正福寺/首塚地蔵尊(墨田区墨田)
○正福寺 墨田区墨田2-6-20
宝治2(1248)年銘の都内最古の板碑があります。江戸時代の「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)でも絵図入りで紹介されています。荒川辺八十八ヶ所霊場第66番札所、荒綾八十八ヶ所霊場66番札所です。




「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)によると、阿弥陀詣の六番寺は、正福寺(墨田区墨田)でしたが、常光寺に銭一貫八百文の質物として入れた阿弥陀像を戻すことが出来ず、常光寺が六番寺になったと記載されています。
また、古碑について絵図入りで記しています。
「寶治二年 戊申 三月 三日」

<和みの像>


<大師堂>
参道右手に「大師堂」。





<手水鉢型庚申塔>
大師堂の手前左手に墨田区内最古の寛文7(1667)年4月銘の手水鉢があります。右側面に三猿が陰刻され、正面中央には「奉造立庚申供養二世安樂所」とあります。






<阿弥陀如来>
万治4(1661)年銘の阿弥陀如来です。


<板碑二基> 墨田区文化財
都内最古の宝治2(1248)年3月銘の板碑があります。







(説明板)
「≪墨田区登録文化財≫
正福寺の板碑
所在 墨田区墨田二丁目六番 正福寺内
板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面には種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士たちが供養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板碑があります。(登録は二基)
宝治二年(一二四八)銘の板碑は高さ一一六cm、幅四六cm、厚さ一○cmで、区内では随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては、都内最古です。阿弥陀一尊を種字で刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当寺に移されたといわれます。なお、区内には約三○基の板碑があります。
平成一四年三月 墨田区教育委員会」

○首塚地蔵尊 墨田区墨田2-6-20
正福寺門前に「首塚地蔵尊」が祀られています。




(説明板)
「・首塚地蔵尊
地蔵菩薩 ご縁日 四日
ご真言
オン カカカ ビサンマエイ ソワカ
天保四年(一八三三年)洪水の危険をふせぐための隅田川橋場付近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。
関係者は当山第十六世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬、碑をたてて「首塚」といったと伝えられる。
この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧並びに信者により護持され、今日にいたる。
この縁で、首から上の病いに功験があるからと、参詣の香華がたえない。
このお堂は、真言宗中興の祖興教大師八百五十年御遠忌 ( 平成四年十二月十二日 ) 記念事業の一環として、平成二年八月檀信徒一同により再建、奉納されたものです。
月光山正福寺」

※ 高尾稲荷神社も、頭蓋骨をお祠りしていいます。こちらで記載
宝治2(1248)年銘の都内最古の板碑があります。江戸時代の「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)でも絵図入りで紹介されています。荒川辺八十八ヶ所霊場第66番札所、荒綾八十八ヶ所霊場66番札所です。




「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)によると、阿弥陀詣の六番寺は、正福寺(墨田区墨田)でしたが、常光寺に銭一貫八百文の質物として入れた阿弥陀像を戻すことが出来ず、常光寺が六番寺になったと記載されています。
また、古碑について絵図入りで記しています。
「寶治二年 戊申 三月 三日」

<和みの像>


<大師堂>
参道右手に「大師堂」。





<手水鉢型庚申塔>
大師堂の手前左手に墨田区内最古の寛文7(1667)年4月銘の手水鉢があります。右側面に三猿が陰刻され、正面中央には「奉造立庚申供養二世安樂所」とあります。






<阿弥陀如来>
万治4(1661)年銘の阿弥陀如来です。


<板碑二基> 墨田区文化財
都内最古の宝治2(1248)年3月銘の板碑があります。







(説明板)
「≪墨田区登録文化財≫
正福寺の板碑
所在 墨田区墨田二丁目六番 正福寺内
板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面には種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士たちが供養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板碑があります。(登録は二基)
宝治二年(一二四八)銘の板碑は高さ一一六cm、幅四六cm、厚さ一○cmで、区内では随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては、都内最古です。阿弥陀一尊を種字で刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当寺に移されたといわれます。なお、区内には約三○基の板碑があります。
平成一四年三月 墨田区教育委員会」

