鷲神社 島根富士塚

〇鷲神社 足立区島根4-25-1 HP

<参道>

 旧日光街道に面して参道があります。暗渠化前の千住堀には、宮前橋が架かっていたようです。

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<石鳥居/社号標>

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<掲示「鷲神社」「足立区指定第7号保存樹林」>

 説明板が平成24年3月から令和4年3月に更新されています。

(説明板)
「鷲神社(わしじんじゃ)
 当社は日本武尊、誉田別命、国常立命の三柱ほかを主祭神とし、末社に三峯社、客殿等がある。
 古代に日本武尊が海岸線の近くにあったこの場所で先着の神々を浮島明神として祭祀し、尊を称え大鷲尊と唱えたという。文保二年(一三一八)武蔵国足立郡島根村の鎮守として中興され、島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などを含む大村であった。
 村内に七祠が点在し、元禄の頃、このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二柱の神を合祀し、三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。
 この地域はもともと風光に優れ、徳川吉宗の鷹場の故事に関わり、地元教育にも尽力した吉田順庵家塾や将軍石また酉の市祭祀等の伝えが知られている。島根富士講塚、富士信仰まなどもある。
 社殿は氏子中の寄進により、昭和三十一年九月再建され、境内の整備も行われた。祭礼時に神楽殿で奉納される島根ばやしは昭和五十七年十二月に、島根神代神楽は同六十三年十一月に、それぞれ足立区登録無形文化財となった。また、境内にある享和二年(一八○ニ)在銘の明神型石造鳥居は、千住四丁目の石工・保永助七の手によるもので昭和六十年十一月、足立区登録有形文化財(建造物)となった。
  令和四年三月  足立教育委員会」

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<神社掲示の由緒とパンフレット>

 ホームページにも掲載されています。

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<拝殿>

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<本殿>

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<天水桶>

 昭和31(1956)年9月銘の「山崎甚五兵衛」製作の天水桶です。

 「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」
 「昭和三十一年九月吉日」

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<庭園>

 庭園と十三輪塔があります。

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【社殿右手】

<将軍石>

 八代将軍徳川吉宗公が御成りになり、座られたという「将軍石」があります。

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 「八代将軍吉宗公 御成
  享保六年十月二十八日
  将軍石
  賜白銀十枚 六諭衍義大意」

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 将軍石に腰かけたら、将軍石掲示の裏にも記載があるのが見えました。
 「将軍様の気持ちになって
  ゆったりとおすわり下さい」

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<島根学問所跡>

 吉田順庵先生の島根学問所跡(寺子屋)です。
 「享保6年(1716)10月28日、鷹狩りの途中、八代将軍・徳川吉宗公が学問所に立ち寄った際に、その行為に感銘を受け、翌日褒美として白銀10枚を与えられたと伝えています。」(神社HPより引用)

(標柱)
「吉田順庵先生島根学問所跡
江戸中期この地に八代将軍吉宗公御成あり。文武両方を説かれた将軍は庶民扶育の模範と賞賛された。明治以前の竹嶋小学校や官制教育のさきがけとして特筆すべき処である。
 平成十七年二月吉日」

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<日本武尊像>

 たぶん「日本武尊像」かと思います。

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<寄進諸碑>

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【社殿左手】

<先人の見識を称えて>

「先人の見識を称えて
 明治の俳聖、正岡子規がこの地をたずね、「うぐいすの梅島村に傘かわく」(当時梅島村島根と称した)と発句を得たご利益を記しておられますが(「足立史談」)、江戸の古は御鷹場として、歴代将軍家や、その後も諸人の心をも潤おす美田を連ねた景勝地でありました。(以下省略)」(平成22年9月)
 神社HPに説明板と同じものが掲載されています。

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<山灯籠>

 社殿左手に大きな山燈籠(昭和61(1986)年9月造立)があります。

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 (石碑)
 「鷲神社
  昭和六十一年九月吉日
  産地 茨城県筑波御影石
  総重量三十五トン
  高さ十五尺(約四・七メートル)
  長寿山灯篭」

