多聞寺 隅田香取神社

○多聞寺 墨田区墨田5-31-13 HP

 隅田山吉祥院多聞寺と号します。関東大震災、戦災ともに遭わなかったため、昔日の面影を残す寺院です。茅葺の山門は区内最古の現存建造物で墨田区の指定文化財です。他、庚申塔や六地蔵の墨田区文化財があります。その他創建にまつわる妖怪狸を供養した狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨などがあります。
 江戸時代には隅田川神社の別当寺でした。荒川辺八十八ヶ所霊場65番、荒綾八十八ヶ所霊場5番霊場でした(荒綾八十八ヶ所霊場5番霊場は元宿大師堂に移動しています)。

<寺号標「隅田山 多聞寺」>

 寺号標「隅田山 多聞寺」
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 標柱「隅田山吉祥院 多聞寺 本尊毘沙門天」です。
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 山門手前の参道右手に石仏が並んでいます。
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 覆屋
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 左は子安地蔵尊。明和8(1771)年の造立。
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 右は阿弥陀如来を主尊とする庚申塔。寛文4(1664)年の造立。墨田区文化財。
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 隣の覆屋は弘法大師座像がお1人で座します。
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 露仏の石仏が八基並んでいます。
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 左から、元禄15(1701)年庚申塔
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 2番目 庚申塔
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 3番目 延宝8(1680)年銘の庚申塔
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 4番目 元禄10(1697)年銘の庚申塔
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 5番目、6番目
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 7番目 延宝8(1680)年銘の地蔵尊を主尊とする庚申塔
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 8番目
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<多聞寺山門>

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 山門内
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 山門裏
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 山門前参道
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(説明板)
「墨田区指定有形文化財 多聞寺山門
  所在地 墨田区墨田五丁目三十一番十三号
  所有者 宗教法人 多聞寺
 多聞寺山門は木造切妻造の四脚門で、現在では珍しい茅葺屋根を持ちます。幅が太く深い文様を彫り出す点に特徴のある簡素な和様の造りですが、控柱の礎石(礎盤)など一部に禅宗様の技法が確認できます。
 寺伝によれば、多聞寺の山門は、慶安二年(一六四九)の建立後、享保三年(一七一八)二月に焼失しています。再建年は不明ですが、寺の過去帳に享和三年(一八○三)二月の火災に関する記録が見え、その中に「表門は焼けず」とあります。また、専門家による調査の結果、現存する山門の建立年代 は十八世紀を降らない、との判断が得られています。
 これらのことから、この山門は享保三年以降に再建され、享和三年の火災で焼失を免れたものではないかと考えられています(ただし後年幾度か政修が行われています)。
 多聞寺山門は、このように、建立年代が江?時代中期に遡る可能性が考えられる貴重な文化財です。平成十六年十月一日に墨田区指定有形文化財に指定されました。
  平成二十九年九月  墨田区教育委員会
 山号額「隅田山」(正法金対書)
 裏に「明和九辰三月吉日造営」、「現住法印典慶代」、「願主 瀧澤逸平 規和」と刻まれています。このため、現存する山門を明和9年(1772) の造営物と見る説もあります。」

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(説明板)
「多聞寺の山門
 山門中央の「墨田山」と記された山号額の裏に「明和九年」(一七七二年)と彫られており、現存する墨田区内最古の建造物として区登録有形文化財とされています。
 屋根を支える本柱の前後に二本ずつの控柱をもつところから四足門または四脚門と呼ばれる形式の門 です。一部には朱と思われる痕跡があり、建立当初は朱塗り瓦葺きであったことが察せられます。その後、享和三年(一八〇三年)の火災、安政二年(一八五五年)の大地震などの被害を受け、後に茅葺にされたものと思われます。その後もこの門は、廃仏毀釈、関東大震災、十五年戦争などの天災と人災の歴史をくぐり抜け、娑婆<人間自身が作り出した苦しみの世界>の人々の営みを見据えてきました。
 これからも、安楽を願う人々を見守ってくれるでしょう。
  墨田山 多聞寺」

