の邸内社だった金刀比羅宮です。
<銅鳥居>
銅鳥居には、新吉原の各町の遊郭が数多く刻まれています。
文政四年(1821年)奉納の願主に3名の名があります。そのうちの1人が新吉原京町1丁目「若松屋藤右エ門」 です。世話人に「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあります。仲ノ町には、ここにも「駿河屋市兵衛」の名があります。新鳥越2丁目には、「岡田屋忠七」「八百屋善四郎」の名があります。





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吉原仮宅営業/浅草神社の狛犬
○仮宅営業
吉原の遊女屋が火災に遭って全焼した場合、期間を定めて吉原以外の場所で営業するのが仮宅です。
楼主はいつ火事が起きても困らないよう、楼閣一軒分の材木を深川の木場に確保していて、仮宅営業に入ると、建物の普請にかかります。仮宅営業は繁盛し経費がかからず吉原遊郭での営業より利益を得ていました。まさに焼け太りです。
「天保六年新吉原仮宅場所一覧」(歌川国直 台東区立図書館蔵)
天保6(1835)年の火災により新吉原遊廓は全焼し、本図は、花川戸町、山之宿町、山谷堀の仮宅の案内図です。屋根の上に妓楼の規模が3つの記号で示され、楼主の名が記されています。

○浅草神社の狛犬
二天門(江戸時代は東照宮の随身門)から浅草神社へ向かいます。


<狛犬>
奉納:天保七丙年申三月(1836年)「田町文三郎」「山川町大工虎五郎」
石工:「象潟町大岩」
奉納者の所在地の田町(田地だった)と山川町(南に待乳山、北に山谷掘あるを以て此名あり)は、両町とも山谷堀に面し、吉原の発展とともに形成された町です。
江戸では火事が頻繁に起きたため、大工はその再建で大きな利益を得ていました。吉原が焼失し仮宅営業した回数は23回にも及び、異常と思える頻度です。立派な狛犬奉納の前年にも吉原は全焼しています。






この狛犬より大きな、そっくりの狛犬がやっちゃ場の河原稲荷神社にいます。
吉原の遊女屋が火災に遭って全焼した場合、期間を定めて吉原以外の場所で営業するのが仮宅です。
楼主はいつ火事が起きても困らないよう、楼閣一軒分の材木を深川の木場に確保していて、仮宅営業に入ると、建物の普請にかかります。仮宅営業は繁盛し経費がかからず吉原遊郭での営業より利益を得ていました。まさに焼け太りです。
「天保六年新吉原仮宅場所一覧」(歌川国直 台東区立図書館蔵)
天保6(1835)年の火災により新吉原遊廓は全焼し、本図は、花川戸町、山之宿町、山谷堀の仮宅の案内図です。屋根の上に妓楼の規模が3つの記号で示され、楼主の名が記されています。

○浅草神社の狛犬
二天門(江戸時代は東照宮の随身門)から浅草神社へ向かいます。


<狛犬>
奉納:天保七丙年申三月(1836年)「田町文三郎」「山川町大工虎五郎」
石工:「象潟町大岩」
奉納者の所在地の田町(田地だった)と山川町(南に待乳山、北に山谷掘あるを以て此名あり)は、両町とも山谷堀に面し、吉原の発展とともに形成された町です。
江戸では火事が頻繁に起きたため、大工はその再建で大きな利益を得ていました。吉原が焼失し仮宅営業した回数は23回にも及び、異常と思える頻度です。立派な狛犬奉納の前年にも吉原は全焼しています。






この狛犬より大きな、そっくりの狛犬がやっちゃ場の河原稲荷神社にいます。
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