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 「山灯籠奉納者芳名」
  多数の奉納者の芳名が刻まれています。これだけの方々が奉納とはすごいですね。

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<島根歌舞伎記念碑など>

 3つの石碑が並んでいます。

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「島根歌舞伎記念碑」  足立区無形文化財

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(碑陰)
「島根歌舞伎の沿革
 想うに私達の先祖は遠き江戸の世の頃、生活の中での娯楽は乏しいものであったろうと思います。少ない生活の憩いの中から最高の演劇であった本場歌舞伎は高嶺の花てもありました。
 自然 村中の人達が自分達で役者になって楽しみを求め合い、やれが近郷近在に広がり、生活に、仕事に活気を与えて来たことと思われます。明治・大正・昭和と時代と共に素人歌舞伎か盛大に受けつがれ私達の世代になりました。
 戦後二十一年と二十五年とで芝居は中断されております。時代の流れで今は立消えの状態てあります。
 私共は先祖から受経がれた村の無形文化財てある「島根歌舞伎」を後世に伝永したいと存じまして記念碑を建立することになりました。
  昭和六十一年五月  島根歌舞伎保存会」

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「田口峯吉翁米寿之碑」

 島根囃子と神代神楽は田口峯吉(嘉永5(1852)年〜1942)翁によって再興されたもので、田口峯吉翁の米寿を祝って、昭和15(1940)年に築造されました。

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「足立区無形文化財指定記念碑」  足立区無形文化財

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(碑陰)
「島根ばやしの由来
 島根ばやしがいつ、どのように発生したか、その歴史は明らかではありませんが、古老の語り伝えるところによれば、神田はやしの流れをくみ、二百年以上も前から島根町に伝承されてきたものということであります。
 鷲神社の祭礼、あるいはお酉さまの日に、常に町民を守ってくださる神のみ心を慰め、感謝の誠を捧げるという素朴な庶民信仰がおはやしという芸能に結晶し、祖父から子へ、子から孫へ、長男から長男へと代々受け継がれてまいりました。
 もとより、長い歴史の中では時には盛んに、時には細々とした降替はあったと思われますが、田口峯吉翁は島根ばやしの中興の人と申すべき人でありましょうか。翁は嘉永五年島根町に生まれ、幼少のころから敬神の念厚く、慶応二年囃子神楽を修得し、明治・大正・昭和の三代にわたり足立区一円隈なくご指導を続けてこられました。また、大正の初期にはみのかやはやしから神田ばやしへと改革するなど縦横な腕を揮って現在の島根ばやしの基礎を作りました。
 かくして華麗にして荘重なる島根ばやしの最盛期を迎えたのでありますが、不幸にして戦中戦後の世情人心の変化は伝統文化の衰退、変革をもたらし、翁のご指導もままならず囃子連中も次第に減少していきました。そこで、一般よりはやし志望者を募り、厳しい訓練を経て昭和五十年の大祭を飾ることができました。
 なお、この大祭に際して、かごまりを復活できましたことは、島根ばやしにとって非常に画期的なことでありました。
 現在は、囃子連中三十名、十年計画の特訓も花開き実を結んで昭和五十九年には足立区無形文化財に指定されました。これも一重に先祖先輩のお力と町の皆様方のご支援ご協力の賜と心より感謝いたしております。
 ここに過去に思いをいたし、現在をみつめ島根ばやしの歴史と伝統を守るべく記念碑を建立することになりました。
 これを機にわれら囃子連一同益々努力精進する覚悟であります。
  昭和六十一年五月吉日  島家囃子連中 代表榎本豊次郎」