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<隅田川七福神の碑>

 榎本武揚の書です。榎本武揚が当寺を訪れたおり、筆をとったといわれます。

(碑文)
 「隅田川七福神之内 毘沙門天 正二位子爵 榎本武揚」

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<多聞寺 毘沙門天>

(案内板)
「隅田川七福神コース 案内板
 多聞寺 毘沙門天
 多聞寺はその昔、墨田堤の外側、水神森近くにあったが、四百年ほど前、徳川氏が江戸に移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられる。
 毘沙門天は、佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反面、三界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の理想として、七福神に含められ、信仰された理由である。」

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<南無阿弥陀仏題目塔>

 弘法大師霊場ですが、南無阿弥陀仏題目塔が山門脇に建てられています。享保11(1726)年の造立です。

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<狸塚>

 山門入って左手に「狸塚」があります。

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(説明板)
「狸塚のいわれ
 むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で草木が生い茂るとても寂しいところでした。大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また「牛松」と呼ばれるおとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪狸がすみつき人々をたぶらかしていたのです。そこで、鑁海和尚と村人たちは、人も寄りつくことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追いはらうことにしました。まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池をうめてしまいました。するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。ある晩のことでした。和尚さんの夢の中に、天までとどくような大入道があらわれて、
 「おい、ここはわしのものじゃ。さっさと出て行け、さもないと、村人を食ってしまうぞ。」
 と、おどかすのでした。和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みました。やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。
 「おまえの悪行は、いつかおまえをほろぼすことになるぞ。」
 次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。この塚はいつしか『狸塚』と呼ばれるようになりました。」

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<不詳石碑>

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<不詳石碑>

 日露戦役の個人の紀念碑ですかね。

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<橘千蔭の碑>

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<平和観音像>

 弘法大師ご入定1150年のご遠気忌を記念して、昭和59(1984)年に東京大空襲の犠牲者を追悼する為に建立されました。

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<浅草国際劇場の鉄骨>

(説明板)
「東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 1945 (昭和20) 年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、 下町一帯は“炎の夜” と化した。この東京大空襲により下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
 この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
 戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、
 不殺生の誓いを新たにしましょう。
  隅田山 多聞寺」

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(説明板)
「戦災の証言者
 パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための堀削により発見されました。
 東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
 ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空爆で焼かれた木です。
 当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。
 戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。
 1992年10月18日 戦災の木を保存する会」

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<坐姿六態地蔵> 墨田区文化財

 坐像の六地蔵は都内でも四例にすぎないとのこと(寺パンフレットに記載)。
 左から、享保3(1718)年、享保元(1716)年、正徳2(1712)年、正徳3(1713)年、正徳4(1714)年、正徳3(1713)年の地蔵です。

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(説明板)
「<墨田区登録文化財> 六地蔵座像
  所在 墨田区墨田五丁目三十一番十三号 多聞寺内
 この六地蔵像は総高約一五○センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目は方形の台石、三段目は蓮台、その上に、それぞれ六十センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んています。
 欠?や修復の跡かみられますか、僧覚誉理慶(利?)が願主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読み取ることがてきます。
 隅田村地蔵講中の数年間にわたる作善行為を知り得る、貴重な資料といえます。
 六地箴の製作年代は右から、正徳三年(一七一三)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年二月吉祥日、享保元年(一七一六)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています。
  平成四年三月  墨田区」

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<映画人の墓碑>

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(碑文)
「映画人の墓碑
「映画を愛し平和と民主主義を支え人間の尊厳を守った人々ここに眠る」
「墓碑の由来
 故坂斎一郎(共同映画株式会社創立者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提供し、日本映画の民主主義的発展のためにつくされた映画の仲間の生涯を顕彰し追悼する共同の墓碑建立に役立ててほしいとの申し出がありました。
 その意思を尊重し、映画を愛する人々と団体によって本会が組織され、この墓碑が建立されました。
  一九九二年四月二九日
  映画を愛し 平和と民主主義を支えた人々の墓碑の会
  隅田山多聞寺三十世 岸田正博代」

