東向島 法泉寺など

 東向島

  ○ 法泉寺
  ○ 葛飾北斎⑫
  ○ 白髭神社 (記載済
  ○ 葛飾北斎⑬
  ○ 西川春洞・寧住居跡


○法泉寺 墨田区東向島3-8-1

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<法泉寺縁起>

「 法泉寺縁起
 法泉寺は永平寺と總持寺を両大本山と仰ぎ駒込吉祥寺を本寺とする曹洞宗のお寺です。
 今から約八百年前、源頼朝公の重臣で奥州を支配した葛西三郎清重公がこの下総国大沼に堤を築いて開墾し、父母追善供養の為に建立したと伝えられており、「寺島村」地名発祥の寺のひとつと云われています。
 天文元年(一五三二)吉祥寺二世大州安充大和尚により伽藍が再興され、慶安元年(一六四八)には江戸幕府より八石五斗の御朱印を賜りました。
 寛文二年(一六六二)石造地蔵菩薩立像、享保二年(一七一七)銅造地蔵菩薩立像が建立されたほか、東京大空襲による焼失を免れた数々の文化財が継承されています。
 四百年の歳月を経て、なおやさしさを偲ばせる三百余基の石仏群が祀られ、粋でゆとり溢れる江戸文化が伝えられています。
  清河山  法泉寺 」

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<窪俊満「故郷の」の歌碑> 墨田区登録有形文化財
 
(説明板)
「(墨田区登録有形文化財)
 窪俊満「故郷の」の歌碑  所在 墨田区東向島三丁目八番一号
 江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の窪俊満(一七五七?一八二○)を偲び、彼の友人たちが文政四年(一八二一)六月に建立しました。正面には俊満の作品で狂歌作品集にも掲載された「故郷の おやの袖にも やどるかと おもへば月は ふたつなきもの」という和歌が刻まれています。
 裏面には石川雅望による俊満の人物紹介と建碑の経緯を記した一文が刻まれています。
書は秋元廣丸、碑刻は窪世祥が受け持ちました。
  平成二十七年九月  墨田区教育委員会 」

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<千鳥庵鳥奏の歌碑>

 寛政9年(1797)9月建碑。
 「短冊塚」の篆額、三世千鳥庵の4句が刻まれています。
  散日から散るを盛りや花
  思ひきって飛姿なりほととぎす
  我を山に捨て名月入に鳧
  夕煙雪の野末に里ありや 千鳥庵鳥奏 」

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<石造地蔵菩薩立像> 墨田区登録有形民俗文化財

「舟形光背を持つ寛文2年(1662)銘の地蔵菩薩立像です。右手は欠損していますが、裳裾の状態から、錫杖を持っていたものと推定されます。彫刻は大変丁寧で、眉目秀麗な姿をしています。光背には、寛文2年(1662)の年号とともに、「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成佛道」と刻まれています。これは、中世より回向文として最も多く刻まれてきた法華経化城喩品(けじょうゆぼん)第七の一節です。また、下段には3名の導師の名前と20名の男性名、そして「玉」という女性の名前が刻まれています。」
(墨田区教育委員会HPより引用)

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<五輪塔(多賀家)>

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<無縁仏入口>

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<タブノキ>

 「今を去ることは七百年前、源頼朝が隅田川を渡りし際、
  此の木に白幡を立てしという由来ある由縁あり」(本多静六)

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○すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう 墨田区東向島3-8-11法泉寺前
「⑫寺島法泉寺詣
文政中期(1780~90年)頃の摺物(すりもの)です。摺物とは狂歌師などが知り合いに配るために絵師に注文して作ったプライベートな版画で、売り物とは違い、採算を度外視した豪華な作品が多いのが特徴です。葛飾北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60~70歳代中頃の作品で、墨田区東向島の法泉寺を訪れる参詣客の様子が描かれています。門前の右の石柱に「新田義貞公守本尊髻不動明王寺嶌法泉寺」とあります。現在のところ、江戸時代の法泉寺に関する版画はこの作品だけであり、墨田区所蔵のピーター・モースコレクション以外では確認されていない唯一の作品で、墨田区指定有形文化財となっています。」