○首塚地蔵尊 墨田区墨田2-6-20
正福寺門前に「首塚地蔵尊」が祀られています。




(説明板)
「・首塚地蔵尊
地蔵菩薩 ご縁日 四日
ご真言
オン カカカ ビサンマエイ ソワカ
天保四年(一八三三年)洪水の危険をふせぐための隅田川橋場付近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。
関係者は当山第十六世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬、碑をたてて「首塚」といったと伝えられる。
この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧並びに信者により護持され、今日にいたる。
この縁で、首から上の病いに功験があるからと、参詣の香華がたえない。
このお堂は、真言宗中興の祖興教大師八百五十年御遠忌 ( 平成四年十二月十二日 ) 記念事業の一環として、平成二年八月檀信徒一同により再建、奉納されたものです。
月光山正福寺」

※ 高尾稲荷神社も、頭蓋骨をお祠りしていいます。こちらで記載
東白鬚公園
墨堤(堤通)
○東白鬚公園 墨田区堤通2丁目
東白鬚公園は隅田川に沿った都立公園です。
(「髭」ではなく「鬚」の文字を使っています。)
東京都では、この公園を防災拠点の第一号として造成しました。
大地震や火災が起きた時には、避難広場となります。
公園は団地と隅田川とに囲まれ、大規模火災時に火の手から守られるように想定されています。



<纏のシンボルタワー>
白鬚公園の中央に聳えるシンボルタワーです。
江戸時代の火消し人足組が高く掲げた「まとい」をイメージしています。



<隅田宿跡>
隅田川神社側の入り口に隅田宿跡の説明板があります。
(説明板)
「 隅田宿跡
現在地 墨田区堤通二丁目二番 都立白鬚公園
当地は、古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
隅田宿は、治承四年(一一八○)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(『夫木和歌抄』)。
また、室町時代成立の『義経記』には「墨田の渡り両所」と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。
対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。
なお、人買にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。
平成二十五年三月 墨田区教育委員会 」

<隅田川 関屋の里> 墨田区堤通2-7-39(鐘ケ渕陸橋交差点)
公園内ではありませんが、鐘ヶ渕陸橋交差点に「葛飾北斎ゆかりの掲示板⑨」があります。
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
⑨ 隅田川 關屋の里 - 冨嶽三十六景 -
葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町、千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感ある松朝焼けの富士山が見える穏やかな早朝の中、疾走する三騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保2(1831)年頃の作品です。」






<梅若の秋月> 東白鬚公園内
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
⑩ 梅若の秋月 ‐風流隅田川八景‐
「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて 問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」の辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。」





<雪月花 隅田> 東白鬚公園内
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
⑪ 雪月花 隅田
雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。」





○ヘリポート予定地
木母寺の隣りは、広大なヘリポート予定地です。

○梅若橋/梅若門
梅若橋は、東白髭公園の道路に架かる人工地盤の陸橋です。
かつて、ここに江戸城で使う野菜を栽培していた御前栽畑がありました。

梅若門と命名されている防火扉です。

隅田川に架かる水神大橋。


○木母寺境外碑 墨田区堤通2-16-11
木母寺入口横の境外、東白鬚公園内に巨碑が並んでいます。

<日露戦役従軍紀念碑>
明治39年10月の建立。東郷平八郎の揮毫です。



<大正震火災横死者追悼之碑>
大正12年の関東大震災の被災死亡者を弔う碑です。

○東白鬚公園 墨田区堤通2丁目
東白鬚公園は隅田川に沿った都立公園です。
(「髭」ではなく「鬚」の文字を使っています。)
東京都では、この公園を防災拠点の第一号として造成しました。
大地震や火災が起きた時には、避難広場となります。
公園は団地と隅田川とに囲まれ、大規模火災時に火の手から守られるように想定されています。