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<宝篋印塔/弘法大師一千五十年遠忌碑>

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<池>

 水なしの池です。

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<本堂>

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 常香炉
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<庫裡>

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○香取神社 墨田区墨田5-31-14

 多聞寺の隣にある「隅田香取神社」です。

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 隅田川神社の分社として、大神輿が保管されています。

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tag : 荒綾八十八ヶ所霊場榎本武揚

古代東海道と鎌倉街道

○古代東海道

 鐘ヶ淵駅西口の駅前に、説明板「武蔵・下総を結んだ古代東海道」が設置されています。

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(説明板)
「武蔵・下総を結んだ古代東海道
  所在地 墨田区墨田二丁目〜四丁目
 東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されたと考えられます。
 官道に定められた年代は、九?十世紀と想定されます。『大日本地名辞書』に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されるように、明治十三年(一八八○)の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。
 鐘ヶ淵駅から西に進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段でした。承和ニ年(八三五)の太政官符で渡船の数を二艘から四艘にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが『伊勢物語』東下りの場面です。 在原業平が「名にしほはゝいざ事とはむ宮こ鳥わがおもふ人はありやなしやと」と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡であったのです。
  平成二十三年三月  墨田区教育委員会」

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 東京都の標柱「隅田川七福神散歩」も設置されています。

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 説明板が設置されている花壇は「墨田つり鐘会」の管理です。

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 「つりがね最中」を売っている墨田園(墨田区墨田4-9-17)が鐘ヶ淵通りにあります。

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<古代東海道をたどる>

 荒川土手〜ほがらか保育園〜墨田変電所横〜伊勢崎線第17号踏切〜墨田二丁目交差点(鎌倉街道と交差)〜稲荷神社〜榎本武揚像〜東白鬚公園

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 荒川開削により分断された古代東海道の荒川河川敷へ降りる階段と河川敷です。
 荒川を挟んだ葛飾区側にも古代東海道の解説板が設置されています(こちらで記載)。

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 荒川土手からほがらか保育園横へ降りる階段途中に石仏がおわします(墨田区墨田4-34)。摩耗により文字は読めません。 ここは荒川土手ですが古代東海道の雰囲気を残しています。

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 荒川土手階段から古代東海道
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 ほがらか保育園横から西方向
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 荒川土手方向
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 変電所横から荒川土手方向
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 踏切の東から荒川土手方向
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 古代東海道は、踏切で鐘ヶ淵街道と交差します。
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 墨田二丁目交差点(鎌倉街道と交差) 手前
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 稲荷神社 墨田区墨田2-7-1
 古代東海道が墨堤通りに出る角に稲荷神社があります。
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 墨堤通りを越えて、榎本武揚像の脇の通路を進みます。榎本武揚さん、お久しぶりです(こちらで記載)。
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 都営白鬚東アパート9号棟の中を抜けると東白鬚公園に出ます。
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 古代東海道は「住田の渡し」へ向かいます (隅田宿跡はこちらで記載)。
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○鎌倉街道下道 墨田区墨田1-4-1

 向島警察署白鬚橋交番の隣の公衆トイレの横に鎌倉街道の「下の道」説明板が設置されています。

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(説明板)
「下の道
 承和2年(835)の太政官符に「武蔵国下総両国境、住田河四艘…」の記載がみられます。住田渡し(隅田渡)は現在の白髭橋辺と考えられ、大正3年(1914)の架橋頃まで、永々と続く隅田渡がありました。古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道すじにもなっていました。
 この墨堤堤を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定させます。源頼朝が敵対する常陸国の佐竹氏討伐に、また、奥州征伐にも使用された道とも考えられます(吾妻鏡)。
 さらに時代が下り、戦国時代には国府台合戦の小田原北條軍の使用路でもあり、郷土の歴史を知るうえからも貴重な道すじです。
  平成12年3月
    監修 墨田区教育委員会
    施主 東京都住宅供給公社」