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<三峯神社>

 一之鳥居、ニ之鳥居とあります。

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一之鳥居は享和2(1802)年銘です(足立区文化財)。
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(標柱)
「足立区指定文化財 鷲神社鳥居
石質は花崗岩で、関東大地震に貫を損傷したが各々完存している。左右柱に刻銘があり、享和二年(一八○ニ)に千住四丁目の石工保永永助七が建設したことが知られる。この鳥居は、区内では建立事情の明らかな古い遺構として貴重である。」

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「鳥居境内の左寄り三峯神社本殿前に建つが、もとは本社殿前に建ち、昭和三十五年大鳥居造営の時、現在地に移築された。鳥居は柱心々ニメートル五センチ、総高三メートル余の小規模な明神鳥居で、整った形式になる。」

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 「国魂大神」「島宮天満宮」「三峯大神」「熊野大神」を合祀しています。

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<不明の境内社>

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<靖國平和搭>

 昭和31(1956)年の造立です。

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○島根富士浅間大神(富士塚)

 本殿左奥に「富士塚」があります。

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(碑文)
「富士塚
富士は日本一の山 日本人の心の古里である。
今でこそ登山が日常化してはいるが昭和の初め白装に身を固め「六根清浄」を唱え乍ら、信仰の山 最高の修行の道場としてあがめられていた富士山 当時の神國日本の尊い山であった。
島根の若者が「十三夜同行」として先達富岡小三郎氏に引卆されて、何人もの人が島根富士講から出発している 村ではその帰着に合せて牛車に万燈を仕立て島根ばやしのおはやし入で村中の人が迎えに出た 千住大川町の氷川神社まで往きは子供達が大勢乗り込んで帰りは「六根から来る一切の迷いを断ち切って心身清らかに」なった島根の若者が行者姿も凛しく仕立の牛車に乗せて鷲神社迠帰った 富士塚に無事帰着の報告祭を行った 登山で日焼した若者達がまるで修行を積んだ聖人の様に私達子供の目にうつった。
先達の富岡氏が鷲神社に残してくれた神社の富士塚も幾星霜経て破損がひどく この際復元した方が良かろうと云ふ事になり 七月一日浅間祭までに工事を完了するべく地元有志の献身的な奉仕を頂き 此々に完成に至る。
  昭和六十三年七月一日  氏子中」

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「小御嶽神社」
 祭神:磐長媛命
 「小御嶽神社」の石碑があります。

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「寶永山」
 頂上の下に「宝永山」があります。

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「浅間神社」
 祭神:木花開耶媛命

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○鷲神社「酉の市」

 鷲神社の「かっこめ」は、お多福の面がついています。酉の市の時だけの授与です。
 浅草や花畑の酉の市と比べて、すいています、普通に歩けます。

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○江戸・東京の農業 足立の夏菊

 JAの「江戸・東京の農業 足立の夏菊」が東入口脇にあります。

(説明板)
「江戸・東京の農業 足立の夏菊
 足立の花栽培は、農家が稲作のあいまに、菊などの花を栽培して、江戸の町へ行商したことが始まりと言われています。
 明治6年の「東京府志料」によると、西新井村の物産に「菊花2700把」の記述があり、西新井の菊栽培が当時から盛んであったことがわかります。
 明治から大正期にかけて菊の品種改良も進み、当鷲神社周辺の島根、上沼田、下沼田(現在の島根・江北)、本木(現在の扇・本木)地域などへ栽培地も広がりました。
 江戸川区の秋菊栽培に対して、足立区では菊の少ない初夏に咲く中輪の露地夏菊の栽培を専門としています。
 また、大正初期には、島根の鴨下金三氏ほかにより、チューリップの球根を冷蔵処理して開花を早める促成栽培の技術も開発され、先駆的な花の産地として有名になりました。
 このように菊の栽培から始まった足立の花栽培は、近郊農村としての地の利を生かして発達し、現在も「足立の花」として市場より高く評価されています。
  平成9年度JA東京グループ
  農業協同組合法施行五十周年記念事業
  足立農業協同組合」

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