<纏のシンボルタワー>
白鬚公園の中央に聳えるシンボルタワーです。
江戸時代の火消し人足組が高く掲げた「まとい」をイメージしています。



<隅田宿跡>
隅田川神社側の入り口に隅田宿跡の説明板があります。
(説明板)
「 隅田宿跡
現在地 墨田区堤通二丁目二番 都立白鬚公園
当地は、古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
隅田宿は、治承四年(一一八○)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(『夫木和歌抄』)。
また、室町時代成立の『義経記』には「墨田の渡り両所」と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。
対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。
なお、人買にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。
平成二十五年三月 墨田区教育委員会 」

<隅田川 関屋の里> 墨田区堤通2-7-39(鐘ケ渕陸橋交差点)
公園内ではありませんが、鐘ヶ渕陸橋交差点に「葛飾北斎ゆかりの掲示板⑨」があります。
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
⑨ 隅田川 關屋の里 - 冨嶽三十六景 -
葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町、千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感ある松朝焼けの富士山が見える穏やかな早朝の中、疾走する三騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保2(1831)年頃の作品です。」






<梅若の秋月> 東白鬚公園内
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
⑩ 梅若の秋月 ‐風流隅田川八景‐
「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて 問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」の辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。」





<雪月花 隅田> 東白鬚公園内
「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
⑪ 雪月花 隅田
雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。」





○ヘリポート予定地
木母寺の隣りは、広大なヘリポート予定地です。

○梅若橋/梅若門
梅若橋は、東白髭公園の道路に架かる人工地盤の陸橋です。
かつて、ここに江戸城で使う野菜を栽培していた御前栽畑がありました。

梅若門と命名されている防火扉です。

隅田川に架かる水神大橋。


○木母寺境外碑 墨田区堤通2-16-11
木母寺入口横の境外、東白鬚公園内に巨碑が並んでいます。

<日露戦役従軍紀念碑>
明治39年10月の建立。東郷平八郎の揮毫です。



<大正震火災横死者追悼之碑>
大正12年の関東大震災の被災死亡者を弔う碑です。


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
梅若塚(満蔵寺)
○満蔵寺 春日部市新方袋253
満蔵寺入口には「史蹟梅若塚 天然記念物御菓付銀杏 満蔵寺入口」と刻された石碑が立っています。
満蔵寺の裏は、古奥州街道で、古隅田川の堤跡となっています。
山門入口右手に梅宮伝説にかかる梅若塚があります。




<梅若塚>







(説明板)
「 梅若伝説と梅若塚
所在地 春日部市新方袋二六六
今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将帷房卿の一子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。やがて、この地まできた時、重病になり、藤太の足手まといとなったため隅田川に投げ込まれてしまった。幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手厚い介護を受けたが、我身の素性を語り
尋ね来て 問わば答えよ 都鳥
隅田川原の 露と消えぬと
という歌を遺して生き絶えてしまった。時に天延二年(九七四)三月十五日であった。里人は、梅若丸の身の哀れを思い、ここに塚を築き柳を植えた。これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる梅若塚である。
一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた梅若丸の母「花子の前」は、たまたま梅若丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。名を妙亀と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げしてしまったという。これが、有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。
これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊(満蔵寺内)である。
昭和六十一年三月
埼玉県
春日部市 」

<梅若塚の由来>
由来説明の石板もあります。


<石橋供養塔/道標>
梅若塚入口に道標を兼ねた石橋供養塔(文政7(1824)年)があります。
古隅田川にかかっていた石橋の供養塔です。
「奉建立石橋十五カ所」
「かす可べ」「ジおんじ道」。摩耗激しく他はわかりません。