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 都営アパートに遮られている古代東海道は都営アパートの北から道路となり、首塚地蔵尊、正福寺(こちらで記載)を経て、墨田二丁目交差点で古代東海道と交差します。

 鎌倉街道の道路始点。
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 墨田二丁目交差点手前
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 鎌倉街道と古代東海道
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鐘紡発祥の地

○鐘紡(カネボウ)

 明治19(1886)年に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の五軒が集まり、東京綿商店が設立されました。翌年、鐘ヶ淵に紡績工場を建設して、明治22(1889)年に操業を開始、名称も有限責任鐘淵紡績会社と改称しました。工場は昭和44(1969)年に操業を停止しました。昭和46(1971)年に鐘紡株式会社に改称、平成13(2001)年にカネボウ株式会社に改称しています。
 バブル崩壊後、粉飾決算が繰り返され、最終的には、カネボウ株式会社は平成19(2007)年6月30日に解散しました。平成18(2006)年2月、カネボウ化粧品の花王への売却に伴い「カネボウ」の商標権はカネボウ化粧品に譲渡され、化粧品部門以外は、平成18(2006)年にカネボウ・トリニティ・ホールディングス(現クラシエホールディングス)を統括会社として再出発、新たなブランド名「クラシエ」としてスタートしています。

 「鐘淵紡績株式会社」(日本商工大家集 大阪新報社 明治39年)
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 電柱の支柱名に「鐘紡支」の名称が残っています。
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○鐘紡バス停

 墨堤通りに、「鐘紡」のバス停があります。バス停に「鐘紡」の名称が残っています。

 墨田区墨田5-16
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 墨田区堤通2-11
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○鐘淵紡績発祥の地 墨田区墨田5-17-4 KCロジスティクス

 墨堤通りに面した「KCロジスティクス」に、墨田区教育委員会が設置した説明板「鐘淵紡績発祥の地」があります。

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(説明板)
「鐘淵紡績発祥の地
   所在 墨田区墨田五丁目十九番ほか
 明治十九年(一八八六)に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の五軒が集まり、三越得右衛門を頭取として東京綿商店が設立されました。翌年、資本金十倍に増加させ、隅田川河畔鐘ヶ淵の広大な土地に紡績工場を建設して、明治二二年(一八八九)に操業を開始、名称も有限責任鐘淵紡績会社と変更しました。これが、現在のカネボウ株式会社です。
 鐘淵紡績は、設立当初こそ経営難に見舞われたものの、他社を吸収合併する中に、日清戦争を機に大発展を遂げ、世界有数の紡績会社となりました。
  平成十三年三月  墨田区教育委員会」

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○カネボウ公園 墨田区墨田5-17

 雑草が生えまくり荒れ放題の公園です。鐘淵紡績株式会社発祥の地で、発祥碑が建っています。

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 後日訪問時には、きれいに草刈りされていました。隅田区のサイトに誰が管理しているのでしょうかねとコメントがあったので、公園の管理に関しては墨田区はノータッチのようです。町会が管理しているのでしょうかね?

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<発祥の地碑>

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(碑文)
 「鐘淵紡績株式会社
  発祥の地
  明治二十二年五月六日創立」

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(プレート文)
「発祥碑由来記
此の地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代に入って将軍徳川吉宗公が之の引揚げを下命しましたが成功せず鐘は毎夕月の出と共に燦然として光を放ったといわれます。 周辺の風光明媚を愛でて徳川氏はこゝを将軍家専用の野菜畑とし御前栽と称しました。
明治二十年近代工業の先覚としてこの地に東京綿商社が設立せられ、紡績機械ニ万九千錘を英国より輸入して東洋第一の紡績工場を建設、明治二十二年社名を鐘淵紡績株式会社と改称しました。 爾来近代日本の進展と共に工場は拡大し、その技術は全国津々浦々に結実し製品はカネボウの名声と共に遠く欧米各国を席巻しました。
この間にあって産業立国の一翼を担った人々少なからず、また過ぐる関東大震災、東京大空襲当時その職に殉じて斃れた者は五十余柱に及びました。
いまこゝに時代の進運と共に工場の移転を実施するに当って鐘紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し八十余年に亘ってうけたこの地域社会の御かげを感謝すると共に老人と児童の憩いの場を設けて記念庭園とし永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。
  昭和四十四年十月二十日
    鐘淵紡績株式会社社中一同」