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○すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう 墨田区東向島3-4-2白髭神社前
「⑬白髭の松 今戸の夕烟 -絵本隅田川両岸一覧-
『絵本隅田川両岸一覧』は隅田川両岸を中心に高輪から吉原までを描いた全3巻25作品からなる狂歌絵本シリーズで、この作品は下巻に収められています。秋の夕暮れが広がる画面の左では、今戸(現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で、川縁で何やら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と瓦を積んだ舟が描かれています。画面の奥には名勝地として知られていた白髭明神社(現在の白鬚神社)の鎮守の杜を配し、また右側に配された動きのある白鷺がアクセントとなっています。葛飾北斎が40~47歳頃の作品です。」
  
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 関連 金乗院放光寺(山口観音)の新田義貞公霊馬

○西川春洞・寧住居跡 墨田区東向島3-4-5
 葛飾北斎の掲示の横にあります。

 春洞は明治、大正にかけて活躍した大家でその門に学ぶ者、2000名といわれました。
 今日の漢字書道界の基礎をつくった中心的的存在でした。
 寧は書家、中国書道史家で、日本芸術院会員、文化勲章受章者。

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tag : 向島葛飾北斎墨堤

秋葉神社

〇秋葉神社 墨田区向島4-9-13

 秋葉神社(秋葉権現社)は、多くの大名や大奥の信仰を集めました。
 大奥の信仰を得たのは、参詣を口実の日帰り遊覧のためともいわれます。

<秋葉大神>
 参道左手に「秋葉大神」碑があります。

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<秋葉神社常夜燈一対>
 参道左の常夜燈は、補強されています。

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<石燈籠>

 石燈籠が3対あります。全部は撮っていません。

(説明板)
「<墨田区登録文化財>
  石燈籠    所在 墨田区向島四丁目九番十三号 秋葉神社内
 本殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平甲斐守吉里の室、源頼子が寛保元年(一七四一)奉献したものです。吉里は将軍綱吉の籠臣柳沢吉保の子です。
 この石燈籠の右横にある一基は、前橋城主酒井雅楽頭忠挙が宝永六年(一七○九)に奉献したもので、その手前にある一対の石燈籠は、関東郡代伊奈忠宥が宝暦八年(一七一八)に奉献しました。
 鳥居に近い石燈籠一対は、上州沼田城主で老中も勤めた伯耆守本多正永が宝永元年(一七○四)に奉献したものです。なおこの一対は〈墨田区登録文化財〉に登録されています。
 当社は安藤広重の『名所江戸百景』に紅葉の名所として描かれており、『江戸名所図絵』には「秋葉大権現社、弘福寺より三丁あまり東の方請地村にあり、遠州秋葉権現を勧請し(略)境内林泉幽邃にして四時遊観の地なり」とも書かれています。一方鎮火の神として将軍家や諸大名の崇敬があつかったといいます。
  平成五年三月  墨田区 」

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<社殿>
 拝殿から振り返ると、鳥居の外にはレトロな参道が続いています。

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<御由緒>

「 秋葉神社
   祭神 火産霊命 (千栄秋葉大権現)
      宇迦御魂命(千代世稲荷大明神)
昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応二年(一八九)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者葉栄が神感得てこの社に参り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田与右衛門を通じ寺社奉行に願出て上州沼田城主本多正永の報賛にて、元禄十五年(一七○二)秋葉稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当となった。
 爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保二年(一七一七)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行により、秋葉神社と称し別当満願寺を廃した。大正十二年の震災に社殿倒壊し、昭和五年復興したが、昭和二十年戦災にかかり昭和四十一年氏子崇敬者の奉賛により現社殿を再建した。

  *主な祭事 歳旦祭 一月一日  祈年祭  三月三日
        例祭  九月中旬  鎮火大祭 十一月十七日 十八日
        新嘗祭 十一月二十三日
        縁日  毎月三日 十八日
               社務所
  昭和六十一年十月十八日建之 」                    

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<旧社殿>
 社殿の右手にも神明造の社殿がります。旧社殿のようです。
 
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<江戸名所図会 請地 秋葉大権現宮 千代世稲荷社>

 「境内林泉幽邃にして四時遊覧の地なり 門前酒肆多く各生洲を構へて鯉魚をかふ」

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<江戸名所図会 庵崎>

「庵崎
俗間、請地秋葉権現の辺をしか唱ふれども定かならず
須崎より請地秋葉の近傍までの間酒肉店多くおのおの簀をかまへ鯉魚を畜ふ 酒客おほくここに宴飲す 中にも葛西太郎といへるは葛西三郎清重の遠裔といひ伝ふれども是非をしらず むさしやといふは昔麦飯ばかりを売りたりしかば麦計といふここにて麦斗と唱へたりしもいまはむさしやとのみよびて麦斗と号せしをしる人まれになりぬ」