<梅若塚社>
「令和元年六月修繕記念碑」があります。
修繕したてで、真新しいです。






<宝生九郎の記念碑>


<お葉付イチョウ>
境内にある埼玉県指定天然記念物です。





<庚申塔4基>
本堂向かって左手に庚申塔が4基あります。
左から3基と、ひとつおいて1基。

満蔵寺入口には「史蹟梅若塚 天然記念物御菓付銀杏 満蔵寺入口」と刻された石碑が立っています。
満蔵寺の裏は、古奥州街道で、古隅田川の堤跡となっています。
山門入口右手に梅宮伝説にかかる梅若塚があります。




<梅若塚>







(説明板)
「 梅若伝説と梅若塚
所在地 春日部市新方袋二六六
今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将帷房卿の一子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。やがて、この地まできた時、重病になり、藤太の足手まといとなったため隅田川に投げ込まれてしまった。幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手厚い介護を受けたが、我身の素性を語り
尋ね来て 問わば答えよ 都鳥
隅田川原の 露と消えぬと
という歌を遺して生き絶えてしまった。時に天延二年(九七四)三月十五日であった。里人は、梅若丸の身の哀れを思い、ここに塚を築き柳を植えた。これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる梅若塚である。
一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた梅若丸の母「花子の前」は、たまたま梅若丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。名を妙亀と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げしてしまったという。これが、有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。
これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊(満蔵寺内)である。
昭和六十一年三月
埼玉県
春日部市 」

<梅若塚の由来>
由来説明の石板もあります。


<石橋供養塔/道標>
梅若塚入口に道標を兼ねた石橋供養塔(文政7(1824)年)があります。
古隅田川にかかっていた石橋の供養塔です。
「奉建立石橋十五カ所」
「かす可べ」「ジおんじ道」。摩耗激しく他はわかりません。




<梅若塚社>
「令和元年六月修繕記念碑」があります。
修繕したてで、真新しいです。






<宝生九郎の記念碑>


<お葉付イチョウ>
境内にある埼玉県指定天然記念物です。





<庚申塔4基>
本堂向かって左手に庚申塔が4基あります。
左から3基と、ひとつおいて1基。


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
梅若塚(梅若公園)/榎本武揚像
梅若塚 梅若公園
○梅若公園 墨田区堤通2-6-10
墨堤通り沿いに、梅若公園があります。

<梅若塚>
ここは梅若塚があった元の場所です。展示が工夫されていて、梅若山王権現堂が立地いているようにみることができます。







<梅若塚説明プレート>
梅若塚の手前右手にある説明プレートです。
(説明プレート)
「梅若塚
梅若塚は、謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸の墓であると伝えられます。
梅若丸は、京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃野上の長者の一人娘「花御せん」の子で、父の死後、7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因で、みちのくの人商人(人買い)、信夫の藤太にかどわかされてしまいます。
奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく、「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはらの 露と消えぬと」という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。」

<梅若塚と木母寺/梅若塚と妙亀塚/梅若権現御縁起/隅田川物>
(説明プレート)
「梅若塚と木母寺」
木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。その後「梅」の字を分けて「木母」となったと言われます。
木母寺は当該地周辺にありましたが、白髪東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。
「梅若塚と妙亀塚」
妙亀塚(都指定旧跡)は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求めこの地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩堤を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅か原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園(台東区橋場) 内にあります。
「梅若権現御縁起
「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現御縁起 附 漆箱二匣」(墨田区指定有形文化財)があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が、延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起物です。
原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土資料館で複製を所蔵しており、展示されています。
「隅田川物」
謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。
「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。」



<明治期の木母寺境内>
梅若塚の左手後方にある説明プレートです。
(説明プレート)
「明治期の木母寺境内
江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりをうけ木母寺は荒廃し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人の支援を受け、明治22年(1889)に寺院への復帰を果たしました。
現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたものです。
「木母寺境内之図」は、梅若堂が当地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。
画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。」


<東京都指定旧跡 梅若塚>
梅若塚手前左手にある東京都の説明板です。
(説明板)
「東京都指定旧跡
梅若塚
所在地 墨田区二の六 区立梅若公園
標 識 大正九年三月
指 定 昭和三○年三月二八日
梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。
木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた隅田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い現在地に移転しています。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」