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<大震災復興紀念樹>

 記念樹はなく、碑のみが建っています。

 「大震災復興紀念樹」
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 「昭和三年一月吉日
  寄贈男子従業員一同」
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<震災記念観世音菩薩>

 関東大震災慰霊の観世音菩薩像です。第二次大戦の供養碑も兼ねています。

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 「震災記念 観世音菩薩 鐘紡」
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 「大東亜戦争 戦災殉難者供養之碑」
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鐘ヶ淵の由来

○「鐘ヶ淵」の由来 墨田区堤通2-11-1

 墨田区総合運動場に墨堤通りに面して、説明板「「鐘ヶ淵」の由来」が設置されています。
 「鐘ヶ淵」の名は沈鐘伝説に由来しますが、説明板にあるように諸説あります。

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(説明板)
「「鐘ヶ淵」の由来
  所在地 墨田区堤通二丁目11番1号
 鐘ヶ淵は、隅田川と綾瀬川の合流地点で、堤通二丁目の地先にあたります。江戸時代後期の『墨水遊覧誌』には鷺の名所であったと記されています。かつて隅田川直角に曲がり、それが大工道具の指矩に似ていることから「かねが淵」と呼ばれるようになったといわれています。
 鐘ヶ淵には、鐘にまつわる伝説がいくつもあります。たとえば、普門院が亀戸(江東区)に移転する際、梵鐘が隅田川に落ちたまま引き揚げられずに沈んでいるという話や、石浜の保元寺(台東区)の鐘が壊れて隅田川に転がり落ちたという話、あるいは8代将軍徳川吉宗が川底に沈んだ長昌寺(台東区)の鐘を引き揚でさせようとしたができなかったなどという話が伝えられています。
 明治時代には、周辺の開発が進み、紡績工場が建てられて、社名を鐘ヶ淵紡績株式会社としました。この会社こそ、後に世界有数の紡績会社に成長した「鐘紡」で、このエリアにはその東京工場があり、周辺には工場に勤める多くの職員が暮らしました。工場は昭和44年(1969)に操業を停止し、それから次第に景観を変えていきました。
  令和3年3月  墨田区教育委員会」

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(参考)
 ○普門院(亀戸)
 ○保元寺(橋場)

<周辺の地図>

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○鐘ヶ淵陸橋碑 墨田区堤通2-8 墨堤通り中央分離帯

 鐘ヶ淵陸橋交差点に、2つのモニュメント「鐘ヶ淵陸橋碑」があります。 墨堤通りは交差点の下をアンダーパスでくぐっています。どういう趣旨で陸橋なのかわからない信号のある交差点です。「鐘ヶ淵陸橋交差点」という名称も不思議です。

<交差点北>

 「鐘ヶ淵」の地名の由来の図と「名所江戸百景 木母寺内川御前栽畑」(広重)のレリーフが掲げられています。

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(レリーフ文)
「鐘ヶ淵の由来には隅田川がこの辺りで直角に曲がり、それが工匠の使う曲尺(矩尺)に似ているところから又、寺院の移転の際に梵鐘が川に落ちたところからの二説が伝えられています。」

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(レリーフ文)
「これは広重の「木母寺内川御前栽畑」(名所江戸百景)をレリーフにしたものです。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を船で出入りすることができました。」

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「名所江戸百景 木母寺 内川 御前栽畑」(広重)

 木母寺境内にあった料理茶屋と、内川、御前栽畑が描かれています。隅田川で舟を下りて、芸者が料理茶屋「植半」に向かっています。内川の左手が、江戸城で使用する野菜を栽培していた御前栽畑です。現在の梅若橋付近が御前栽畑でした。