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<名所江戸百景 請地秋葉の境内(広重)>

 広重の名所江戸百景に描かれています。
 広重自身も描かれています。
 境内に掲示されています。2枚目は国会図書館蔵から。

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tag : 向島歌川広重江戸名所図会関東郡代

牛嶋神社

〇牛嶋神社(牛御前宮) 墨田区向島1-4-5

(説明板)
「牛嶋神社
 貞観2(860)年に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。昭和7(1932)年に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。
 本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3(1251)年には牛鬼が社中を走り回り、落としていった牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭)焉馬(1743~1822)の、「いそかすは濡れまし物と夕立のあとよりはるゝ堪忍の虹」の句碑などがある。
 5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。」

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(説明板)
「牛島神社について
 牛島神社は、もと本所区向島須崎町に鎮座していたが、関東大震災後昭和のはじめ、水戸徳川邸跡の現位置に再建された。
 当社の縁起書によると貞観二年(八六○年)御神託によって須佐之男命を郷土守護神として創祀し、のちに天穂日命をまつり、ついで清和天皇の皇子貞辰親王をお祀りし「王子権現」と称した。
 また天文七年(一五三八年)後奈良院より『牛御前社』との勅号を賜ったと言われ、隅田川に沿う旧本所一帯の土地を、むかし「牛島」と呼んだところから、その鎮守として明治初年から「牛島神社」と称するようになった。例祭日九月十五日は、貞観のむかしはじめて祭祀を行った日とされている。
 治承四年(一一八○年)源頼朝が大軍をひきいて当地におもむき、豪雨による洪水に悩まされた時、武将千葉介平常胤が祈願し、全軍無事を得たところから、頼朝はその神徳を尊信して社殿を建立し、多くの神領を寄進した。
 江戸時代には鬼門守護の社として将軍家の崇敬厚く、特に三代将軍家光は、祭礼神輿渡御の旅所としての土地を寄進した。現在の本所二丁目のお仮宮がこれである。
 総桧権現造り東都屈指の大社殿を誇る牛島神社は、昭和三十二年鎮座千百年祭を執行、氏子五十余町牛島講の守護神として崇敬尊信をあつめている。」

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 社号標
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 扁額
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 社殿・神輿蔵説明板
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<三輪鳥居>

 鳥居の左右に袖鳥居がついてる珍しい鳥居です。

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 「三輪鳥居再建記念」があります。
 平成30(2018)年10月1日、台風24号の強風二より倒壊、令和元年5月再建されました。

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<狛犬>

 拝殿前に3対の狛犬(墨田区登録文化財)。一番躍動感のある狛犬。

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<神牛>(拝殿前1対)(墨田区登録文化財)

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<撫牛>(墨田区登録文化財)

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(説明板)
「(墨田区登録文化財)
 撫牛
 撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
 この牛の像は、文政八年(一八二五)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
  平成十七年三月  墨田区教育委員会」

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 横にある日時計の石板に、牛が刻まれています。

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<包丁塚/村田周魚句碑>

 「慰霊 包丁塚」
 「人の世の 奉仕に生きる 牛黙す 目魚」

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<烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑>(墨田区登録文化財)

 「いそかすは 濡れまし物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹」

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(説明板)
「(墨田区登録文化財)
  談洲楼烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑
 この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化七年(一八一○)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は、本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保三年(一七四三)生れ、本所相生町五丁目(現 緑一丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談州楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
 元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていましたが、天明四年(一七八四)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
 文政五年(一八二二)八○歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
 (現在は寺・墓 共に江戸川区平井に移転)。
   平成七年三月    墨田区」

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<殲蒙古仇碑記/力石群>

 殲蒙古仇碑記
 碑の周りに9個の力石が集められています。

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<荻園加藤先生之碑>
 国学者・歌人の加藤千浪の碑。明治10(1877)の建立。

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<富士山碑>
 三角の碑が「富士山 小御嶽石尊大権現碑」
 ここは少々高くなっており、富士塚の感もあります。
 ここにも牛がいます。