○銅像榎本武揚像 墨田区登録有形文化財
「榎本武揚肖像」
天保7年8月25日(1836年10月5日)〜明治41(1908)年10月26日)
近世名士写真頒布会より抜粋

近代日本人の肖像(国立国会図書館)

「函館戦争」(実写奠都五十年史 大正6年)
写真左「松平定敬」、写真右「榎本武揚」、写真下「軍艦開陽丸」 。

<銅像榎本武揚像>
大正2年5月に木母寺境内に建立、木母寺と梅若塚は移転しましたが、榎本武揚像はここに残っています。
墨堤通りに平行して立ち、南の皇居方面を望んでいるようです。



「墨田区登録有形文化財
銅像榎本武揚像
「榎本武揚」
榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所 (昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。
その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。」

○榎本武揚旧居跡 墨田区向島5-12-14(ライオンズマンション言問)
銅像から旧居跡まで、1,7kmです。墨堤を毎日徒歩ではなく、馬で散歩していたそうなので、健康目的より下町情緒を楽しんでいたのでしょうね。
(説明板)
「榎本武揚旧居跡 13
父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1866)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て、文部大臣、外務大臣などを歴任した。
明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。」



○榎本武揚夫妻の墓 文京区本駒込3-19-17
榎本武揚は、橋場の郷士で、保元寺に「榎本武揚一族之墓」があります。こちらで記載。
榎本武揚と夫人の両名のみ改葬され、文京区吉祥寺に墓があります。
「陸軍中将子爵榎本武揚墓」「元帥海軍大将伊東祐享書」と彫られた立派な墓です。隣は夫人の墓です。
(説明板)
「榎本武揚の墓
天保七年ー明治四十一年(一八三六~一九○八)。江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
東京都文京区教育委員会」








○梅若公園 墨田区堤通2-6-10
墨堤通り沿いに、梅若公園があります。

<梅若塚>
ここは梅若塚があった元の場所です。展示が工夫されていて、梅若山王権現堂が立地いているようにみることができます。







<梅若塚説明プレート>
梅若塚の手前右手にある説明プレートです。
(説明プレート)
「梅若塚
梅若塚は、謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸の墓であると伝えられます。
梅若丸は、京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃野上の長者の一人娘「花御せん」の子で、父の死後、7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因で、みちのくの人商人(人買い)、信夫の藤太にかどわかされてしまいます。
奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく、「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはらの 露と消えぬと」という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。」

<梅若塚と木母寺/梅若塚と妙亀塚/梅若権現御縁起/隅田川物>
(説明プレート)
「梅若塚と木母寺」
木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。その後「梅」の字を分けて「木母」となったと言われます。
木母寺は当該地周辺にありましたが、白髪東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。
「梅若塚と妙亀塚」
妙亀塚(都指定旧跡)は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求めこの地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩堤を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅か原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園(台東区橋場) 内にあります。
「梅若権現御縁起
「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現御縁起 附 漆箱二匣」(墨田区指定有形文化財)があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が、延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起物です。
原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土資料館で複製を所蔵しており、展示されています。
「隅田川物」
謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。
「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。」



<明治期の木母寺境内>
梅若塚の左手後方にある説明プレートです。
(説明プレート)
「明治期の木母寺境内
江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりをうけ木母寺は荒廃し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人の支援を受け、明治22年(1889)に寺院への復帰を果たしました。
現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたものです。
「木母寺境内之図」は、梅若堂が当地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。
画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。」


<東京都指定旧跡 梅若塚>
梅若塚手前左手にある東京都の説明板です。
(説明板)
「東京都指定旧跡
梅若塚
所在地 墨田区二の六 区立梅若公園
標 識 大正九年三月
指 定 昭和三○年三月二八日
梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。
木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた隅田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い現在地に移転しています。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」

○銅像榎本武揚像 墨田区登録有形文化財
「榎本武揚肖像」
天保7年8月25日(1836年10月5日)〜明治41(1908)年10月26日)
近世名士写真頒布会より抜粋