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(参考)「水神の森

<交差点南>

 隅田川に沈んでいく鐘のレリーフが掲げられている「鐘ヶ淵陸橋碑」です。

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○鐘ヶ淵

 隅田川が大きく蛇行しているところが鐘ケ淵です。鐘ケ淵は、足立区・墨田区・荒川区の3区境となっています。隅田川左岸が旧綾瀬川を挟んで足立区と墨田区で、隅田川右岸が荒川区です。

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「名所江戸百景 綾瀬川鐘か渕」(広重)

 手前が隅田川で、向岸に綾瀬川が描かれ橋が架かっています。

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 橋と綾瀬川部分の拡大です。

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「江戸名所図会 鐘ヶ淵 丹頂の池 綾瀬川/牛田 薬師堂 関屋里」

 其一と其二を繋いでいます。
 綾瀬川が手前の千住川(隅田川)鐘ヶ淵に流れこんでいます。綾瀬川には綾瀬橋が見えます。

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 汐入公園(荒川区)から鐘ヶ淵(左上流:足立区、右下流:墨田区)
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 旧綾瀬川河口から鐘ヶ淵(墨田区) 
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 旧綾瀬川河口から鐘ヶ淵(足立区)
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正福寺/首塚地蔵尊(墨田区墨田)

○正福寺 墨田区墨田2-6-20

 宝治2(1248)年銘の都内最古の板碑があります。江戸時代の「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)でも絵図入りで紹介されています。荒川辺八十八ヶ所霊場第66番札所、荒綾八十八ヶ所霊場66番札所です。

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「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)

 「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)によると、阿弥陀詣の六番寺は、正福寺(墨田区墨田)でしたが、常光寺に銭一貫八百文の質物として入れた阿弥陀像を戻すことが出来ず、常光寺が六番寺になったと記載されています。
 また、古碑について絵図入りで記しています。
 「寶治二年 戊申 三月 三日」

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<和みの像>

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<大師堂>

 参道右手に「大師堂」。

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<手水鉢型庚申塔>

 大師堂の手前左手に墨田区内最古の寛文7(1667)年4月銘の手水鉢があります。右側面に三猿が陰刻され、正面中央には「奉造立庚申供養二世安樂所」とあります。

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<阿弥陀如来>

 万治4(1661)年銘の阿弥陀如来です。

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<板碑二基> 墨田区文化財

 都内最古の宝治2(1248)年3月銘の板碑があります。

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(説明板)
「≪墨田区登録文化財≫
 正福寺の板碑
    所在 墨田区墨田二丁目六番 正福寺内
 板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面には種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
 板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士たちが供養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板碑があります。(登録は二基)
 宝治二年(一二四八)銘の板碑は高さ一一六cm、幅四六cm、厚さ一○cmで、区内では随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては、都内最古です。阿弥陀一尊を種字で刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
 登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当寺に移されたといわれます。なお、区内には約三○基の板碑があります。
  平成一四年三月  墨田区教育委員会」

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○首塚地蔵尊 墨田区墨田2-6-20

 正福寺門前に「首塚地蔵尊」が祀られています。

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(説明板)
「・首塚地蔵尊
 地蔵菩薩 ご縁日 四日
 ご真言
  オン カカカ ビサンマエイ ソワカ
 天保四年(一八三三年)洪水の危険をふせぐための隅田川橋場付近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。
 関係者は当山第十六世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬、碑をたてて「首塚」といったと伝えられる。
 この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧並びに信者により護持され、今日にいたる。
 この縁で、首から上の病いに功験があるからと、参詣の香華がたえない。
 このお堂は、真言宗中興の祖興教大師八百五十年御遠忌 ( 平成四年十二月十二日 ) 記念事業の一環として、平成二年八月檀信徒一同により再建、奉納されたものです。
  月光山正福寺」

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※ 高尾稲荷神社も、頭蓋骨をお祠りしていいます。こちらで記載

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