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<戦利兵器奉納ノ記>
 「是レ明治三十七八年役戦利品ノ一ニシテ~(以下略)」
 現物はありません。同じようなものは他でもみかけます。

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<浮島の牛牧>
 農協の説明板があります。

(説明板)
「江戸・東京の農業 浮島の牛牧
 文武天皇(701〜704)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。
 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。
 時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。
 明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。
  平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行五十周年記念事業」

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<小梅稲荷神社>

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<勝海舟の剣術修行>
 勝海舟は、天保9(1837)年父小吉が隠居し、家督を相続。
 島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込み、剣術修行を始め、夜は牛島神社(かつて王子権現ともいわれた)で寒稽古をしています。
「氷川清話 剣術修行の話
 寒中になると、島田の指図に従うて、毎日稽古がすむと、夕方から稽古着一枚で王子権現に行て夜稽古をした。」

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tag : 向島力石富士塚勝海舟市川団十郎江戸・東京の農業

三囲神社

〇三囲神社 墨田区向島2-5-17

 「社号塔 三圍神社」「三囲神社説明板」「神社由緒板」<隅田川沿の鳥居>など。
 隅田川沿の鳥居からは閉まっていて入れないので、見番通りから参詣となります。
 歴史のある石碑が林立しています。

 (三井広報委員会)←三井グループと関係が深い神社です。

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<日比翁助石垣の歌碑>
 説明板の左に三越百貨店を創業した日比翁助氏の歌碑があります。
 (説明板)
 「いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色 日比美勲
  日比翁助は号を美勲と称し 三越呉服店の会長。わが国近代百貨店の創始者であった
  茲来百年 松を新たに植え 旧観を復した」

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<三つ穴石燈籠>
 三囲神社最古の石造物。宝永3年(1707)奉納。火袋に三点の穴が開いています。

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<ライオン像>
 池袋三越の閉店にともない奉納。

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 「奉納
   株式会社 三越
   清水建設株式会社
   平成二十一年十月吉日」
  清水建設も奉納者です。

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(説明板)
「三囲のライオン像
 三越の旧池袋店から移した 三越のシンボルであるライオン像は 大正3年、当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み 三越本店に 一対のライオン像を据えたのにはじまる。 戦後、本店の像をもとに各支店に設置されている ライオン像の原形はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむライオン像である なお「現金 安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は 大いに発展し 明治29年三越呉服店につながる。」

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<銅壺大石>

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(説明板)
「(右)越に○は三越の商標。客に出す茶の湯を沸かす銅壺の台石に彫られ、越に○の雛形といわれる。明治29年から昭和の初期まで実際に使われていた。
(左)ライオンは東洋的意匠の狛犬に変化したのだが、三越のライオン像も狛犬のように神前を守っている。」

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<三囲のコンコンさん>

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(説明板)
「三囲のコンコンさん
目尻のさがった温和な表情を ここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである 向店は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向いにあって木綿を主に扱っていた。
享和1年(1802)の奉納」

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<三柱鳥居>
 鳥居に三本の柱があります。
 (説明板)
 「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」

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<三本柱手水鉢>
手水鉢の屋根は3本の柱で支えられています。

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<顕名霊社>
 三井家当主たちをお祀りしています。

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<三囲神社別殿(大國神 恵比寿神)>

(案内板)
「隅田川七福神コース案内板
 三圍神社 大國神 恵比寿神
 三圍神社の別殿には、古くから大國、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。江戸時代の終り頃、町人層の好みが世間のさまざまな分野で表面に現れ、多くの人々によって支持された時代の流れの中で、隅田川七福神が創始されたとき、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。
 大國神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として庶民の信仰を集め、その似通った御神徳から一対の神として崇められることが多い。大國を同じ音の大黒とも書く。」

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<白狐祠など>

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<道標>
 道標が境内にあります。
 寛延三年。「三囲稲荷大明神 右 秋葉道 左 稲荷社」

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<鬼面石ほか>
 力石でしょう。

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<老翁老嫗の石像>

(説明板)
「老翁老嫗の石像   所在 墨田区向島二丁目五番十七号三囲神社内
 元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいました。願い事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向って狐を呼びます。すると、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。
 俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼出す姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には「大徳芳感」、老翁像には「元禄十四年辛巳五月十八日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。
  平成十八年十二月    墨田区教育委員会」