近代日本人の肖像(国立国会図書館)

「函館戦争」(実写奠都五十年史 大正6年)
写真左「松平定敬」、写真右「榎本武揚」、写真下「軍艦開陽丸」 。

<銅像榎本武揚像>
大正2年5月に木母寺境内に建立、木母寺と梅若塚は移転しましたが、榎本武揚像はここに残っています。
墨堤通りに平行して立ち、南の皇居方面を望んでいるようです。



「墨田区登録有形文化財
銅像榎本武揚像
「榎本武揚」
榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所 (昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。
その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。」

○榎本武揚旧居跡 墨田区向島5-12-14(ライオンズマンション言問)
銅像から旧居跡まで、1,7kmです。墨堤を毎日徒歩ではなく、馬で散歩していたそうなので、健康目的より下町情緒を楽しんでいたのでしょうね。
(説明板)
「榎本武揚旧居跡 13
父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1866)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て、文部大臣、外務大臣などを歴任した。
明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。」



○榎本武揚夫妻の墓 文京区本駒込3-19-17
榎本武揚は、橋場の郷士で、保元寺に「榎本武揚一族之墓」があります。こちらで記載。
榎本武揚と夫人の両名のみ改葬され、文京区吉祥寺に墓があります。
「陸軍中将子爵榎本武揚墓」「元帥海軍大将伊東祐享書」と彫られた立派な墓です。隣は夫人の墓です。
(説明板)
「榎本武揚の墓
天保七年ー明治四十一年(一八三六~一九○八)。江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
東京都文京区教育委員会」








テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
木母寺
墨堤(堤通)
〇木母寺 墨田区堤通2-16-1 HP








「江戸名所図会 無題」
梅若丸の故事が描かれています。
「梅若丸七歳のとし比叡の月林寺をのがれ出て花洛北白川の家に帰らんと吟ふて大津の浦に至りけるに奥陸の信夫の藤太といへる人あきひとのためにすかしあさむかれてはるばるとこの隅田川に来ぬることは本文に詳らかなり」
「因に云ふ人買ひ藤太は陸奥南部の産なりとていまも南部の人はその怨霊あることを恐れて木母寺に至らざること矢口の新田明神へ江戸氏の人はばかりて詣でざるが如し」


「東都旧跡尽 木母寺梅若の由来」(広重)
広重が梅若の故事を描いています。

<梅若神社>
木母寺が廃寺となり、梅若神社と称していた時に、小林清親が「梅若神社」を描いています。

井上安治も「梅若神社ノ雨」を描いています。

<梅若塚>
貞元元(976)年、梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養した塚です。
(説明板)
「 梅若塚の沿革
「たずね来て問はば答えよ都鳥すみだ河原のつゆと消えぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。
明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(明治二十二年)佛式に復帰しました。
現在地に遷座したのは、昭和五十一年で旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。」





<梅若念仏堂>
梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものであるといわれています。






(説明板)
「 梅若堂(梅若塚拝殿)
この仏堂は、明治の廃仏で一時梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、すなわち明治廿二年の建立になります。
当寺一帯が全焼した昭和廿年四月の戦災にも焼失を免れた唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡( 印)が所々見られます。
防災拠点内であるため木造建造物の存置は許可されず、覆堂内に納められることになりました。
なお、塚の二面に見える古い石垣は、さきの仏式復帰にあたり芳志を寄せられた人々の名を留めている重要記念物として旧塚から移された玉垣であります。
昭和五十一年十一月吉日
梅若塚遷座に際し 住職謹誌 」

<謡曲「隅田川」と木母寺>
謡曲史跡保存会の説明板があります。
(説明板)
「 謡曲「隅田川」と木母寺
謡曲「隅田川」は、我が子の行方を尋ねさまよう母の悲劇をテーマにした狂女物の代表曲で、探し求めた我が子は既に亡く、その墓前で亡き子の霊の声のみ聞く哀れさは、本曲の圧巻である。
梅若権現縁起に「梅若丸は吉田少将惟房卿の子、美濃国野上宿に生まる。母の名は花子五才で父を失い、七才の時比叡山に登り修学中、人買いに欺かれ、ここ隅田川原まで来たが病を得、貞永元年三月十五日此の地にみまかる。時に十二才、いまわの際の「尋ね来て問わば応えよ都鳥隅田川原の露と消えぬと」 との詠歌を哀れんだ天台の僧忠円が里人と計り、一堆の塚を築き柳一株を植えて標とし跡を弔う。これが梅若寺の起源となる。慶長十二年(一六○七)梅の字を分けて木母寺と改名された」と書かれている。
謡曲史跡保存会 」


<江戸の今昔 木母寺> 歌川広重(広重5世 1890-1967 東々亭主人) 湯島写真場 昭和7(1932)
昭和7年発行「江戸の今昔」に紹介されている若宮塚です。
右手に写っている石柱は、植半の石柱で、現存しています。


<身代わり地蔵>
(説明板)
「 「身代り地蔵尊」の由緒
この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかり深いお地蔵様です。
そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み、苦しみを察し、身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。
つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。
地蔵菩薩の御真言(お祈りするときの言葉・合掌して三たび唱える)
オン カカカビ サマエイ ソワカ
おん・訶訶訶尾・娑魔曳・娑婆訶 」


<植半/八百松>
植半、八百松とも、かつての料理屋ですが、碑にその名前が残っています。
武蔵屋の碑もありそうですが、わかりません。
・「植半」(大正八年一月)
梅若堂の入口に建っています。



・「奉納 永代大念佛 植半」(明治十一年四月)
植半寄進の石塔です。梅若堂の横に建っています。




・「料理家八百松建之」(明治十七年十二月)標柱



<境内の諸碑>

(説明板)
「 境内の諸碑
所在 墨田区堤通二丁目十六番一号木母寺内
「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など、三○基の石碑があり、著名なものとしては次の諸碑があります。
◆華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。


◆天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。

◆三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治二十二年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です。


◆題墨田堤桜花(墨田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年、清水孝の書です。文政十二年建立。
(参考)
「題隅田堤桜花
長堤十里白無痕
訝似澄江共月渾
飛蝶還迷三月雪
香風吹度水晶村」

平成八年三月 墨田区教育委員会 」
以下は説明板以外の碑です。
<紀恩之碑>

<浄瑠璃塚>
文政4(1821)年建碑。

<東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑>
四世川柳の建立。

<華渓先生禿筆之蔵并序>
文政3(1820)年建碑

<山井先生神遊之表碑>

<恆山先生武藝勒石記>
天保2(1831)年の建碑

<他色々>









<蛇身弁財天>
インパクトの強い蛇身弁財天です。



〇木母寺 墨田区堤通2-16-1 HP








「江戸名所図会 無題」
梅若丸の故事が描かれています。
「梅若丸七歳のとし比叡の月林寺をのがれ出て花洛北白川の家に帰らんと吟ふて大津の浦に至りけるに奥陸の信夫の藤太といへる人あきひとのためにすかしあさむかれてはるばるとこの隅田川に来ぬることは本文に詳らかなり」
「因に云ふ人買ひ藤太は陸奥南部の産なりとていまも南部の人はその怨霊あることを恐れて木母寺に至らざること矢口の新田明神へ江戸氏の人はばかりて詣でざるが如し」


「東都旧跡尽 木母寺梅若の由来」(広重)
広重が梅若の故事を描いています。

<梅若神社>
木母寺が廃寺となり、梅若神社と称していた時に、小林清親が「梅若神社」を描いています。

井上安治も「梅若神社ノ雨」を描いています。

<梅若塚>
貞元元(976)年、梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養した塚です。
(説明板)
「 梅若塚の沿革
「たずね来て問はば答えよ都鳥すみだ河原のつゆと消えぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。
明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(明治二十二年)佛式に復帰しました。
現在地に遷座したのは、昭和五十一年で旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。」