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<宝井其角「ゆうだちや」の句碑(雨乞いの句碑)>(墨田区登録文化財)

(説明板)
「墨田区登録文化財
 宝井其角「ゆうたちや」の句碑(雨乞の碑)
    所在 墨田区向島二丁目五番十七号 三囲神社内
 元禄六年(一六九三)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうど三囲神社に詣でた俳人其角が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞の故事にならい「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自選句集の『五元集』にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。
 其角は寛文元年(一六六一)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、芭蕉門下第一の高弟として知られ、特に洒落風の句を得意としました。この碑は安永六年(一七七七)に建立されたものが摩滅したので、明治六年(一八七三)に再建されたものです。
  平成十八年十二月    墨田区教育委員会」

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<一勇斎歌川先生墓表(歌川国芳顕彰碑)>

 明治6年の建立。裏面には門弟たちの名がびっしりと刻まれています。

(説明板)
「(墨田区指定文化財)
  一勇斎歌川先生墓表(歌川国芳顕彰碑)
     所在地 墨田区向島二丁目五番十七号 三囲神社
 一勇斎歌川先生とは、幕末を代表する浮世絵師歌川国芳のことです。国芳は、寛政九年(一七九七)に日本橋で生まれました。十五歳で初代歌川豊国の門人となり、文政十年(一八二七)頃「通俗水滸伝豪傑百八人一個」の連作を契機に人気を博し、浮世絵のあらゆる分野で高い水準の作品を残しました。
 この碑は、文久元年(一八六一)に没した国芳の十三回忌にあたる明治六年(一八七三)に建立されました。撰文は学者の東條琴台、篆額と書は萩原秋巌、碑刻は宮亀年が受け持ちました。碑文には国芳の出自や経歴、建碑の経緯などが刻まれています。裏面には、建立者でる弟子たちの名が刻まれており、その中には明治時代の浮世絵を代表する月岡芳年や新聞錦絵の落合芳幾、おもちゃ絵の歌川芳藤などがみられます。芳年の画系は水野年方から鏑木清方、伊東深水、岩田専太郎と近代日本画の流れと続きました。
 国芳は向島に居住した時期もあり、この碑は墨田区の浮世絵に関わる豊かな歴史を示す貴重な文化財といえます。
  平成二十四年一月   墨田区教育委員会」

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<宗因白露の句碑>

(説明板)
「宗因白露の句碑
 「白露や無分別なる置きどころ」と刻まれています。文化九年(一八一二)、西山宗因の流れをくむ素外らが発起人となり、始祖宗因の作品中でもっともすぐれたこの句を選んで建立したものです。
 宗因は慶長十年(一六○五)肥後(現熊本県)に生まれた江戸時代初期の著名な連歌師、俳人です。連歌では主に宗因、俳諧では一幽、西翁、梅翁などと称しました。のちに大阪天満宮の連歌所宗匠の職につき、連歌界の重鎮として知られました。俳諧を始めたのは晩年に近く、あくまで余技としてでした。詠みぶりは軽妙酒脱、急速に俳壇の人気を集め、談林俳諧勃興の起因となった人で、芭蕉は「此道中興開山なり」と記しています。
  平成十八年十二月    墨田区教育委員会」

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<山彦秀翁追悼碑>
 河東節の11代目。

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<五休句碑>
 五休は、新吉原の妓楼の主人。
 「辞世
   陽炎や其きさらぎも遠からず 蘆明庵五休」

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<対松館句碑>
 道標の隣にあります。
 「遠波や春の月夜を載せてよる 對松館」

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<六世川柳句碑>
 つまらぬというはちさな知恵袋

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<五世川柳/九世川柳句碑>
 五世川柳 和らかくかたく持たし人心
 九世川柳 出来秋もこゝろゆるむな鳴子曳

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<庖丁塚>
 大正9年。

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<中山善吉氏之傳>
 囲碁の天才、中山善吉の顕彰碑。明治27(1893)年建立。
 「奇才子 中山善吉氏之傳」

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<富田木歩の句碑>
 夢に見れば死もなつかしや冬木風 木歩

(裏面)
   大正拾参念九月一日震火の一周年に於いて
  富田木歩君慰霊の為建之 友人一同 亜浪書

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<歌沢二世虎右衛門句碑>
 「露の笹まろめて月の光なり」