<梅若念仏堂>
梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものであるといわれています。






(説明板)
「 梅若堂(梅若塚拝殿)
この仏堂は、明治の廃仏で一時梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、すなわち明治廿二年の建立になります。
当寺一帯が全焼した昭和廿年四月の戦災にも焼失を免れた唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡( 印)が所々見られます。
防災拠点内であるため木造建造物の存置は許可されず、覆堂内に納められることになりました。
なお、塚の二面に見える古い石垣は、さきの仏式復帰にあたり芳志を寄せられた人々の名を留めている重要記念物として旧塚から移された玉垣であります。
昭和五十一年十一月吉日
梅若塚遷座に際し 住職謹誌 」

<謡曲「隅田川」と木母寺>
謡曲史跡保存会の説明板があります。
(説明板)
「 謡曲「隅田川」と木母寺
謡曲「隅田川」は、我が子の行方を尋ねさまよう母の悲劇をテーマにした狂女物の代表曲で、探し求めた我が子は既に亡く、その墓前で亡き子の霊の声のみ聞く哀れさは、本曲の圧巻である。
梅若権現縁起に「梅若丸は吉田少将惟房卿の子、美濃国野上宿に生まる。母の名は花子五才で父を失い、七才の時比叡山に登り修学中、人買いに欺かれ、ここ隅田川原まで来たが病を得、貞永元年三月十五日此の地にみまかる。時に十二才、いまわの際の「尋ね来て問わば応えよ都鳥隅田川原の露と消えぬと」 との詠歌を哀れんだ天台の僧忠円が里人と計り、一堆の塚を築き柳一株を植えて標とし跡を弔う。これが梅若寺の起源となる。慶長十二年(一六○七)梅の字を分けて木母寺と改名された」と書かれている。
謡曲史跡保存会 」


<江戸の今昔 木母寺> 歌川広重(広重5世 1890-1967 東々亭主人) 湯島写真場 昭和7(1932)
昭和7年発行「江戸の今昔」に紹介されている若宮塚です。
右手に写っている石柱は、植半の石柱で、現存しています。


<身代わり地蔵>
(説明板)
「 「身代り地蔵尊」の由緒
この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかり深いお地蔵様です。
そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み、苦しみを察し、身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。
つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。
地蔵菩薩の御真言(お祈りするときの言葉・合掌して三たび唱える)
オン カカカビ サマエイ ソワカ
おん・訶訶訶尾・娑魔曳・娑婆訶 」


<植半/八百松>
植半、八百松とも、かつての料理屋ですが、碑にその名前が残っています。
武蔵屋の碑もありそうですが、わかりません。
・「植半」(大正八年一月)
梅若堂の入口に建っています。



・「奉納 永代大念佛 植半」(明治十一年四月)
植半寄進の石塔です。梅若堂の横に建っています。




・「料理家八百松建之」(明治十七年十二月)標柱



<境内の諸碑>

(説明板)
「 境内の諸碑
所在 墨田区堤通二丁目十六番一号木母寺内
「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など、三○基の石碑があり、著名なものとしては次の諸碑があります。
◆華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。


◆天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。

◆三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治二十二年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です。


◆題墨田堤桜花(墨田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年、清水孝の書です。文政十二年建立。
(参考)
「題隅田堤桜花
長堤十里白無痕
訝似澄江共月渾
飛蝶還迷三月雪
香風吹度水晶村」

平成八年三月 墨田区教育委員会 」
以下は説明板以外の碑です。
<紀恩之碑>

<浄瑠璃塚>
文政4(1821)年建碑。

<東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑>
四世川柳の建立。

<華渓先生禿筆之蔵并序>
文政3(1820)年建碑

<山井先生神遊之表碑>

<恆山先生武藝勒石記>
天保2(1831)年の建碑

<他色々>









<蛇身弁財天>
インパクトの強い蛇身弁財天です。



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