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<数拳の名手野崎車應追悼碑>

(説明板)
「数拳(かずけん)の名手 野崎車応追悼碑
 大田南畝(蜀山人・四方赤良)の漢詩を冒頭に置き
  ひらく手の五ウは勝なり梅のはな
 と続く 「五ゥ」の「ゥ」は「五」の読みを示す
 ふり仮名であって「うっ(打っ)」の意味である
 文化9年(1812)の建立

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<朱楽管江(あけらかんこう)辞世碑>

(説明板)
「朱楽管江(あけらかんこう)辞世碑
 執着の心や娑婆に残るらんよしのの桜さらしなの月 朱楽管江
 建立の年代は書かれていないが文化文政の頃にはすでに有名な石碑であった」

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<其角惜春の句碑>

 (説明板)
 「其角惜春の句碑
  山吹も柳の糸のはらミかな 普其角
  天保6年(1835)建立」

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<助高屋小沢小傳次之碑/大日本俳優沢村訥子碑>

 明治の歌舞伎役者の碑。
 「大日本少年俳優長 助高屋小沢小傳次之碑」
 「大日本俳優沢村訥子碑」

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<普國警察大尉ヘーン君表功碑>

 警察行政を指導したプロシア(ドイツ)のヘーン大尉の表功碑。山縣有朋の篆額。

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<阪井久良伎川柳碑>

 「川柳中興祖阪井久良伎翁句碑
  広重の雪に山谷は暮れかゝり」

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<木遣音頭之碑>

 (一社)江戸消防記念会の説明板があります。

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<永田甚七君記念碑>

 渋沢栄一による扁額。永田甚七は、番頭として三井組を支えた人物。
 明治十五年十一月建之

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<蒙恬将軍の碑>

(説明板)
「筆祖 蒙恬(もうてん)将軍の碑
 光緒8年(1882)清の名筆 楊朱敬撰書
 画像は応挙筆  明治16年序幕
 三囲でも著名な名碑の一つ
 光緒は中国清の年号」

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<発句塚>

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<桜窓三拙碑>

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弘福寺

〇弘福寺 墨田区向島5-3-2

 森鴎外は少年時代この地域で過ごしており、弘福寺は、鳥取藩池田家や津和野藩亀井家の菩提寺で、津和野出身だった森鴎外も、没後弘福寺に葬られました。しかし、関東大震災後、昭和2年10月三鷹禅林寺へ改葬されています。
 また、勝海舟は、天保12(1841)年、弘福寺にて、座禅を修めています。
 寺号標が亀趺に乗っています。
 大雄寶殿(本堂)は、墨田区指定有形文化財です。

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<淡島寒月旧居跡>

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<翁媼尊>
(説明板)
「 この石像は、風外禅師(名は慧薫、寛永年間の人)が相州真鶴の山中の洞穴に於いて求道して居た折、禅師が父母に考義を尽くせぬをいたみ、同地の岩石を以て自らが刻んだ父母の像です。禅師は之を洞内に安置し恰も父母在すが如く日夜考養を怠らなかったといわれております。小田原城主當山開基稲葉正則公が、その石像の温容と禅師の至情に感じ、その放置されるを憐れみ城内に移し供養していましたが、たまたま同公移封の為小田原を去るに當り、當寺に預けて祀らしめたものです。
尚、古くよりこの石像は咳の爺婆尊と称せられ、ロ中に病のある者は翁に、咳を病む者は婆に祈願し、全快を得た折には、煎り豆と番茶を添えてその礼に供養するという風習が伝わって居ります。」

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<七福詠碑>
 「弘福寺布袋尊
  何々や袋の中の年の卒 七福詠」

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<池田斉稷墓碑>
 鳥取藩8代藩主池田斉稷の亀趺の墓碑です。
 関東大震災を機に昭和5(1930)年、鳥取藩主池田家墓所に改葬されています。

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<建部綾足墓所標柱>
 「寒葉齋建部綾足先生墓所」

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<建部綾足墓標>
 下部に自画像が刻んであります。
 「与しのの山にて与面留
  波と乃美 み不祢能山乃山桜
           あや太里」
   
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<池田冠山墓>  (墨田区登録史跡)
 亀趺に乗る墓標です。
 「停雲院殿冠山兀叟大居士之墓」と刻まれています。

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<越後与板藩 井伊家墓所>

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